バツゲーム
「……あ、あたし。伏見くんのことが好きなの。……その、……付き合ってくれないかな?」
誰も寄り付かない校舎裏に呼び出され、何事かと思えば、人生初の告白をされた。
相手は桐生詩音さん。人の好みにもよるかもしれないけれど、俺としては、クラスで一番綺麗な人だと思う。ファッションとかに疎い俺にはよくわからないけれど、彼女はオシャレには気を遣っているのだろう。派手すぎない程度に髪を染め、薄く化粧もしている。それが自然な感じでとても似合っていた。
きっと彼女にしても、自分が綺麗だという自覚はあるのだと思う。それだけの努力もしてきているはずだ。だからこそ、俺はわからない。何で俺なんかに告白をしてきたのかが。
正直、俺なんかより見た目の良い奴はいくらでもいる。先程も述べた通り、俺はファッションに疎いので、特に努力らしい努力もしていない。そして、性格だって俺は決して良いわけでもない。
高校一年になって既に一学期も終わろうとしている中で、誰がどのような人物かは、大体わかってくるものだ。特にこの桐生さんは中学から同じ学校に通っていたので、俺のこともだいたい把握しているだろう。それこそ俺が、どれだけ社会生活に馴染まない人間かだって、嫌と言うほど知っているはずなのだ。
中学時代の俺は、クラスの誰からもとても嫌悪されていた。それは、同じクラスであった桐生さんにしても変わらないと思う。
なのに、今は何故か告白されている。
この告白には何か、裏があるのかもしれない。
例えば、俺がここで頷けば、「はぁ? 何冗談を真に受けてんの、キモイんだけど。それとも、あたしに告白される自信があるくらい自分はカッコいいとでも、実は思っちゃっているわけ? うっわ。マジでひくわぁー」とでも、馬鹿にしてくるのかもしれない。
しかしもしも断ろうものならば、彼女のプライドは深く傷つくことになるだろう。そうしたら、もっと酷い嫌がらせをしてくるかもしれない。
なにこれ? 二つとも地獄なんだけれども? でも、第三の選択肢も思い浮かばない時点で詰んでいる。
俺は世の中の理不尽さを噛みしめながら、ここは頷くべきだろうと思う。頷けば赤っ恥をかくだけで済むのだ。しばらくからかわれ続けるかもしれないけれど、事前にそのことをわかっていれば、たいした恥でもない。
「えっと、ありがとうな。その、……よろしくお願いします」
なんて言って良いのかわからず、なんというか、無難な言葉になってしまった。さぁ、どんな風に馬鹿にしてくるんだろうかと桐生さんを見つめると、何故か彼女は意外そうな顔をした。
上手く行くとは思っていなかったということだろうか? 彼女の反応はそうとしか思えないものだった。
ならば、何で告白を?
「あ、あの。ありがとう。……う、嬉しいよ」
そう言って微笑もうとする桐生さんの表情はどこかぎこちない。告白したことで緊張しているとも考えられはするけれど、言葉通り喜んでいるようには見えない。
やっぱり、何か裏がありそうだ。でも、告白した直後にからかわれないというのなら、何の裏だろうか?
……美人局かな?
なんか、女好きの知り合いに、そういう詐欺があるから気を付けろと言われたことがある。女の方から誘惑してきて、いざホテルへと行くと怖い男の人が乱入。「よくも俺の女に手を出したな」と言って、お金を脅し取ってくるんだとか。
もしかして俺は、今まさに、その詐欺を目の当たりにしていたりするのだろうか? ならば、ホテルに連れて行かれそうになったら警戒しておこう。
というか、まだ十五才だっていうのに、何で美人局の警戒なんてしなければいけないのだろう。普通、高校生なんだから、もう少し健全な付き合いを想像するべきだろう。
性欲がつがつの思春期か!
……ああ、思春期だった。
一人でいることに慣れ過ぎた俺は、頭の中でボケとツッコミを行う事に慣れ過ぎていた。なんて、悲しい人。
「……というか、付き合うって何するんだ?」
友達と遊ぶにしても、どう遊んでいいものかわからないボッチとしては、恋人とどうやって過ごすかなんて想像もできない。
「え? それは一緒に登下校とか、休日にデートとかじゃないかな? あとは、夜に電話でおしゃべりとかかな?」
何それ、面倒くさい。
一緒に登下校ということは、今までのように授業が終わった後、自由に行動することが出来なくなるということだ。そして休日のデートなんて、行先はきっと男だからという理由で、俺に決めさせられるのかもしれない。そして、文句を言われるのだろう。俺が女子の行きたがるような場所なんて知るわけもないし。更に、夜の電話とか何を話せと?
付き合うのは無しの方向で。
思わず口にしそうになった言葉を、なんとか飲み込む。
もしもこれが俺をからかうための告白だったのなら、そう口にしても良いとは思うのだけれど、万が一、本気の告白だった場合、桐生さんを深く傷付けてしまうことだろう。
俺は正直、自分が傷付けられるのはどうでも良い……とは言わないけれど、我慢はできる。相手が一線を越えるようなことをしてこなければ、甘んじて受け入れよう。
自分の行いが、皆を不快にさせていることはわかっている。
人付き合いを避けてきた俺が悪い。
そう思っているからこそ、少しくらい殴られても仕方ないとも思っていて、我慢もできる。まぁ、残念には思うけれど。
でも、自分から人を傷つけたいとは思わない。
自分は今まで傷付けることで生きてきた。そしてこれからも、傷付けていくことだろう。
だからこそ、傷付けたくないと思って孤立することを選んできたのだ。なのにわざわざ、自分から傷付けることを選びたくはない。
世の中は理不尽なことが多く、時にどうしても傷付けなければいけないこともある。でも、それは最後の手段だ。傷付けないで良い方法を、探して探して探しつくした後に、それでも見つからなかった時に、仕方なく行うことだ。
桐生さんの事情がわからない今、どうするのが正解かもわからない。傷付けるかもしれないと思って別れるか、それとも、もう少し様子を見るべきか。最終的に傷つけるのだとしても、少しでも彼女に残る傷を、小さいものにしたい。
正直、面倒なことに巻き込まれてしまった感が半端ではない。
付き合うと言ってしまった自分自身を、少しだけ恨めしく思う。これならば、最初から好きな人がいるんだとでも言って、誤魔化せば良かったのだ。それで桐生さんを傷付けてしまう可能性もあったけれど、少なくとも、今のような面倒さはなかった。それに、もしも本気だったとしたら、不誠実な交際ほど、彼女に対して失礼なものもないだろう。
どうすれば良いのだろうか?
俺が迷っていると、おずおずとした態度で桐生さんが言ってくる。
「……じゃあ、えっと、とりあえず、携帯アドレスの交換でもしよっか」
「……ん、ああ」
言われるがまま、俺はアドレスを交換する。同級生のアドレスは、彼女が初めてとなった。
「あはは」
突然、桐生さんが笑った。もしかして、俺のアドレスが目的の告白劇だったのだろうか?
