三章
三の詞 ひとときの休息を
「うわっ、大きい建物。なんなの、あれ」
船で海を行くこと早五日。風も味方して、予定より早く着いたという。港に降り立った結芳が、離れた小高い丘に見える建物を指差して言った。
「ん? ああ、あれは元・宮殿だよ」
「宮殿⁉ でっか……って元?」
「代々王さんが建て増ししていってな、最終的に遭難者が続出するぐらいの、まさに迷宮になっちまってよ。五、六代前ぐらいに西の方に宮殿を遷して、こっちはまあ、もったいねえから観光用に置いてあるんだ」
「遭難者が続出しているのに観光用として置いてるのはどうかと思うんだけどな」
「ははっ。まあそこは、気にすんな。一応いろいろ対策はとってるらしいし」
「いや、気にすべきでしょ。対策とってるとはいえさすがに」
あっさりと笑うユースに、結芳がビシッと突っ込みを入れた。銀星は三人の会話に軽く微笑んだが、すぐにその綺麗な顔を曇らせた。
舟の上でも、そして今、ここでも、夜叉の言葉が頭を巡る。
『今この世界が不幸の波に覆われようとしているのは、時の流れにあやかった師匠が起こしたものだ』
『俺が〈黄昏の者〉の化身であることも知っている』
『俺は師匠の計画の最後の駒だ。俺のこの力は、師匠の野望を叶えるために使う』
「銀星さん」
暗い顔をしていた銀星に、昴が優しく声をかけた。昴とユースの二人には、船の上ですでに事情を説明してあった。ちなみに、一足早く結芳の叔父のところへ向かっていたミーチェも、船の上で回収済みだ。
「僕は、君のこともあの女性のことも知らない。でも、あまり自分の中だけに溜め込んでしまわないでね。結芳ちゃんでも僕でも、なんならユースにでも、君は頼っていいんだから」
「昴さん……」
「僕達でよければ、いつでも相談に乗るから。あの二人も何も言わないけど、考えていることは僕と一緒だと思うよ」
昴が前を歩いている二人を見る。あれこれと質問する結芳に、ユースは笑顔でひとつひとつに答えている。
「はい、ありがとうございます。元気が出てきました。今度いつお姉ちゃんに会えるか分からないけれど、諦めずに説得してみます。その時に少しご迷惑をかけるかもしれませんが……」
「いいんだ。気にしないで」
そう言ってフワリと微笑む昴に、銀星は少し頬が赤くなるのが分かった。
「おーい、二人とも何してんだよ。もうすぐフローラへのカールが来るぞー」
「ああ、ごめん。今行くよ」
ユースが振り返って二人に声をかけ、昴はそれに片手を上げて答えた。銀星は二人の会話に首を傾げた。
「あの、『カール』ってなんですか?」
「ん? ああ、東は列車や船での移動が多いから滅多に見ないかなあ。運輸の使役魔の中の一種、カール二頭に幌馬車を牽かせたものなんだ。……もう馬車とは言わないね」
綺麗な金髪をくしゃりと掻いて、苦笑混じりに言った。
「乗るのは荷物だけじゃなくて人も。それが、この西大陸中を編み目のようにして走っている。色んな中継所を介してね。終着地が決まっている場合もあるし、少し高いけど、目的地を言えばそこまで連れて行ってくれるのもある。西はあんまり列車が普及してないから、カールが主な移動手段なんだ」
「な、なるほど……?」
銀星はうなずきながら聞いていた。なかなか想像できないが、実際にその『カール』を見てみれば分かるだろう。と、結芳が何やら飲みながら二人の方へ寄ってきた。
「結芳ちゃん、それは?」
「この兄さんが買ってきてくれた。ミルキーって言うんだって。けっこう甘くておいしい」
「まあ、西じゃ普通に飲んでるもんなんだが、この小せぇ嬢ちゃんは飲んだ事ねえって言うし。ほら、嬢ちゃんも」
「あ、ありがとうございます。そういえば、一度お父さんが買ってきてくれた事もあったっけ」
「元気かなあ。飛焔おじさんと瑠璃おばさん」
銀星は懐かしそうに目を細め、結芳はミルキーを飲みながらぽつりと言った。その言葉に、ユースが反応した。
「んあ? 何だ、小せえ嬢ちゃん。あんた、飛焔さんと瑠璃さんの姪っ子なのか?」
