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もう一度、君と

 両親はとても優しい人たちだった。

 俺が悪い事をすれば叱りもするし、偶に理不尽とも思えるようなことで怒られることだってもちろんあった。それはきっと、普通の子供ならば経験することだろう。それでも両親は基本的に、俺の事を思ってくれている愛情深い人たちだった。

 もしも、生まれた子供が普通だったのなら、二人は本当に幸せな家庭を築けたと思う。けれど生まれてしまったのは、歪みの力を持った子供だった。

 俺の両親は魔法使いでもなければ、知り合いに魔法使いが居たわけでもない。だから俺には、強力な歪みの力があったけれど、その力の存在も扱い方も知らなかった。確かに歪みは目にできていたが、そんなものはないと否定され続けていたので、俺だけに見える幻覚のようなものだと思っていたくらいだ。

 魔法使いとしての才能には溢れていたと言えるのかもしれない。けれど、周囲に魔法使いの居ない場合、この才能は悲惨でしかない。

 制御する方法を知らない歪みは、周囲に巻き散らすことになる。そして、その歪みの被害は必然的に、近しい存在である両親となる。

 一般人でしかない両親に、歪みに対する耐性があるわけもなく、結果、両親は歪みを体に宿し、異形化してしまっていた。異形と化した両親の姿は人と変わらない。その力もただ、周囲に幻覚を見せるというものだった。

 それでも両親は、あくまで凡人であり、常識的な人間でもあった。

 異形化してしまった両親は、周囲に様々な超常的な現象を起こしたけれど、それらは全て、偶然の出来事だと最初は思っていたほどだ。幻覚によって引き起こされた事故が、自分たちの性だなんて考えもしなかっただろう。

 それでも、周囲に巻き起こる不自然なほどの事故の数々に、不審を感じる者も現れる。

 魔法協会から師匠がやって来たのも、そんな時だった。師匠は両親が歪んでいることを確認し、その歪みの原因が俺であることにも気付いた。

 師匠は俺に、全てを教えてくれた。それこそ、俺が魔法の力を持っており、その力によって、両親を異形にしてしまったこと。そして、異形と化した両親によって、多くの人が死んだこと。子供だからといって誤魔化すことなく、いっそ残酷なほどの真実を。

 けれど当時の俺には、真実を知ったところでどうすることもできない。自覚したところで歪みを制御できるわけもなければ、ましてや、異形と化した両親を元に戻すこともできなかった。

 だから俺は師匠に懇願した。

 両親を救って欲しい、元に戻して欲しいと。

 師匠はその懇願を承諾し、両親を元に戻そうとしてくれた。

 けれど、一度異形化した者を元に戻すことは難しい。例え異形となった者自身に反抗の意思がなかろうと、歪み自身が消されないために、宿主を操り暴れ出すことは良くあることだ。暴れ出すことなく歪みのみを消せるかどうかは、運でしかない。

 そして、師匠が両親を元に戻そうとした結果、歪みは暴れ出してしまった。歪みを消すには、直接か、もしくは媒介となる杖で触れ続けなければならない。そして、歪みが暴れ出してしまえば、それもままならなくなる。そうなると、歪みを消す為に、一度抜き出す方法が必要になる。

 そう。俺がカマネコにした方法だ。

 師匠は両親から歪みを抜き出した。そして、実体化させた歪みを打ち倒すことで、俺の両親を元へと戻したのだ。ただ、元に戻ったと言っても、異形から普通の人間に戻っただけに過ぎない。歪みを抜き出すということは、歪みの宿主に多大な負担を強いる。肉体的というよりも精神的に。

 そして、抜き出された者に良くある症状が記憶障害、つまり、記憶喪失だ。

 ただの人間となり、目を覚ました両親は俺に関することと、ここ十年近くの記憶を無くしていた。

 俺に向けられた眼差しは、知らない他者を見る乾いた瞳。

 あれほど両親の顔を怖いと思ったことはなかった。まだ、怒られていた方がマシだ。少なくとも、怒っていても俺の事を想ってくれている方がずっと、ずっと……。

 愛情深い眼差しを、俺に向けてくれることは、もう二度とないのだろう。

 嫌われたわけでもなく、会えない程遠く、離れ離れになったわけでもない。手を伸ばせばそこに居る。けれどもう、俺の手が両親に届くことはない。

 何故なら、両親は俺の事を覚えていないのだから。

 彼らにとって、俺は赤の他人でしかない。

 まだ子供でしかない俺にとって、家族を失うという事は全てを失う事に等しい。

 本当の絶望というのは、こういうことなのかもしれない。

 俺が何者かすらわからなくなる。少なくとも、俺を生んでくれた二人の中では、俺という存在は無くなっているのだから。

 その後の俺は、生きた屍のようになっていたと思う。自分の居場所を失い、自分という存在すらわからず、生きる気力も湧かない。そもそも、両親がああなってしまったのは、自分の中の歪ませる力だ。力の存在すら知らなかった俺に、どうすることもできなかったとはいえ、自分の性だと言う気持ちが俺を責め苛んでもいた。

 それでも俺が立ち直れたのは、根気よく教え導いてくれた師匠や先輩たちのおかげだろう。時には本当にむかつくことがあるけれど、それでも俺の境遇を理解してくれる人たちだ。よくアニメやドラマなんかで同情はいらないって言う人たちも居るけれど、実際のところ、心を癒してくれるのは他者の同情だ。アニメやドラマでも、そういう人たちは同じ経験をして同じ気持ちになってくれる人に、心を許しているわけだし。

 師匠や先生たちが、同じ経験をしているとは言わないけれど、同じ気持ちになって考えてはくれる。そうして接してくれたおかげで、俺は立ち直ることができた。

 けれど、決して完全にというわけじゃない。

 もしもまた、同じようなことがあったらと思うと怖くて仕方がない。

 だから、制御がまだ不安定だった中学時代、必要以上に人を避けていたのだ。万が一、俺の性でまた、異形化してしまうんじゃないかって。

 そして今、異形と化している詩音さんを見て、俺は心の底から冷え切るような、恐怖を覚えていた。


 納涼祭りは突然の大惨事に、当然中止となった。テレビのニュースでは大々的報じられ、安全面がどうたらこうたらと、コメンテーターや司会者が論じている。けれど、原因が歪みである以上、そんな議論は無意味でしかない。

 俺と詩音さんは今、師匠の家に居た。

 あの大惨事の中、俺は詩音さんの異形化に愕然とし、詩音さんもまた、周りの惨状に怯え、どちらも動くことができなかった。そんな中、俺たちを連れ出したのは香奈枝だった。

 爆発の原因はわからなくとも、俺が魔法を使ったのには気付いたのだろう。少なくとも、俺は全力で魔法を放っていたのだ。その時発生した歪みはとても大きく、魔法使いならば遠くても知覚できただろう。

 香奈枝は怪我をした俺と、その近くで異形と化した詩音さんを見て、即座に判断した。病院に連れていかれれば、異形と化した詩音さんの異常性が知られてしまうし、俺だってすぐには解放されないだろう。だから香奈枝は、俺たちを連れて帰ることを選んだのだ。

 電話で呼び出された鹿島さんの車に乗って家に帰ると、俺は師匠に手当てを受けながら事情を話す。

「……なるほど。小さな歪みがガスボンベを」

「……はい、気付いた時には。……俺は詩音さんを庇うのがやっとで……。でも……、その性で詩音さんを歪めてしまいました」

 俺はそう言いながら、自分の腕に爪を立てていた。痛みを感じるけれど、そんな事は構わない。むしろ、自分を罰したくて仕方がない。

 力が制御できるようになり、もう、この歪みの力で、誰も傷付けずに済むんだと思っていた。これから先は、普通の人と同じような生活だってできるんだと思っていたのだ。なのにどうだ。好きだと思った人を、早速歪ませ異形の存在へとしてしまっている。俺は結局、詩音さんの人生さえも狂わせてしまっている。