個人情報の悪用とか。もしかしたら、アドレスを得ただけで、色々できるのかもしれない。携帯に詳しくないから、よく知らないけれど。
でも、それならばすぐに携帯を変えるだけだ。俺の知っているアドレスの人数は少ないし、普段あまり使わないので、携帯の情報を失ってもたいして困りもしない。
笑う桐生さんを見ていると、彼女は笑いながら謝ってくる。
「ごめんごめん。……ただ、友達のいない伏見くんがスマホとか持ってて、意味あるのかなって思ったら、笑えちゃって」
酷いことを言われた気がする。
「……調べものに便利だ」
「あはは、そっか。そうだね。……伏見は、どういうこと調べてるの?」
興味津々といった様子で尋ねてくる。
それは好意からの興味か、それとも、好意があるふりをしているのか俺にはわからなかった。
偶に女の人の中には、持ち前の人懐っこさからか、特に興味もないというのに優しく接してくれる人がいる。馬鹿な男はそれだけで、彼女が自分に好意を持っているから優しくしてくれているんだ、と誤解するらしい。
女好きの知り合いは、そんな女性を、「魔性の女さ」と言って苦笑していたものだ。
正直、俺は桐生さんも、その部類の人間だと思っている。
一応、彼女とは中学時代からの知り合いだ。桐生さんの綺麗で可愛らしい容姿と人懐っこい優しさに、好きになる男子生徒が本当に多かったことは傍目で見ていてもわかったほどだ。友達がいないので、全て、盗み聞いた情報だけれどね。
やはり、彼女の真意は俺には見通せない。
「……まぁ、ニュースとかは見るよ。暇つぶしに」
「真面目か! ふふ、あははは」
別にボケたつもりはなかったのだけれど、何故かツッコミをいれられた。この場面だけ見れば、俺らはもしかしたら、仲良さそうに見えるんだろうか?
桐生さんの本心がわからないので、俺はどうしていいのかわからず、ただただ困惑しているだけだけれども。
「あ、……そのさ」
少し、桐生さんは言い難そうな顔をする。
「ん?」
「えっとさ。……そ、その、一緒に登下校とかさっき言ったけれど、できれば学校では、あたしたちが付き合っていることを内緒にして欲しいかなって。だから、その、……あたしの勝手で悪いんだけれど……」
「ああ、そうだな。わかった。内緒で良いよ」
俺は彼女の言葉をあっさり受け入れる。
今日、桐生さんが投げかけてきた言葉の中で、今の言葉だけはちゃんと気持ちの理解できるものだった。つまり、俺と仲が良いことを、クラスの奴に知られたくないってことだ。
俺はクラスで孤立している。きっと、スクールカーストと呼ばれるクラス内の序列では、下位に部類すると思う。もう、アレだね。俺より下が見当たらないレベル。
そんな俺と付き合っていると知られるのは、きっと上位に位置するであろう桐生さんにとって、都合の悪いだろうことは理解できる。彼女のクラスでの立場だって揺らいでしまうのかもしれない。
でも、やっぱりわからないのは、そんなリスクを背負ってまで、何で俺と付き合おうとしたかだ。
「……桐生さんは本当に、俺のことが好きなの?」
俺は今更ながらに、確認してみる。
「ん? 信じられない?」
桐生さんは微笑みながら可愛らしく小首を傾げてくる。
きっと普通の男なら、それだけで彼女の虜にでもなっていただろう。かくいう俺も、不覚にもときめきそうになっていた。とりあえず、誤魔化すように咳払いをする。
「……ま、まぁね」
「まぁ、あんな中学時代があったからね。信じてもらえないのは仕方ないと思う。……うん。……でも、あたしは伏見のことが好きだよ」
そう言って、照れたように笑う桐生さん。その顔はたまらなく可愛い。
「……そう」
彼女の言葉が本当だったら、どんなに良いだろうか。……でもやはり、過去の中学時代の思い出があるからこそ、信じきれない。
俺はあの頃から、たいして変わらない。積極的に人を避けることは無くなったけれど、やはり関わろうともしていない。変わったことと言えば、少し、体が成長したことくらいだろう。どんなに考え込んでも、桐生さんが俺を好きになる理由が思い浮かばなかった。
あたしは、日が傾き始めた教室に戻ると、友達の真奈と綾ちゃんが待っていた。
「どうだった? 伏見への告白は?」
とても綺麗なのに化粧の仕方の性で少し性格がきつめに見える真奈が、子供っぽくニヤニヤした顔で聞いてくる。その笑い方はきつさが取れるので、いつもは可愛いと思えるのだけれど、今は腹立たしさしか浮かばない。
「確かぁ、シオちゃんは上手くいくわけない、って言ってたよねぇ」
ナチュラルメイクをバッチリ決め、清楚なお嬢様然とした綾ちゃんが、語尾を伸ばす甘ったるいあざとさを持った口調で言った。
「……うん。フラれると思ってたんだけど、上手く行っちゃったよ。残念ながら」
「まぁ、だろうね。シオは綺麗で可愛いんだから、男なら誰だって付き合いてぇって、思うっつぅの」
「そうだねぇ。例え昔、嫌な思い出があっても、男の子なんて結局、可愛い子に弱いもん」
「……そう、なのかな?」
あたしは自信なく、首を傾げる。先程、告白した時の伏見の顔を思い出してみる。その顔は、いつもと変わらないものに見えた。
何を考えているのか良くわからない、表情の薄いぼんやり顔。
あたしに告白されて、喜んでいるようには全く見えない。むしろ、あたしが何を考えているのか、疑っているんじゃないかな?
「じゃあぁ。シオちゃんのバツゲームは継続だねぇ」
「……やっぱり続けるの?」
あたしが嫌そうな顔をすると、真奈がニヤリと笑う。
「やるって言ったのは、シオだろ? なら、最後までやり遂げなきゃな」
「そうだよぉ。まぁ、誤魔化すのとかは、私たちも協力するしねぇ」
二人の言葉に、あたしは思わずため息をついてしまう。何であんな約束してしまったんだろう?