「は? そうだけど、なんであんたが二人の事知ってんの。っていうか、いちいち小さいって言わないでよ。私には結芳っていう名前がちゃんとあるんだから」
「まあそんな事は気にすんな。……なんで二人を知ってるかってーとだな。何つうか、その、まあおれの親、みたいな人たちだから、だな」
「え、えぇ⁉ そうなの? ってあれ、私の従兄弟って養女のシルハ姉さんと、会った記憶あんまり無いけど焔成兄さんだけのはずじゃ?」
結芳は素っ頓狂な声をあげたあと、不思議そうに首を傾げた。
「だから、親みたいな人たち、って言っただろ。おれの本当の親が死んでからずっと世話してもらってんだよ」
「そうなんだ。ぜーんぜん、知らなかった。まあ、ほとんど会った事なかったっていうのもあるんだけどさ」
「おれも東に出稼ぎに行ってから会ってねえからな。かれこれ三年ぐらい、だな。まあ、あの人達のことだから元気なんだろうが」
ユースが言い終わるか終わらないかのとき、遠くの方から土煙を上げた何かが走ってくるのが見えた。
「なんでしょう、あれ」
「ん? ああ、あれがカールだよ。荒っぽそうに見えるけど、けっこう乗り心地はいいんだ」
「本当にぃ?」
結芳が疑わしそうに昴の方を見る。ユースはそれを見て、本当だってのと笑った。ところが……。
「なんだってのよ、このすし詰め状態は!」
そう。結芳が言った通り、来たカールには沢山の人が乗っていたのだ。そこに無理矢理乗ったものの、ぎゅうぎゅう詰めにされて気分がいいはずがなく、加えて体勢が不安定になっているので、身体への負担がとても大きい。
「あー、忘れてたぜ。ちょうどこの時期だったか」
ユースが自身の紅毛をがしがしと掻きながら、ため息混じりに言った。その言葉にイライラしている結芳が噛み付いた。
「忘れてたって何をよ! っていうか、あんただけまともに息できてるってのが何か腹立つ!」
「後半はおれ関係ないだろ。嬢ちゃんがちっちぇのが悪り……いってぇ⁉」
涙目でユースが結芳を睨む。気にしていることを言われ、頭に来た結芳がユースに制裁を加えたのだ。
(完全に八つ当たりじゃねえか、これ!)
「そういや、銀星さん達はどこ?」
「あん? まあこのカールに乗ってんのは絶対なんだから心配する必要ないだろ」
「う〜、どうせなら銀星さんとそばにいたかった〜。こんな無駄にでかい大男じゃなくて」
「どういう意味だ!」
一方銀星はというと、顔を真っ赤にして昴に引っ付いていた。ただ、それは意図的にというわけではなく、この満員状態で自然となってしまったことなのだ。とはいえ、家族を除く異性にあまり触れたことがない銀星にとって、この状態は少々刺激が強い。
「参った。カールがこんなに混んでいるかもしれないということをすっかり失念していたよ。こんなご時世だからね」
「ど、どうしてこんなに人が多いんでしょうか」
「きっとみんなフローラで行われる四大節季祭を見に来たんだと思うよ」
「四大節季祭?」
銀星が首を傾げる。そう言えば昔、明蘭が話してくれたことがある。確か、春夏秋冬の四つの季節に一度ずつ、七日間に渡って行われる規模の大きい祭だ。今の季節、春の節季祭は、これから始まる一年への希望を謳う『黎明祭』。
「人はあまり多くないと思っていたんだけどな。どうやら、世界がこんな状態だからこそ、祭のような深く考えなくても楽しめるものは、大切なのかもしれない」
昴はどこか遠くを見てつぶやくように言った。叫び声が絶えないカールの中だったが、昴にくっついていた銀星にははっきりと聞こえた。自分より頭一つ分程高い昴を見上げ、銀星も小さく返した。
「何の憂いも無く、祭を本当に心の底から楽しめるような世界に必ずしてみせます。お姉ちゃんと一緒に」
「僕たちも手伝うよ、世界中の人たちの為にね」
「〜ぃやっと着いたー!」
カールから飛び降りた結芳が歓喜の声をあげる。そのまま踊り出すかのような勢いに他の三人は苦笑するしかない。
「やっと着いたよ、フローラ! あの熱っ苦しくって、やかましくって、しんどくって、無駄にでかいヤな男ともおさばらだー!」
