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MGPM圏外における携帯デバイスの代用が一日一回の通信で済むということはつまり、一日であればなんの情報も送信しなくとも、MGPM側で問題は発生しないということだ。つまりMGPMの方は何も気にしなくていい。
クーレとの接続が一時的に切断された携帯デバイス内のシェリーは、まずMGPMからのクーレへの接触を試みる。それが失敗すると、次はMGPMのメインサーバー内にあるログからクーレ及び本人の状態を知ろうとする。
その時点でクーレはMGPMのシステム圏外にいるため、MGPMは継続的に携帯デバイスに最新の情報を送るが、それらはすべてクーレが圏内にいた時点での情報だ。
緊急時にMGPMの代用となる携帯デバイスは、いわばMGPMの配下だ。MGPMからの情報を疑うことをしない。
クーレとの通信はできないがひとまずMGPMからの情報――シェリーはこれを、リアルタイムで更新されている情報だと思いこんでいる――が送られて来ることに安心したシェリーは、普段どおりの休止状態となる。
クーレと直接通信することもできず、中途半端に情報だけを与えられたシェリーには、当然クーレの接続はできないし、勝手に機能を完全停止することも許されない。
そしてハードとなるクーレには、当然シェリーのログのようなものが残っている。それは記憶であり、シェリーという意識の欠片だ。癒着したシェリーそのものと言ってもいいかもしれない。これがあるから少しくらいならシェリーから離れても脳に異常はないし、シェリー同様、リンクアウトにプログラムが過剰に反応することもない。元々ゆったりとした通信しかしていなかったからだ。でなければ、脳に対する負担が大きすぎる。
「――っていうわけなんだけど、理解、できた?」
「さっぱりだ」
予想どおりの反応が返ってきたことにある意味安心した僕は、最早僕の相棒とも言えるロッキングチェアに身を委ねた。わずかに軋む音が耳に心地いい。
「まあ、一時的にシェリーを眠らせて、その間にこっそり告白したんだって思っててくれればいいよ」
翌週。月曜日。
長い説明はたっぷり時間のある時で、という千葉の言葉によって、僕はこの旧文化研究会部室にて、おそらく理解されないであろう詳細を彼に語った。
やっぱり、理解できていなかったわけだけれど。
「でもそれって、結局夕立の自己満足で終わったってこと?」
「ずいぶんとばっさり言ってくれるな……そのとおりだと言いたいところだけど、ちゃんと意味はあるよ」
今度こそちゃんと間違いなく購入したカフェオレを一口飲んでから、僕は続ける。
「僕と美衣がお互いの想いを確認しあったことで、それとなくでも噂が流せる」
「噂?」
「美衣に彼氏がいるって噂だよ。それだけでほとんどの人間は諦めるだろ」
「でも別に、噂を流すだけなら嘘でもよかったんじゃないのか?」
「根も葉もない噂っていうのは結構すぐに嘘だってバレるもんなんだよ。こういうのは特にな」
携帯デバイスの機能のひとつに、ハラスメント警告というものがある。振動感知センサーと拡張視による感情測定機能の応用で、異性からの不用意な接触があった場合、対象者の携帯デバイスを経由して相手の拡張視に警告を表示するというものだ。
僕が千葉と初めて会った日に、バラ園で美衣との会話中に出てきたものでもある。
これは性的被害の防止に大いに役立っているわけだが、もしこれが見境なかった場合、恋仲にある人間同士ですら接触できないということになってしまう。そういった事態を回避するため、許可登録――いわゆる恋人登録なるものが、同時に搭載されている。つまりこれがあれば、恋人がいることの証明になるというわけだ。
「でもそれって具体的にどういう意味があるわけ?」
「シェリーが表に出てくる回数を減らせば、癒着が多少なりともはがれていく可能性がある。そうなれば今後の役に立つ。……かもしれない」
そう。結局のところ、千葉の言うとおり、シェリーの問題は何ひとつ解決していないのである。でも、終わってから考えても、やっぱりこれが一番いい答えだったように思う。
シェリーを死なせることなく、未来へ繋げる。リスクを考えるとあまり表立って話すことはできないが、美衣自身も状況をきちんと把握できたというのは大きい。それだけで未来の選択肢はぐっと広がったのだ。
それに、ひとつ確認できたこともあるのだ。クーレ内のプログラムを削除こそできないものの、多少シェリーから離れる程度なら問題はないという事実。癒着がマシになれば、プログラムをそのままにしておいても、シェリーと距離を置くだけで解決する可能性も出てきた。まあ、これはずいぶんと楽観的な考えだが。