過去の自分を殴りたい。
誤算は、伏見くんにフラれなかったこと。フラれてしまえばそこで終わりのはずだったのに。このバツゲームは。
あたしは、今の状況になったそもそもの状況を思い出す。
あれは学期末の定期テストが始まる前のこと、あたしの家で、三人で勉強をしていた時のことだ。
あたしの家は、住宅街にあるごく普通の二階建ての一軒家。正直、自分の家がコンクリート造りなのか、木造なのかは知らない。猫の額ほどの小さな庭もある。ガーデニング好きの母が色々な花を植えていて、小さな植物園と化している。正直、花の匂いがあんまり好きではないあたしは、あまり近づきたくない場所でもあったりする。……遠くに見ている分には、綺麗だとは思うのだけれど……。
あたしは二階にある自分の部屋に真奈と綾ちゃんを迎え入れ、差し迫る定期テストに向けて勉強をしていた。流石に、一年の一学期から、酷い成績を取るわけにはいかないという思いがあった。部屋の真ん中に置いてある丸テーブルに教科書とノートを広げて、あたしたちは頑張って勉強をする。
けれど、真奈はすぐに集中力を切らしてしまう。
「うっあ。学期末の定期テストとか、マジで怠いし」
カーペットの上に寝転がり、座布団代わりにしていたクッションを、投げて遊びだす真奈。遊びと言っても、彼女は別にクッションを投げることが楽しいわけではなく、まぁ、完全に現実逃避なんだと思う。
「真奈は集中力がないよねぇ」
綾ちゃんが苦笑しながら言った。
「だって、つまんないじゃん」
「まぁね。勉強が楽しいなんて言う人、あんまりいないでしょ」
あたしがそう言うと、真奈は大真面目に頷いた。
「まったくだよ。勉強が好きとか言っている奴は、変態だな、変態!」
「変態は言い過ぎだよぉ。真奈だって、受験勉強はすごい頑張ってたじゃない」
「それはまぁ、綾乃と一緒の高校に行きたかったからな。ウチって、目標がちゃんとあれば、頑張れるタイプ」
真奈は自慢げに胸を張って答える。
彼女と綾ちゃんは、あたしとは違い、中学からの親友同士だった。二人は見た感じのタイプとしては、全くと言っていいほど違うのだけれど、何故か気が合っている。かくいうあたしも、高校に上がってからの僅かな付き合いだというのに、昔からの親友のように感じた。
二人は気さくで、周りに流されない自分だけの意思をしっかり持っている。それでも、良い意味で面倒臭がりで、あまり自分の意見を押し付けても来ない。
だから二人は、女子にありがちな連帯感を強要してもこないので、二人と一緒にいると、気を遣う必要もなくて楽だと思う。こういう疲れない関係を築ける人は、とても貴重だと思う。
真奈にしても、そんな関係を無くしたくはなかったのだろう。綾ちゃんと同じ中学に行くために頑張ったんだと思う。
綾ちゃんは頭が良いので、真奈は相当無理したのだろう。かくいうあたしも、高校に入るために勉強を頑張って、かなりギリギリだったわけだし。
「じゃあぁ、こういうのはどうかなぁ? 定期テストの総合点で、一番下だった人がバツゲームっていうのはぁ」
「そんなの、綾ちゃんが一番有利だよ」
あたしは思わず苦笑してしまう。
完全に勝ちに来た賭け事を吹っかけてくる綾ちゃん。一番、大人しい女の子らしいのに、彼女が一番強かだと思う。
「だが乗った!」
「乗るんだ!?」
あたしは驚きに目を見張る。この中で一番テストが危ないはずの真奈が、まさかこんな負け戦に乗るとは思わなかった。
「じゃあぁ、バツゲームは何にしようかぁ」
「うっわ。本当にその賭けやるんだ」
「もちろんシオちゃんもだよぉ」
「……まぁ、真奈に勝てば良いわけだし」
「負けないし!」
やる気になっている真奈。でも、きっとすぐに飽きることだろう。
「わかったよ。それで、バツゲームは何にするの?」
「そうねぇ。好きな人に告白っていうのはどうかしらぁ」
「……いないんだけれど」
「本当にぃ?」
綾ちゃんは笑顔を浮かべながら、まるであたしの心を見透かすように見つめてくる。でも残念ながら、本当に好きな人はいない。中学時代の頃の友達とかは、恋人が欲しいとか言っていたりしたけれど、あたしは正直、どちらでもいいと言った気分だったし。
友達と遊んでいるだけで十分楽しいし、逆に恋人でもできようものならば、友人関係が壊れてしまう気もするので、積極的に作りたいとも思えない。……まぁ、そう考えてしまうのは、今、特に好きな人もいないというのもあるのだとは思う。
「シオは伏見で良いんじゃね?」
「なんで、伏見!」
「だって、中学一緒なんでしょ? つぅかウチ、あいつがどんな声をしてんのか知らないんだけど。あはは、ウケる」
「ふふ、友達いないよねぇ、あの人。……あっ、でも私、城ヶ崎さんと仲良さそうに話しているのはぁ、見たことあるなぁ」
綾ちゃんの言葉に、私は城ヶ崎さんの顔を思い浮かべる。
城ヶ崎香奈枝。違うクラスではあるけれど、同じ中学出身なのですぐに思い出せる。というか、結構特徴的なのだ。
背は低いし、顔は幼いし、城ヶ崎さんは優等生な感じの可愛い子だ。
少し綾ちゃんとキャラが被っている気もする。見た目とは裏腹に、とても大人っぽく落ち着いていて、誰にでも丁寧な子でもある。そして、とんでもなく頭も良い。
クラスの違う真奈と綾ちゃんが、城ヶ崎さんの顔を覚えていたのは、彼女が入学式で、入試主席としての挨拶をしていたのと、生徒会の選挙にも出ていたからだろう。
「へぇ、城ヶ崎と? そりゃ意外な組み合わせ。付き合ってんの? あの二人」
「さぁ? どうだったのぉ? 確か城ヶ崎さんもシオちゃんと同じ学校だったよねぇ?」
「……付き合っているかはわからないけれど、……伏見に話しかけていたのは、唯一、城ヶ崎さんだけだった気がする」
「はは。唯一って、やっぱ伏見って孤立してたんだ」
「あいつは中学の時からあんなんだったよ。誰とも仲良くなろうとしないし、クラス活動だって協調性ないし。クラス全員、あいつの事を嫌っていたの」
「へぇ。シオも嫌ってたん?」
真奈が面白がって聞いてくる。正直あたしとしては、あのぎすぎすした中学時代は、あんまり思い出したいものではない。自然と私の顔は苦々しいものになっていく。
「……まぁね」
「ふぅん。ウチは伏見の事、嫌いじゃないよ」
「そうなの?」
「まぁ。好きでもないけどね。正直、伏見なんてどうでも良い」
「それって、一番酷くない!? 好きの反対は嫌いじゃなくて無関心って言うよ」
「でもぉ、伏見君自身が、誰からも無関心であることを望んでいるように見えるよねぇ。私としてはちょっと興味あるかなぁ。どうしてそこまで、一人でいようとしているのかってねぇ」
「……それは伏見が変人だからだよ」
「それでも理由はあるものだと思うけれどねぇ」
「……理由ね」
今まで、そんな事考えたこともなかった。中学の頃のあたしたちにとって、伏見は何を考えているかわからない不気味な奴だった。例えるのなら宇宙人のように、自分たちとは全く違う存在であり、わかり合えることなんて、絶対にできないのだと思っていた。
でも、想像もつかないけれど、伏見には伏見なりの理由があったのかもしれない。孤独であろうとした理由が……。
「じゃあ、シオは負けたら伏見に告白ね」
「本当にそれなの!? ……まぁ、孤独好きの伏見の事だから、告白したところで絶対にフラれると思うし、別に良いけどね」
「じゃあぁ、もしも上手くいっちゃったら、一か月間付き合っちゃおうかぁ。そうすれば、伏見君が、どんなことを考えているか、わかるかもよぉ」
「……一カ月ね。わかったわ」
あたしは定期テストで、真奈に負けるわけがないと高を括っていたし、もしも告白したところで、フラれてすぐにそのバツゲームも終わると思っていた。
けれど、バツゲームを賭けてやる気になった真奈の集中力はとてもすごかった。
結局私は負けて、現在に至る。
更には何故か、告白の方はフラれることなく、上手くいってしまった。……これから一カ月、果たしてどうなるのだろう?
