二章(3)
「うわぁ……」
「とても賑やかね。東陽より凄いわ」
青海港の街を二人は目を丸くしながら歩いていた。アヒルを売り歩く男、魚がいっぱいに入った桶を担いで歩く少年。広い道なので、端のほうで幾つものグループが芸を披露していても迷惑にならない。二人が目にしたことの無いものが、この街にはあふれていた。
「ここが東大陸最大の街って本当かも。さっき通り過ぎた広場での演奏。あれも、西のものだよね?」
「ええ。学校で習ったけど、たしかライアっていう国の西部に伝わる伝統楽器だったと思うわ」
「銀星さんのようなこっちの服を着ている人とか、え、あれって一枚の布? 暑そう。うん、向こうの服とか、私みたいにスカートをはいてる人もけっこういるね」
「そうね。家も、こっちと同じ木造が多いけど、外観の装飾に東大陸では見ないものが使われてるわ。石造りの家もあるわね。ほんと、はじめて見るものばっかり」
(ここにいる人にとっちゃ、銀星さんが「はじめて見るもの」だろうな〜。でも、それにこの人は気づいてないんだよね)
結芳は苦笑しながら、そっと銀星の顔を見た。さっきから、道行く男たちがすれ違ったあとに、驚いて振り返って、時には立ち止まって見とれている。しかし、相手が隣にいるような男が見とれているような場合もあるようで、時々後ろから乾いた音と悲鳴が聞こえている。だが、銀星は聴こえていないのか、一度も振り返らない。
(美人だっていう自覚が無いんだから)
「結芳ちゃん、このお店? 飛竜さんが言っていたお薦めのお店って」
忍び笑いを漏らしていた結芳はいきなり話しかけられてドキッとした。不思議そうに自分を見る銀星に慌てて頷く。
「あ、はいはい。そう、ここ。『シーモア』。結構有名なんだって。なんでも、豚肉をすんごく薄く切れる人がいるとか」
「そうなの。それは凄いわ。どうしても豚肉って分厚く切れちゃうものなのに」
二人がこれから入ろうとする店は、木造二階建ての大きな料理屋だった。開け放たれた窓から店内にいる人たちの話し声が聞こえる。時には豪快な男達の笑い声が交じり、なかなか騒がしそうだった。
「ねえ、銀星さん。あの看板に描かれている、龍みたいな蛇みたいなのって何?」
「ああ。あれは確か、シー・ルイージャっていう精霊よ。西大陸で航海の安全を守る神として、奉られているらしいわ」
「へ〜」
「それじゃあ、入ろうか」
「はい。どんな料理があるのかな〜?」
店内は思った以上にうるさかった。客が入ってきたのを見て、女性の店員が現れたが、銀星を見て思わずといったように目を丸くした。
「い、いらっしゃいませ。お二人さま、ですか?」
「はーい」
「で、ではお席にご案内します」
少しぎこちない動きで二人を席に案内する店員。二人を見て客が声をあげる。
「ヒュ〜。すっげぇ美人やないか。銀色の瞳ゆうのも珍しいやん」
「あ、あんな人はじめて見るよ、僕」
「あとで、ちょっと声かけてみようぜ」
「あっちの背低い方もなかなかの上玉やで。東にはあんなええ女がおんのか」
奥の席に案内された二人は、早速品書きに目を通す。それを男達は遠巻きに眺めた。
「さすが港町。海の幸が豊富だ〜。ついでに安いってのがまた嬉しい!」
「ほんと。この『海老の二色盛り』っておいしそう。あとは『蟹身と干し貝入りふかひれ』でも頼もうかな。結芳ちゃんは?」
「う〜ん。父さんが絶対食えって言ってた『豚肉の蜂蜜づけ』と、『蟹身入り小龍包』と『福餅多桃』ってかわいい。これも頼もっと」
「すいません。注文お願いします」
「はい」
注文を描いた紙を持って、店員が厨房の方へ向かう。二人が地図を出して、次にどこへ行くか話していると、がたいのいい大男が二人、酒瓶を手に近づいてきた。
「よお、姉ちゃんら。ちょいっと俺らに付き合ってくんねえか?」
「なぁに。変なことしようってんじゃねえよ。ちょっと酌してくれりゃいいだけだからよ」
二人は一瞬顔を見合わせると同時に言った。心から謝る銀星に対して、結芳はあからさまに不快な顔だった。
「ごめんなさい。お断りします」
「断る。絶対、嫌」
「まあそう固いこと言うなって。ちょっとだけでいいからよ」
「嫌って言ってんだから止めといてやれよ、おっさん」
銀星に向かって手を伸ばしかけた大男の後ろから、皿を二つ持った紅毛碧眼の若い男が声をかけた。
「嫌がる女を付き合わそうってんじゃ、モテねえぞ」
「何だと、この小僧!」
殴り掛かってきた大男を軽々と交わすとその足をさっと払った。大男は派手な音を立てて床に倒れ込んだ。
「おいおい。おれは今注文されたもんを運んでんだぞ? こぼしたらどうしてくれるんだよ」