「最後の何だ、最後の⁉」
ユースが荷物を担ぎながら突っ込む。銀星と昴はもう我慢できないと、大笑いする。
「おいこら、今ぜってぇ笑うとこじゃねえだろ!」
「お〜い、結芳〜」
ユースが顔を赤くしながら銀星と昴を睨む。すると、その声にかぶさるようにもう一つ、別の声が聞こえた。聞こえた方を見ると、たった今降りたばかりのカールを一回り小さくしたようなものが近づいて来ていた。よく見ると、御者台に乗った男が帽子を持った手を大きく振っている。
だんだん近づき、男の顔がはっきりと分かるようになったとき、結芳とユースは同時に声をあげた。
「飛焔おじさん!」
「飛焔さん!」
「ん? おお、その声はユースか。久しぶりだな、お前。三年も帰ってこずに、よく無事でいられたもんだ」
降りてきた男——飛焔はまず、ユースに、その両肩を叩きながら声をかけた。飛焔も背が低いわけではないなかったが、ユースの方がさらに頭半分程高かった。その代わりというか、飛焔の方が全体的に筋肉質な体格をしていた。
「そりゃ、一応おれも成人してるんで。それに手紙も送ってたでしょ」
「まあ、そうだがな。やはり、本人の顔を見んと落ち着かんというか」
「ははっ。ちゃんと無事「久しぶりです、飛焔おじさん!」……で。って遮るなよ、小さい嬢ちゃん」
そのにこやかな雰囲気に結芳がやや強引に割り込む。
「おお、結芳。久しぶりだな! 元気そうで何よりだ。錬はどうだ? 昔は線の細いやつだったが」
「いや〜今も大して昔と変わってませんよ? 相変わらず針金細工みたいなやつで」
「なるほど、針金細工か。いい呼び名だな。兄さんと愛藍さんはどうだ? 相変わらず尻に敷かれているのか」
「それはおじさんの方じゃないんですか? 私の家は怒った時の母さんが父さんより恐いってだけですよ。それより、瑠璃おばさんとシルハ姉さんはどうですか? おばさんはまあ、元気じゃないって言われた方が驚くんですけど、シルハ姉さんはか弱いイメージが……」
「二人とも元気だ。前はシルハもよく病気になっていたが、まあそこは瑠璃の腕でな。最近はこの異変にも負けず町中を走り回っているぞ」
飛焔は腕を組んで大きくうなずく。結芳は何回か瞬きをし、ユースは大きく目を丸くして驚いた。
「シルハ姉さんが? 編み物してるとこしか浮かばない……」
「シルハちゃんが? そりゃ意外だな。三年の間に成長したんだなあ」
「おいおい。言い方がそりゃ少しジジ臭いだろう、ユース。ところで、そちらのお二人は……銀星さんと、昴君かな? 二人とも大変だっただろう」
ユースと結芳に向けていた顔を銀星と昴に移し、優しく微笑んだ。二人は一瞬びっくりしたが、頭を下げて自己紹介をした。
「初めまして、銀星と言います。この度は、いろいろお世話になります」
「初めまして、飛焔さん。昴と言います。話はユースからいろいろ伺っています」
「ハッハ。なーに、気にする必要は無い。むしろ手伝うことしか出来ない自分が憎いよ。昴君のことはユースの手紙にいろいろと書いてあったよ。……さて、いろいろ話はあるがとりあえず、こいつに乗れ。瑠璃もシルハも君たちに会うのを楽しみにしていたからな。早く会ってやってくれ」
「あ、はい」
「五年ぶりぐらいだから、私も早く会いたい!」
「そうか、そうか。なら、全速力で行くとするか」
飛焔はにこやかに言ったが、ユースと結芳は同時に顔を青くさせ、猛反対をした。
「やめてくれ、飛焔さん! ただでさえ操作の粗い飛焔さんなのに、このクルトの装備はスピード特化型じゃねえか!」
「私もこの兄さんに賛成。なんか凄い心配!」
「心配するな、大切な客人がいるんだから、事故を起こすようなへまはせん」
「全然当てにならねー!」
何やら三人が言い争いをしている横で、昴は今にも走り出しそうなクルトの手綱を握って苦笑していた。銀星は、三人の勢いについていけず、
(『カール』を小さくしたようなこれは『クルト』というのね。東にもあったら便利だと思うんだけど、どうして無いんだろ。それとも、あるけど私が知らないだけ?)