想像しただけで、途方に暮れたような気分になる。
俺は町の中にひっそりと建つ洋館に住んでいる。正直なところ、赤レンガ造りの三階建てというかなりの大きさを持つこの建物は、周りがビルやマンションに囲まれていることもあって、悪目立ちをしていると言える。けれど、道行く人々はこの洋館を気にも留めない。まるで、見えていないように。
……いや、実際に彼らは見えていないのだ。
この洋館には魔法使いが住んでおり、洋館の周囲に張られた結界の魔法により、人の目には限りなく認識されなくなっている。つまり、そこに住まう俺もまた、魔法使いなのだ……と言えれば良かったのだけれど、残念ながら、俺はまだ、弟子でしかない。
言うなれば魔法使いの卵。才能はあるけれど、それを上手く制御できない傍迷惑な半端者。それが俺だ。だから俺は、魔法を完璧に制御できるようになる為、この洋館の魔法使いの弟子になったのだ。
俺たちの使う魔法は、確率を歪め、現象を歪め、そして運命すらも歪めてしまう。それはとても危険な事だ。
例えばこの屋敷に張られた人避けの結界は、確率を歪めたものだ。例えこの洋館が目立つ外観をしていたところで、通りかかる人が何か他の事に集中していれば、この洋館の存在を見落とす事だろう。つまり、洋館に気付かないという確率もあるという事だ。そして、この人避けの魔法は、見落とすという確率を歪め、通りがかる全ての人に見落とさせている。
このように、確率を歪めている程度ならばまだ良い。けれど現象や運命を歪めてしまうと、それは下手をすれば、その人の人生を台無しにしかねない。
運命を変えるという事は、その人の過去まで変えるという事だ。それが良い方向に転ぶのならばまだ良い。けれど、悪い方向に転べば、その人の存在自体を消しかねない。更に運命は、世界の根幹に根差している為、優れた魔法使いでも、望んだように歪めるのは難しい。
けれど、人の運命を歪めるなんてことは、基本的にはほとんど起こりえない事ではある。制御が高度であるが故に、普通の魔法程度では、そんなことはできもしない。だから、歪みで最も恐ろしいのは、現象を歪めることだ。例えば、炎が光を放つ現象が歪められ、むしろ、闇を放つように歪んでしまえばどうだろうか? 炎が燃えれば燃えるほど、周囲は暗くなり、それが火事にでもなれば、逃げ場を完全に失うだろう。
でも、そんなのはまだマシで、現象を歪ませることで本当に恐ろしいのは、生き物までも歪めてしまうという事だ。もしも人の発揮する力を歪めてしまえば、冗談半分で叩いただけで、相手を殺してしまうような怪力になってしまうかもしれない。もしくは、自分の足で立っていられないほどの貧弱になってしまうかもしれない。
現象の歪みは、そういった危険な事態を引き起こす上に、運命を歪めるよりも遥かに容易く歪ませることができてしまう。その中で、歪みを上手く制御のできなかった俺は、望む望まない関係なく、周囲を歪めてしまう可能性が常にあった。だから俺は、人を避けていた。
それが、あの中学時代だ。
もしも誰かを大切に思い、けれど、自分の魔法が制御できず、その人を不幸にしてしまったらと思うと、怖くて仕方がなかった。だから、俺は皆に嫌われるような態度を取り続けていたのだ。
とはいえ、それも昔の事。俺も修行し、成長している。
使おうとした魔法を暴走させてしまう事はあっても、無意識に魔法を発生させる事はほとんど無くなった。なのでもう、魔法さえ使わなければ、歪みを不用意に発散し、人を歪ませてしまう心配もない。つまり、人を避ける必要はなくなったと言える。
これからは、嫌われるような態度を取らずに済む。
そう思って臨んだ高校生活。けれど、俺の周りは特に変わらなかった。
長年、人を避け続けるようなことばかりしていたので、どうやって知らない人に関われば良いのかわからなくなっていた。一人でいることに慣れてしまっていたので、積極的にどうにかしようとも思わなかったのも問題なのだろう。
このまま、残りの高校生活も一人のままで終わるのかもしれない。
俺は始まったばかりの高校生活で、早くも諦め、そう思っていたくらいだ。
なのに今日から、桐生さんと付き合う事になってしまった。友達よりも早く恋人ができるっておかしいだろ!
もう、嬉しいという以前に、当惑しか生まれない。普通に考えれば裏もありそうだし。……それに付き合うって、何をすればいいのかもよくわからん。
本当なら、付き合い始めたことにワクワクしたりドキドキしたりするのかもしれない。良い意味で。
けれど正直、今の俺にはドキドキしかない。しかも悪い意味で。
不安で気持ちが既に折れそうだ。
やっべ。マジでなかったことにしたい。
とりあえず洋館の中には、俺以外にも弟子はいる。その中には恋愛に慣れている奴だっていた。弟子同士だからと言ってそんなに仲が良いわけではない。けれどここは恥を忍んで聞いてみるべきかもしれない。
付き合うってどうするのかを。
……恋愛ゲームなら選択肢があって楽なんだけれどな。やることが正に決まっている。……まぁ、好感度が下がる選択もあるけれど、悩みが少ない分、やっぱり楽で良いと思う。マジで、ゲームの世界が羨ましくて仕方ない。出てこい、選択肢。……って、出るわけないか。
そんなことを考えながら洋館の中に入ると、丁度彼女も帰った所なのか、城ヶ崎香奈枝が居た。彼女は帰って来た俺を見て、少し驚いたような顔をした後、意地悪く微笑む。
「あら、伏見くん。珍しく遅いお帰りですね。何か用事でもあったのですか? お友達もいないというのに」
「うっせ」
俺はうんざりとした気持ちでそうとだけ答え、彼女の横を通って自室へと向かう。香奈枝は俺と同じ魔法使いの弟子という立場にある。人当たりが良く、学校では優等生として知られているけれど、慣れた人間にはこうして皮肉を見せてくる。それを、好意を向けられるようになったと喜ぶ奴も居るけれど、俺はそんな気にはなれない。
図星なだけあって、普通にむかつくし。
香奈枝のような奴の事を、なんというのだろうか? ツンデレの逆だからデレツン?
キャッチコピーは、あなたにだけ見せる悪意。
ドMにしか需要が無さそうだ。じゃあ、Mの俺なら問題ない……って、誰がMだ。たぶん俺はS寄りだと思う。
二階の自分の部屋に戻ると征服から私服へと着替える。とはいえ、おしゃれに気を遣っているような人間でもないので、Tシャツにスウェットのズボンという完全に動きやすさ重視のラフな恰好だ。冬場ならシャツが長袖になったり、スウェットの上着が追加されるくらいの変化があるくらい。
そもそも、俺は外出用の服だってほとんどない。友達と出歩く用事なんてないし、どうしても外出が必要な時は、制服さえ着ていれば何の問題もない。
……でも、俺はあることに思い至る。
「デートするとなると、それじゃ駄目なんじゃね?」
とはいえ、おしゃれな服を用意しろ言われても、どうしていいのかもわからない。同じ世代の人と話さないあまりに、パンツをズボン、デニムをジーパン、レギンスをスパッツと昔の言い方をしてしまうレベル。
……ごめん桐生さん。俺は立派な彼氏になる自信がないよ。
やっぱり付き合うのはやめるとか、そういうメールは来ていないかな?