 ……俺はもう、人と接するのが怖い。また、大切だと思った人の人生を滅茶苦茶にしてしまうんじゃないかって。

「そう、自分を責めるものではありませんよ」

 師匠は、自分を責める俺に、優しく声を掛けてくる。

「確かに彼女は歪んでしまいましたが、それは仕方のなかったことです。ただ、君が彼女を助けた結果であり、……少しばかり運が悪かっただけですよ。もしも鴉くんに歪みの力が無かったら、君も彼女も死んでいたでしょう。君が精一杯歪めても、背中にこれだけの怪我負ったのです。もしも、歪めることなくまともに受けていれば、ひとたまりもなかったはずです。鴉くん。君は正しい事をしました。私はそんな君を師匠として誇らしく思いますよ」

 師匠は子供にするように、優しく俺の頭を撫でてくる。されるがままになりながら、俺はひたすら泣き続けた。

 師匠は本当に優しいと思う。責めるようなことは何一つ言わず、むしろよく頑張ったと褒めくれさえする。

 でも、だからといって、簡単に納得できるものじゃない。

 頭の中ではわかってはいるのだ。自分自身にできる精一杯をやったという事を。けれど、どんなに言い聞かせようと、いくつものもしもが浮かんでしまう。

 もしも、もっと上手く魔法を使えたら。

 もしも、もっと早くあの歪みに気付けていれば。

 もしも、もしも、もしも……。

 詩音さんを救えたかもしれない方法を、俺は必死で模索していた。

 もう起こってしまったことだ。どんなに考えようと過去が変わることはない。それでも考えてしまうのはきっと、少しでも救いのある未来が欲しかったからだろう。要するに、未練だ。俺はただ、今の現実を否定したいだけなのだ。

「……怖いんです。詩音さんもまた、両親のようになるんじゃないかって」

 せっかく気持ちが通じ合ったと思ったのに、また、忘れられてしまうのだろうか? そして、あの時の両親のように、詩音さんも乾いた眼差しを向けて来るのだろうか?

 想像しただけで、心が恐怖で強張って行くのがわかる。もしも本当に、忘れられたなら、俺はまた、絶望することだろう。こんなの、慣れるわけがない。

「ならばまた、出会えば良いのです」

 師匠の言葉は意外なものだった。記憶は消えないと励ますのでもなく、師匠は、忘れられた次の事を語っている。

「……師匠?」

「今回は、例え忘れられても、両親の時とは違います。生んだ記憶のないものを、子供だと思うのは難しい。けれど、恋人は違います。また出会い、また恋をして、そして、忘れられる前のように恋人同士になればいいのです。例え忘れられ、失うことになろうとも、また関係を築き、取り戻すことはできるはずですよ」

「……また、関係を築く……」

 師匠の言葉は考えもしなかったことだ。

 記憶から消され、忘れ去られる。その時点で、もう、取り戻すことができないんだと思っていた。けれど、思ってみれば、関係は築き直せるのかもしれない。

 両親の時とは違い、詩音さんは異形化してから、まだ間もない。だからこそ、記憶を失うとしても両親のように、何年もという事はないはずだ。それこそ、何週間とか何ヶ月とかだろう。

 俺と詩音さんの仲が縮まったのは、この一カ月にも満たない期間でしかない。その大部分、もしくは全てを持っていかれる可能性は高い。でも、短い期間だからこそ、歪みを消すことで詩音さんが俺と付き合ったことを忘れてしまったとしても、また、同じように恋をし直せるのかもしれない。

 ……いや、直すんじゃない。俺は恋をしたままだからこそ、好きになってもらえるよう頑張るのだ。

 ……でも、果たしてそれでいいのだろうか? また恋をすることができ、付き合えたとしても、また、彼女を異形化させてしまうかもしれない。なら俺は、彼女の安息の為に、身を引くべきなんじゃないだろうか?

 大切な人に忘れられる。その絶望に慣れることはなくとも、少なくとも俺は、傷付きながらも耐えられる。それは両親の時に実証されていることだ。

 また、一人になるのは辛いけれど、詩音さんの安息を願うならば、身を引くべきなのかもしれない。それが一番正しい気がする。……けれどそう思っても、彼女を失う事を嫌がっている俺も確かに居て、答えはどうしようもなく出ない。

「まぁ、そもそも、上手くいかないと決まったわけではありませんしね。まずは何事もなく、歪みを消せることを祈りましょう」

 傷の手当てを終えた師匠はそう言って、悩み続ける俺の肩をポンッと促すように優しく叩いた。

「……はい」

 俺は頷き、答えが出せないまま、異形と化した詩音さん下へと向かう。


 いつの間にか、というか、連れて行かれるがまま、あたしは不思議な洋館に連れていかれていた。洋館は古めかしいレンガ造りで、周りがビルやマンションで囲まれていて目立ちそうなものなのに、入ろうとしたところでやっと、こんな建物があるんだと気付けた。普通はあり得ない。だからこそ、薄気味悪くも感じる。

 ここが鴉くんと城ヶ崎さんの家なのだろう。なんか、想像と随分違う。……いや、まぁ、シェアハウスしているって言うし、変わった家に住んでそうとは思っていたので、ある意味想像通りなのかもしれない。

 通されたのは広い客間のようだ。ソファーにテーブル、テレビやベッド、書棚にクローゼットなど、生活するのに必要そうな家具が一式揃っている。それでも生活感がないのは、お客さんを止める為の部屋だからなんだと思う。

 ……それにしても、冷房が効きすぎている気がする。

 さっきから寒くて仕方がない。呼吸するたびに白い息が出る。まるで真冬のようだ。

「えっと、城ヶ崎さん。冷房が効き過ぎじゃないかな?」

「点けてないですよ」

「……そうなんだ」

 それにしては寒すぎるけれど、あたしはそれ以上、冷房については何か言う気にはなれなかった。この家にはこの家なりのルールがあるのかもしれないし。

 実のところ、城ヶ崎さんとは話したことはあまりない――中学も一緒だけれど、同じクラスになったことがないので、本当に交流がなかった――ので、どうも余所余所しい話し方になってしまうのもある。

 これが学校でならば、もっと普通に話せたと思うんだけれど、今のわけのわからない状況だと、どうしても警戒してしまう。というか、どうしてあたしはここに連れて来られたのだろう?