「あとはまあ、単純に僕が嬉しい」
「でも恋人っぽいことは何もできないんだろ?」
「何もできないどころか、好きと言ってもらうことも言うこともできないな。今までは幼馴染みとしての好きがあったけど、たぶん、もうそれすら無理だ」
「せっかく両想いだってのに、なんだか切ないなぁ」
憐れむような千葉の言葉に僕はむっとして返す。
「いいんだよ、別に。僕と美衣はそれで。今までとなんら変わりなくても、心が繋がってるって確信さえあればそれで十分だ」
「まあ、今まででも結構いちゃいちゃしてるもんな」
「いちゃっ……!」
やはり裏表がなさすぎるのも問題で、どうやらこの男には裏表がないついでにデリカシーもないらしい。
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」
恥ずかしさを誤魔化すように、カフェオレを一気に呷る。冷たい液体が喉を潤す。
ふと外を見るとすでに桜はほとんど散ってしまって、並木道には一抹の寂しさが漂っていた。登下校の楽しみが少しだけ減ってしまったようで悲しいが、それでも毎日学校には通わねばならない。
鮮やかな桜吹雪の記憶に想いを馳せていると、美衣と一ノ瀬のふたりが近づいてきた。
曰く。
「地下に行こう!」
なんの捻りもないド直球な提案である。いや、別に面白いセリフとかを期待していたというわけでもないが。
しかし不思議なのは一ノ瀬の方だ。暗いところが苦手なはずの彼女が、何故。
「あんたたちがだらだら喋ってる間に美衣先輩と降りてじっくり確認してみたのよ。結果、あたしも触ったことのないような機械が結構転がってたりしたわけ」
「……と、言いますと?」
「察しが悪いわね。調査ができるってことよ。シェリーの」
「ほ、本当か!?」
この部活が本当に旧文化研究会なのか疑問の残る会話である。むしろ最新技術研究会って感じだ。地下施設だって、書庫と呼ぶにも限界があるかもしれない。とはいえこれで少しでもシェリーを分離する手段に近づくことができるのなら、それほど喜ばしいことはないだろう。シェリーと美衣。双方ともに傷つけることなく、分離できれば。
「それだけじゃないよ! ここは小説をメインに並べてあるんだけど、下は学術書とかもいっぱい揃ってて、今はもう公にはできない内容の本があったりもするし」
「それ、本当に大丈夫なのかよ」
そういう知識をスポンジのように吸収してくれるのは結構だが、できれば少しくらい、機械の使い方も覚えてほしいところだ。
学術書という言葉に興味を示したのは一ノ瀬で、ソクラテスが云々、オイラーがどうとか言っている。楽しそうで何よりだ。でもたぶん、美衣は理解できてないぞ。自分で言ってるくせに、本人はそこまで学術書なんて読んでないからな。読んでいれば、もう少し現代にも順応していたように思える。
「まだまだ時間はあるからね。読みたい本があったらどんどん読んでいいんだよ!」
みんなを雑談に巻き込んでいる一番の人間がそれを言うか。
重い腰をあげて、改めて彼女を見た。
結局、あの涙の理由はわかっていない。あの時の美衣は美衣ではなくシェリーだったはずで、シェリーが涙を流す理由なんてないのだから。でも、もしそこに希望があるとすれば。それは、とても温かな、まるで春の桜のように美しい希望なのだと思う。
「ちなみに地下の方にはゲーム系も置いてあるよ。人生ゲームとか」
「人生ゲームってなんすか? なんか物騒な響きっすけど……」
「馬鹿ね。ただのボードゲームの一種よ」
「あ、私、ゆうくんと真白ちゃんが将棋とかチェスで勝負してるの見てみたいかも!」
「あれ、なんすかそれ。それがどんなゲームかわかんないっすけど、なんか俺が馬鹿だから除外されてる感がすごいするんですけど」
千葉の言葉に、笑いが漏れた。将棋もチェスも人生ゲームもやったことはないけれど、きっとみんなでやれば楽しいに違いない。
こうやって楽しい時間を積み重ねて、その上ですべて解決しよう。そうでなければ意味がない。
ただ問題を解決するためだけに行動して。それで美衣が幸せになれるとは思えない。
「いこ、ゆうくん」
「……ああ」
まだ懸念事項は山ほどあって、何ひとつとして根本的な解決はしていないけれど。でも、あの川の中から見たきらきらとした輝きを見失わなければ、きっと大丈夫な気がする。
根拠なんてなくとも、僕はそう信じていた。
本編は終わりですが、糖度高めの後日譚というか、最中譚的なものが少し続きます。