(こいつの動き、すっごい無駄がない。どうしたらあんな風に自然に避けれるんだろ)
結芳はさっきまでの不快な気持ちも忘れ、素直に男の動きに感心してしまった。
「お待たせしました、お客様。『蟹身と干し貝入りふかひれ』と『蟹身入り小龍包』でございます」
「あ、ありがとうございます」
「早っ!」
男は二人の前に皿を置いた。どちらも形は崩れておらず、盛られたそのままのようだった。
(確かに無駄がない動きで凄かったけど、それ以上に料理が皿の上を動いたあとがないってのに驚くわよ。すごいなぁ)
「てめえ! 何しやがる!」
ハッとすると、もう一人の大男が酒瓶を若い男の頭に向かって振り下ろす。両手が自由になっていた若い男は振り下ろされた腕をしっかりと受け止めると、酒瓶を取り上げ、その腕をねじり上げた。
「い、痛てえ!」
「まあ、人間酒が入れば喧嘩したくなるようなもんだろうけどな、おっさん。店長としちゃあ、店で暴れられんのは歓迎できねえんだよ。片付けも面倒だしな」
「君も他人のことは言えないんじゃないかい、ユース。君だってあちこちの店でなにかと喧嘩騒ぎを起こしているじゃないか」
突然、柔らかい声が聞こえた。その声は銀星達の右斜め前の席に座る、十八ごろの男から発せられた。
(金色の髪……。東大陸ではあまり見ない髪の色ね)
「人聞きの悪いことを言うな、昴。あれらは全部、正当防衛だぞ? 向こうが突っかかってきたんだから、まあしょうがなくだな」
「ははっ。ま、なんとでも言えるよね」
「なにげにひどいな、お前は」
ちょうどそのとき、厨房の方からユースを呼ぶ声が聞こえた。おうと返事をして、腕をねじり上げていた大男を床に突き飛ばす。
「それでは、お嬢様方。ごゆっくり」
銀星達に一礼してから、まだ床で呻いている先に倒した大男の手を、さりげなく踏みつけて厨房の方へ帰って行った。
「どっちがひどいんだか」
昴と呼ばれた男は、苦笑混じりにつぶやいた。銀星は珍しい金髪を持つ昴の顔をまじまじと眺めてしまっていた。その視線に気づいたのか、昴がふと顔をこちらに向けた。けげんそうなその顔を見て、ハッとすると銀星は慌てて会釈をして料理の方に向いた。
「おいし〜。ちょっと甘いし、蟹身がいっぱいだ〜」
結芳が満面の笑みを浮かべて小龍包を食べている。もふもふと幸せそうにほおばる結芳を見て、小さく笑うと自分もふかひれに口をつけた。
「わあ、とてもおいしい」
「ほんとだよ〜。父さん筋の情報だったから少し疑ってたけど、珍しく正解した!」
「そんな言い方しなくても」
微苦笑を浮かべる銀星に、結芳は手を大きく振って否定する。
「いやいや。ほんっとにあの人の言うこと当てにならないの。父さんは立派だとは思うんだけど、噂を信じやすいって言うのがねー。玉にキズ」
「そうなの? そんなふうには見えなかったけど」
「そう。そんな風には見えないの。でも、なーんどあの人のせいで危険な目にあったことか。その度にお母さんに叱られるのに、またやっちゃうんだよ、これが」
「ふふっ。私の家ではお姉ちゃん……明蘭お姉ちゃんと秀礼お兄ちゃんがそうだったかな。お父さんもお母さんも、仲が良かったし」
「う、ごめんなさい。考えなしで」
俯く結芳に銀星は小さく頭を振った。家族のことを思い出して悲しくないわけではないが、結芳が話す姿を見ているとほんとうに楽しそうで、こちらも明るい気分になるのだ。
「いいのよ、気にしないで。愛藍さんと飛竜さんは昔からそうだったの?」
「お待たせしました。『海老の二色盛り』でございます」
「あ、ありがとうございます。結芳ちゃんも食べる?」
「え、いいの? じゃ、少しだけ。うん、記憶に残っている頃からそんなんだったよ。だからそうじゃない二人なんて想像できないや。まあだから、私たちもこんなんになっちゃったんだろうけどね」
「愛藍さんは嘆いていたわよ。なんであんな落ち着きない子に育ってしまったのかって」
「それは、あなた達が悪いってことで」
「ふふっ」
「大変遅くなりまして申し訳ありません。こちらが『豚肉の蜂蜜づけ』と『福餅多桃』でございます」
「あ、はい。ありがとうございます」
「うわぁ。本当に薄い。銀星さんも食べて、食べて。これもおいしそうだよ」
「そう? それじゃ、お言葉に甘えて」
銀星も豚肉を一枚持ち上げる。結芳は表、裏、とひっくり返したりしていたが、蜂蜜にそっとつけてそのまま口に入れようとする。それを見て、先ほどの昴という青年が結芳に声をかけた。
「あ、だめだよ。それは蜂蜜にひたしたあと、このパンっていう西大陸の主食に挟んで食べるんだ。そうしないと蜂蜜が垂れてきちゃって大変だよ」
「あ、そうなの? じゃあさっそく、と」
