21
一ノ瀬に会ったら出会い頭に陰へ連れ込んで洗いざらい訊き出してやろうと思っていたわけだけれど、今日一番の対面がああいった風になってしまったので、見事にその計画は頓挫してしまった。
さて、どうやって話をしたものかと、持ち前の頭脳を生かして考える。何せ前述のとおり僕は学者とかそういう職につくつもりは毛頭ないので、こういう時にしか使い道がないのだ、この脳味噌様は。
どうでもいいところにも手が行き届くというのが発展した科学の行き先というもので、音もなく静かに開いた扉の先の森へ足を踏み入れた。
「あ、ゆうくんー、お久しぶりー! 千葉くんも!」
久しぶりの意味とはなんだったかと吾輩の辞書をぺらぺらとめくっていると、約八時間ぶりという言葉が見つかった。まあ、朝会っているのだからそんなもんだ。
「おう、お久しぶり」
「うっす、おはようございます」
美衣のテンションが高いのはいつものことだし、ノリの悪い対応をして彼女を不機嫌にさせる理由も特にないので、優しく乗ってあげる。
その勢いのままお決まりのロッキングチェアに優しく座ると、まずは一ノ瀬の様子を観察した。
とはいえいつもどおりのもので、相変わらず美衣の隣を陣取ってやれ今日の授業はどうだった、今日の天気はどうだという話をしている。
天気といえばそろそろ雨が降るらしく、そうなってしまえばおそらく桜は散るだろうから、今くらいが見納めというところだろう。名前だけでなく、それそのもにおいて桜は美衣と似ている。と、僕は勝手に思っているので、そんな桜が散るというのは少しばかり寂しさを抱かずにはいられない。
今日か明日にでも、夜桜を見に行こう。
だから、それまでにすべて終わらせよう。
どうにか一ノ瀬とふたりきりになれないものかと策略していると、あることを思い出す。そうだ、僕はひとりじゃない。頼れる友人がいる。
決断するが早いか、千葉に小さく手招きする。何事かと体を寄せてきた千葉に、女子ふたりに聞こえない声量でぼそりと零す。
「美衣を引き離せないか。一ノ瀬とふたりきりで話がしたい」
それだけで僕の意図をくみ取ってくれた千葉は、にこっと笑って立ち上がると、ごく自然な流れで美衣に近づく。
「そういえば先輩、俺もっかい地下の方見てみたいんすけど、お願いできますか?」
「お、千葉くんもあのスケールのすごさにはまっちゃったかな? いいよ、あこに自由に行き来できるのも私たち部員の専売特許だからね。って言っても、一応部長である私が同伴しないとダメなんだけど」
「え、じゃあ美衣先輩も下行っちゃうんですか?」
「うん。ここよりも高価なものがいっぱいあるからね、あっちは。責任者がいないとダメなの」
露骨に肩を落とす一ノ瀬を置いて、千葉と美衣は奥へと進んで行く。その時、千葉が美衣に見えないように携帯デバイスを指でとんとんと叩くのが見えた。用が済んだら電話で知らせろという意味だ。
悲しそうな目で美衣を見送る一ノ瀬。ついて行きたいのは山々だが、やはり暗い階段を下りるのは嫌らしい。
悔しげな顔で僕を睨んだかと思うと、すぐに真剣な眼差しに変わった。
「で、なんの用よ」
一瞬だけ目を丸める。が、すぐに平静に戻った。
「よくわかったな。勘か?」
「んなわけないでしょ。あんたがあたしとふたりきりになろうなんて、何か理由があるに決まってるじゃない」
「てことは、千葉が僕の差し金だってこともお見通しか……なら、なんの用かもわかってるんじゃないか?」
僕の言葉に、一ノ瀬はわずかに顔を伏せる。以前見たあの表情に近い色。
「美衣先輩のことでしょ」
さすがだな。そう言おうとして、やめた。代わりに短く肯定する。
「あたしとふたりきりで話しに来たってことは、ある程度までわかったってことなんでしょ。採点してやるわ、言ってみなさい」
こういう無駄に上から目線なところとか、やっぱり一ノ瀬だなぁ。そう思いながら、僕は現状確信していることを話した。
つまり、食堂で千葉と相談していた内容である。
メディを介してハードとなる医療用プログラムをインストールし、携帯デバイスにAI技術を応用したもうひとつの人格となるソフトを入れたこと。そのAIが長期間による学習の結果、歪んだ方向に進化してしまったこと。そしてそれが、一ノ瀬本人にとっても想定外であったこと。
「……素直に驚いたわ。あんたの頭がいいことは知ってたけど、もっと応用力のないものだと思ってた」
僕の説明を聞いた一ノ瀬は、そんな失礼なことを言った。事実なので言い返せないのが悲しいところだ。
「発想提供は千葉だよ。僕と違って考えが柔軟だ」
「へぇ、ただの金魚のふんじゃなかったってことね」
「それで、僕の言ったことが正しいって認めるのか?」
「……ええ。すべて正しいわ。美衣先輩のために動作と権限を限定し改良した人工知能――シェリーが美衣先輩の携帯には潜んでる」
