この思いはきっと……
「伏見とはどうなん?」
部活終わりに一緒になったいつもの三人での帰り道、真奈がからかうような笑みを浮かべて聞いてきた。綾ちゃんも興味深そうにこちらを見て来る。罰ゲームを仕掛けた二人としては、進捗が気になるのだろう。……まぁ、完全に興味本位だろうけれど。
夏休みに入り、何度もデートを重ねている。一緒に遊んで話して、……友達同士のような、あんまり恋人らしくないデートだ。それでも、デートを重ねることで、伏見くんとの距離は、どんどんと近づいて行っている気がする。
この二人は、あたしが伏見くんに惹かれ始めていると言ったら、どんな風に答えるのだろうか?
応援してくれるのかもしれない。散々からかったあとに、友達だからと色々と気を遣ってくれるんだと思う。
でも、あたしはそれを、素直に受け入れられないだろう。
伏見くんに惹かれ始めているのは確かだ。でも、まだあたしは、本当に恋をしているんだと、そこまでの自信は持てていない。そんな気持ちで本当の意味で付き合いたいだなんて……。
たぶん、下手に応援されてしまったら、あたしは本当の気持ちも判断できぬまま、流されるままに付き合ってしまうだろう。だからあたしは、この気持ちを真奈や綾ちゃんには言わないことに決めた。
「……ん、まぁ、遊ぶのは楽しかったよ」
「ふぅん。なぁに? 伏見くんとは良い感じなのぉ?」
綾ちゃんがこちらの心を覗き込むように顔を近づけて来る。あたしはその視線から顔を逸らしながら答える。
「ん。……まぁ、伏見くんは思ったよりも話しやすいかな。中学の頃とは違って、関わることを避けている様子もないしね。……まぁ、ちょっと、不器用かもしれないけれど」
「へぇ。中学の時と違うんだ。まぁ、ウチは中学の時の伏見を知らんのだけれどね。どう違うんだ?」
真奈に聞かれて、中学時代の伏見くんを思い出そうとする。けれど、すぐに思い出すのは今の伏見くんばかり。中学時代の伏見くんをあんなに嫌っていたはずなのに、嫌悪と共にあの頃の記憶も、大分薄くなっている気がする。
「……んっと、話しかけても無視するし、クラス行事とかも手伝おうとしないし、……えっと、とにかく、誰とも関わろうとしなかったんだよね」
「ふぅん。それはちょっと、今の伏見くんと違うかなぁ。伏見くんに話しかけても、言葉は少なくても無視はしないしねぇ」
「そうなん?」
「ふふ。真奈は伏見くんの事、まったく気にしてないから、わかんないかもしれないねぇ」
「むしろウチとしては、綾乃が伏見の事を知っていることが意外だよ」
「まぁ、同じ図書委員だからねぇ」
「そうだったっけ!?」
「そうだよぉ」
この学校では、必ず委員会に所属させられる。例えばクラス委員や保健委員とか、男女一人ずつペアとなって所属することになる。ちなみあたしは美化委員だ。月二でくらいで校内清掃に借り出される面倒な仕事。
もちろん、必ず所属させられることになるので、伏見くんも委員会には入っているのは知っていた。何の委員会かまでは知らなくとも。それがまさか、綾ちゃんと一緒だとは思わなかった。
「だからまぁ、伏見くんに話しかける機会は結構あったんだよねぇ。図書委員だし、本は好きぃ? とか聞いてみたしねぇ」
「それで、伏見はなんて答えたんだ?」
「……まぁ、って、小声でそれだけ答えてたよぉ」
「うっわ、根暗」
真奈はあからさまに引いた顔をする。まぁ、確かに根暗そうな発言だったろう。もっと話を盛り上げたって良いのに。……でも、不器用そうに照れながら、何とか言葉をひねり出そうとしている伏見くんの姿が目に浮かぶ。中学の頃の伏見くんなら、そんな姿も見せなかっただろうけれど。
「……昔の伏見くんなら、話しかけるなとか言ってそう」
「マジで? 最悪じゃん、伏見」
「中学の頃の話だからね!」
「まっ、とりあえず、中学の頃よりは性格が改善しているって事だな。そりゃ良かった」
「うん、そうだねぇ。昔のままの伏見くんだったら、真奈はキレていたかもねぇ」
「かもな」
「……真奈。キレたからって暴力はダメだよ。伏見くんは喧嘩も強いんだから」
「へぇ。そうは見えないけどな」
「それでも、リンチされそうになった時に、何人も病院送りにしたのは事実なんだから」
「ふぅん。もしかしてシオちゃん。伏見の事嫌いじゃなくなってるぅ?」
「……まぁ、……デートは楽しかったし、……もう、……嫌いではないかな」
「へぇ。……そうなると、告白が嘘だったって言う時、罪悪感とか湧かね?」
「……真奈。それは誰の性だと思っているの?」
あたしはそう言って腹立たしさを表すように真奈の頬を引っ張る。
「イデデデデっ! ちょっ、引っ張んなよ」
「まあぁ、今のは真奈が悪いよねぇ。……でも、シオちゃん。これ以上、情が入ってこのバツゲームが本当に辛いって言うのなら、やめても良いだよぉ。伏見くんなんて、完全にとばっちりだしねぇ。どうするぅ? やめるぅ?」
優しく微笑んで綾ちゃんは聞いて来る。
バツゲームをやめるということは、今の恋人関係をなかったことにすることだ。
もし、あたしが伏見くんと本当の意味で付き合いたいと思うのなら、その方が良いのかもしれない。ちゃんと、実はバツゲームだったと説明し、自分の気持ちを確かめ、日を改めて告白したほうが……。
あれ? むしろ、それで告白しても、悪戯だとしか思われないんじゃないかな?
ダメじゃん。
それに、伏見くんに惹かれ始めている今、この関係を無くすのも、なんだか嫌だ。
あたしは、本当に伏見くんと付き合いたいのか、それとも、今みたいな恋人未満の友達でいたいのか、……どう考えてもわからない。
思ってみれば、恋なんて初めてだから。
このバツゲームの期限まで、まだ日にちはある。
だからあたしは決めた。
そして首を横に振って、綾ちゃんに答える。
「とりあえず、このバツゲームは続けとくよ。途中で投げ出すくらいなら、最初からやらなければ良かったと思っちゃうし」
「そう」
「シオは律儀だな」
「……そうでもないんだけれどね」
あたしは目を逸らして小さく呟いた。
決して、律儀に約束を果たそうとしているわけじゃない。ただ、見極めようと思っただけだ。このバツゲーム期間の中で、自分の伏見くんに対する思いが何なのかを。
チラリとスマホを見る。
無性に今、伏見くんと話したかった。
「ん。うん、じゃあ、また。……ああ、その、……好きだよ」
俺は電話を終えてため息を吐く。やっぱり、好きだと言うのにはまだ、照れくささがある。電話をする度に言っているというのに。
けれど、今日は何だったんだろう?