と、周りの騒がしさとは無縁なことを考えていた。
そろそろ太陽が地平線に隠れ始めるかという頃、銀星たちをのせたクルトは、フローラ郊外にある飛焔の家に着いた。ユースと結芳が五分ぐらいかけて説得したおかげか、飛焔は二人が思い描いていたような速さでクルトを走らせることは無かったが、それでも走り出してからゆうに十五分は誰も口を利けなかった。いや、飛焔だけはペラペラとよく喋っていたが。
「や、やっと着いた……」
「これでもマシな方なんだけどな」
昴がクルトから降りて地面に座り込みながらつぶやいた。ユースも顔色は悪かったが荷物を担ぎ、しっかりとした足取りで家の方に向かって行った。と、ちょうどそのとき物音を聞きつけたのか黒い髪の女性が戸を開けて出てきた。
「シルハ姉さん!」
結芳が女性に走りよった。女性は二、三度瞬きしたが、にっこり笑うと走ってきた結芳を抱きしめた。
「久しぶりねえ、結芳。元気だった?」
「もっちのろんで元気! シルハ姉さんも元気そうでよかった」
「ええ、お母さんのおかげでね。ユース兄さんも三年ぶりね。心配してたんだけど……よかった、大丈夫そうで」
ユースは少し照れくさそうに髪をかいて言った。
「それ、飛焔さんにも言われたんだが。おれってそんな心配する程だったか?」
「ええ。帰ってくる時には全身生傷だらけになっているんじゃないかって、ずっと心配してたのよ」
「……ひでえ言われようだな、おい」
「シルハ姉さんでもそんな物言いするんだね。ちょっと意外」
ユースはあからさまに落胆し、結芳は感心したように腕を組んで二、三度頷いた。
「ほらほら。そんな玄関先につっ立てないで、さっさと家に入らないか! 飯の用意もできたというしな!」
飛焔が手を叩きながら言った。確かに、家の方から何やらいいにおいがしてきている。
「言われてみればお腹がすいたね」
「瑠璃さんの飯はうまいからなあ」
「わあ、何年ぶりだろ。正直、家で食べるのよりおいしいんだよね〜」
「おいおい」
三人はわいわいいいながら飛焔の家に入っていくが、銀星は一人立ち止まって空を見上げていた。太陽は地平線の向こうへ沈み、辺りは夜に支配されつつあった。
(初めてお姉ちゃんにあってから一週間以上経ったね。……お姉ちゃんはどうしたら私の話を聞いてくれる? 世界を滅ぼすなんて……そんなこと絶対にさせない。どんな理由があっても、そんなことはしちゃいけないんだから。……だけど、どうしたら、どうすれば分かってくれるの? お姉ちゃん……)
いつの間にか、上を向いていた顔は地面に向けられ、両の手は、指先が白くなるほど強く握りしめられていた。
「あなたも早く家にお入りなさいな、銀星」
突然前から声をかけられて、顔を上げ反射的に身構えると、その人は苦笑して続けた。
「そう身構えなくても大丈夫よ」
「あなたは?」
「瑠璃よ。花蓮の友人で、結芳の叔母」
「え、あ、初めまして。銀星といいます。えっと、この度は……」
「あはは。そんなにかしこまらなくてもいいわよ」
慌てる銀星に笑いかけながら、その両肩に手をおいて、顔を覗き込んだ。
「銀星。私も花蓮から手紙をもらったからあなたや銀嶺のことも知ってるわ。今の状況については愛藍から手紙をもらってるから、これについても知ってる。だから言うけど、まずは休みなさい。不安になったり心細くなったりするのは分かるけど、とにかく今のあなたに必要なのは休むことよ。顔全体にハリがないわ。最近よく眠れていないんじゃない?」
「……はい」
「でしょ? 焦っても体がついていかなきゃ意味無いのよ。明日から祭があるから休憩がてら、見物していきなさい」
「え、でも」
「でも、じゃない。移動手段としてうちのクルトを貸すわ。速さは身をもって体験済み、でしょ?」
瑠璃がいたずらっ子のような笑みを浮かべ、ウインクをする。確かに、あれぐらいの速さが出るものならば、目的地がどこであれ、大抵の乗り物よりも早く着けるだろう。ゆっくりと銀星が頷くと、瑠璃は満足げに頷くと銀星の頭を撫で、その手を引いた。
「分かったら家に入りなさい。で、今日は早く休んで」
「はい。お世話になります」
* * *
黎明祭三日目の夜。飛焔の家の周りにはたくさんの人が集まり、街の中心部とはまた別の賑わいを見せていた。