 納涼祭りであれだけの騒ぎがあったし、すぐに現場を離れるんじゃなくて、警察の指示に従った方が良かったんじゃないかって思える。一応、親には無事だというメールは送ったけれど、むしろ、あたしよりも鴉くんの方が心配だ。あたしを庇って怪我をしていた。てっきり、車に乗せられた時は、彼を病院に連れて行くんだとばかり思っていたのに、そんな様子もない。

 鴉くんのおかげであたしは怪我一つなくて済んだけれど、これでもし、鴉くんが一生引きずるような怪我をしていたら、どんな顔をして会えば良いのかわからない。

「……鴉くんは、病院に行かなくて大丈夫なの?」

「心配ないですよ。お父さんが手当てをしていますので。そこら辺の病院に行くよりも、ずっと確実です」

「そうなんだ。……城ヶ崎さんのお父さんは、お医者さんなんだね」

「……いいえ、違いますよ。私の父は、魔法使いなんですよ」

「……魔法使い?」

 何かの冗談だろうか? でも、城ヶ崎さんは笑わせようとしているようには見えない。というか、冗談としても唐突過ぎて、意味が分からなくて、笑えないし。

「えっと、魔法使いって、どういう?」

 あたしが尋ね返すと、城ヶ崎さんは不機嫌そうに鼻を鳴らした。そして挑みかかるように睨みつけて来る。学校では見せたことのない城ヶ崎さんの顔に、あたしは更に戸惑う。

「言った通りですよ。私のお父さんは、超常の現象を起こす魔法使いで、私も伏見くんも、その魔法使いの見習いです。……本当ならこれは、私じゃなく、伏見くんが説明すべきことだったんでしょうけれどね」

「……魔法……。でもそんなの」

「あるわけないですか?」

「う、うん」

 あたしが頷くと、彼女は当然の反応だというように、軽く肩を竦める。

「……なら聞きますけれど、この建物はとても目立つ外観をしていますが、入るまでに気付けましたか?」

 さっきも述べた通り、気付けなかった。でも、そんなのは偶々、納涼祭りの惨状の性で呆然としていただけだと思う。

「……信じませんか。でも、信じてもらえなければ、この先の話に進めませんので、少し、魔法をお見せしますね。……とりあえずそうですね。重力を歪めて、宙に浮くと言うのはどうでしょう?」

「いや、何でそこで聞くの?」

「いえ。宙に浮けば信じてもらえるのかなと。魔法を使うのにも、リスクはあるので、あまり無駄撃ちはしたくないんですよ」

 呪文を唱えただけで色んな事が起こるとか、そんな簡単なものではないという事なのだろう。使うのにも色んな手順とか必要なのかもしれない。ゲームとかでもマジックポイントとか消費しているわけだし、使うと精神的に疲れるとか。……精神的に疲れるってなんだろ。使い過ぎると鬱になったりするのかな?

「……良くわからないけれど、……まぁ、空を飛べれば魔法っぽいとは思う」

「では、それにしましょう」

 城ヶ崎さんはそう言って頷くと、早速何か集中し始める。別に何か変化があったわけじゃない。でも、何だかうまく説明できないけれど、城ヶ崎さんの周りの空気が変わった気がした。そしてその直後、彼女の体が突然浮き上がる。

「えっ!? ……手品?」

「手品じゃないですよ! ……魔法だって言っているじゃないですか。全く、これで信じないって、どれだけ難敵ですか。なら、これでどうです?」

 城ヶ崎さんが手をこちらに向けた瞬間、あたしの体まで浮かび上がる。誰かに引っ張り上げられている感覚もなければ、吊りあげられているというわけでもない。それなのに、あたしの体は宙を浮く。まるで無重力空間に放り出されたみたい。

 やばい。これはちょっと怖い。バランスとれないし、思うように全く動けない。テレビで見た宇宙飛行士は、無重力を楽しんでいたけれど、何の訓練も受けていないあたしにとっては、恐怖でしかないよこんなの。

「……はぁ。これで、魔法を信じましたか?」

 城ヶ崎さんは疲れを見せながらも尋ねて来る。魔法にはリスクがあると言っていた。そのリスクが何なのかは結局わからないけれど、何がしかの消耗はしているのかもしれない。

「……本当に、魔法なんだ」

 あたしは城ヶ崎さんの言う魔法を信じ始めていた。

 もしもこれが手品だとしても、種がわからないし、そもそも、そんな大掛かりな仕掛けを使って、あたしを騙す意味が分からない。それに、今の科学力じゃ無重力を生み出すこともできないっていうのは、何かで聞いたことがある。それを生み出してしまう城ヶ崎さんの力は、魔法という言葉以外で表すことは難しい。

「やっと信じてくれましたね」

「まぁ、こんなことされたら流石にね。……つまり、鴉くんも魔法使いなの?」

「はい。まだ見習いですけれど」

「それで、そんなのをあたしに明かして、どういうつもり?」

 普通、こういう魔法とかって、隠しているものじゃないのだろうか? 少なくとも、マンガとかだとそうだ。世の中に余計な混乱を招かない為とか、特殊な存在として狙われるのを避ける為とか、そんな感じの理由で。

 少なくとも、今の世の中で魔法の存在が認知されていないという事は、魔法の存在を隠している組織みたいなものが、必ずあるんだと思う。そして、そんなものをあたしに明かす理由が本当にわからない。

「あなたには事情を知って貰う必要があるんですよ。残念ながら」

「……事情?」

「はい。先程の納涼祭りの時、あなたと伏見くんは、爆発の近くに居たのに無事でした。それこそ、もっと遠くに居た人の中には、炎に巻かれて全身やけどをする人も居たというのに。……おかしいとは思いませんでしたか?」

 そう尋ねて来るけれど、正直なところ、あの時はそんな冷静に考えていられるような余裕なんてなかった。それこそ、あ、死んだ。と思ったほどだし。……でも、言われてみればそうだ。あたしは鴉くんに抱きしめられて驚いた次の瞬間、爆発が起こった。庇うように抱きしめられながらも、本当に近い位置だったことだけはわかった。だからこそ、死を覚悟したわけだし。

 なのに、あたしは無傷で、鴉くんは怪我をしたとはいえ、全く動けないほどの重症ではなかった。確かにちょっと、幸運過ぎる。

「えっと、もしかして、……鴉くんが何かしてくれたの?」

「はい、その通りです。彼が魔法を使って、炎や破片の直撃をできるだけ避けたのです。けれど、なりふり構わずに魔法を使った結果、魔法のリスクによって、大きな弊害ができてしまった」

「弊害?」

「はい。……ところで桐生さん。今のこの部屋の室温は、どの位だと思いますか?」

「え?」

 今までの話とは関係のなさそうな唐突な質問に、あたしは戸惑う。けれど、まぁ、何か意味があるのかもしれない。だからとりあえず、感じたままの室温を答える。

「えと、……五度とかそのくらいかな?」

 白い息も出るし、多分そのくらいだと思う。

「違います。先程冷房は付けていないと言いましたが、実際は暖房をつけている状態です。そして、今の室温は三十度もあります」

「……え?」

 三十度なんて真夏の気温だ。寒いどころか、暑くなくてはおかしい。なのに、今のあたしは確かに寒く感じている。

「信じられないのはわかります。ですが事実です。伏見くんの魔法の弊害として、今、桐生さんの体はおかしくなってしまっているんですよ」

 そう言って城ヶ崎さんは、魔法とはどんなものなのかを教えてくれた。そして、教えてくれたものの中には、今自分が陥っている状況も含まれていた。

 城ヶ崎さんのように言うのなら、今のあたしは、異形の存在になってしまったという事らしい。


 しばらくすると鴉くんと、小柄なおじさんが部屋へとやって来た。

 Tシャツの下に包帯が巻かれていることが見て取れる。やっぱり、怪我をしているんだ。

「鴉くん。怪我は大丈夫?」

「あ、うん。大丈夫だよ」

 彼はそう答えるも、あたしの顔を見るとすぐに逸らしてしまう。その時の彼の顔は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。中学の頃、鴉くんが酷いいじめを受けていた時にも、彼のあんな顔を見たことはない。

「お父さん。一応、魔法についてと、今の彼女の体に起こっていることについては、丁度説明し終えたところですよ」

「そうですか。ありがとう、香奈枝」

 小柄なおじさんが城ヶ崎さんに答える。つまり、あの人が城ヶ崎さんのお父さんなのだろう。なるほど。城ヶ崎さんが小柄なのは、お父さんに似たのかもしれない。よく見れば、顔も所々似ている。