桐生さんの方から電話があるなんて珍しい。それも夕方にだ。いつもなら、電話を掛けるのも俺だし、その時間も、夜の決まった時間だし。だから、突然電話の着信があった時、桐生さんに何か遭ったんじゃないかって心配になったほどだ。けれど、彼女が電話で話してきたことは、いつもと変わらない世間話。何か緊急の用事があったようにも思えない。
「……何だったんだろう?」
「むしろ、私の方が何やっているんだろうって言いたいですよ」
突然声を掛けられたので、俺は驚いて振り返ると、……誰も居ない。と見せかけて、下を向けば香奈枝がいた。
「……香奈枝。いつからそこにいた?」
自分の顔が強張るのを感じた。
桐生さんと電話をしている時の自分を見られるのは、かなり恥ずかしい。桐生さんには彼女として、普段、他の人には見せないような部分を見せているという自覚はある。俺としては普通に話しているつもりでも、傍から見てデレデレしているように見える可能性だって否定はできない。
そんな姿を他の人に、しかも、普段の自分の事を良く知っているような人に見られるのは、物凄く恥ずかしいし抵抗がある。
……廊下なんかで、電話に出るんじゃなかった。
向こうから電話があることが珍しくて、慌てて出たのが運の尽きだ。
俺の気持ちを知ってか知らずか、香奈枝は物凄く醒めた目でこちらを見て来る。
「電話の途中からですよ。……しかし、好きだよとか、伏見くんが言うのですね。気持ち悪くて鳥肌が立ちました」
一番聞かれたくないところを聞かれていた。俺は恥ずかしくて香奈枝の顔を直視できない。きっと、俺は真っ赤になっていることだろう。
「う、うっせ。好意はちゃんと言葉にして伝えた方が良いって、鹿島さんが言っていたんだよ。なんでも、相手には好意が伝わっているはずだって胡坐をかくと、実は伝わってなくて、関係が悪くなるってことは、良くあるらしい」
「ふぅん。……それは、鹿島さんの経験談でしょうか?」
「かもな。あの人は色々やっているからな。……まぁ、でも、鹿島さんの言う事も、最もだと思ったから、俺はその通りにしているよ。それに、好きだって言われて、悪い気分になることもないだろ? 香奈枝は気持ち悪いって言ったけど、お前だって好きな奴になら、好きだって言われれば嬉しいだろ?」
「さぁ? どうでしょうね。……私は今のところ恋をしたこともありませんし」
「別に恋じゃなくても、好きな奴はいるだろ? 師匠とか」
「……そうですね。お父さんを尊敬もしていますし、父親としても好きですよ。……でも、父親に好きだと言われても、普通、嬉しくはないでしょう、子供ではないのですから。むしろ、微妙な気持ちにしかなりませんよ」
「そういうものか?」
「そういうものですよ。まぁ、伏見くんは、親に好きだと言われれば、嬉しくて泣いてしまうかもしれませんけれどね」
からかうような香奈枝の言葉にカッとなる。思わず手を出しそうになるのを、歯を食いしばり、拳を握り締めてなんとか抑える。
「……喧嘩を売っているのか?」
俺の声は低くなる。俺は両親の話を持ち出されるのが一番嫌いだ。事情を知らない者ならばまだ流すことはできる。けれど香奈枝は知っているはずだ。俺と両親との間に何があったのかを。
思い出すのは最後に見た両親の顔。俺に何の興味も示さないどころか、気付きもしなかった。両親のあの姿に俺がどれだけ絶望したか。
「……今のは失言でした、ごめんなさい」
俺が本気で怒っていることに気付いたようで、香奈枝は素直に謝った。自分が悪いと思っても、彼女が謝ることはあまりない。けれど、こうして謝ったという事は、本当に悪いと思っているのだろう。俺の両親との顛末を彼女なりに同情しているのかもしれない。……その同情が哀れみだったら嫌だけれど。
「……まぁ、良いさ」
親の話になって正直気まずさもあったので、俺はそう言っただけで部屋に戻ろうとする。けれど、Tシャツの裾を引っ張られる。もう一度振り返れば、やはり俺を止めたのは香奈枝だった。
「何だ?」
「用があるんです。そうでもなければ、伏見くんの電話を立ち聞きするような下世話な真似なんてしていませんよ」
「用?」
「そう。明日、生徒会の手伝いに行きますので、伏見くんも手伝ってください」
「……香奈枝って生徒会だっけ?」
「六月の選挙で決まったじゃないですか」
「……そうだっけ?」
俺が首を傾げると、香奈枝は呆れた顔をする。
「全く、……興味ない事は覚えようともしませんよね。そんなだから、友達ができないのですよ」
「でも、彼女はできたぞ」
「……なんで勝ち誇っているんですか? そんなの、変人である伏見くんを好きになってくれるような変わり者が居たってだけじゃないですか。ただ運が良かっただけで、あなたが何かしたってわけではないでしょう? 勝ち誇るのではなく、むしろ、彼女さんに感謝すべきことだと思いますよ」
うん、悔しいがその通りだ。彼女ができたことに僕の手柄なんて何一つない。全ては俺を好きになってくれた桐生さんのおかげ。うん、ありがとう、桐生さん。彼女になら何度だって言える気がする。まぁ、香奈枝には関係ないけれど。
「……感謝はしているさ。……それで? 生徒会って何だ?」
「ああ、そうでした。学校でやっている納涼祭りは御存じですか……って、伏見くんが知っているわけありませんね」
香奈枝は馬鹿にするように言ってくるが、残念ながら知らないので言い返すこともできなかった。
「……それで? 納涼祭りってなんなんだ?」
「納涼祭りは、地域と学校が合同でやっている企画ですよ。学校の校庭を地域の人たちに貸し出して、縁日のお祭りのようなことをするんです。納涼祭りで並ぶのは地域の人たちが出店する屋台がほとんどですけれど、生徒会や有志の生徒達も、設営やお店を手伝うことになっているんです。でも人手があまり足りなくて、伏見くんにも手伝って欲しいんですよ」
「……なんで俺が」
「皆で準備を頑張れば、友達ができるかもしれませんよ?」
「……ふぅ。わかっていないな、香奈枝は。一緒に準備を手伝っただけで友達ができるような俺じゃない」
「全く……。自信満々に言う事ではないでしょうが。……これだから伏見くんは。良いですか? 本当に友達を作りたいと思うのなら、今までの自分から脱却しなくてはいけませんよ。その為に、今まで避けてきたような事にも、果敢に挑戦すべきだと私は思います。いえ、しなければいけないのです」
「……良い事言った風な雰囲気で、結局自分の仕事を手伝わせようとしているだろ?」
「そんなことはありませんよ。全ては伏見くんの為です」
そう言って香奈枝はにっこりと笑う。
彼女の面の皮は、とんでもなく厚かった。
……まぁ、でも、残念ながら彼女の言う事には一理あるのだ。俺が友達を作るとしたら、今までの自分から脱却しなければならないのはその通り。それこそ、今まで自分がしてこなかったことをしていかなければならないだろう。
香奈枝の言葉は正論であり、その正論に悪意を付けて嫌味を言ってくるので、だからこそ彼女の言葉は本当にイラッとくる。そんな彼女の思惑通りに動くのは癪なので、断りたいところだけれど……。
友達……か。
正直、桐生さんさえいてくれれば良いとか、思わないでもない。でも、友達ができて、学校の中で孤立しないようになれば、桐生さんは喜んでくれる気がする。
……そもそも、俺が桐生さんと釣り合えるだけの人間だったなら、彼女が俺と付き合っていることを隠す必要もなかったはずだ。つまり、今のこの状況は、どうしようもなく彼女に迷惑をかけているという事だ。
桐生さんが俺の事を彼氏だと紹介しても、恥ずかしくない人間になりたい。そんな思いが俺の中には芽生えていた。
それはきっと、彼女の為にカッコいいところを見せたいとかいう、男の意地のようなものだろう。そして、そんな自分になる為には、香奈枝の言う通り、今の自分から脱却しなければならないのだろう。
「……はぁ、わかったよ。手伝うよ。ただし、デートの無い日だけだぞ」
「ええ。それでいいですよ。では、まずは明日ですね。……そういえば、一つ伏見くんに聞いてみたいことがあったんですよ」
「聞いてみたいこと? 珍しいな。成績トップの香奈枝のお前が、俺に聞きたいことなんてないと思うけどな。ああ、因みに、今期お薦めのアニメは」
「それは別に良いです。伏見くんと趣味が合うとも思っていませんし」
「……じゃあ、何なのさ」
香奈枝に勝てる知識と言ったら、正直、そっち方向しか思い浮かばない。というか、アニメの話とかができるのかと、一瞬でも喜んでしまった自分が悲しい。
友達がいない俺としては、そういう話ができる人が本当にいないから、誰かとアニメやゲームの良作について共感してみたいのだ。今時、ネットでそういう知り合いを作ることもできるっぽいけれど、元々コミュ障の俺に、そんな高度な事ができるわけもない。ああいうのも、普通に友達できない奴はできないからな。……つまり、試してみたことはある。
……そういえば、桐生さんはアニメとか見るのかな? 人によってはオタクを馬鹿にする人もいるから、自分も好きだとは打ち明けにくいんだよな。
そんなことを思っていたら、香奈枝が何故か言いづらそうに、おずおずと尋ねて来る。何というか、物事をはっきりと言ってくる彼女にしては珍しい態度だ。
「私の聞きたいことは、……その、伏見くんにも彼女ができたじゃないですか。それで……」
「恋人を作る方法か? そんなの知らんぞ」
「じゃなくて、……伏見くんは将来的に、自分が魔法使いであることを、教えるんですか?」
香奈枝の質問の意図が、なんとなくわかった。
魔法使いである自分たちは、どうしたところで、普通の人とは違う部分がある。悪用しようと思えばいくらでも悪用できるし、例えそんな意図が無くても、うっかり暴走させてしまえば、それは天災以上の脅威ともなり得る。だからこそ、魔法協会は魔法使いを厳しく管理している。その管理の中には、やらなければならない義務もある。援助を貰えるとはいえ、夜の見回りにしたって、義務の一つだ。
そして、その行動を隠し続ければ、近しい一般人――例えば恋人とか結婚相手――は、疑いを持ち、関係の中に不和を生むかもしれない。そうじゃなくとも、大切な人に自分の真実を話せないのは辛いし、本当の自分を隠しているという罪悪感だって覚えるかもしれない。
けれど、魔法使いであることは、簡単に打ち明けられるものでもない。普通は、説明したところ信じてくれないし、説明しようと魔法を実際に見せれば、怖がられる可能性が高い。人はどうしようもなく、自らの常識や理解の外側にあるものを恐怖するのだ。
人に怖がられれば、魔法使いだって傷付く。
それは特に親しければ親しいほど。だからこそ、打ち明け難くもなるのだ。自分が魔法使いであることを。
……果たして、俺はどうするのだろう?