シェリー……ワインの銘柄か? 人名にもよく使われている名前だとは思うが……と考えたところで思いいたる。
シェリーとはchellyと綴る。つまり、桜――cherryのもじりだ。
「一体どうしてそんなことをしたんだ? あの時の頭痛……あれもそのプログラムとAIが原因なんだろ?」
「おそらく副作用みたいなものね……。元々、美衣先輩に頼まれて作ったのよ、シェリーは」
「美衣に?」
今度ばかりは驚きを隠そうともせず、反射的に声が漏れる。不意をつかれた感覚に陥る。
美衣が、どうしてそんなことを。
「あんたたちの想像どおり、シェリーは本来ただ機械的に断るだけのプログラムだった。それだけでよかったのよ」
「それだけでよかった……どういうことなんだ? 美衣はどうしてそんなものを望んだんだ?」
制服の裾をきゅっと握る一ノ瀬。一対一で話すには少しばかり遠い距離が、妙な緊張感を生む。
「あの人は優しい人だわ。でも、世界はそんなに優しくないのよ。あの人が望んでいなくとも、自分の想いを押し付けてくる」
世界は優しくない――それは僕も常に思っていることだ。口先ばかり、結果論の世界は、美衣や僕が本当に欲しているもの――いや、世界中の人々が心の底で欲しているはずの、温かみをくれない。持たない。僕はいつだってそんな世界を憎んでいたし、そんな世界だからこそ美衣を輝かせてくれているんだと思うと、感謝もしていた。
でもたぶん、一ノ瀬が言っているのはそんな話じゃない。もっと局所的なもの。周囲の人間。
押し付けるとは、僕自身も行った行為のことだ。
「あの人は苦しんでた。想いに応えることはできない。でも、無碍にして傷つけるのも怖いんだ、って」
彼女がそう言う姿を容易に想像することができた。自分に敵対する人間だって心配するような少女だ。自分に想い焦がれた人間を傷つけて、彼女自身の心が痛まないわけがない。
「だからあたしが作ったの。そういう時に、美衣先輩の代わりに応対するプログラム……美衣先輩の代わりに告白してきた人間の想いを切り捨てる、シェリーを」
「美衣の代わりに、他人の想いを……」
「もちろん、あの人が直接的に今のようなシステムを望んだわけではないわよ。どうしようって言われただけ。だから、責任は全部あたしよ」
すでにわかっていたことながら、改めてそう言われると、ずしりと心に何か重いものが圧しかかる感覚に見舞われた。他人の想いを踏みにじるためだけに生まれた存在。AIに、シェリーに感情があれば、一体何を胸に抱いているのだろうか。
「でも人工知能の学習能力を甘く見てたのね。考えれば当たり前のことだったんだけど、あたしは滅多に使わないから……。周囲の人の言葉とか、フラれた時に罵声を吐いた人だっていたでしょうし、そういうのから徐々に語彙を蓄積させ性格を豹変させていったシェリーは、だんだんと今に近づいていったわ。でも美衣先輩が告白されてる場面にあたしがいるわけにはいかないじゃない? だから、今の今まで変化に気がつかなかった」
「メンテナンスとかそういうのはしてなかったのか? 最中になんらかの変化に気づいてもよさそうなもんだけど」
「今や医療の中心となってるメディを構成する根源要素が人工知能なのよ。医療用途や軍事用ならともかく、このくらいの小用途での活用なら、メンテナンスなんてまるで必要ないくらいのスペックは持ってるのよ」
その結果、僕の話を聞くまで現状を知るのが遅れた。
もっと他の方法で美衣の悩みを解決することはできなかったのかとか、僕にも相談してくれればよかったのにとか。言いたいことは色々あったし思うところも色々あったけれど、僕には何も言うことができなかった。
一ノ瀬は自分の全力を尽くした。美衣のためにやれることをやった。そんなやつに、美衣のことを好いていながら何も知らず何もできなかった僕が言えることなんて、ひとつもない。
唇を噛みしめる一ノ瀬を前に、今さらながら、大事なことを訊く。
「そのシェリーっての、どうにかできないのか?」
「どうにかって、何よ」
「いや、なんというかこう……アンインストールっていうか、分離させるみたいな」
「できたらとっくにしてるわ」
「……てことは、どうにもできないのか?」
僕の軽率な言葉に、だんっと横にあった机を叩く一ノ瀬。ペットボトルが倒れ、紙パックが揺れる。幸いペットボトルの蓋はちゃんと閉まっていて、中身が零れることはない。
「わかってるわよ! あたしがどうにかしなくちゃならないってことくらい! でももう時間が経ちすぎてるのよ。美衣先輩のもうひとつの人格として機能し続けたシェリーは、もう美衣先輩の一部だとして脳に認識されてる。クーレ内のプログラムを消すか完全にシェリーが消えたことを脳が認識すると、それはもう美衣先輩の一部が消えることと同義になる」
「そ、そうなるとどうなるんだ……?」
「最悪の場合、意識が戻らなくなるかもしれない」
「なっ……」