 城ヶ崎さんの言うあたしの体に起こっていることというのは、異形化の事なのだろう。異形の存在となってしまった今のあたしは、さながら雪女、雪の女王。残念ながら、ありのままではいられない。

 あたしがこのままだと、周囲の気温を奪い、最終的には凍らせてしまうっぽい。あたしがさっきから寒がっているのも、周囲の気温を奪っているので、どんなに暖房をかけても、あたしの周囲の気温だけは上がらないとか、そういう感じらしい。

「それで? このままにしておけないっていう事は、治す方法があるってことだよね?」

 あたしがそう尋ねると、城ヶ崎さんのお父さんはこちらに視線を向けて柔和な笑みを浮かべる。

「君が鴉くんの恋人ですか。いつも、鴉くんがお世話になっています」

「あ、いえ、その、……こちらこそお世話に……」

 そう言えば、この人は鴉くんの親代わりでもあることを思い出した。鴉くんは城ヶ崎さんのお父さんの事を師匠と呼んでいるけれど、その関係は師弟というよりも、親子のようなものなんだと思う。少なくとも、城ヶ崎さんのお父さんの愛情深そうな様子からはそう思える。

 つまりこれは、恋人の親へ挨拶するようなものなのだろうか? え? ちょっといきなり、ハードル高過ぎない?

 あたしが戸惑っていると、城ヶ崎さんのお父さんがあたしの質問に答えてくれる。

「異形化は治せます。……ですが、かなりのリスクも伴うのですよ。上手く行けば何も問題はないのですが、残念ながら多くの場合、異形となった者に負担を強いてしまうことになるのです」

「負担……ですか?」

 あたしがそう尋ね返した時、鴉くんが僅かに震えたのがわかった。さっき見せた泣きそうな顔。もしかしたら鴉くんは、その負担を恐れているのかもしれない。

「異形を治す負担は精神へと向かい、そして、記憶を失ってしまいます」

「……記憶。それってどのくらいの記憶ですか?」

「君はまだ異形化して間もないので、ここ数週間から数ヶ月といったところで済むはずです」

「……数週間から数ヶ月」

 鴉くんが泣きそうな顔をしていた理由がわかってしまった。数週間から数ヶ月。その間の記憶が亡くなってしまえば、あたしが鴉くんを好きだという想いも無くなってしまう。彼と一緒に居ることの幸せな記憶も。

 でも、こういう時に一番つらいのは、忘れた方ではなく、忘れられた方だと思う。

 通じ合った気持ちが通じ合わなくなる辛さ。その辛さには、忘れた方は気付きもしない。

 だから今の場合、本当に辛い思いをするのは鴉くんなのだろう。あたしも記憶を消されるのも嫌だけれど、それ以上に、そんな想いを彼にさせたくない。

「……記憶を、……記憶を消さなくて済む方法は、無いんですか!?」

「残念ながら、確実に記憶を消さないで済む方法はありません。運が良ければ、上手く行き、記憶も消えない可能性もありますが、……その可能性は正直なところ、低いですね」

「……そうですか」

 全ては運で決まるということなのだろう。

 あたしは運が良かったっけ?

 魔法だなんて、普通は巻き込まれないようなことに巻き込まれている時点で、あんまり運が良いとは言えない気がする。

「えっと、……その治すのは、すぐにやるんですか?」

「そうですね。異形化を治すには、早ければ早いほど良いですからね。周囲にも、君にもね」

「……そうですか」

 確かにそうなのかもしれない。異形となっている時間が長いほど、治した時の負担は強いのだろう。それに、あたしのこの異形としての力は、きっと危険なんだと思う。三十度の暖房を利かせていても、寒いと思い、白い息まで出るほど冷やしている。今は夏だからまだ良いけれど、これが冬だったならば、周囲を氷点下にまで冷やし続け、それこそ、触っただけで凍傷なんかを負わせてしまうかもしれない。

 ……まずあたしが、そんな寒さに耐えられるか疑問だけれど。

「最初、私が魔法について説明したのも、魔法や異形化の怖さを理解してもらって、素直に治療してもらう為なんです。だから、桐生さん。どうか治療を受けてください」

 記憶が消えることに躊躇っているあたしに、城ヶ崎さんがそう言ってくる。

 魔法なんて凄い力を持っている彼女たちなら、あたしを無理矢理治療することだってできたはず。それでもちゃんと説明してくれているのは、彼女たちなりの誠意なんだと思う。

 どんなにぐちぐち迷ったところで、結局、あたしは治療するしかない。それこそ、上手く行く可能性を信じて。

 あたしは鴉くんを見る。

 彼は相変わらず泣きそうな顔をしている。そんな彼の顔は見ていたくない。どうすれば彼を慰めることができるだろうか?

 治療が終わった後、あたしは彼との大切な思い出を覚えていないかもしれない。むしろ、その可能性の方が高いのだろう。それをきっと、鴉くんは知っているのだと思う。だからこそ、「あたしはきっと忘れないから」なんていう口先だけの慰めは、役に立たないと思う。

 正直、どう慰めて良いのかわからない。……というか思ってみれば、今の鴉くんを大切に想うあたしにとって、彼と話すのは最後なのかもしれない。

 記憶を失うということは、たぶん、昔の自分に戻るという事だけでなく、今のあたしが居なくなるという事。つまり、今のあたしの精神的な死のようなものなのかもしれない。……そう考えると、とても怖く感じ始めた。

 ダメだね。考えれば考えるほど、ドツボに嵌まって行く感じがする。

「……あの。……治療の前に、鴉くんと二人で話しても良いですか?」

「ええ、構いませんよ」

 そう答えた城ヶ崎さんのお父さんは、悲しそうに微笑んだ。きっと、案じてくれているのだと思う。鴉くんやあたしの事を。

 鴉くんを預かっているのが優しい人であることに、あたしは少しだけホッとした。


 あたしと鴉くんは、二階にある洋館のテラスへとやって来た。小さな庭を挟んだ向こう側に、歩道や道路が見える。車もよく通るし、人通りだって結構ある。けれど、こんなに目立つ建物だというのに、誰もこちらに視線を向けようともしない。

 ああ、本当に魔法が働いているんだなぁ。

 少し外に出ればあたしの知っている世界だというのに、ここにはあたしが知っている世界とは別物だ。異形化だとか、魔法だとか、記憶が無くなるとか、全部夢だったら良いのに。ちょっとした非日常に憧れる気持ちがないわけではなかったけれど、あたしとしては平凡でも良いから、初めての恋愛を無事に過ごしたかった。

「……ごめん、詩音さん」

「なんで鴉くんが謝るの?」

「詩音さんを異形にしてしまったのは、俺の性だ。俺が考えなしに魔法を使ったから……」

 鴉くんは自分を責めていた。あたしが異形になってしまった直接の原因は、彼が魔法を使ったからで、確かに彼の性だと言えるのかもしれない。でも、鴉くんを恨む気になんてならなかったし、何より、自分を責めないで欲しかった。

 だから、あたしは鴉くんに笑いかける。

「ふふ。でも、魔法を使ったのはあたしを守る為だったんでしょ? もしも鴉くんが魔法を使ってなければ、あたしは無傷ではいられなかっただろうし、死んでいたかもしれない。それに、あたしが無事だったとしても、あたしを庇ってくれた鴉くんが死んでいたら、やっぱりそれも嫌だしね。だから、鴉くんが悪いと思う事なんて何一つ無いんだよ。むしろ、助けてくれてありがとう、鴉くん。……大好きだよ」

 そう言っても、鴉くんはやっぱり、泣きそうな顔をする。

「……ありがとう、詩音さん。そう言ってくれて、とても嬉しいよ。……それでも、……それでも俺は、自分が許せないんだ。……俺は前にも、大切な人を異形化させてしまったことがあるから」