残念ながら、今まで考えたこともなかった。友達もできない俺が、まさか恋人ができるだなんて思っても居なかった。大人になったところで結婚できるも思っておらず、このまま独り身のまま死んでいく。だから、魔法使いであることを打ち明けるか隠し続けるか、そんな状況すら想定していなかったのだ。
けれどもし、このまま桐生さんとの交際が順調に進んでいったのなら、この問題は確実に浮かび上がることだろう。その時俺は、自分が魔法使いだと言えるのだろうか?
打ち明けて、親しい人に怖がられることが怖い。それは知っていたつもりだった。けれど、大切な人ができた今だからこそ、その怖さがより実感できてしまう。
きっとこれは、魔法使いならば誰もがもつ悩みなのだろう。
香奈枝だって、この不安は変わらない。
実際の性格はアレだけれども、彼女は小柄で可愛いし、外面だって悪くはない。だからモテているのは傍目からでも知っていた。それでも彼女は恋人を作ろうとはしていない。恋愛に興味がないとうそぶいているけれど、本当のところは、彼女も怖いのかもしれない。好きになった恋人が、魔法使いであることを知って、自分を恐れることを。
だからこそ、俺にこんな質問をしてきたのだろう。
魔法使いであることを打ち明けるにしても、隠し続けるにしても、何か、良い方法があるんじゃないかと、俺なんかに縋っている。
けれど、どんなに期待された所で、良い答えなんてあるわけがない。
結局のところ、打ち明ける恐怖から逃れたいのなら、魔法使い同士で付き合うしかないだろう。そうすれば少なくとも、自分が魔法使いであることを隠しておく必要なんてないのだから。
でも、俺が大切だと思い始めている桐生さんは、魔法使いじゃない。だからと言って今更、軌道修正ができるわけもない。人を好きになると言う気持ちは、打算でどうこうできるものではないからだ。
俺には香奈枝の質問に対し、明確な答えもないし、正直、こんな質問に答える義理もない。けれど、同じ魔法使いとして、俺は真剣に答えようと思った。
「……俺だって、魔法使いだと話すことで、好きな人に怖がられて嫌われるのを想像すると怖くて仕方がない。……でも俺は、それでもいつかは話すと思う。……怖がられて嫌われる可能性があろうと、それでも俺の事を知って欲しいと思うから。……俺はたぶん、知って欲しいんだ。俺の事を」
思い出すのは両親の顔。二人は魔法使いじゃない。ただの人間であり、二人は俺の事を知りもしないだろう。大切な人に自分の事が理解されない。それは苦痛だ。その苦痛を抱えたまま、俺は一緒に生きて行けるとは思えない。
「それで嫌われてしまうのなら、仕方ないと諦めるさ。その人とは縁がなかったんだと思ってな」
まぁ、簡単に諦めきれるとも思わないけれど、それ以上追い求めたところで、互いに報われることなく傷付くだけだ。だから、魔法使いである俺が拒絶されたなら、俺は諦める努力をしようと思う。間違ってもストーカーにはならないよう、気を付ける所存だ。
「……そう。伏見くんは傷付く覚悟をしているんですね」
「完全にってわけじゃないけれどな。……こんなこと聞いて来るってことは、もしかして香奈枝も、好きな奴とか居るのか?」
「幸い、私にはまだいませんよ」
「……幸いなのか?」
「魔法使いの恋は、苦難と共にあると相場は決まっていますからね。私は伏見くんとは違って生まれた頃から魔法使いだったので、小さい頃から色んな魔法使いを見てきたんですよ。その中には、恋をして、身を滅ぼした人もいました。だから私は、恋をすることが怖いのです。私もいずれ恋をして、あんな風になるんじゃないかって」
「……あんな風に?」
香奈枝の言葉からは、悲しい結末を迎えた魔法使いの恋が想像できる。けれど、その恋の話は俺の知らない話なのだろう。あんな風と言われても、心当たりがまったくない。
彼女は俺よりも遥かに多くの魔法使いと関わりを持っている。魔法使いの友人も多いし、師匠の代理で魔法協会に行くことも多いから。だからこそ彼女は、魔法使いについて、色んな事を知っているのだろう。
恋をした魔法使い。それがどんな結末を迎えたのだろうか?