そんな期待をしてスマホを見るけれど、今まで広告メールくらいでしか振るえたことのない俺のスマホは、結局振動することなくそのままだったようだ。このままでは、俺のスマホは自主的にマナーモード状態。というかもう、マナーモードの必要性すら怪しい。
とりあえず、いつもなら夜に行う魔法訓練まで、ゲームや漫画、小説やテレビを見ながら時間を潰すのだけれど、今日は仕方なく、一階の共有フロアへと向かう。
一階の共有フロアは食堂にもなっていてかなり広い。六人掛けの長テーブルが四つあり、奥には、皆が見えるようにと大きなテレビが置いてある。目的の人物、鹿島雄大さんはその共有フロアに居た。良く出かけることも多いが、今日は幸いにして出かけていないようだ。彼は家にいる時、寝る時以外はいつも共有フロアに居る。人好きで、共有フロアにやって来た人に話しかけては、暇つぶしをしているのだ。
鹿島さんは二十五歳で、世間的には大学を卒業した後のフリーターだ。とはいえ、魔法使いとしての仕事もあるので、ただのフリーターよりもちゃんと安定してはいるだろう。
魔法使いはしっかりしていれば、かなり儲かる仕事でもある。
魔法使いの世界には、魔法協会というものが存在し、そこで出された依頼をこなせば、少なくない給金を貰える。俺も夜の訓練のついでに依頼をこなし、学費をそこから払っているような状態。高校生でそれだけのお金を稼げる仕事は中々ないだろう。
その給金を出している魔法協会が、どのようにして資金を得ているかはわからないけれど、確率や現象、運命までをも歪めるその力は、使い方によって、常識ではどうすることもできないようなことですら、解決できてしまうかもしれないものだ。
だから、魔法使いの存在を知る者の中には、どんなにお金を払っても、その恩恵を受けたいという者も居るのだろう。
少し話は脱線したが、鹿島さんはもう既に独立しても良いくらいの実力は持っているので、俺なんかとは違い、高度な仕事だってこなせる実力がある。世間一般的にはフリーターではあっても、魔法使いとしての稼ぎは良く、かなり羽振りの良い生活をしているのだ。
鹿島さんはいわゆるイケメンでもあり、恋愛経験も豊富。それだけじゃなく、良く遊び歩いていて、様々な経験に富んでいた。美人局の話を教えてくれたのもこの人だし。
つまり、俺の恋愛に関する相談にだって、しっかりと答えてくれるはずだ。というか、こういう時くらい、俺の役に立ってほしい。
「よぉ、鴉じゃん。どうした? 飯はまだだぜ」
俺が来たことに気付いた鹿島さんが、意外そうな顔をして声を掛けてくる。飯時以外顔を出さない俺が、ここに来たのが珍しかったのだろう。
「……いえ……その、鹿島さんに聞きたいことがあって」
「お? なんだなんだ? 鴉が聞いて来るなんて珍しいな。俺に答えられることなら、何でも教えてやるよ。ちなみに、今日の香奈枝の下着の色は青と白の水玉だぜ」
「……なんで知っているんスか」
「そいつは秘密だ」
そう言って、鹿島さんは意味深な笑みを浮かべる。そんな彼に、俺は醒めた目を向けてやる。
「知ってます? 高校生に手を出したら犯罪ッスよ」
「あはは。そいつはまずいなぁ。……ふふ、まぁ、冗談さ。香奈枝に手を出したら、犯罪以前にまず、先生に殺されるからな」
「まぁ、そうッスね」
香奈枝は俺たちの師匠の娘なのだ。師匠は魔法訓練の時は平等に扱うけれど、普段は娘である香奈枝を溺愛している。なので軽い気持ちで香奈枝に手を出せば、師匠に殺されることは間違いないだろう。
「ネタばらしをするなら、今日の朝、持っていく着替えが見えたのさ」
「……無防備過ぎるだろ」
俺は呆れてため息を吐く。
この家のお風呂は、男女で別れているけれど共用だ。なので自室から着替えを持って風呂場まで行かなければならない。鹿島さんはその時を目撃したのだろう。普通の女子ならば、下着とかは隠して持っていきそうなものだけれど、香奈枝にとっては生まれ育った家なので、油断しているのかもしれない。
「それで? 鴉の聞きたいことって、香奈枝の下着の色で良かったのか?」
「そんなの、元から興味ないッス」
素っ気なく言うと、鹿島さんはニヤニヤと笑う。
「それはいかん。いかんぞ、鴉。健全な男子たるもの、可愛い女の子の下着にくらいは興味を持たなくちゃな。お前は草食系か? そんなの気取ってたら、いつまで経っても彼女なんてできないぞ。アニメやマンガみたいに、何もしていないのにモテるなんてほとんどないからな。モテキなんて幻想だぜ。モテキなんてものは、本当にモテる奴にしか来ないものさ」
「……いや、そんなのもどうでも良いッス。……いや、どうでも良いわけじゃないのかな? ……あの、鹿島さんに聞きたいことはその、彼女って、できたら何をすればいいんスか?」
「ん? 付き合う方法じゃなくて、付き合ったら、なのか?」
「……その、……今日、……告白されたんスよ」
言っててとても気恥ずかしく感じた。
何でだろうか? 普通、恋人ができたってことは、男としては本来、自慢できることのはず。なのに、気恥ずかしくて自信が持てない。……あぁ、そうか。自信が持てないのだ。付き合っていると言いつつ、自分でも実感が湧かないから。
「告白された!? したんじゃなくてされたのか!?」
「……なんでそんなに驚くんスか。……いや、……まぁ、理由はわかるんで言わなくて良いッスけどね。……それに告白されたと言っても、なんか裏とかありそうですしね」
「でも、告白されたんだろ? それならこっちのもんだぜ。毎日電話して愛を確かめ合い、暇があればデートに誘って愛を深めるんだ」
「……毎日電話するんですか……」
面倒くさいという思いが顔に出たのだろう。鹿島さんは苦笑する。
「そういうの怠ると、好きだと言ってくれた相手でも疎遠になるぞ。せっかく告白されたんだ。もしもそれが冗談の類だったとしても、経験するのは良い事だと思うぞ」
「……経験……か」
俺はスマートフォンを見て考え込む。
「んんぅ~」
あたしはベッドの上に座り、スマートフォンを眺めて唸っていた。
真奈と綾ちゃんからは、恋人なんだから毎日電話しなくちゃ的な事を言われたのだけれど、正直、伏見と何を話していいのかわからないし、積極的に話したいとも思えない。
全く、何で告白を受け入れたんだと怒りたくもなる。完全なる逆恨みだとわかっているのだけれど。
「はぁ~」
何度目になるかわからないため息を吐いて、スマートフォンに手を伸ばそうとしてやっぱり止める。これも何度目になるかわからない。
このままでは、真奈と綾ちゃんにヘタレと言われそう。
「はぁ、どうしよう」
そう思いながら、もう一度スマートフォンに手を伸ばそうとしたその時、マナーモードにしていたスマートフォンが振動する。
表示される名前を見れば、伏見からの電話。
まさか、向こうから電話がかかってくるとは思わなかった。
予想外の事だったけれども、こうなったら仕方ない。決意を込めて電話を取る。
『も、もしもし。……えっと、桐生さんの電話ですか?』
いつもの教室でのふてぶてしい態度とは違い、おどおどとした電話での出だしに、アタシは思わず吹き出してしまった。
「あはは、……ええっと、違いますよぉ。間違い電話ではないですかね?」
『あ、そうですか。えっと、失礼しました。……って、完全に笑っている時点で、桐生さんだろ?』
呆れたような伏見の声に、アタシは笑みをかみ殺す。
「ありゃ、わかっちゃった?」
『まぁ、声も完全に桐生さんだったし』
「そっかぁ。……って、あたしの声なんて、良くわかったね」
『一応、中学も一緒だし、……き、桐生さんの声は綺麗で特徴あるからわかり易いよ』
後半早口で、聞き取りづらかったけれど、恥ずかしそうに褒めてくれたのはわかった。
「うわぁ。伏見くんが褒めてきている。なんていうか、嬉しいよりも意外」
『か、彼女の事はちゃんと褒めるべきだって、知り合いが言っていたから頑張ってみた。というかもう、いっぱいいっぱいだぞ、俺』
「あはは、そっかぁ。伏見も頑張ってくれているんだね。……というか、伏見にそんなこと教えてくれるような知り合いがいることも意外だよ」
『……まぁ、学校の俺が、全てじゃないからな』
「へぇ、そうなんだねぇ」
『まぁ、友達はいないけどな』
「あはは、何それ。自虐?」
『……自虐ネタなら、結構得意だ』
「ふふ。それ自慢できることじゃないからね、絶対」
『じゃあ、一人ボケツッコミも得意。一人でいることが多いから』
「それも、完全に自虐だよね?」