「……そうなの?」

「ああ。俺の両親は魔法とは無縁の、普通の人たちだった。だから、魔法をコントロールできなかった俺は、無意識に発散していた歪みによって、二人を異形にしてしまったんだ。そして、二人は不幸になったんだよ」

 両親が異形になった。その言葉で、なんとなく、鴉くんと両親の間に何があったのか、想像できてしまった。前に鴉くんは、両親とは疎遠だと言っていた。つまり、鴉くんの魔法の力を両親が恐れて離れて暮らしているか、もしくは両親が鴉くんの存在を忘れているのかもしれない。

 それはどっちも辛い事だ。そしてどっちにしろ、彼が自分の力を嫌うのには、十分な理由でもある。

「もしかして、中学の時に人を避けていたのも、魔法が関係あるの?」

「ああ。あの頃の俺はまだ、魔法を完全にコントロールできなかったから……、いや、詩音さんを異形化させてしまったんだ。今もコントロールできているなんて言えないな。……結局、全ては俺の性だ。……今回だって俺がいなければ。そもそも、俺が詩音さんと付き合ってさえいなければ、詩音さんは異形になんか……」

 自分を責める鴉くんがあまりにも見ていられなくて、あたしは彼の頬に優しく触れる。

「……もう。自虐過ぎるのもどうかと思うよ。あたしは何があっても、鴉くんを好きになって、付き合えたことを後悔しないよ。……まぁ、将来的に嫌いになって、喧嘩別れをしたらわからないけれどね」

 あたしが冗談めかしてそう言っても、彼の顔は暗く沈んだままだ。だからあたしは彼の両頬を引っ張り、無理やりにでも口角を上げさせる。そしてあたしは真剣な口調で言った。

「あたしは鴉くんが好き! だから、付き合えたことに後悔なんてしないし、後悔なんてして欲しくない! 鴉くんはどうだったの? あたしと付き合えたのは嫌だった? 終わりが悲しいからって、あたしと付き合えたこの時間も、全部、嫌なものになっちゃうの!?」

「そんな事……、そんな事はない。詩音さんと付き合えたことは、俺にとって大切な思い出だ。宝物だって言って良い。だから、嫌だったなんて、そんなことは絶対にありえない。……でも、詩音さんは……」

「でも、じゃないよ! 忘れちゃうのは悔しいし、悲しいよ。でも、例え覚えていられなくても、あたしは鴉くんが好きになれて良かったし、一緒に過ごせてとても嬉しかったんだよ。例えこの結末が悲しいものだったとしても、あたしは後悔もしないし、幸せだったと断言してみせる! だからあたしの幸せを、鴉くんが勝手に決めるな!」

「詩音さんの幸せ……」

「そうだよ。あたしは幸せなんだからね。好きな人に好きだって言ってもらえて。恋が叶う事の素晴らしさを知ったんだから。……ただ悔しいのは、それを忘れちゃうことかな。……だからさ、鴉くん。あたしがもし鴉くんの事を忘れても、もう一度恋をさせてよ」

 あたしがそう言うと、鴉くんはポロポロと涙を流し始めた。その事にホッとする。前までの鴉くんは張りつめすぎていて、どこにも余裕がなかった。でも、泣けば少しは発散できる。そうすれば、少しは余裕が生まれてくれるんだと思う。

「……また、……また俺は、詩音さんと恋をしても良いのか?」

「良いんだよ。というか、あたしとしては、もう一度、恋をして欲しいかな。こんな終わりは嫌だもん。……まぁ、記憶を無くしたあたしは、たぶん鴉くんの事が嫌いだから、また恋をするのは大変かもしれないけれどね。でも、鴉くんと恋ができたあたしは幸せだった。その事は保証するよ。あたしは、鴉くんが好きになったことに、後悔なんてないよ。……あたしは、鴉くんが誰よりも好きなんだよ」

 あたしはそう言うと、鴉くんの口にキスをした。

 初めてのキス。

 胸がドキドキする。顔が真っ赤になっているのがわかる。とても恥ずかしい。

 けれど、決して嫌なんかじゃない。むしろ、嬉しいくらいだ。

 だって、あたしは鴉くんが好きなのだ。

 例え忘れてしまおうと、鴉くんが好きだったという事が、無くなるわけじゃない。あたしはそう信じている。


 異形化の治療を行う部屋へと向かいながら、俺は詩音さんと手を繋いでいた。彼女を失いたくない。そんな思いを篭めて、俺は彼女の手を握っていた。

 相変わらず、彼女に忘れられた時の事を思うと、怖くて仕方がない。それでも、屋敷のテラスで詩音さんと話し、彼女の想いを知ることで、俺は覚悟を決めることができた。

 俺が考えていた事は、本当に自分の事ばかりで、自分が恥ずかしい。

 詩音さんに忘れられるのが怖い。頑張ってもう一度付き合ったとしても、同じように異形としてしまうかもしれない。だから彼女の安息を願うのなら、今度は付き合わず、むしろ、俺と関わらない方が良い。

 彼女と話すまで、俺はそんな事を思っていた。けれどそんなのは、俺の都合でしかない。むしろ、詩音さんを気遣っているふりをしている分、最悪に達が悪い。

 結局のところ俺は、大切な人に忘れられるのが怖くて、忘れられるくらいならば、大切な人を作らない方が良いと、逃げていただけだ。詩音さんの想いなんて考えもしないで。

 でも、詩音さんは言ってくれた。

 俺と付き合えて幸せだったと。例え忘れてしまうんだとしても、付き合えたことを後悔しないと。

 忘れられるのは悲しいし辛い。

 でも俺だって、詩音さんと同じだ。

 付き合えて幸せだったし、付き合えたことに後悔はない。詩音さんに向けられる笑顔。彼女と交わす何気の無い会話。彼女から伝わる温かさ。思い出しただけで、俺の胸の鼓動は熱くなる。

 例え辛い未来が待っていようとも、俺は彼女が好きだという想いを止められない。この先、何度絶望しようとも、俺はまた、彼女と恋をしたい。

 だから俺は、覚悟を決める。

 忘れられたとしても、彼女との絆を諦めない覚悟を。

 異形化の治療を行う地下の部屋辿り着いた。地下室の扉を開く前に、俺は自分の気持ちと覚悟を、詩音さんに伝える。

「詩音さん。俺も君が好きだよ。これから先、例え詩音さんに忘れられようと、この気持ちは変わらない」

「……ありがとう、あはは。なんだか安心しちゃった。これなら記憶を失っても大丈夫かな?」

 悪戯っぽく笑う彼女は、たぶん、強がっているんだと思う。だからあえて、冗談のような口調で答えたのだろう。

 強がりは必要だ。だから俺も、彼女に合わせて冗談めかして言う。

「できれば記憶が無くならない方が有難いかな。まぁ、それでも、ダメだった時は、ちゃんともう一度、恋をしよう」

「うん。もう一回恋をしよう。……好きだよ、鴉くん」

「俺も好きだ、詩音さん」

 俺たちは微笑み合い、頷くと、地下室への扉を開けた。


 鴉くんとやって来た地下室は、とても広く、学校の教室四つ分くらいはありそうだ。広い割には特に何かがあるわけでもなく、壁もむき出しのコンクリート。とんでもなく殺風景といった印象。きっと、普段、生活に使うような部屋というわけではないのだろう。

 部屋の中には城ヶ崎さんと彼女のお父さんだけでなく、若いお兄さんも居た。二十代の半ばくらいだろうか?