その結末はもしかしたら、俺の未来の一つなのかもしれない。
とても気になるところだ。けれど、彼女はその結末については話す気はないようで、クルリと背を向け、違う事を話した。
「……明日の納涼祭りの準備は、十時からです。後の時間や日程については、メールにでもして送っておきます」
あんな風というのが気になるし、教えてくれないことに釈然としない気持ちもあったけれど、それでも人には、触れられたくない話もあるものだ。俺の両親の話然り。だから俺は、喉から出そうになる疑問を呑み込んだ。
「……ああ、わかった」
俺はそう言って部屋に戻ろうとすると、「伏見くん」と小さな声で、香奈枝に声を掛けられ振り返る。
「まだ、なんかあるのか?」
「……いえ、……ただ、これだけは言っておきたくて」
「ん?」
「私は同年代の伏見くんの恋が上手く行けば良いと思っています。だから、……伏見くんは気を付けてくださいね」
彼女はそれだけを言うと、恥ずかしかったのか逃げるように部屋へと戻って行く。俺はその後姿を不思議な気持ちで見つめていた。
香奈枝に応援されているだなんて思っていなかったし、ましてや心配されているとすら思っていなかった。
……それにしても、気を付けるとは、何に気を付ければいいのだろうか? 香奈枝が知っている悲劇的な結末を知らないので、気を付けようもない。
俺の通っている高校は、正直、あんまりスポーツが盛んではない。サッカーと野球の有名どころの部活にしても強豪とは程遠く、インターハイや甲子園なんて夢のまた夢だ。というか、夏季大会は既に負けて終わっているんだと思う。三年が引退して、二年が引き継いだみたいな話を、クラスメイトがしているのを聞いた覚えがある。まぁ、話に加わったわけでなく、一人でいるものだから、周囲の会話が良く聞こえたというだけだ。……寂しくないもん。
とはいえ、納涼祭りの為に校庭の貸し出しだなんてやっている時点で、高校にしても力を入れていないのは明白だ。この期間、設営から片付けまで入れて一週間、校庭を使った部活動は休みになるのだから。
俺は生徒会の指示に従い、せっせと言われた通りに荷物を運んでいく。空き教室にある椅子や机を運び出していく。他にも、業者が持ってきた荷物を運び込んだり設置したりと、かなりの肉体労働だ。
……おかしい。香奈枝は友達ができるみたいなことを言っていたけれど、正直、世間話をしている暇がない。どこに友達ができる隙があると? 話しても「いっせいのせっ」とか、「そこぶつかりそうだよ」とか、「弾幕薄いよ、何やっているの」だとか、一言二言くらい。わかったのはオタクが居たという事だけだ。そこで俺もアニメが好きだと言えれば良かったのだけれど、常に一緒に行動していたわけでもないので、気持ちを固め、話しかけるような余裕もない。
そもそも、参加している生徒にしてもほとんどは二年生で、参加している同級生なんて少ないものだ。更に言えば、参加している連中なんて友人同士で参加を決めていて、既に交友関係が出来上がっている。すでに出来ている輪の中に飛び込むほど、難しい事はないだろう。
友達ができる気がまずしない。
それにしても、廊下に聞こえて来る文化部の楽しげな声が聞こえてきて、一人で運んでいる時なんて、物悲しさがハンパない。
こんな事なら友達を作ろうと奮起して、参加なんかするんじゃなかった。きっと、似合わないことはするべきじゃないっていうことだな。
自嘲的にそんなことを思っても、この寂しさが紛れるわけもない。
部活をやっている奴らは、本当に楽しそうだ。
俺も部活に入れば良かったのだろうか? 皆で同じことに取り組むのだ。例え上手く話せなくても、友達ができるかもしれない。……部活内で孤立する姿しか想像できないけれど、もしかしたらということもあるはずだ。
そんなことを思いながら廊下を歩いていると、美術室の前に通りかかった。他の部活動と同じように笑い声が聞こえて来る。美術部なんてただ絵を描くだけなのに、何をそんなに笑う事があるのだろうか?
そんなことを思って扉の窓から美術室を覗いてみると、何故か美術部の人たちは、体操着を着ていた。美術部って運動とか必要な部活だっけ?
そう言えば、この学校の美術部は少し変わったことをすると桐生さんが言っていたのを、思い出す。っていうか、ここって彼女の所属する部活じゃん。
部活をする桐生さんの姿が見れるかも。
俺は胸をときめかせ、彼女の姿を探す。すると彼女は、美術部の男子と何やら楽しそうに話していた。男女分け隔てなく、仲良さそうに話す彼女のことだ。そんな姿は教室で見慣れている。
……そのはずなのに、俺の胸がずきりと痛んだ。
そのことに、俺は驚いた。
よく、アニメや漫画で胸が痛いなんて言うけれど、そんなものは比喩表現みたいなものだと思っていた。けれど、人って本当に、恋をすると胸が痛くなるんだなと感心してしまう。これなら、人の心は胸にあると昔の人が思っていた気持ちもわからないでもない。
……それにしても、桐生さんが他の男と笑い合っているだけで、胸が痛むほど嫉妬してしまうなんて……。
俺は本当に恋をしているんだな。
妙に、心の中にストンと落ちて納得できた気がした。
今まで気になりだしているとか、好きになり始めているんだとか散々思っていたけれども、初めて感じた胸の痛みが、疑いようもなく教えてくれている。
俺は本当に、桐生さんが好きなんだ。
それが嬉しいはずなのに、どこか落ち着かない。
何だか泣きたいような気分にまでなってきた。
俺は美術室から逃げるように走り出す。
何だろうか、この気持ちは。
そう考えて、思い浮かんだのは不安だ。
俺はやっぱり、彼女の好きという言葉を信じきれていないのだ。そして、それが申し訳なくも感じて、……俺の心はぐちゃぐちゃになっていた。
美術部では今、皆で協力して、一つの大きな絵を描こうとしていた。
夏休みが終わればすぐに文化祭がやってくる。美術部としては日ごろの成果を見せる為に展示をするのが通例だけれど、ただの絵を飾ったところで、見た人はあんまりおもしろくはないと思う。だから、できるだけ面白い、もしくは感心させるようなものを展示したい。という事で、展示物の一つとして、皆で描く巨大な絵を作ろうとしていた。
でも、ただ巨大なだけではつまらない。
なのであたしたちは、絵を描く筆の代わりとして、自分たちの手形や足形を使う方法を考えてみた。あたしが幼稚園だった頃に、皆の手形や足形を大きな紙にべたべたと無作為につけて、遊んだ記憶がある。できた物はぐちゃぐちゃで、絵なんて呼べるような物ではなかったけれど、楽しかったのは覚えている。
けれど、今回は高校生として、ちゃんと見せられる絵として完成させるのが目的である。楽しさの中にも少し、緊張感があった。余計なところに、手形や足形を残すわけにはいかないし。
制服が汚れないように体操着に着替え、あたしたちは下書きした紙の上に、部長の指示の下、足形や手形を付けていく。
「ぬあっ! 紙が足に引っ付いた」
「おいおい、破るなよ」
「そこ! 足形じゃなくて、手形!」
「す、すみません」
「きゃっ!」
「あはは、尻もちの跡が付いている」
「うぅ。お尻が真っ赤になった」
「ぷっ、ははははは。猿じゃねぇか」
結果から言えば、初めての取り組みは上手くはいかなかった。まぁ、でも、夏休み中に完成させればいいので、この失敗は予想していたと言える。この失敗を活かして次に進めばいい。
むしろ、失敗したことで緊張感は無くなり、後半は遊ぶように描いていたのでとても楽しかった。
「そう言えばぁ、さっき、伏見くんが居たねぇ」
綾ちゃんが含みのある笑みを向けて、そんな事を言ってくる。
「伏見くんが?」
「うん。チラリと美術室を覗いて行っちゃったけどねぇ」
「……美術室を。あたしに何か用だったのかな? 学校に来る用事なんてないだろうし」
「んぅ? たぶん、納涼祭りの手伝いだと思うよぉ。なんか椅子を運んでいたし」
「納涼祭り?」
校庭でお祭りの準備をしているのはもちろん気付いている。一階の空き教室にも、その為の資材が運び込まれているようだった。でも、学校行事にすら参加しようとしない伏見くんが、強制もされない納涼祭りの準備に参加するとも思えない。
でも、椅子を運んでいたというのなら、本当に納涼祭りの手伝いをしているんだとは思う。
……何でだろう?
あたしが不思議そうに準備をしている校庭を見下ろしていると、準備をしている人の中に、確かに伏見くんの姿が見えた。彼が指示を求めるように話しかけた小柄な相手もまた、見覚えがあった。
それは城ヶ崎さん。
同じ中学校出身で、今はこの高校の生徒会の一員。この納涼祭りは生徒会と地域が主導で行われているので、彼女が働いていることに、何の不思議もない。
けれど、彼女は中学時代にも唯一、伏見くんと普通に話していた人でもある。
彼が何故、納涼祭りを手伝っているのか。
……それはもしかして、城ヶ崎さんの為なのでは?
窓の下では伏見くんと城ヶ崎さんが話している。クラスの中では、伏見くんはほとんど話さない。なのに、城ヶ崎さんの前では普通に話している。まるで、あたしと話している時のように。
胸が痛い。苛立ちもする。できる事なら、二人が話している間に割り込んでいきたい。
「何見ているのぉ?」
綾ちゃんが肩越しに、あたしの見ている方を覗き込む。そして、伏見くんと城ヶ崎さんが話しているのに気付いたようだ。
「そっかぁ。城ヶ崎さんの為に手伝っているんだねぇ、伏見くんは」
「……やっぱり、そうなのかな?」
「なぁにぃ? シオちゃんは焼きもちを妬いているのぉ?」
「べ、別に妬いてなんて……」
そう否定はしても、胸の痛みや苛立ちが、伏見くんと城ヶ崎さんが話している状況を気に食わないと、どうしようもなく主張してくる。
あたしは妬いているのだろうか?
