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懐かしいと思うほどのこともない、海浜公園だ。先日――というよりも昨日一ノ瀬と来た場所で、まさかこんなところに二日連続で来ることになるなんて思ってもみなかった。
近くに森はなく、海といえばここだったので、てっとり早いのがここだっただけの話だが。
月と星が照らす海は穏やかで、とりあえず安心する。好きな人とふたりきりで夜の海を眺めているだなんてずいぶんとロマンチックではあるが、残念ながらそのためにここまで来たわけではない。
「砂浜に下りよう。足元気をつけて」
先に自分が柔らかい砂に足をつけ、彼女の手を引く。感謝の言葉を述べながら僕の隣に立った美衣は、今さらな質問をする。
「ゆうくんそれ……寒くないの?」
ワイシャツ姿なのだから、正直寒くないと言えば嘘になる。だが海の水は塩分を多量に含んでいるので、上着を濡らすと少々めんどうなので置いてきたのだ。
「美衣も脱いだ方がいい。鞄の上にでも畳んでおくんだ」
シートを取り出し、タオルだけが入った鞄を石段に置く。事情を飲み込めていないながらも僕の言うとおりにしてくれた美衣に、僕は次のお願いをする。
「じゃあ、携帯も外してくれ」
「え?」
さすがにこれには素直に従うということはなく、左手を背中に回して渋る。なんの説明もなしに生活必需品を置いていけというのだから、困惑する気持ちもわかる。
だが、今はまだ説明できない。説明するということは、遠回しにバラ園の時と同じことを繰り返すのと同じだから。
「頼む。僕を信じてくれ」
そう言って、後ろ手に回された左手首をそっと掴む。一瞬抵抗する素振りを見せたが、すぐに力を抜いて僕に身を任せてくれた。
「危ないことするわけじゃないんだよね?」
「ああ。でももしかしたら、帰ってすぐ風呂入らないとメディのお世話になるかも」
暗に風邪を引くかもしれないと伝えると、さすがに僕が何をしようとしているのかわかったのか、わずかに顔を強張らせた。何せまだ四月の半ばである。春とはいえ、夜の海は冷たい。
それにこの行為がどんな意味を持つかはわかっていないだろうから、不安もひとしおのはずだ。
少女の腕にはおよそ似つかわしくない腕輪型デバイスを、綺麗に畳まれた上着に置く。その上から電波を遮断するシートで、ほんの少し隙間ができるようにして数回包む。こんなものが家にあるのだから、研究者の親を持ってよかった。
これである程度離れれば、クーレとの接続が一旦切れる。
準備は終わった。あとは、進むだけだ。
きっと美衣の心中は不安でいっぱいだろう。夜中に砂浜で、携帯も外させられたとなれば不安にならないわけがない。
だから僕は、できる限り笑った。少しでも安心させられるように。そしてそっと手のひらを差し出し、そこに彼女の華奢な手が乗せられるのを待つ。
「……ゆうくん」
「僕を信じてくれ、美衣」
「……うん、わかった」
温もりが、手のひらから全身に伝わる。その瞬間、外気の寒さなど気にならなくなっていた。この繋がれた手が僕の世界だ。刹那にも満たない時間で、それを確信する。
靴底が砂を踏みしめる。一歩歩くごとにじゃりじゃりと音が鳴って、波の音に吸い込まれていく。
黒い靴先に潮が触れて、引いていく。脱ごうかと逡巡したが、その時間さえも惜しいように思えた。何より、今だけはどんなことがあってもこの手を離したくない。
ひんやりとした冷たさが次第に針のように鋭くなる。すぐに靴は暗い海の闇に飲み込まれ、ズボンが水を吸って重くなる。膝下ほどまで沈めると、ようやく足を止めた。これ以上着衣で入るのは、いくら波がほとんどないとはいえ危険だ。
それにここまで来れば十分だろう。
静かに振り向くと、目と鼻の先に可憐な少女の顔があった。その表情は楽しげでもあって、憂いを帯びているようにも見える。悲しみを湛えているようにも見えるし、怒りを隠しているようでもあった。
「美衣、これから話すことは全部、真実だ」
「うん、信じるよ」
こんなところまで来たんだもん。そう言う少女の微笑みが、何故かとても脆く儚いものに見えた。
「美衣、きみの中には……正確には、きみの携帯を通じて、だけど、シェリーという少女がいる」
シェリーの性別設定がどちらなのかは聞いていないが、冷静に考えるならば女性で間違いない。
「彼女は誰かがきみに恋焦がれた時、その想いを踏みにじるためだけに生まれた存在だ。きみが、人の想いを断らなくていいように」
「……うん。ずっと前、真白ちゃんと話したことは覚えてるよ。実感はなかったけど、周りの男の子たちの噂とかで、どういう状況かはなんとなく知ってた」
その言葉に、僕は息を詰まらせた。それでは結局美衣は少なからず重荷を背負ってしまっていたのだ。やるせない気持ちが僕を襲う。
「シェリーは長い間ずっときみのもうひとつの人格として機能していたことで、きみの脳と強く結び付いてしまっている。今の技術じゃ、きみの脳にダメージを与えずにシェリーを切り離すことは難しいんだ。だから今、一時的にだけシェリーに眠ってもらっている。もしかしたら記憶が混濁するかもしれないから、僕のことだけを見ててくれ」
これは言わない方がよかったかもしれない。しかし、一時的にとはいえシェリーが離れている以上、油断はできない。シェリーの欠片をクーレが持っているから、数分間離れていられるだけなのだ。
美衣は僕の話に真剣に耳を傾けていた。まっすぐ僕の目を見て。だから僕も、彼女から一切目を逸らさない。
「でも僕は、どうしてもきみに言いたいことがある。こんなところに来てまで、シェリーとのリンクを一時的に無理矢理切ってまで、どうしても言いたいことが」
どくん、と心臓が暴れる。
ここまで話せば美衣もなんのことかはわかっているはずだから、現時点でシェリーが出てきていない以上、クーレとシェリーとの一時的なリンクアウトは成功している。メディとは繋がったままになっているはずだから、シェリーにエラーも発生しないはず。美衣が体調に異変を来していないことから、クーレ内のシェリーの残滓が存在していることも間違いない。大丈夫、シェリーは死なない。
ここからだ。ここからは前回とは違う。正真正銘、佐倉美衣に語りかけることになる。
どんな返事が返ってくるか。悪い結果を想像するだけで胸が締め付けられる。でも、今さらあとには引き下がれない。
「聞かせて。ゆうくんの気持ち」
艶やかな唇が薄く開いて言葉を世界に滑り込ませる。音の波となった甘い言葉が僕の耳を貫き、今度は僕の口唇を動かそうとする。
長く艶のある髪。大きく丸い、透き通った瞳。子どもみたいで、でも頼りになって、優しい心。すべてが愛おしくて。傲慢な僕は、すべてがほしかった。
「〝世界は平和になった〟……か。自分の気持ちひとつ伝えるためにこんなところまで来なくちゃならない世界が、本当に平和なのかはわからない。でも、きみの世界は――」
平和で。幸せであってほしい。そう願いながら、続く言の葉を紡いだ。
「美衣。きみが好きだ。ずっと好きだった。僕はきみと、ずっと一緒にいたい」
視界が揺れ、息ができなくなる。
かすかな風と重みとともに、とめどない熱が僕に入り込んできた。