「鹿島さん」

 鴉くんが若いお兄さんに声を掛けると、鹿島さんと呼ばれたお兄さんは、鴉くんに気遣うような笑みを浮かべる。

「大変だったな、鴉。……まぁ、まだ、終わったわけじゃないが、俺も手伝うから安心しろよ。それと、あんたが鴉の彼女かい?」

「え? あ、はい」

「そっかぁ。鴉と付き合ってくれてありがとうな。君と付き合うようになって、鴉は明るくなったよ」

「……別に、変わったつもりはないッスよ」

「はは。昔の鴉なら、どう付き合えばいいかなんて、俺に相談なんてしなかっただろ?」

「……そうかもしれないッスけど」

「だろ? 相談された時、俺は結構、嬉しかったんだぞ。鴉が心を開いてくれたって」

「知らないッスよ」

「つれないねぇ。……まぁ、伏見さんだっけ? もし記憶が消えたとしても、俺らも含め、魔法協会もちゃんとサポートするから安心しなよ」

「えっと、あ、ありがとうございます」

 何だか、鴉くんの知り合いとは思えない壁の無さに、あたしは思わず戸惑ってしまう。そういえば、電話で話していた時に、社会人に付き合い方を教わったと言っていたのは、この人の事だったのだろう。

 鴉くんはたぶん、積極的に話しかけてくれる人とか、好きなんだと思う。だからきっと、素っ気なく言ってはいても、この鹿島さんの事を憎からず思っているはずだ。

 同じ中学だったというのに、付き合いだしてからは、鴉くんの知らない姿ばかりを見る。あたしの知っていることなんて、本当に一部だったのだろう。たいして知りもしないのに、嫌いだなんて思っていた中学時代の自分が恥ずかしい。彼はただ、魔法で人を傷つけたくないと思っていただけなのに。

 鴉くんの知らない一面は、まだたくさんあるのだろう。鹿島さんの事にしても、魔法にしても、今まで通りだったのなら、知らないままだったかもしれない。好きな人の事を知れるのは嬉しい。けれど、だからこそ悔しい。忘れてしまうかもしれないことが。

「さて、始めますよ」

 城ヶ崎さんのお父さんがそう、声を掛けて来る。

 大きくて頑丈そうな椅子に座るよう指示された。何だか革ベルトのような拘束具まであって、映画とかで見た処刑用の電気椅子を連想してしまう。正直、あんまり座りたくはない。でもまぁ、異形化を治す為には必要なんだと思う。確か、暴れ出す可能性もあるとか言っていたし、その対策なのだろう。その椅子に仕方なく座ると、城ヶ崎さんが革のベルトを巻き付けて来る。うん。全然動けない。なんていうか、あたしの人生でこんな風に拘束されるなんて思わなかった。思うように動くことができないってだけで、物凄く不安になる。

 でも、心の準備は既にできている。後は、結果を受け入れるだけだ。

「これから、異形化の治療を始めて行きます。桐生さん。この杖で触れますが、ジッとしていてください」

 城ヶ崎さんのお父さんがそう言って、杖の先端であたしのオデコを触れる。すると、少しずつあたしを襲っていた寒さが和らいでいった。

「このまま安定したままでいてくれれば良いのですけれど」

 城ヶ崎さんのお父さんがそう言った次の瞬間、あたしの中で気持ち悪さが膨れ上がる。体の中を何かが這いずるような感覚に怖気と吐き気を覚える。杖の触れた額から、何かが放出されたような気がした。

「……ダメですか」

 城ヶ崎さんのお父さんが、苦み走った声を上げると、目の前でバラバラと落ちてくる物があった。それは、氷に包まれた木片。視線を上げれば、城ヶ崎さんのお父さんが持っていた杖が凍り付き、ボロボロに崩れている。

「……これは、あたしがやったんですか?」

「桐生さんの中の歪みが、消されることに抵抗しているんですよ」

「……そんな」

 本当に、自分の意思とは関係がなかった。まるで、病気になったら発熱し、菌を殺そうと体が反応するように、あたしの中の異形となってしまった部分が、消されてなるものかと、勝手に反応してしまったように思う。

「……やはり、桐生さんには、負担をかけることになります」

 城ヶ崎さんのお父さんは申し訳なさそうに言ってくる。鴉くんを見れば、彼は悔しげに俯いている。

 ああ、あたしは記憶を残すチャンスを逃してしまったのだろう。

 何だかもう、泣きたい気分になってくる。

 忘れたくない。鴉くんとの事を忘れたくない。

 城ヶ崎さんのお父さんが何か集中すると、彼の前に黒い円球が現れる。黒い円球はその場にとどまったまま、クルクルと回り出す。すると陽炎のように、円球の周囲を歪み始めているように見えた。

 それと同時に、あたしは虚脱感に襲われる。

 あの黒い円球に、何かを吸い上げられているように、円球の放つ歪みが強くなっていくと、虚脱感もますます強くなっている。

 いや、実際に吸い取られているんだと思う。

 虚脱感は強烈な眠気となってあたしを襲ってくる。それでも、鴉くんとの事を忘れないと必死に思い続ける。

 でもあたしは、いったい何を忘れないようにしているのだろう?

 ゾッとした。

 気付いてしまった。

 あたしの中にあったはずの鴉くんとの思い出。それがどんどんなくなっていることに。

 納涼祭りで鴉くんに告白し直したことも、デートを重ねたことも、伏見くんとプールに行ったことも、服を買いに行ったことも、そして、バツゲームとして付き合い始めた時の事も、あたしは忘れ始めている。

 段々と薄くなっていく記憶に、あたしは必死で抗い、思い出そうとする。

 いやだいやだいやだ。

 忘れたくない忘れたくない忘れたくない。

 伏見くんとのことを。

 伏見との思い出を。

 伏見を好きだっていう気持ちを……。


 歪みの抜けた詩音さんは眠るように気を失っていた。そして、師匠の生み出した黒い円球は、彼女の歪みを吸い取り実体化しようとしている。あの歪みの中にはきっと、俺と詩音さんの思い出が詰まっているのだろう。この歪みを消してしまえば、詩音さんの記憶は完全になくなってしまうという事だ。

 それは想像しただけで、悲しくて苦しい。

 けれどもう、後には引けない。

 一度引き離して実体化させてしまえば、詩音さんに戻すことは、もう、できないのだから。

 俺は一歩前に出て、師匠に言う。

「その異形を消すのは、俺にやらせてください」

「鴉くん。しかしそれは、あなたにとって、辛い事のはずですよ」

「……そうかもしれません。でもそれ以上に、俺が自分で決着をつけなくちゃいけないと思うんです。少なくとも、自分が生み出し、詩音さんから抜き取られた歪みを消すのを、他人任せで終わらせたくないんです」

「……ふむ」

 師匠は考える素振りを見せる。

 優しい人だから、弟子に辛い思いをさせたくないという過保護にも近い考え方を、師匠はしている。それに、詩音さんから抜き出した歪みは、前に退治したカマネコなんかとは比べようもなく、とても強い力を持っている。それこそ、俺の手に余るかもしれないほどの。つまり、確実に安全に退治しようとするのなら、俺に任せるよりも先生がやった方が確かに良い。

 だからこそ、師匠としては俺に、任せたくはないのだろう。

 けれど、師匠が迷っていると、鹿島さんが助け舟を出してくれる。

「良いんじゃないですか、先生。鴉に任せて」

「雄大くん?」

「鴉は男として、けじめをつけたいって言っているんですよ。なら、そうさせてやるべきでしょ。きっと、鴉にとってその異形と対峙するっていうのは、大事なことなんですよ。これから先、前に進む為に」