この三日間、銀星は瑠璃やシルハの案内で観光や買い物を楽しみ、力んでいた体もほぐれ、気持ちにも余裕が持てるようになった。なので、休息はもう充分と、最後に黎明祭三日目に行われるこの『風の四重奏』を見てから旅立つことにした。
『風の四重奏』は竪琴、横笛、葦笛、ニレートと呼ばれる楽器が使われ、選ばれた一人の謡役が昔から伝わる詩を吟ずることで始まる。黎明祭最大の目玉であり、さらに今回、その謡役にシルハが選ばれたというのもあり、せっかくなので見て行こうということになったのだ。
「あ、いたいた。結芳、銀星。そろそろ始まるわよ」
「え、ウソ? うわ〜、一番前で見ようと思っていたのに……。場所取られた」
屋台を回っていた二人は慌てて家の方へ戻ってきた。飛焔の家の前には特別ステージが設けてあり、すでに奏者たちが楽器の調子を確かめたりしていた。
「よかった、間に合ったみたいだね」
「昴さん」
「あれ? あのでかい兄さんは?」
「う〜ん。最初は一緒に屋台を見て回っていたんだけど、人ごみではぐれてしまったみたいでさ。ここに来ればいるかもと思ったんだけど……いないようだね」
「なに〜。せっかくのシルハ姉さんの晴れ舞台だっていうのに見ないつもりか!」
「そう怒らないで、結芳ちゃん。きっとどこかで見ているはずよ。だってシルハさんはユースさんの妹さんなんでしょ?」
「血は繋がってないらしいけど。まあ、もし見ていなかったら、あとで一発ぶん殴ってやる」
「物騒だね、結芳ちゃん。気持ちは分からなくはないけど」
「昴さんもですよ」
銀星が少し怒ったように昴の方を向いたとき、ちょうど葦笛の音が聞こえた。白いドレスに身を包んだシルハがステージの真ん中に立つ。
「皆様、今宵はよくお集まり下さいました。日が眠り、星たちが目を覚ましたこの時刻。この祭が始まった時からのしきたりにのっとり、これより『風の四重奏』を演奏させていただきます。今宵の謡役は私、シルハ・マリアマリンが務めさせていただきます。新参者ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします」
再び葦笛が吹かれる。それに竪琴、ニレートが続き、最期に横笛が加わって美しいハーモニーが生み出された。その中でシルハが口を開く。
今を生きる若者よ
地を見て泣くよりも、天を見て笑いなさい
爽やかな風がその頬を撫でるのを感じたら
熱く燃えるその想いを 解き放ちなさい
咲け 志という華
語れ 大地を揺すり
そして目指すのです 遙なる高みを
その心意気は天を突く
若者たちよ 今が闘いの時です
(風の四重奏・始の詩 シルハ・マリアマリン)
これを皮切りに、次々と伝統的音曲が演奏されていった。その時々に謡うシルハの声は楽器の音にも負けず、よく響いた。優しく人を諭すような柔らかさと、強く人を励ます力強さが混じり合い、聞く者に暫くの間、現実を忘れさせた。
目を閉じ、風の四重奏に聞き入っていた結芳はふと、目を開けた。そのとき、酒瓶と杯を持って一人祭を離れるユースの姿を見つけた。
「……?」
おれ——ユース・ソイラン——は今年で二十一になる。
おれのこの容姿は親父譲り。漁師で、若い頃は実は海賊なんてやってたらしい。それが名家のお嬢様だったお袋と出会ってお互い一目惚れ。親父は海賊をあっさりと辞め、お袋は家を飛び出してそのまま二人は結婚したそうだ。
それを最初に聞いた時、親父の作り話かと思った。だけど、飛焔さんも瑠璃さんもこの辺じゃ有名な話、と言うから、あながち嘘ではないのだろう。
「世界は広しと言えど、アイツほどいい女は他に居ねえだろうよ!」
生前、親父はそう言って酒を飲みながらおれに延々とお袋の話をし続けた。
お袋はおれを生んですぐに亡くなり、親父はおれが九歳の時に海で死んだ。そしておれは飛焔さんと瑠璃さん夫妻に引き取られ、育てられた。
ところで、この二人には養子のおれとシルハ以外にもう一人、血のつながった息子がいた。
それがおれの親友、焔成。
同い年だったアイツとは、いろいろなイタズラをして一緒に瑠璃さんに怒られた。
十年前のある夜、こっそりくすねてきた葡萄酒を二人で乾杯して何杯も飲んだ。酒ってものがどんなものかよく分からず、ただ好奇心で飲み、三日は意識がぶっ飛んだ。