『まぁな』
「あはは、でも、伏見くんから電話してくるとは思わなかったよ」
『ん、まぁ、付き合うって何したらいいのかわからないから、さっき言った知り合いに、付き合うって何をしたらいいのか相談したんだ。そしたら、毎日電話をした方が良いって言われた』
「へぇ。ていうか、そんな事相談できる相手なら、それって、知り合いって言うよりも友達じゃない?」
『いや、俺より十歳くらい上の一応社会人だから、友達って感じでもないんだよな』
「社会人かぁ。それは確かにちょっと違うかもね。友達って言うよりお兄さんかな? ……その人は、付き合うって何したら良いって言ってた? あたしも誰かと付き合うって初めてだから、正直、何して良いのかわからんのよね。告白した時は、偉そうに言ってたけれども」
『そうなんだ。……えっと、毎日電話して、どんな近場でも良いから、できる限りデートしろって。一緒に居る思い出が大事なんだとさ』
「おぉ。あたしの言っていたこと、結構、当たってたね」
『そうだな。……でも、デートをするにあたって、問題が』
「ん? 何?」
『俺、洒落た服なんて持ってない』
「ぷっ、あははははははは。そんなの、最初から期待していないよ。服がないんだったら、普通に制服で良いでしょ。どんな誤魔化しも利く、高校生の万能服だよ。何だったら、今度一緒に服を買いに行こうか? あたしが見立ててあげるよ。……うん。初めてのデートとしては、そういうので良いかもね。今度の休みにどうかな?」
『……ああ、俺は構わない。休みの日はいつも暇だからな。ふふん。なぜなら、友達がいないから』
「ふふ、本当に自虐的だなぁ」
そう答えつつも、思いがけずデートの約束までもできてしまったと思う。これで、真奈や綾ちゃんにヘタレと馬鹿にされずに済むだろう。
その後も、伏見との何気ない会話が続いていく。
お互いにそろそろ夕食だからと、自然と電話を切ろうという流れになった。そんな時に、伏見が何か思い出したように言った。
『ああ、そうそう、桐生さん』
「ん?」
『えっと、……その、……好きだ』
「え!?」
電話の向こうから気恥ずかしそうにしている気配が伝わってくる。
『こ、告白されたけれど、俺の方からそういう事言ってなかったからな』
「え、えっと。そ、そういうのを言った方が良いって、例のお兄さんに言われたの?」
『まぁ、そういうのは必ず言っとけって。……でも正直、めちゃくちゃ恥かしいけど、ちょっと嬉しいかな』
「……嬉しい?」
『ああ。こうやって誰かに、……す、好きだとか愛しているとか言って、それを受け入れてもらえる。それは少しどころか、かなり気恥ずかしいけれど、ちょっと嬉しい。少なくともその時ばかりは、自分が生きていても良いんだって思えるしね』
「あはは、生きていても良いって、暗いなぁ。……でも、そっか。……そうかもね」
『ああ。だから桐生さん、……その、……好きだ』
「……うん。あ、あたしも好きだよ」
その後、別れの挨拶をして電話を切った。
「ふぅ~」
少しどきどきしていた。
まさか好きだなんて言われるとは思わなかった。
伏見はいつもぼんやり顔で言葉が少ない。口を開いたとしても、人を遠ざけるような事ばかり言っていた。だから付き合っても、そんな風に言ってくるだなんて思いもしなかった。いや、そもそも、こんな風に電話で普通に話せるとすら思いもしなかった。
「……なんていうか、意外と、楽しかった……かな」
中学の時、嫌っていたあたしとしては、あんまり認めがたいものがあるのだけれど。
「……好きだ……か……」
うわぁ、何だかドキドキしている。鏡を見れば顔も赤くなってるし。
馬鹿かあたしは!
相手はあの、伏見だよ!?
中学の時にあれだけ嫌いだった、あの……。
ただ好きだと言われただけで、何でこんなに動揺しているのだろうか?
本気で付き合っているわけじゃない。
これはあくまでバツゲームなのだから。
あたしは自分に言い聞かせ、平静を取り戻す。
「……もしかして、私ってちょろい女なのかな?」
好きだと言われただけでときめいてしまう自分は、もしかしたら、騙されやすいのかもしれない。何だか自分の将来を思うと、暗澹たる気持ちになった。
「どうだったよ? 鴉」
夕食を食べに食堂に行くと、鹿島さんがニヤニヤとした顔で聞いてくる。
「ん? 伏見くんに何かあったのですか?」
俺より先にやって来ていた香奈枝が、鹿島さんの言葉に首を傾げて聞いてくる。
「ああ、こいつ、彼女ができたんだってよ」
「彼女ですか? ……あぁ、二次元のお話ですね」
香奈枝は納得したというように頷いたが、そんな納得は嫌だ。
「……二次元じゃないぞ。確かにゲームや漫画は好きだけど、俺はそんなところに恋人を追い求めてはいないからな」
「では、見栄ですか?」
「……なんで嘘前提なんだよ」
「だって、お友達もいない伏見くんに彼女だなんて、とても信じられません!」
「力強く言い切ったよ、こいつ。……くっ。でも、納得できてしまう自分が悔しい。……まぁ、でも、彼女ができたのは嘘じゃないからな」
「では、伏見くんの彼女とやらは、どのような方なんですか?」
「同じクラスの……秘密だ」
桐生さんの名前を言おうとしたけれど、告白された時、付き合っていることを内緒にして欲しいと言われたことを思い出してしまった。接点のない鹿島さんなら構わないのだけれど、流石に、中高と同じ学校に通っている香奈枝に教えるわけにはいかないだろう。
そう思って、俺は咄嗟に誤魔化した。……下手な誤魔化しだったけれど。
しかし、俺が誤魔化したことで嘘だと判断した香奈枝は、鬼の首を取ったような顔で笑う。
「あら、言えないのですか? やはり、妄言なのですね」
「……妄言じゃねぇよ。……ちゃんとデートの約束もしたしな」
俺がそう言うと、鹿島さんが感心したような顔をする。
「へぇ。ちゃんと約束できたのか。どこ行くんだ?」
「……デートするような服がないって言ったら、一緒に買い物に行こうと誘われたんスよ」
「はは。動機が情けない理由だな。まぁ、でも、買い物か。……悪くないな」
「……でもそれって、高いもの売りつけられるんじゃありませんか?」
香奈枝は眉を寄せてそんなことを言ってくる。
「どういうことだ?」
「良くあるじゃないですか。付いて行ったら高い壺を買わされたとか。その伏見くんの彼女さんも、偽ブランドの服とかを高く買わせようとしているんじゃないですか? 伏見くん、ブランドとか全然知らないでしょう? 簡単に騙せそうじゃないですか」
「……つまり、俺は詐欺のカモにされてるってことか」
「そうですね。そうでも考えないと、伏見くんに彼女とかわけわかんないですし」
「……むぅ、否定できない」
「はは、認めんのかよ」
鹿嶋さんは笑うけれど仕方がないじゃないか。自分が桐生さんに好かれる理由なんて、何一つ思いつかないのだ。ならば、騙されていると考えた方が自然だろう。
「……しかし、騙されているのか。……となると、デートの際はお金をたくさん持っていかないとダメってわけだな」
「貢ぐ気満々ですか!? 伏見くんってそこまで馬鹿でしたっけ?」
「別に貢ぐ気なんてないさ。ただ、騙された時の備えだ。万に一つ、いや、億に一つくらいの可能性で騙されていない可能性だってあるからな。とりあえず、デートには行こうと思うし」
「騙されていない可能性低いなぁ」
「……まぁ、自分が告白されたことがまず、信じられない事ッスからね」
俺がそう言うと、香奈枝は驚いた顔をする。
「伏見くんの方が告白されたんですか!?」
「まぁな。信じられないだろ?」
「ええ! 信じられません! やっぱり騙されていますよ、それ」
そんな力一杯頷かなくても良いと思う。話を振ったのは俺だけれど、悪意に塗れた香奈枝の言葉は、やっぱり腹立たしかった。
しかしそれにしても、夕食前に食堂でこういった話をしていたのは失敗だったと思う。他の兄弟弟子たちが食堂に集まり、「何々?」と楽しそうに話に加わってきたのだ。
そして話を聞いたのちに始まるのは、俺が騙されているかどうかの賭け。
娯楽に飢えた彼らは、よく身内で賭け事を行う。前は俺に、友達ができるかどうかで賭けをしていたくらいだ。その時は友達ができない方に賭けているのがほとんどで、今回にしても、騙されている方に賭けていた人がほとんどだった。
……まぁ、確かに友達はできなかったけれども、少しは友達ができる方に賭けてくれても良いと思う。彼らは俺が傷付かないとでも思っているのだろうか?
