19
とっくに僕たちが座っていた机に戻ってきていたらしく、茫然と立ち尽くす僕を、千葉が訝しげな目で見ていた。
「えーっと……夕立? ラーメン、伸びるぞ?」
僕の心配よりラーメンの心配かよと突っ込みたいのを我慢して、ようやく椅子に座る。差し出したコップを礼を言いながら受け取ると、一口飲んでから千葉が言う。
「どうかしたのか? なんか魂抜けたみたいになってたけど……」
一瞬話すかどうか迷ったが、今さら千葉に隠し事をする必要性もない。できるだけ簡潔に、僕はさっきの男たちの話を説明した。
「んー……それ、あり得るのか? 告白されたら罵声交じりにフって、んでその前後の記憶がなくなるなんて……」
「自然現象じゃないことはたしかだ。人間の脳にそんな機能はないし、病気だったとしたら、それこそ常日頃のメディの検閲で……そうでなくても、この前の健康診断で引っかかってる」
「てことはやっぱり……」
「ああ、なんらかの医療プログラムによるものだと思う。医療とは、程遠いけどな」
たぶん、見境がないというのがミソなのだと思う。美衣が僕に罵声を浴びせることを望むとは思えないから、きっと、彼女は僕があんなことを言うなんて想定していなかった。
「それで、そっちはなんか思いついたか? 不具合でも誤作動でもない、でも製作者の意図とは違った挙動をしてしまう理由」
残念ながら、僕にはわからない。僕は医療とかプログラムとかは専門じゃないし、中途半端に他の知識が根付いてしまっているために、専門外の分野に対して柔軟な発想ができなくなってしまっている。
「一応おさらいっていうか、確認しときたいんだけどさ。これ、一ノ瀬が関与しているってことはほぼ間違いないってことでいいんだよね?」
「ああ。……そうでないと、一ノ瀬があの時あんな表情をした理由がない」
苦虫を噛み潰したような、複雑な顔――後悔の色を塗りたくった、悲痛な表情。あれがなければ僕は、今この場でこの話をできていない。
「おっけい、わかった。んで、これに医療プログラムってのが関わっているってのも、間違いない?」
「間違いない。現代科学で説明できる理屈なんてそのくらいだ。そうじゃないっていうなら、もう幽霊にでも憑かれてたって言うしかない」
「なるほどね。んで、でも、一ノ瀬が先輩に害となるプログラムを作るわけがないし、誤作動だとしたら、そんな誤作動を起こす可能性があるプログラムはメディに認可されない、と」
「すべての医療用プログラムは現状、人体に作用するためにはメディのシステムを利用するしかない。戸籍のはっきりしている国民のほぼ全員に埋め込まれている流動型集積回路と、みんな持ってる携帯デバイス、そしてメディのみっつが相互に活用されなきゃ不可能なんだ。だから当然悪用されないようにプロテクトは万全なはず」
「じゃあ最後にひとつだけ。その医療用プログラムっていうのはさ、たとえばプログラムをハード、携帯をソフトとして活用したりとかってできるの?」
ハードとソフト……昔のゲーム機でよく使われていた表現だ。ゲーム機本体がハードで、それに対応したソフトを差し込むことでいろんなゲームが楽しめる。今ではパソコンひとつあればどんなハイスペックなゲームだろうと処理落ちなんてすることもなくプレイ可能になってしまったから、すっかりそういうタイプのゲームは廃れてしまったけれど。
「詳しくはわからないけど、たぶん、可能だと思う」
「あー、じゃあたぶん、そういうことだ」
宣言どおり今ので聞きたいことは訊き終えたらしく、千葉の中で結論が出たようだ。次の言葉に対する緊張で唾を飲み込む。喉がごくりと鳴り、時間が止まる錯覚を覚える。
「先輩の中に入ってるプログラムはハード。んで携帯かなんかにソフトである肝心な方が入ってる。で、壊れてるのはソフトの方。それならハードは万全だからメディには引っかからないし、携帯に何か入れる分にはメディの監査なんて関係ない。だろ?」
目から鱗とはこのことだ。僕ひとりでは想像もつかなかったような答えに、医学知識も科学知識も乏しいはずの男が辿り着いた。
知識がないからこそ、なのかもしれない。これは僕の僻みにも似た感情なのかもしれないが。
「千葉、お前……」
「え、何、俺なんかまずいこと言った?」
「よくやった! マジですげぇよお前!」
がばっと立ち上がって千葉の手を掴む。机上のコップが揺れ、水滴が散る。
発明とは発想そのものだ。その点で言えば、僕より千葉の方が科学者には向いているのかもしれない。
「て、ことは、俺の発想は役に立ったってことでいいのかな? 伯父さんがそういうゲーム好きでよくやらせてもらってたのが役に立ったよ。あと手、離そうぜ? 男に手握られても嬉しかねえぞ」
「役に立ったも何も、たぶんそれが大正解だ。あとは、どうやってそれを実現しているかだな……」
言いながら、言葉どおり千葉の手を離して座り直す。
電源が入っていて接続がオフにされていない限り、携帯デバイスと流動型集積回路『クーレ』の通信は常時行われているはずだ。美衣が「告白」という他者の言動に対して見境がなかったのは、ソフト側の設定がそうなっていたから。
でも、原理的に可能なのだろうか。メディとクーレは現代科学の最高傑作とも呼ばれている。それらが直接この事態を引き起こしているというのであればまだ納得はできる。しかし、今回の場合、最重要項目はハードではない。ソフトの方だ。
いくら天才とはいえ一般人の知識と技術で、メディに匹敵する高性能なプログラムを作ることが可能なのか……?