それは恋からくるのか、それとも、ちょっとした独占欲か。
「丁度休憩だしぃ、ちょっと見てくるぅ?」
「べ、別に……」
あたしは顔を逸らして、興味ないと言うように窓から離れようとすると、手を引かれる。
「はいはい。気になるんなら素直に行こうねぇ」
綾ちゃんの力は意外に強く、……というか、あたしにそこまでの抵抗の意思がないのだろう。されるがまま、あたしは引っ張られて行く。
校庭に着くと、伏見くんの会話が聞こえて来る。
「香奈枝。この荷物はどこに運ぶんだ?」
「一階の空き教室にお願いします」
「あいよ。……って、俺、完全に雑用だよな」
「ボランティアなんて、そんなものですよ。ふふっ。もしかして、重要な役割でも任されるとでも期待していたんですか? 伏見くんの癖に」
「別にそんなこと思ってないさ。……ただ、もっとみんなで協力するようなものだとは思っていた。これじゃあ、俺が参加した意味がなくないか?」
「ああ、そういえばそうでしたね。では、この作業が終わったら、お友達を紹介してあげましょうか?」
「そういうのはいらない。香奈枝が頼んで仲良くしてくれたって、そいつらはどうせ、香奈枝の為だろ? そんなの同情以上に最悪だ」
伏見くんはそう言って城ヶ崎さんから離れる。途中、彼はこちらに気付いたようだけれど、すぐに視線を逸らして荷物運びに行ってしまう。
「付き合っているんだよねぇ?」
こちらに何の反応も示さなかった伏見くんに、綾ちゃんは不思議そうに聞いて来る。
「……学校では、付き合っていることを秘密にして欲しいって言っているからね」
そう言いながらも、あたしの声がとげとげしくなっているのを自覚する。学校ではいつも通り接して欲しいと言ったのは自分ではある。それでも、あんな風に無視されるのは、腹立つって言うか、……もちろん、この怒りが理不尽なものだってのはわかるけれど、それでもやっぱり、腹立たしい。何よりも……。
「それにしてもぉ、伏見くんと城ヶ崎さん。本当に仲が良さそうだったねぇ」
「……そうだね」
「香奈枝だってぇ。シオちゃんは伏見くんに、なんて呼ばれているのぉ?」
「……桐生さん」
「そうなんだぁ」
「……綾ちゃん。喧嘩売っている?」
「ふふ。そんなことないよぉ。でもぉ、そう思うってことはぁ、……シオちゃん。伏見くんの事が本当に好きになっているんじゃないのぉ?」
綾ちゃんはそう言って、見透かすような瞳をジッと向けて来る。
「あ、あたしは伏見くんなんか……」
否定しようとしたけれども、その言葉はなかなか出てこようとしない。
「好きじゃない?」
綾ちゃんが、あたしの言葉に先回りをするように聞いて来る。
「……あたしは……好きなんだと思う」
そう口にすると、自分の中のもやもやとした気持ちが晴れたような気がした。
自覚する。
あたしのこの思いはきっと、恋なんだ。
納涼祭りに一緒に行かないかと、桐生さんに誘われた。
一応学校の行事だし、クラスメイトと出会う可能性もある。そう指摘したけれど、彼女は大丈夫だよと言ってきた。
俺と付き合っているというのを、隠さなくても良いと思ってくれたのだろうか?
でも、その心境の変化がわからない。
俺を彼氏だと紹介しても恥ずかしくないと思ってくれた?
……その可能性は限りなく低いな。俺自身、変わった気なんてしないし。
ならばなんだろう?
……もしかして、今まで付き合っていたのは冗談でしたとか言って、皆の前で笑いものにするとか、そんな感じだろうか?
俺の中の不安がそんな想像をさせて来る。しかも、一番現実味があるから困る。
それでも、桐生さんの誘いを断る選択肢は俺にはなく、嫌な予感しかしないけれど、納涼祭りに行くことにした。待ち合わせは校舎裏。三週間前に、桐生さんに告白された場所だ。
一月も経っていないというのに、随分と前の事のように感じる。
それだけ、桐生さんと過ごした日々は、俺にとって濃密だったという事だろう。何せ、人生初めての恋をしたわけだし。
これでもし、この恋人関係が桐生さんの悪戯だったら、俺はきっと、しばらくは立ち直れないだろう。……ああ、嫌な事ばかりが浮かぶ。
「ごめん。待った?」
声を掛けられそちらを見れば、浴衣姿の桐生さんが小走りでやってくる。白い花柄の浴衣に、髪を上に結い上げており、普段は見えないうなじは色っぽい。その姿はとても綺麗で愛らしくて、見ているだけで心臓が早鐘を打つようだ。
「あはは。浴衣着てたら手間取っちゃった。……どうかな?」
桐生さんは少し恥ずかしそうにポーズをとる。
「……あ、うん。似合っているよ。ちょっと、直視できないくらい」
「あはは。プールでも同じこと言っていたね」
「それはその、……桐生さんが、眩しいくらいに綺麗だからだよ」
自分の顔が真っ赤になっているのを自覚する。異性を褒めるのはやっぱり恥ずかしい。それでも言わなくちゃダメだって鹿島さんは言っていたけれど、やっぱり慣れない。
「ふふ。ありがとうね、伏見くん」
「ん。じゃ、じゃあ、納涼祭りの屋台にでも行こっか。お、俺、たこ焼きとかお好み焼きが好きなんだよね」
恥ずかしくなってそんなことを言いながら背を向け、屋台のある校庭側に歩き出そうとする。けれど、桐生さんにシャツの袖を軽く引っ張られ、足を止められる。振り返ると彼女は、何か決心したような顔で、こちらを見上げている。
嫌な予感がした。
自分の不安が想像したシチュエーションとあまりにも同じだ。
「伏見くんに謝らなくちゃいけないことがあるの」
「……謝らなくちゃ……いけない事?」
喉が一気に干上がった気がする。舌が上手く回らない。
桐生さんは唇を噛み、何か言い辛そうなことを告げようとしている。
何か、他の事を言って誤魔化した方が良いのだろうか? でも、どうやって誤魔化すと言うのだろう?
「……伏見くん。……夏休みに入るちょっと前、あたしはここで、……伏見くんに、告白、したよね?」
「あ、ああ」
「あれは実は、……嘘だったの」
消え入りそうな桐生さんの言葉。けれど、その言葉は俺の耳にしっかりと聞こえていた。
「……嘘」
つまり、俺の事が好きだと言うのは嘘だったのだろう。
今までにないくらい、胸が痛い。
「あたしは友達と賭けをして、負けたら伏見くんに告白するっていうバツゲームをしていたの。もしも告白が上手くいったら、一カ月付き合うっていうおまけ付きのバツゲーム。……だから、この恋人関係も、……嘘だったの」
つまり今まで、散々笑いものにされていたってわけだ。
わかっていた。わかっていたつもりだった。自分なんかがモテるわけがない。ましてや告白されるだなんて、あり得ない。
だから、常に不安となって付きまとっていたのだ。
それでも、彼女の言葉は思った以上に応える。本当に、俺は彼女を好きになっていたから。まるで、胸にぽっかりと穴が開いたような喪失感だ。
失恋って、こんなに辛いものなんだな。手足から力が抜けて行く。その場で泣き崩れてしまいそうだ。いっそ、そうできた方が楽なのかもしれない。
そんなことを思っていると、俺の手は握られた。
それは、桐生さんだった。
彼女は決意したような目で、俺を見ている。これ以上、何か言う事があるのだろうか?