「……なるほど。確かにそうかもしれませんね。……わかりました、鴉くん。私たちはサポートに回ります。……ただ、気を付けてくださいね」

「はい。……鹿島さんもありがとうございます」

「ああ、頑張れよ」

 鹿嶋さんは笑ってそう言うと、後ろに下がって歪みを減少させる結界を、師匠や香奈枝と共に展開する。

 詩音さんから抜け出した歪みは話している間にもどんどんと実体化を進め、動く氷の彫像のようになっていた。その姿は詩音さんに似ている。彼女から抜け出したからこそだろうけれど、腹立たしいほどに達が悪い。

 俺は自分の中の歪みを、自身の中で活性化させる。実体化した異形は詩音さんに似ているからこそ、できるだけ早く消し去りたい。あの異形の中の、詩音さんの記憶に未練がないと言えば嘘になる。けれど、その未練ごと、打ち払う必要があるのだ。

 自分でコントロールできる限界ギリギリの歪みを身に纏い、最速で近づき、そのままの勢いで硬質化させた拳で殴りつける。

 腕に鋭い痛みが走る。見れば腕には、霜が覆われていた。師匠の杖を凍り付かせた冷気が俺の腕を襲ったのだろう。殴りつけても大丈夫なように拳を硬質化させたけれど、さすがに冷気までは防げなかったようだ。触れた時間は一瞬とはいえ、俺の腕は軽い凍傷のようになっているのかもしれない。

 それでも、成果はあった。

 殴りつけたことで氷の異形は砕け散っている。

 ……これで終わったのか。

 もう二度と、詩音さんは俺と付き合ったことを思い出すことはないはずだ。胸の中に、ぽっかりと穴が開いた気がする。両親が俺の事を忘れた時にも覚えた喪失感。この喪失感はいつになっても慣れはしない。

 また、詩音さんと付き合えるように頑張るのだとは思ってはいても、この悲しみはどうしようもない。涙がぽろぽろと溢れだす。

「鴉くん! まだ終わっていませんよ!」

 香奈枝が声を掛けて来た。顔を抑えて泣き崩れそうになっていた俺は、驚いて後ろを振り向く。

 そこには、砕け散ったはずの氷の異形が、元に戻ろうとしている姿があった。

 俺は涙を拭い、もう一度蹴り砕く。爪先に物凄い冷たさを覚えたけれど、靴を履いていたおかげで、痛みまでは感じなかった。

 しかし、特別な手応えもない。確かに砕くことはできた。でも、さっき殴り壊したのと何も変わらない。注視して見れば、氷の異形を包む歪みの力に変化はなく、砕けた氷はまた、元に戻ろうとしている。

「……異形としての特性か」

 異形の中には特性がある。前に戦ったカマネコは、猫の変化体であり、生き物としての特性を持っていた。だからこそ殺すことができたのだ。けれど、氷の異形は生物としての特性を持っていない。

 生きていないというのに生き物のように動いている。

 正に異形。そして、この上なく厄介だ。

 俺は元に戻る前に、氷を砕いて砕いて、砕きまくる。復元が難しいほど細かく砕けば、何とかなるかもしれない。

 これでどうだろうか?

 拳の大きさよりも細かくなった氷。けれど、異形はまた、元に戻ろうとし始めている。

「ダメか」

 ならば、どうするか。

 異形は何かに特化しているが故に、弱点を持っているものだ。例えば、その身に小さな歪みの核があり、それを壊せば完全に消えるとか。けれど、あれだけ細かく砕いても、核を潰すことはできなかった。同じことを繰り返したところで核を潰せるかわからないし、そもそも、この異形に核があるかもわからない。氷全てが、異形の源である可能性だって十分にあり得るのだから。

 そんな不確かな方法を試しているだけの余裕は、俺にはない。さっき、念入りに氷を壊していた性で、既に足がかじかんで感覚がなく、痛いくらいだ。これが更に酷くなれば、動くこともままならなくなる。そうなったらどうしようもない。

 なら、歪みの力を消滅に向けるのはどうだろうか?

 そうすれば、氷自体が異形の源ならば、確実にすり減らすことはできるはず。リスクとしては、俺の体ごと消滅させてしまうかもしれないといったところか。……高いなリスク。そんなことをしようとしたら、流石に師匠に止められてしまうだろう。

 元に戻った氷の異形は、こちらに迫ってくる。幸いその動きはあまり早くはなく、距離をしっかり保てば怖い相手では……。

 そう思った時、靴底が張りつくような感覚を覚えた。見れば霜が異形から伸びており、俺の靴を張りつかせようとしていた。

 さっきから冷たい思いばかりして気付かなかったけれど、この部屋の気温が段々と落ちていっている。それこそ氷の異形にとって、動きやすいように。やっぱり、氷の異形にとって重要なのは、この冷気なのかもしれない

 ならばもっと簡単に考えよう。

 氷の弱点といえば何か? つまり、真逆の炎だ。

 俺はそう判断すると同時に、歪みを手に集中させ、炎として放つ。それはさながら、火炎放射のようだ。俺の生み出した炎は容赦なく、氷の異形をあぶる。

 ここで初めて、氷の異形は逃げるような動きを見せた。

 効いている?

 氷に炎は間違っていないようだ。炎は表面を氷の異形の表面を溶かし、水へと変えて行く。すると、水は氷の異形に戻ることなく流れて行く。つまり、この異形の特性は、完全に氷なのだ。氷でなければ、体に戻すこともできないのだろう。

 けれど、方法がわかっても、氷の異形を消し去るのは難しい。炎を放ち続ける為には、歪みを生み出し続けなければならないという事だ。そんな事を続ければ、氷の異形を消し去る前に、俺が異形と化してしまう。

 それだけは絶対に避けなければならない事だ。

 魔法使いは歪みに対する耐性がある為、普通の人より異形化することは遥かに低い。それこそ、自分の限界以上の歪みを使わない限り、異形となることはないだろう。けれど、それでも異形になってしまったら、その存在はただの異形よりも遥かに達が悪い。

 自身がどんどん歪みを生み出せているので、その力は非常に強力で、歪みだけを抜き出すことも消し去ることもできない。だからそうなると、異形になった魔法使いごと、消し去らなければならなくなる。……つまり、殺すという事だ。殺されてしまったら詩音さんとの約束を守れなくなってしまう。だからそれだけは、流石にダメだ。

 炎が苦手だという事はわかった。なら、もっと効率の良い方法を見つけなければ。

 氷の異形の冷気が襲い掛かってくる。

 一気に気温が落ち、異形から流れ出した水がまた、凍ろうとしている。

 すぐに炎を放とうとして、俺は一つ思い直す。

 氷の異形が放つのは冷気。炎のように直接的な物じゃない。なら、俺も炎を放つんじゃなく、熱を放てばいいのかもしれない。

 歪みの力を炎として外に放ち続けるよりも、自分の熱物質に変えた方が、効率が良いはずだ。……まぁ、自分の変質も異形化のリスクはあるけれど、怯えてばかりいたら何もできはしない。

 俺は体を熱の放つ物質に変える。

 後はどう、氷の異形と距離を詰めるかだ。

 さっきは炎から避けていた。なら、熱を放つ俺を、氷の異形をきっと本格的に避けるだろう。そうなれば、氷を使った攻撃だってしてくるかもしれない。これ以上、歪みを上乗せするリスクを選べない俺は、対処のしようがないだろう。体を熱物質に変えた今、前のように身体能力を高めることはできないのだから。

 そうこまねいていると、何故か氷の異形は、こちらに近づいて来る。俺としては願ったりの状況。そのはずなのに、警戒することなく近づいて来る氷の異形に、危険なものを感じる。もしかして、熱だけじゃ通じないのだろうか?