……まったく、腹立たしい。
兄弟弟子には性格に難のある奴が多過ぎて、学校の人たちよりも普通に話せるのだけれど、決して友達だとは思えない。
……まぁ、俺も性格が良いわけでもないので、人の事は全然言えないのだけれどね。
きっと、こんな俺を好きだという奴なんて現れるわけがないのだ。
俺は桐生さんの事を思う。
どんなに考えても、俺が桐生さんに好かれる理由は思い浮かばない。皆の言う通り、騙されていると考えるのが自然だろう。
でも、電話での彼女との会話は、最初は緊張したし気恥ずかしくもあったけれど、意外なほど楽しかった。……それこそ、嘘じゃなければ良いのにと思ってしまうほどに。
夜になると週に何度か、魔法使いとしての仕事に出かけている。この仕事が、魔法使いになる為の修行にもなるし、主な収入にもつながる。
魔法使いの仕事は世界の歪みを修正することだ。
世界を歪める魔法の力は、大小関わらず、実のところ誰にでも備わっている。結局のところ魔法使いとは、その力に気付くかどうかの資質の違いだ。……まぁ、偶に俺みたいに、その力が強過ぎて、強制的に気付かされることもあるのだけれど。
とにかく、人には世界を歪ませる力がある。そしてそれは、自然と漏れ出ている力なので、人が住まう場所にはどうしても、歪みが生まれてしまうものだ。
歪みを放置するとその歪みは更に強大になり、この世界の法則から外れた異形の存在となって実体化してしまう。それは昔でいう妖怪など、魑魅魍魎と呼ばれる存在だ。妖怪は人を襲う事がある。人喰いだって存在するのだ。そんな者が今の世の中に放たれれば、それこそ大混乱になることだろう。
だからその前に歪みを正さなければならない。それが、魔法使いの仕事なのだ。
一つの町には必ず魔法使いがおり、その町の歪みを管理することで魔法協会からお金をもらっている。なので魔法使いたちは夜になると町中を徘徊し、歪みがないかをチェックする。歪みは一朝一夕でできるものではないので、だいたい一月を掛けて街の隅々までを見て回る。
歪みは目に見えるものではなく、魔法使い独特の感覚で感じ取るものだ。
「……ここも歪んでる」
俺は公園にできていた歪みに気付き、地図に印をつける。歪みは手分けして探すことになっているが、歪みを消すのは全員揃ってからだ。
俺一人で歪みを消すことができないわけではない。けれど俺はまだ未熟で、残念ながら、暴走する可能性も孕んでいる。だから歪みの消去に関しては、安全を期して全員で取り組むようにしているのだ。少しの失敗で大惨事になり兼ねない歪みへの対処だ。慎重に慎重を重ねることは必要な事だ。
「……ん? 歪みが動いている? それに結構大きいな」
俺はもう一つの歪みに気付いてそちらへと向かう。近づこうとすると、また遠ざかった。それもかなり、動きが速い。
嫌な感じがする。これはもしかしたら生き物が歪んでいるのかもしれない。生き物の歪みは、空間の歪みよりも厄介だ。場所を移動するから留めておくのは難しいし、何よりも、空間の歪みよりも遥かに簡単に、異形の存在になってしまうのだ。
「……これは、後を追わないとまずいか?」
俺は移動する歪みに先回りするように走ると、住宅を囲った塀の上を歩く、歪みを持った猫を見つけた。
「まだ異形じゃなさそうだし、捕まえれば良いかな?」
俺はとりあえず捕まえてみようとにじり寄ると、猫は警戒したように毛を逆立てた。
「やばい。猫ってどうやってなだめればいいんだろ?」
何か威嚇されたことで、昔、犬に追い回されたことを思い出して、正直、怖いんだけれど。動物って苦手だよ。……人間も含めて。
さて、どうしたものか。
あれか? わざと噛まして、大丈夫、怖くない、とでも優しく語り掛ければ良いのだろうか?
とりあえず手を差し出そうとすると、猫が引っ掻こうとしてくるので、俺は思わず避ける。噛まれることは覚悟していたけれど、引っかかられることは覚悟していないし。
そんな事を思っていたら、地面の方でジャリッという音がして、引っ掻いたような跡が刻まれていた。
「……」
俺は猫と地面を見比べる。
「って、完全に異形化し始めているじゃないか」
引っ掻いた斬撃のようなものが遠くまで飛ぶって、どんだけ危険なんだろうか? もしも直接引っ掻かれていたら、大怪我していただろう。指がポロって行くかもしれない。
「怖ぁ。マジで、怖ぁ」
とはいえ、こんな異形の猫を放って置くわけにはいかない。
「頼むから暴れないでくれよ」
俺はそっと手を近づける。歪みを正す場合、その間中、触れ続けなければいけない。けれど暴れられれば、それもままならない。
なんとか穏やかにこの事案を片づけたい。そう思っているのに、猫は残念ながら、俺の気持ちを慮ってはくれない。俺が手を近づけるだけで、嫌そうに引っ掻こうとしてくる。
「ちっ、仕方ない」
俺は舌打ちし、手の平に歪みを生み出す。・
生き物が歪んでいる場合、直接触れて、歪みを正す方法以外に、もう一つの手段がある。一度歪みを、外に抜き取る方法だ。
抜き取る手段としては、こちらからも歪みを生み出し、生き物に宿った歪みを引き抜き吸着させるというもの。しかし、吸着させるという事は、歪みに更なる力を与え、生き物の外側に実体化させるという事でもある。それを逃がしたらとても危険だ。それでも、この方法はある程度近くに居なければならないけれど、直接触れる必要はない。
猫は警戒しているようだけれども、幸い動くことはなく、宿っていた歪みは無事引き抜くことができた。
猫から引き抜かれた歪みは、俺の歪みに絡まりだす。そして、俺の手の上に現れたのは、猫を刺々しくしたような奇怪な生き物。俺はすぐに、その奇怪な猫を握り潰そうとする。けれど、手の平に痛みを感じて、思わず手放してしまった。
「イッタァ」
手の平にいくつもの切り傷ができている。傷自体は浅いけれど、手は神経が鋭いから本当にひりひりと痛い。
どうやらこの奇怪な猫は、カマイタチのようなものを発生させてくるようだ。……イタチじゃないのに、カマイタチ。……むしろ、カマネコだろうか?