「……この恋人関係は嘘だった。……でも、一緒にデートを重ねるうち、あたしは伏見くんが好きになっていたの。だから、あたしはもう一度、ちゃんと告白するね。……伏見くん。あたしは伏見くんが好き。だから、付き合ってください」
「……好き? 俺が?」
桐生さんの言ってきたことが、なかなか理解できなかった。先程嘘だったと言われたばかりなのに、また告白された。俺の頭の中はもう、ぐちゃぐちゃだ。
それでも彼女は俺の目を見て真剣な口調で言ってくる。
「うん。あたしは伏見くんが好き。これは本当に本当」
「……そっか」
本当に、俺を好きだと言ってくれている。その事を理解するにつれ、ぽっかりと穴の開いたはずの自分の胸が、また、高鳴っていく気がした。
騙されていたことに傷付いていないと言えば嘘になる。けれど、俺は桐生さんを憎むことなんてできない。桐生さんには、騙していたことを隠して、そのまま付き合っていることだってできたはずだ。それでも彼女は、自分が騙していたことを打ち明け、こうして、告白し直してくれている。
これは、彼女なりの誠意なのだろう。
だから俺は、自分の気持ちを素直に言った。
「俺も桐生さんが好きだ。だから、今度こそ本当に、付き合って欲しい」
俺の言葉に、桐生さんはポロポロと涙を流し始めたので思わずぎょっとする。何か、不味い事を言ってしまっただろうか?
今度こそ本当にって言葉が、嫌味っぽかったとか。
泣いている桐生さんにどうしていいかわからずおどおどしていると、彼女は俺の胸に飛び込むように抱き付いてきた。女性の甘い香りと柔らかさに、思わず声を挙げそうになってしまう。けれど、それを何とか耐えて、桐生さんの言葉を待つ。
「……怖かった。本当の事を言って、伏見くんに嫌われるんじゃないかって」
「……そんなことないよ。例え嘘の恋人関係でも、俺は桐生さんと一緒に過ごした時間は、本当に楽しかったんだ。そもそも、俺には騙されていた自覚なんてなかったしね。……俺は、桐生さんが好きだよ」
これは、俺の本心からの言葉だった。俺が桐生さんを好きだという思いは、例え騙されたとしても消えはしない。
「……ごめん、ごめんね、伏見くん。そしてありがとう。あたしも伏見くんが好きだよ」
俺の胸に蹲りながら、そんな事を言ってくる桐生さん。何この生き物。可愛すぎるんだけれど。
性欲がつがつの思春期男子としては、このまま押し倒してしまいたいほどだ。とはいえ、そんな事をすれば嫌われそうだから絶対無理だけれどね。下心って、見せると嫌われると思ってしまうのは何でだろう? 世の中の人はどうやって、見せて行っているんだろうか?
ムードか。ムードなのか。作り方と読み方を教えて欲しい。
果たして今の状況はキスくらいOKだったり?
「……じゃあ、えっと、……お祭りに行こうか?」
しばらく泣いていた桐生さんは、恥ずかしそうに俺から離れると、そう言ってくる。何だか、絶好の機会を逃した気がしてならない。……でも、まぁ、そんな事は別に良い。
これから、桐生さんとは本当の意味で付き合い始めるのだ。もちろん、俺は騙されていたことに気付いていたわけじゃないので、本当に付き合っているつもりではいた。それでも、俺は今まで、不安を感じ続けていた。好かれる理由がわからなかったからだ。
けれど、先程の告白は、俺の不安を打ち払ってくれるものだった。
夏休み前の告白は嘘だったかもしれない。
それでも、この三週間あまりの日々が、お互いの心を繋げてくれたんだと思う。
桐生さんが好きだ。
その思いに今、不安はない。
「ああ、行こうか」
俺は笑顔で答え、勇気を出して彼女の手を取った。
校庭の中心には、盆踊り櫓が建てられ、その周囲を屋台が囲んでいる。納涼祭りは学校だけでなく地域が中心となった催し物なので、高校の生徒だけでなく、近所の大人や子供も参加していて、かなりの人だかりとなっている。こういうお祭りは初めてなので、こんなに人が集まるんだと、俺は素直に驚いていた。
座れる場所として、空き教室の椅子を決められたシートの上にこれでもかと運んだつもりだったけれど、空きは少なくなっている。
手伝ったおかげで、どの屋台がどこにあるのかを把握できているので、俺は迷いなくたこ焼き屋に行く。
「伏見くんは本当に、たこ焼きが好きなんだね。お好み焼きも好きって言ってたよね。粉ものが好きなの?」
「いや。粉ものってよりも、このソースが好きなんだ」
俺は、「食べる?」と言って桐生さんにたこ焼きを差し出すと、彼女は嬉しそうにたこ焼きを頬張る。
「ん。美味しい。でも、何かわかる。あたしもこのソースは結構好き。家の冷蔵庫にもお好み焼き用のソースがあるよ。年に一回作れば良い方だっていうのに。……賞味期限大丈夫かな?」
「はは、それは確かに心配だ。……俺は料理をほとんどしないから、お好み焼きなんか作らないけれど、食パンにお好み焼きソースとマヨネーズ、青のりとかつお節をかけて、偽お好み焼きとして食べたりもする」
「あはは。それはなんか、体に悪そう。……そう言えば、伏見くんは納涼祭りの手伝いをしていたよね?」
桐生さんが何故か慎重な口調で尋ねてきた。彼女は俺が荷物を運んでいるのを目撃している。だから、俺が手伝っているのを知っているのは当然だ。恋人関係だとばれたくないという事で、あの時は無視したけれど、……まぁ、気分としては悪いだろう。
「……あの時は、無視してごめんな」
「全くだよ。あたしがどれだけ傷付いたことか」
冗談めかして拗ねたように言う桐生さんに、俺は苦笑する。
「いやいや。ばれないようにしてって言ったのは、桐生さんじゃん。それはちょっと、納得いかない」
「あはは、そうだったね。でも、傷付いたのは本当。だからもう、伏見くんは隠さなくていいよ。伏見くんはあたしの恋人なんだから」
そう言ってはにかむように笑う桐生さんが可愛かった。いつも可愛いけれど! なんというかもう、お持ち帰りしたいレベル。……はっ! こういう時の写真か。俺はとんでもないことに気付いてしまった。スマホスマホ。
「……スマホなんか取り出して、何しているの?」
「桐生さんが可愛かったから写真に取ろうと」
「うぅ。それはちょっと、恥ずかしいよ。……んと、そうだった。それより話は戻るけれど、伏見くんがお祭りの準備を手伝うなんて、いつもの伏見くんと比べると意外だね」
「ん? ……まぁ、そうだな」
友達を作る為とはいえ、確かに似合わないことをした。結局友達もできなかったし。ただ、香奈枝に良いように使われただけだ。これはもう、似合わないことをすべきじゃないって事だと思う。
「……それって、もしかして、城ヶ崎さんの為?」
「ん? 何でそこで香奈枝が出るんだ?」
「……だって、伏見くんと城ヶ崎さんって仲良さそうだし。……伏見くんは城ヶ崎さんを、香奈枝って、下の名前で呼んでいるんだね」
ジト目で睨みつけて来る。
妬かれている? 妬かれているのかな、俺。
普通、嫉妬されるのは避けるべき事態なんだろうけれど、ちょっと嬉しい。だってつまり、嫉妬するほどに好いてくれているという事だろうし、俺も嫉妬することで、桐生さんが好きだと確信したわけだし。
「ん、まぁ、確かに香奈枝とは呼んでいるけれど、昔からの付き合いってだけで、別に仲が良いわけじゃないよ。あっちなんて、伏見くんって余所余所しく呼んでいるしな」
「……昔からの付き合い」
「いや、そっちの方を重要視されても」
「でも、伏見くんが城ヶ崎さん以外の人と、話しているところを見たことをないんだもん」
少し拗ねたように見上げて来る桐生さんを可愛いとは思うけれど、流石に香奈枝と仲が良いという誤解は解いておきたい。
「……確かに香奈枝とは話すけれど、友達ってわけでもないし、そもそも俺には友達が……。自分で言っていて悲しくなった」
「……なんかごめん」
「謝らないで良いから! 謝られるともっと惨めになるから! ……んと、香奈枝の事だけれど、前に、師匠にお世話になっているって話したのは覚えているかな?」