「それにその場合、シェリーだって確実にエラーを起こすわ。シェリーだって美衣先輩と必要以上に同期してしまっているんだから、条件は同じよ」
心の底ではどうにかなると思っていた。軽んじていた。天才一ノ瀬真白と、彼女の苦手な部分をカバーできる僕がいれば、解決する問題だって。
でも、現実はそうじゃなかった。一ノ瀬にも僕にもどうしようもなくて、危惧していた一ノ瀬の暴走はどうやらあり得そうにないようだけれど、どちらにせよ、無理矢理行動すれば美衣の身に危険が及ぶということなのか。
「クーレの中のプログラムは放置して、シェリーを消さずにどこかへ放置するってことは可能だけど」
「なんでそうしないんだ?」
「考えてもみなさい。要するに、それはシェリーの目も耳も手も足も、全部奪って捨てるってことなのよ」
目と鼻の先まで見えていたと思っていたゴールが、一気に遠のいた。深い靄に覆われて一寸先も見えない暗闇。走るどころか歩くことすらままならない状況に、地面がなくなったような浮遊感が僕を襲う。
一ノ瀬の話を聞く限り、シェリーを放置しても、直接的な危険はないのだろう。語彙が蓄積されただけで、シェリーの本質が変化したわけではないのだから。一ノ瀬がクーレにプログラムを、そして携帯デバイスにシェリーを組み込んだ時から変わらず、美衣にダメージを与えることはない存在。
しかし、放置するということはつまり、一生美衣は恋愛ができないということになる。
本音のところでは当然嫌だけれど、でも、相手が僕でなくていい。僕でなくてもいいから、彼女には誰かを好きになって、誰かと一緒に生きて、死ぬ時に幸せな――楽しい人生だったと笑顔で眠ってほしい。これもまた、本音だ。
だから、そんな美衣の未来の可能性を妨げるものを、放置しておくわけにはいかない。
それに、性格が変化しているということは、根本の行動原理だって、変質しないとは限らない。断定はできないのだ。
「じゃあ、どうすれば……」
「そんなのあたしにだってわからないわよ……」
悲痛な叫びをあげる一ノ瀬の顔を、僕は直視できなかった。つらいのはみんな同じだ、なんて仲良しこよし理論でこの場を済ませたいわけじゃない。ただ合理的に、ここで一ノ瀬を責めたところでどうにもならないのがわかっているから。
「最悪の場合、名乗り出るしかないわね」
「名乗り出るってどこに?」
「医療機関によ。あたしみたいなのとは違う、もっと知識も技術も持った専門家なら、美衣先輩の意識にダメージを与えずにシェリーを切り離す方法がわかるかもしれない」
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。そんなことしたらお前、捕まるだろ」
「そりゃそうでしょうね。あたしでさえ作れるようなシステムだもの。類似したものも何も誰も作ってないってことは、これが本来はタブーってことよ」
タブー……禁忌。機械による魂の、生命の根源の世界への介入は、ずっと昔からクローンを禁止するという旨の条項によって禁止されている。
一ノ瀬の構築したシステムは、穿った見方をすればそのタブーを犯したことになるのだ。
だから一ノ瀬が然るべき処罰を受けるというのも、それは正しいのかもしれない。
けれど、僕はこの世界が正しいとはこれっぽっちも思っていない。この世界を基準とした正しさに意味なんて求めたくない。
正しい人間でなくていい。悪い人間でいい。ただ、僕の好きな人たちに優しくあれれば、それでいい。
「ダメだ。それだけは絶対ダメだ」
「ダメだって……じゃあどうするのよ」
「それは今から考える」
「あんたねぇ……それに、あたしがやっちゃいけないことをやったのは事実よ。なら裁かれるべきじゃないの?」
「この世界の常識とか、そんなのは知ったことじゃねえよ。別に僕は優等生じゃないんだ。ご大層な理由とか、高尚な精神とか、そんなのはこれっぽっちも持ち合わせちゃいない。全部この森の、あるべき姿に置いてきた。ただ、お前がいなくなったら美衣が悲しむ。だからお前にそんなことをさせるわけにはいかないんだ」
一ノ瀬真白は、佐倉美衣のことを想ってシェリーを生み出した。好きな人を想って策を弄した。それが間違ってるだなんて、誰にも言わせない。
「……あんた、なんでそこまで必死になれるわけ? シェリーのせいとはいえ、一度美衣先輩にフラれてるわけでしょ? またフラれるとかそういう恐怖心はないの? それとも、必死にやれば振り向いてくれるかもだなんて不純な動機?」
畳みかけるような言葉に、不思議と嫌な感じはしなかった。いつも言葉や視線のわりに穏やかな一ノ瀬ではあるけれど、今はいつにも増してそれが顕著だ。仄かに赤く染まった頬が理由のひとつかもしれない。
「何言ってんだお前。好きな人のため以上に純粋な動機が、この世にあるわけないだろ」
「……何よあんた、ちょっとカッコいいじゃない」
今度は、僕の頬が赤くなる番だった。