そしてようやく意識と自我が戻ってきた時に、瑠璃さんのきっついお叱りと罰が待っていたのだった。さすがに法に触れることをしたのはまずかったかと、苦笑いで言い合ったものだ。
しかし、その罰——広大な畑の世話をたった二人で丸一ヶ月——が終わるという時に、焔成が家を飛び出した。
どうやら親子喧嘩が原因らしいが、詳しくは知らない。詳しく聞こうとしても飛焔さんは不機嫌顔で黙ってしまうし、瑠璃さんはからから笑って「大したことじゃ無いわ。ほんとに些細なこと」と言う。
「いや、でもまだアイツ、子供なんですよ? 心配やないんですか」
「大丈夫よ。だって、私と飛焔の子だからね」
「いや、でも……」
そう言い募っても、瑠璃さんは笑ってかわすだけ。そのうちおれも諦め、自分のことを考えるようになった。それに、実は焔成からの手紙を見つけたのだ。
『おれはたびに出て、もっと広いせかいをみてくる。せやけど、十ねんごにはかならずこの家にもどってくる。お前もたびに出てて、ここにおらんかっても、ちゃんとまっとる。そんときにはお互いはたちすぎとるからな。いっしょにさけのもうや。 えんせい』
その約束の十年後は今年。東大陸に店を持っていたおれは、いつアイツが帰って来るか分からないとはいえ、店を休むわけにはいかなかった。だから、あいつが帰ってきたら連絡をくれるよう、一番最近飛焔さんと瑠璃さんの二人に出した手紙に書いておいた。まあ何の因果か、その連絡が来る前におれは西へ戻って来たわけだが。
「あ〜、あかん。マジで酔った。久しぶりやからかな、これ飲むんは」
「……なに大きい声出してわめいてんの。いい年した大人が」
空になった瓶と杯とを放り出し、砂の上に大の字になって満天の星空を眺めていると、結芳がやって来て、その顔を覗き込みながら言った。
「ん? ああ、何や小さい嬢ちゃんやないか。何しとんねん? こんなとこまで来て」
「それはこっちのセリフ。つーか、酒臭っ。瓶一本全部飲んだわけ? うわ、馬鹿じゃないの?」
「やかましい。これが飲まずにいられるかっちゅーねん」
「は?」
「会う約束しとったのにすっぽかされたんや」
「へぇ。それって女の子?」
ニヤニヤと笑いながら尋ねる結芳に、緩慢な動きで手を振りながら気軽にユースは答えた。
「いんや、男。ま、厳密に言えば、今日会う約束しとったわけでも「あんた、男に恋する人間⁉」
一瞬硬直した結芳が次の瞬間に発したセリフの方に、ユースは驚いた。
「ちゃうわ! んな気色悪いこと真顔で言うなや!」
さっきの緩慢な動きはどこへ行ったのか、一転した素早い動きで起き上がり反論した。
「だよね〜。びっくりした」
「そりゃ、おれのセリフや。おれが言うてんのは焔成や、焔成。お前の従兄弟やろ?」
「ああ、焔成兄さんのことだったの。まあ従兄弟だけど、ぼんやりとしか覚えてないんだよね。私より五、六歳上だから、今二十歳かそこら?」
「二十一や。おれと同い年やからな」
それを聞いた結芳は、ユースに会ってから今までで、一番驚いた顔をした。
「あんた二十一⁉ うっそ、もっと年いってるかと思ってた! 二十五ぐらい」
「なんでや!」
「え、だってどう見ても……。っていうか、今さらだけどあんた、口調なんか変わってない?」
「あ〜、そら酔ってもうたからなあ。しゃあない」
「何がどうして仕方ないか知らないけど……って違う! こんなこと言いにきたんじゃなくて」
「嬢ちゃん、おれんとこ来てからずいぶん時間経っとんぞ」
「うっさい! そう、もう『風の四重奏』が終わって、明日も朝早いのにあんたがなかなか戻ってこないから呼びにきたんだった。寝不足でクルトを操り損ねて大事故、なんて勘弁してね」
さっと身を翻す結芳。瓶と杯を忘れずに拾い、酔っているにしては、しっかりした足取りでユースがその後ろに続く。
「分かっとるって。つーか、何でおれがここにおるって知ってたんや?」
「見えてたから。あ、そうだ、もう一つあんたに言わなきゃいけないことがあった。いや、することかな?」
「? なんや?」
結芳の横に並んだユースのその広い背中に、
「自分の妹の晴れ舞台ぐらい、ちゃんと最後まで見てろぉ!」
容赦ない平手打ちが叩き込まれた。