「え? うん、まぁ」
「それで香奈枝は、その師匠の娘なんだよ。だから、師匠と同じ名字でもあるから、香奈枝を下の方の名前で呼んでいるのさ。紛らわしいからな」
「……師匠の娘さん? ……そうなんだ。……つまり城ヶ崎さんと、一つ屋根の下で住んでいるって事?」
「いや、そっち!? まぁ、そうなんだけれど、シェアハウスみたいなもんで、住んでいるのも別に俺だけでもないからな。……というか、俺と香奈枝の関係は、桐生さんが心配したり怪しんだりするような関係じゃないって」
「本当に?」
「本当だよ。そもそも、俺は香奈枝なんて好きでもないし、……お、俺が好きなのは桐生さんだけだよ」
俺は恥ずかしさを押し殺し、真剣に桐生さんの目を見てそう言うと、彼女は恥ずかしそうに頬を染めて俯く。
「……そっか。……じゃ、じゃあ、詩音って呼んで」
「え?」
「……伏見くん。城ヶ崎さんの事、香奈枝って呼んでいるでしょ? だから、あたしも下の名前で呼んでほしい。あたしも、……その、か、鴉くんって呼ぶから」
桐生さんはそう言って、ちらちらとこちらの様子を窺ってくる。もしかしたら、彼女が香奈枝に嫉妬していた理由はそこなのかもしれない。俺はずっと桐生さんと呼んでいたけれど、それは確かに、どこか余所余所しくもある。
晴れて、本当の恋人同士になったのだ。ちゃんと、恋人らしく下の名前で呼んだ方が良いだろう。
「えっと、じゃあ……」
なんだろう? 凄い照れる。
香奈枝を下の名前で呼んだところで、全然平気だって言うのに。
きっと、詩音さんと名前を呼ぶ時には、俺の中の好きだという想いも一緒に乗っかっているからかもしれない。つまり、俺が詩音さんと呼ぶという事は、好きだと言っているようなものなのだ。
恋や愛を素敵なものだと思うし、それを伝えることは大切だと、頭では理解していても、根幹的なところで気恥ずかしいと思ってしまっている。
何でだろうかと考えれば、それはたぶん、からかわれるような隙を作りたくないという自己防衛のようなものだろう。
恋とか愛とか、自分にとってはとても大切で繊細な部分だから、からかわれると結構きついと思うし。
それでも俺は、この気恥ずかしさを押し殺して、この自分の気持ちを伝える。
「……し、詩音さん。俺は、その、……君だけが好きだ。だから、心配なんて必要ないよ」
「……うん。ありがとう、か、鴉くん。……その、あ、あたしも好きだよ」
そう言って、彼女も気恥ずかしそうに笑う。その顔を見るだけで、俺の心は満たされて行くのを感じる。
好意を伝えるのはやっぱり気恥ずかしい。それでも、自分の好意を受け入れてもらえるのは、気恥ずかしさ以上に嬉しい事だ。だから俺は、どんなに気恥ずかしかろうと、俺は彼女に思いを伝え続けよう。
完全に日が暮れると、納涼祭りはどんどんと盛り上がって行く。櫓の上から大音量で音楽が流れ、人もどんどんと増えていった。そうなると、屋台も活気づき、開いていなかった屋台も開いていく。
親子で来る人。友達同士で来ている人。恋人同士や、もしかしたら、夫婦なんかも居るのかもしれない。
あたしはそんな中で、鴉くんと手を繋いで屋台を覗いて回る。屋台は食べ物系統が多くて、綿あめとかリンゴ飴とか、とても懐かしい気がした。思ってみれば、中学時代は縁日とか行ってなかったしね。
「あはは、浴衣の帯が苦しくて、あんまりたくさん食べられないや」
「とか言いつつ、めちゃくちゃ買ってない? 帯以前に、し、詩音さんは少食だって言うのに」
まだ、あたしの名前を言う時に、鴉くんは少し恥ずかしそうにする。まぁ、あたしもちょっと気恥ずかしいので、仕方ないのかもしれない。でも、やっぱり、下の名前で呼び合うのは嬉しい。
「ふふっ。一口だけ。一口だけで良いから食べたいんだもん」
焼きイカ、ジャガバタ、焼き鳥、焼きトウモロコシに屋台ならではの焼きそば。他にも色々と、普段家では食べないようなものが並んでいる。だからこそ、色々試したくなる。正に千切っては食べ、千切っては食べ。まぁ、流石に、残った物を捨てるのはダメだと思うけれど。
なのであたしは、含みのある笑みを鴉くんに向ける。
「だから、余った物は鴉くんに任せるよ」
「あ、ありがとう。って、押し付けられている気しかしないんだけど」
「大丈夫! 鴉くんは男の子だから、食べられる」
「……まぁ、良いけど、……でもこれって……」
鴉くんはそう言葉を濁らせて、焼きトウモロコシを見て、顔を少し赤くさせる。何を見ているのかと思えば、あたしの噛んだ跡だった。焼きそばとかジャガバタとかなら、違う箸を使えば良いし、綿あめとか焼きイカならそれこそ引き千切って食べていたのだけれど、トウモロコシは一粒一粒食べても美味しくないので、思い切ってそのまま噛みついていた。……つまり、鴉くんがあのトウモロコシを食べると、間接キスになるのではないか?
やばい。意識するとめちゃくちゃ恥ずい。トウモロコシだけは自分で食べきるべきかもしれない。
「まぁ、詩音さんが気にしないのなら別に良いか」
「ちょっ! 気にする。気にするよ!」
あたしは慌てて止めようとするけれど、鴉くんは逃げるように背中を向けて食べてしまう。
「……うぅ。鴉くんの変態」
「ふふん。男なんて下心満載の生き物さ。これからは迂闊な事をしないように気を付けるんだな」
そう言いつつも、鴉くんもやっておいて恥ずかしかったのか、顔が真っ赤になっている。
「……鴉くんも恥ずかしいんならやらなければ良いのに」
「まぁ、恥ずかしいけれど、できればチャンスは逃したくない。……さっきもチャンスを逃した気がするし」
「……何のチャンスなんだか」
そう言いつつも、なんとなく鴉くんの言わんとしていることはわかる気がした。
恋人同士とは、ただ話して遊ぶってだけじゃない。そんな者は友達と変わらないのだから。つまり恋人としては、その先に進んでいかなければいけない。……例えばキスとか……。でも、恋人らしい行為に憧れる気持ちはあっても、実際にやるとなると恥ずかしくて無理だと思う。今、手を繋いでいるだけでも、心臓が壊れるんじゃないかってくらいにドキドキしているわけだし、その先なんて、想像しただけで死ねる気がする。
そんな状態の中、それでも先に進んでいくのには、鴉くんの言うように、チャンスが必要なんだと思う。今ならできそうだっていう。
間接キスは恥ずかしかった。次やられても恥ずかしいだろうけれど、きっと、さっきほどではないだろう。それは少しでも、慣れてしまったからだ。そして、次に進んでいくのには、こういった慣れが必要なんだと思う。
あたしは握っている鴉くんの手に少し力を篭める。彼は不思議そうに振り返ってくるので、あたしはそんな彼に微笑みかける。
今までのデートでは、こうして恋人らしく、ちゃんと手をつないだことはなかった。
あたしたちはちょっとずつでも、恋人として、前に進めているんだと思う。
なんというか、今までの人生の中で、一番幸せかもしれない。詩音さんとのデートは本当に楽しい。バツゲームだったと明かしてくれたことで、もう、彼女の好意を疑う事もなくなった。そのおかげで、俺の中の不安な気持ちは、随分と軽くなったと思う。
それに、詩音さんと繋いだ小さく柔らかな手からは、彼女の温もりを感じる。それだけで、俺の心臓は早鐘のように鳴り響いていた。もう、死んでも良いとすら思える。
周りの人に、俺の彼女は可愛いだろうと自慢したいレベル。……まぁ、ウザい事この上ないので、やったりはしないけど。
でも、言い触らす気はなくても、好奇の視線を向けられることはあった。
「……詩音さん。クラスメイトの何人かに、見られていたことには気付いている?」
やはり学校で行われている行事だけあって、うちの高校の生徒の数も多い。俺は納涼祭りがあること自体知らなかったというのに。……こういうのって、どこで教えてもらえるんだろうか?