握り潰そうとしたものだから、俺の事を完全に敵視して、少し離れたところで威嚇してきている。でも逃げないだけ、俺にとっては好都合だ。
「ニャゴォォォォォッ!」
濁った猫のような鳴き声と共に、カマイタチが襲ってくる。俺は目に入らないように顔を防ぎ、一気に距離を詰めようとする。
しかしカマネコは、俊敏な動きで距離を詰めさせない。
このままじゃ距離も詰められず、歪みを消すこともできずに、逃げられてしまうだろう。
駄目だ。何とかしなければ。
俺はそう思うと、自分の中に歪みを生み出す。
自身の異形化。
それは魔法使いが、人を超えた力を行使する方法の一つだ。自分を異形化させれば、この世界の法則から外れた力を手に入れられる。しかし、これはやり過ぎれば元に戻れなくなるし、最悪、自分の人格まで歪めてしまいかねない諸刃の剣。
だから俺は、必要最小限、普通の人間に毛が生えた程度の異形化をし、足の力だけを強化する。そしてもう一度、距離を詰めようとカマネコに向かう。案の定、カマネコは距離を取ろうとするけれど、今度は俺もその動きについて行く。
壁を蹴って塀の上に登るけれど、俺も同じように登り屋根の上に飛び乗り、カマネコにならって屋根の上を飛び交う。
そして距離を詰めたところで、そのカマネコを思いっきり蹴とばした。強化された足の力に、異形の猫と言えど小動物故にひとたまりもなかったのだろう。その一撃で、歪みを拡散させて消失してくれた。
異形の存在は、この世界の法則に外れた存在なので、息絶えれば消滅してくれる。変に死骸が残らないのは本当に有難い。
足には、生き物を蹴った嫌な感触が残っていて、正直気分は悪い。これで死骸まで残られたら、吐く自信がある。よくニュースで動物の虐待とか問題になって報道されているけれど、好きこのんで動物虐待なんてする人の気が知れない。
とりあえず俺は、異形だった歪みが拡散し、問題なく消せるようになっていることを確認して、歪んでいた猫の下へと戻る。
歪みを抜き取られた猫はぐったりと塀の上に倒れている。
「……死んでないよな」
俺は心配になって触れると、トクントクンと脈打っているのを感じた。
どうやら気絶しているだけのようだ。生きていたことにホッとする。
歪みを抜き取る方法は、歪みを持っていた者に大きな負担を強いる。元々体の弱い者ならば、死んでしまう事だってあるのだ。
それに死にはしなくても、歪みを抜き取られると、歪みを持っていた時の記憶はもちろん、そこに至るまでの少なくない記憶だって失う事もわかっている。
もしも歪みを抜き取った者が人間だった場合、目を覚ませば大きく混乱することだろう。
果たして猫に、記憶の混乱なんてものがあるかはわからないけれど、他にも違った悪影響がでるかもしれない。俺は連絡し、皆がやってくるのを待ちながら、猫が無事に目を覚ましてくれることを祈った。
猫も無事目を覚まし、歪みも粗方消すことができた後、俺は師匠の書斎に呼び出された。
怒られるのかもしれない。
緊急性がない限り、師匠は皆の前で注意したり怒ったりはしない。けれどこうして呼び出されて注意されることは良くあることだ。
俺は師匠の書斎のドアをノックすると、中から「どうぞ」という声がかかったので遠慮なく入って行く。
師匠は書斎机に座っていた。
城ヶ崎賢吾。眼鏡をかけたその顔は優しさと理知的な雰囲気を持っている。そして、香奈枝の父だけあって、小柄でもあった。
「来ましたか。呼ばれた理由はわかっていますね?」
「……俺一人で異形と戦ったことッスよね」 良く考えれば、猫を追いながら連絡を取ることだってできたのだ。それをしなかったのは、その時思い付かなかったというのもあるけれど、やっぱり俺の勝手な判断。それを注意されるのは仕方ないとは思う。
「その通りです。……鴉くん。君の歪みの力はとても強い。その力を使えば、君は負けることはほとんどないでしょう。けれど、その強い力は君すらも歪めてしまう可能性があるのです。だからこそ、君は誰よりもその力の使い方に慎重でなくてはいけません」
「わかってますよ、師匠。だから付与した歪みの力も最小限にしたつもりッス」
俺は何でもない事だというように肩を竦めてみせると、師匠はやれやれと首を横に振った。
「鴉くん。君にとって最小限でも、私から見れば十分すぎるほど歪められています。その性で君の足はまだ、正常には戻っていない。そうでしょう?」
師匠は見透かすように俺の足を見てくる。確かに師匠の言う通り、俺の足は未だに異形化したままだ。
「……でも、こんな歪み、少し時間をかけるだけで治せますよ?」
俺の言葉に師匠は首を横に振り、机に立てかけてあった杖を持って立ち上がる。そして俺に近づいてきて、杖で俺の足に触れた。すると俺の足に宿っていた歪みが一瞬にして消える。歪みを制御することが苦手な俺には、こんな風に、一瞬で歪みを消すことなんてできない。
「少なくとも雄大くんなら、時間をかけずとも正せます」
「……いや、鹿島さんと比べられても困るんスけど」
「いえ、比べます。君が一人で戦うというのなら、雄大くんのように一人で歪みを解消できるようになってからですよ。歪みに慎重であろうとするのなら、僅かな歪みであろうと、軽視をしてはいけません。わかりましたね?」
「……はい」
歪みを軽視していたと言われれば、その通りだ。少しの歪みならば制御できると思っていたのは確かで、けれど、その少しの歪みでさえ暴走しかねないのも事実だ。
ならば、俺一人で取り組むよりも、皆の協力を待った方が良かったのだろう。別にあの状況はまだ、一人でどうにかしなければいけない程、切羽詰っていたわけでもないのだ。思ってみれば、猫を追いながら電話でもすれば良かったのだ。
歪みの恐ろしさを俺は十分に知っているはずだったのに、歪みを制御することに慣れ始め、やはり軽視していたのだろう。
「すみませんでした。これからは気を付けます」
俺が素直に謝ると、師匠は優しげに微笑む。
「ええ、わかってもらえればいいのです。……ああ、それと、鴉くんにはこれも渡しておきますね」
そう言って師匠が差し出してきたのは小さな茶封筒。特に宛先とか住所とか書かれていないから、俺宛の郵便が届いたという事でもなさそうだ。……というか、俺宛の郵便なんて、広告ぐらいしか届いたことないんだけれどね。
「……中身を見ても?」
「ええ」
師匠は頷いたので、封筒の中身を見ると、現金で十万円も入っていた。正直、俺にとっては大金だ。
「……なんですか、これ?」
わけがわからなくて俺が困惑したように師匠を見ると、師匠はとてもニコニコをしていた。
「まぁ、異形を祓ったのは事実ですからね。臨時収入ですよ」
「……そんなの、貰っちゃダメでしょ。そんなの許していたら、お金目的で無茶する人が増えちゃうんじゃないッスか?」
「確かにそうですね。だから、皆さんには内緒ですよ? 今回だけは特別ですから。……今度デートに行くのでしょう? その為の軍資金というか、餞別です。頑張ってくださいね」
師匠の言葉に、俺は眩暈を覚えたように頭を抑える。
「……師匠も面白がっているんスか」
「ふふ、面白がっているわけではありませんよ。……ただ、孤独を愛するあの鴉くんがデートですからね。応援したいだけですよ」
そう言いつつも、師匠の顔はどうしようもなく笑っている。絶対面白がっているだろう。
「まぁ、この十万も、だまし取られるかもしれませんけれどね」
俺は皮肉を言う事しかできなかった。