「夕立? 考えてるところ悪いんだけどさ、ここまできたらもう一ノ瀬に直接訊いた方が早くないか? 別に俺たちは一ノ瀬のことを悪者と思ってるわけじゃないし、ちゃんと説明すればわかってくれると思うんだけど……」
控え目な物言いの千葉。彼の発言には一理ある。でもそれじゃあダメなんだ。まだ足りない。
「天才ってのはな、総じてプライドが高いもんなんだよ」
「は?」
「今の段階で僕たちが一ノ瀬を問い詰めたら、何をしでかすかわからない。崩れたら脆いってのも天才ってやつのお約束だ」
一ノ瀬を信頼していないわけではない。いや、むしろ信頼はしている。信頼しているからこそ、責任感に駆られてどうにかバグを修復しようと躍起になってしまうのではないかと心配なのだ。
あいつはたぶん今、すごく焦っている。わざわざ僕を放課後に呼び出して、決して美衣に聞かれないようにした上で話をしたのがその証左だ。僕を傷付けることを、きっと美衣は望んでいない。それは一ノ瀬だってわかっている。なのにそれが現実に起きてしまったから、このままではまずいと理解した。
「わかっていることを整理しよう。まず、美衣の携帯にはたぶん、メディによってクーレにインストールされた、医療プログラムをハードとするなんらかのソフトが入っている」
「告白――ようするに、恋愛関係のイベントが起きるとそれが起動して、先輩の意思に関係なく相手を遠ざけようとする?」
「千葉が言った彼氏って言葉に反応して頭痛を引き起こしたり、記憶の喪失が起きていることから考えて、その影響範囲は脳」
「それで……んー、それくらいか? 問題はどうやってそれをやってたかってことだよな」
「ああ。こんな高性能なプログラムを一ノ瀬ひとりで作れるとは思えない。かといって、誰かの協力が得られるような代物だとも思えないしな――いや、待てよ? そういえばこれ、本当に初めからこんな仕様だったのか?」
「どういうこと?」
真っ赤なカレーはすっかり冷めてしまったのか、どうにも温かみが感じられない。辛いだけの冷たいカレーなど何がおいしいのかさっぱり理解できないが、目の前の男は話をしながらも軽快に食べ進めていく。
そういえばと自分の手元を見てみると、僕のラーメンからも、湯気はほとんどなくなってしまっている。早く食べないと悲惨なことになりそうだ。
右手に持った箸を、油の浮いた濃厚なスープへ突っ込む。
「僕たちの考えではこの携帯内のプログラムは故障している……ってことでいいんだよな。一ノ瀬の意図的したものじゃないんだから。ていうことは、元々はこれ、僕にしたみたいに罵倒を吐くプログラムじゃなかったんじゃないか?」
「……それ、自分で言ってて悲しくならないの?」
「うるさい。言われなくてもトラウマフラッシュバックしまくりで今すぐにでも自宅の布団で永眠したい気分だっての」
うーん、と空いた手を顎に当てて考える。実際のところ、いくらバグとはいえ、応対プログラムがその態度を豹変させるなどということが……オニヒョウ?
一瞬意味のわからない言語が頭をよぎるが、慌てて払拭する。違う、僕が気にするべきはチャンスアリアリでもマジヤベェ系でもない。
応対プログラム。
何故気がつかなかったのか。そういえば昔、似たようなことが、ネットであった気がする。ソーシャルネットワークに専用アカウントを作り、多くの他ユーザーと交流させることでさらなる発展を目指そうとした実験。その結果はユーザーから不適切な態度や単語を覚えてしまったことによって予定より早い中止をなってしまったようだが。
たしか、その時に使われたのは――Artificial Intelligence。つまり。
「AIか!」
「AIじゃない?」
僕と千葉の声が、見事にシンクロする。あまりの調和に周囲の生徒がちらと僕たちを見るが、すぐに興味を失ったのかまた散り散りになっていく。
一抹の羞恥心を抱きつつ、僕は千葉と顔を見合わせた。
「元々単純な応答だけで処理しようとしていたものが、周囲の声だとか環境で徐々にマイナス方向に進化を遂げ、今のような姿になったのだとしたら……」
「そうか。そういう状況になった時にすぐに反応できるようにするために、常に周りの声を拾ってることになるんだもんな。そこから学習したってこと?」
「ああ。そして、記憶を失っていたんじゃなくて、その時の意識を失っていたんだ。つまり、擬似的な二重人格を形成してたってことだ。いや、でもそれだと前後の記憶がないのが説明がつかないか……?」
「ん? 意識を失ってたってことは、つまりその間先輩自身は寝てるようなものってことでしょ? てことはほら、寝る前とか起きてすぐのことは忘れちゃうみたいなあれじゃないの?」
「うーん……いまいち釈然とはしないけど、たしかに一応それだと筋は通るか」
はああっと、ここ最近で一番大きな深呼吸をした。
ようやく真実に辿り着いた。何が正解かは、これを仕組んだ本人にしかわからない。その本人だって僕らの勘違いで、実は一ノ瀬じゃないのかもしれない。それでも、この答えは間違っていないはずだ。そう、自信を持って言える。
僕が一ノ瀬を、美衣を、千葉を、みんなを信じているからこそ出てきた結論。信頼の上での結末。みんなのみんなへの想いはきっと僕の勘違いじゃないから、この結末だって勘違いじゃない。
いや――まだ、結末じゃない。この考えを、まず一ノ瀬に話す。彼女が認めれば、落ち着いて、焦ることなく一緒にどうにかする方法を見つけよう。医療プログラムの天才と、過去と現在に精通した僕が協力すれば、不可能なんかでは決してない。
そう思うと一気に安心した。安心したから、またお腹が減ってきた。