詩音さんも視線には気付いていたようで苦笑する。
「ん、まぁね。……物凄く奇異の視線を向けられていたし。……あはは。それだけ、あたしが鴉くんと付き合っていることが意外だったんだろうね」
「だな。詩音さんは綺麗で可愛いから、俺と違ってモテていただろうし」
「ふふん、まぁね」
「否定しないんだ!?」
「ふふっ、一応、何度か告白されたことはあるから、モテなかったと言えば嘘になるわね。因みに告白してきたのは、中学の時、人気のあった先輩とかだよ」
「……それで付き合ったりは?」
「んふふ。嫉妬した?」
意地の悪い笑みを浮かべて詩音さんが聞いて来る。あぁ、くそっ。それでも可愛いと思ってしまう自分は、もうダメなんだと思う。だから、俺は素直に答えた。
「した」
短くとも簡潔な答えに、彼女は嬉しそうに笑う。
「大丈夫だよ。前にも言ったけれど、あたしは鴉くんが初めてだから」
「……そうなんだ。……でも人気の先輩なら、何で付き合わなかったんだ? そんな人が断られて、俺が付き合えている理由がわからなくて不安になるんだけど」
「あはは、鴉くんは相変わらず自虐的だなぁ。んっと、正直、人気の先輩とかって面倒なんだよね。友達にもその先輩が好きだって言っている人も知っていたし、もしも付き合い始めたら、その友達とギクシャクするじゃん。いやぁ、鴉くんの場合、そういう心配がないから、楽で良いよねぇ」
「褒められているようで、完全にけなされているんだけど!?」
「んふふ。まぁ、あたしもその先輩が好きだったなら、それでも付き合おうとはしたと思うけれど、その時は恋愛とかあんまり興味なかったし」
「へぇ。じゃあ、今は興味があった事に感謝なのかな?」
「そういうわけでもないんだけれどね。正直、バツゲームを始めた時は、やっぱり恋愛なんてどうでもよかったよ。……でも、鴉くんとデートをするのは意外に楽しかったし、告白をしたあたしの為に、慣れないながらも真剣に、好きだって言ってくれたのも嬉しかったんだよ。……あたしはきっと、中学の時のままの鴉くんだったら、嫌いなままだった。……でも、今の鴉くんは、一生懸命にあたしの事を思ってくれている素敵な人だもん。だからあたしは、そんな鴉くんを好きになったんだよ」
そう言って、照れたように笑う詩音さんを、抱きしめたくなるほど愛おしい。こうして好きだと言ってくれる人が現れるだなんて、ちょっと前の俺には想像もできなかったことだ。
このまま一人で生きて行くのかもしれないとも思っていた俺にとって、好きだと言ってくれる人が居てくれることがどんなに嬉しいことか。……もう嬉し過ぎて、気を緩めたら泣いてしまうかもしれない。
「ありがとう。……俺も好きだよ」
俺がそう言うと、詩音さんは嬉しそうに笑ってくれる。
本当に幸せだと思った。
魔法使いの恋は、苦難と共にある的な事を香奈枝が言っていた。この先、自分が魔法使いだと明かす時、一悶着あるのかもしれない。それでも、この幸せな時間があれば、乗り越えられる気がする。
まだ、納涼祭りは続いている。
普段の自分からは考えられないけれど、何なら、盆踊りに参加してみるのも良いかもしれない。詩音さんと一緒ならば、慣れないことだって……。
そう思って周囲を見回した時、詩音さんの後ろの屋台に、歪みを見つけてしまった。
ただの歪みならばそのまま無視をして、誰も居なくなった時に正せばいい。もしくは勝手に消えるのを待てばいい。けれど俺は、その歪みが今まさに引き起こそうとしていることが見えてしまった。
歪みを見ると、何を起こそうとしているのか、見えることが偶にあるのだ。
それは、運が良かったのかもしれない。
いや、実際は不運だっただろう。歪みが引き起こそうとしていることは、正に最悪の出来事だったのだから。
それでも運が良かったのは引き起こる前に気付けたこと。
正に、不幸中の幸い。
俺は詩音さんを抱きしめる。
「えっ!? な、何、いきなり」
いきなり抱きしめられたので、詩音さんは戸惑っている。けれど、気にしてはいられない。説明しようにも、説明する時間だってない。
歪みが災厄を引き起こす。
屋台のガスボンベに取りついた歪みは、大爆発を引き起こした。
詩音さんはその音に、小さな悲鳴を上げる。
容赦なく広がる炎と壊れた屋台の破片。
ただガスボンベが爆発しただけで、これほどの炎を放つのかはわからない。もしかしたら歪みが、その爆発を増幅しているのかもしれない。ただ間違いないのは、この爆発は死を巻き散らしているという事だ。
炎は屋台で仕事をしていた人を焼き、近くに居た俺たちにまで向かってくる。
俺はそちらに背中を向けて、抱きしめた詩音さんを庇う。
向かってくる炎は強烈で、炎に巻き込まれれば重度の火傷を負い、死に至る可能性が高い。それだけじゃなく、爆発によって飛んでくる屋台の破片にしたって、十分に凶器だ。
逃げることは不可能。でも、どんなことをしても詩音さんを守らなければ。
俺はそう思って、必死に念じる。
歪め歪め歪め歪め歪め歪め歪め、歪めぇ!
今できることは、魔法を使って歪めることだ。
襲い掛かる炎や熱、そして飛んでくる破片。それらが当たらないように、確率を歪め、現象を歪め、全てを歪める。
背中に痛みが走った。
俺の魔法は荒く、完璧とは程遠い。熱も感じるし、破片もいくつか当たっている気がする。今までにないほどの痛みに、泣き叫びたくもなるし、意識だって遠くなりかける。でも、諦めるわけにはいかない。
自分がどんなに傷付こうと、詩音さんだけは救いたい。だから俺は、必死で魔法を放ち続けた。
とても長く感じたけれど、時間にしたらあっという間の出来事だったのかもしれない。爆発が治まった時、周りはとても、酷い惨状になっていた。
至る所が延焼しており、周囲には倒れた人や泣きわめいている者がいた。倒れた人の中には、亡くなっている人も居るのかもしれない。
魔法使いとして、人とは違う経験をしているとは思うけれど、こんな状況は初めてだ。正直、あまりの惨状に、どうすれば良いのかわからない。
遠くから駆け付けた人たちが必死で消火活動をして、倒れた人や怪我人たちを避難させている。俺はそれを見て、詩音さんを抱きかかえ、この場から避難することを思い付く。ひょっとしたら延焼によって、他の屋台がまた爆発するかもしれない。爆発が治まったとはいえ、ここはまだ、安全じゃないんだ。
幸い、抱きかかえた詩音さんも、恐怖に震えていたが、足は動かしてくれている。少なくとも、彼女は無事だということだ。その事に安堵する。
……けれど、何故だか彼女の体が妙に冷たい気がした。見れば、白い息も吐いている。まるで、真冬のように。しかし、今の季節は夏であり、そんなことはあり得ない。
けれど、彼女だけが違う季節に居るようだ。
俺は詩音さんのその様子に愕然とし、絶望に近い気持ちになる。
あり得ないことを起こす力。それが魔法であり、歪みである。
どんなに確かめ直しても疑いようもなく、詩音さんの体は今、はっきりと強く、歪んでいた。