 熱ではなく、炎を受けるという現象によってのみ溶けるという、歪んだ特性だったりするのだろうか?

 相手は異形だ。どんな特性があってもおかしくはない。

 逃げるべきか、それとも思い切って触れるべきか。

 俺が迷っていると、氷の彫像の口が動く。それは声にはならなかった。けれど、何を言ったのかを、俺はわかってしまった。

 まるで、その言葉に縫い止められたように、俺はその場を動けなくなる。

 氷の彫像が抱きしめて来る。

 俺の熱が容赦なく氷の異形を溶かしていく。俺はそれを……。

「止めたらダメですよ」

 まるで、俺の考えを読んだように、香奈枝が言ってくる。見れば彼女は険しい顔をして睨みつけてきていた。香奈枝も気付いたのだろう。この氷の異形の行動原理を。

「伏見くんが大切にしなければならないのは、そっちの桐生さんです。そのまがい物ではないんですよ」

 ああ、そうだ。その通りだ。

 氷の異形は、俺の顔を見て、鴉くんと言った。つまり、この異形はきっと、詩音さんの失った記憶を元に動いている。この異形はきっと、詩音さんと同じように、俺を愛してくれていたのだ。

 それでも、所詮は彼女のまがい物。

 どんなにこの異形を愛おしいと思ったところで、それは詩音さんじゃない。

 俺は止めようとしていた熱を強め、抱きしめ返すことで氷の異形を溶かす。

 氷の異形は、俺の腕の中で消えて行く。

 ……異形と共に、詩音さんの想いも。


 氷の異形は消えた。けれど、俺はその場を動けずにいた。もしもあの異形が、敵意を持って襲ってきてくれていたのなら、こんなにも胸は苦しくなんてならなかっただろう。

 何で、何で歪みなんてものがあるのだろう。

 歪みに関わった者は誰も幸せにならない。

 歪みの力を持った者も、歪んでしまった者も、そして、歪みによって生まれた異形ですら。

 こんな力なんてなければ良かった。

 俺は歪みなんて見えない、普通の人になりたかった。

 俯いて泣き崩れていると、後頭部を軽く触られる。

「熱っ! ……全く。泣くよりもまず、自分の中の歪みを抑えないとダメですよ。伏見くんも異形になったら、面倒なんですから。世話が焼けますね」

 香奈枝は相変わらず、毒のある言い方をしてくる。

「……俺は……」

 何かを言おうとしたけれど、何を言って良いのかわからない。

 けじめをつける為、異形と戦ったつもりだった。でも結局のところ、終わってみれば悲しさしか残らない。歪みの力を持つ限り、こんな思いを何度もすることになるんだろうか?

「情けない顔をしていますね。言ったじゃないですか、魔法使いの恋は苦難と共にあるって。……だから、恋なんてしなければ良いんですよ」

「それでも……」

 俺は反射的に言い返そうとしていた。

 確かに香奈枝の言う通り、恋なんてしない方が楽だし、苦しむことなんてなかっただろう。でも、詩音さんが好きだという想いは止められない。

 彼女と過ごした時間は本当に、幸せだったのだ。苦しむかもしれないという事に怯え、この想いを避け続けることなんてしたくはない。忘れられることを辛いと思うのは、それだけ彼女が好きだということなのだから。

「……昔、恋に落ちた魔法使いが、魔法の存在を打ち明けて、怖がられたことがありました」

「……前にも、そんな話をしていたな」

「ええ。その魔法使いは、魔法の力で、力を持たないただの人になろうとしました。けれど、それは自らの変質です。……結局、その魔法使いはただの人どころか、異形となってしまいました。そして、……抹消されたのです」

 抹消。それはきっと、殺されたという事だ。

 香奈枝は淡々と言いながらも、悲しげに目を伏せている。もしかしたら、知り合いだったのかもしれない。その事件は、言葉以上に辛いものだったのだろう。

「……まぁ、伏見くんとは、なんだかんだで付き合いは長いですからね。あの魔法使いと同じ結末にはなって欲しくはありません。もし抹消になんてなったら、ちょっとばかり悲しいですからね。まぁ、ほんのちょっとですけれど。……伏見くんは今、魔法の力を嫌だと思っているかもしれません。でも、魔法の力を消して、ただの人間になろうとはしないでくださいね。迷惑ですから」

 一々、嫌味っぽい。

 でも、ああ、そうか。

 悲しむ俺を見て、香奈枝はたぶん、その魔法使いの姿を重ねたのだろう。

 確かに、ただの人間になれる方法があるというのなら、俺はその魔法使いのように試していたかもしれない。いや、かもしれないではなく、きっとしていただろう。

「ああ。あと一つ、良い事を教えてあげますよ。桐生さんに魔法の説明をした時、魔法が怖くないのかと聞いたんです。そしたら彼女はこう言っていましたよ。『怖いのは結局、その人がその力を何に使うかじゃないかな? 鴉くんはその力を使って、あたしを守ってくれたんでしょ? だから、鴉くんが魔法使いでも、あたしは全然怖くはないよ』って。……良かったですね、桐生さんが良い人で」

 香奈枝は心配してくれて、励ましてくれている。いつも憎まれ口しか叩かないのに、似合わないことをする。けれど、素直にありがたかった。

 ……でも、そうか。詩音さんがそんな事を言っていたのか。

 きっと、今の詩音さんは、その事も忘れてしまっているだろう。それでも彼女は、魔法使いだからといって無闇に恐れたりはしないということだ。それは魔法使いにとってどんなに嬉しいことか。

 俺は歪みの力が嫌いだ。歪みなんてなければいいと思う。

 でも、どんなに否定したところで、その力を手放すことはできない。

 それに、俺に魔法の力がなかろうと、歪みによる事故は変わりなく起こる。そして今回、彼女を守れたのは魔法の力のおかげだ。

 気を失い、眠り続ける詩音さんを見る。その寝顔は苦しげで、安らかさとは程遠い。

「……ごめん、詩音さん」

 俺は眠る詩音さんに謝る。魔法使いとしてはまだまだ未熟で、その性で、詩音さんをちゃんと守り切ってあげることができなかったことに対する謝罪だ。

 今回の事は、本当に苦しくて辛い。また、同じことが起こるんじゃないかと思うと、恐ろしくて仕方がない。

 それでも、詩音さんが好きだという想いは止められない。

 だから俺のすべきことは、後悔や悲しさに埋もれることではないのだろう。氷の異形が見せた詩音さんの一面に、していたはずの覚悟を忘れてしまっていた。思い出せたのは香奈枝のおかげだ。

「……ありがとう、香奈枝」

 俺はそう言うと、立ち上がって、自らで活性化している歪みを抑え付ける。限界ギリギリまで歪めた体は、元に戻るまで、まだまだ時間がかかるだろう。本当に未熟だ。鹿島さんや師匠なら、もっと手早く歪みを抑え付けられるだろう。

 覚悟だけじゃ足りない。

 歪みの力から、詩音さんを守りきるだけの魔法の技術が必要なんだ。

 今までは、無意識に周囲の人を歪ませないよう、コントロールできさえすればいいと思っていた程度で、魔法に対して、そこまで積極的に学んでいたわけじゃない。将来的に、師匠のような正式な魔法使いになろうとも、思っていたわけじゃなかったし。

 でも、今回のような出来事から詩音さんを守りきる為には、魔法を極める必要があるのかもしれない。

 必要な事だというのならば、俺は正式な魔法使いにだってなってみせよう。

 詩音さんとの約束を守る為に、俺は前へと進むんだ。

 俺は、詩音さんが好きだから。


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