結芳は昴にいわれた通り、蜂蜜をたっぷりつけた豚肉をパンに挟むと、一気に半分ほどを口に入れた。
「ん〜。甘い! このぱんも、もちっとしてて柔らかい!」
「ははっ。君は本当においしそうに食べるね。ユースもそう言ってもらえて嬉しいと思うよ」
「え、これあの人が切って作ったんですか?」
「そうだよ。親が豚肉を薄くきれいにスパパッと切っているのを見て、自分もあれぐらいになりたいと思って練習したんだって。ああ。あと、ユースは、まあ名前からもわかるように、西大陸の人間なんだ。西大陸の人たちは手先が器用な人が多いっていうのは知っていると思うけど、彼が例に漏れず、手先が器用だったということもあるだろうけど」
「そう言えば、前に一度父さんがお母さんに『また私に迷惑をかけた罰よ。西大陸製の銀細工のブローチをちょうだい!』って言われて高いって嘆いてたけど、それもやっぱり細工がきれいだから?」
「それもあるだろうけど、向こうの方が質のいい銀がとれるっていうのが一番の理由かな。その代わりというか、織物の技術はこっちの方が高いけど」
「なるほど。ところで、どうしてえっと……昴さん? はそんなに詳しいんですか」
「それは、僕の実家が装飾品を扱う店をしているからだよ。手作りの一点物が多いかな」
「あ、そういうお店が友達から聞いたことがある!」
「それは嬉しいね。将来的には店を継ぐつもりだから、ここにある商業高校に通っているんだ。今日から三泊ぐらいの予定で家に帰るつもり。ほら、だからこんな大荷物なんだ」
足下の荷物を指差して苦笑した。
「え。あの、列車の時間とか、大丈夫なんですか?」
「うん、僕は夕方の便だからまだ大丈夫」
そして今まで見聞きしてきた色々なことの、たわいない話をしあった。銀星たちが料理を食べ終わる頃、ユースが声をかけてきた。
「ところでさっきから気になってたんだが、お二人さんこれからどこに行くんだい。昴並みのそんな大きな荷物持ってさ」
「ああ、僕も気になっていたんだ。聞いてもいいかい?」
二人は顔を一瞬見合わせ、お互いに「詳しいことは絶対に言わない」ということを確認して、答えた。
「西に住んでる私のおじさんとこに行くんだよ。いい加減こっちへ越して来なって言いに」
「へえ。でも、どうして君達が? 女の子が行くには、今の西大陸はけっこう危険だよ。伝書の使役魔を使えばいいんじゃないのかい」
「分かっていますけど、私たちが行かなきゃいけないんです」
「ふ〜ん。何やら事情ありって感じだな。ところで、船はあんのかい」
「ううん。これから探すつもり。あと、お金も西大陸用に変えなきゃいけないから、換金場所も探さなきゃね」
「なんなら、いい奴紹介してやるぜ。信用もできる」
「え、なんか怪しい」
「結芳ちゃん、そんな言い方しちゃだめよ。ありがとうございます。助かります」
胡散臭そうにユースを見る結芳を銀星がたしなめる。それを聞いて結芳は少し眉をひそめて、銀星に悟られないように小さくため息をついた。
(お母さんから聞いてはいたんだけどね。こんなあっさり人を信じるって、よく今まで無事でいられたもんね。心配だけど、私が気をつけときゃいいか)
「気にしなさんなって。昴、お前も来いよ」
「いいよ。まだ時間もあるしね」
「あ、でもお店の方はいいんですか。店長のあなたがいなかったら」
「大丈夫だよ。あいつらならたいていのことは自分たちで処理できるしな」
そう言うとユースはひょいっと二人の鞄を持って、店の出口へ向かった。
「え、あ、ちょっと待ってください! お会計しないと」
「あんた、ちょっとせっかちすぎ。でもごちそうさま!」
入り口のところで店員に伝票とお金を渡す。
「ま、毎度ありがとうございましたー! 店長、できるだけ早く戻ってきてくださいよ」
「おー、分かってるって」
軽いため息をつく従業員に手をヒラヒラっと振りながら答えた。
「待ってくださいって」
「荷物持ち逃げすんなっ、こら!」
「人聞きの悪い嬢ちゃんだな。そうだ、昴。お前荷物持ってんだからこの嬢ちゃん達について行ってやったらどうだ?」
「何をいきなり。彼女達を見送るぐらいまでならついて行ってもいいけど、僕は夕方には帰るんだよ。久々に家族にも会いたいしね」
「お前、ほんと男らしさってーの? がねえよなあ」
「君は僕が傷つかない人間だとでも思っているのか?」
「いいじゃねえか。気にすんなよ」
ユースが笑って昴の方を向いた瞬間。すぐ近くで悲鳴が聞こえた。四人がそちらを向くと、黒い布で体をおおった長身の人間が、血の滴る偃月刀を持って立っていた。その周りには血を地面に染み込ませて、何人も倒れていた。
銀星は息をのむと、小さくつぶやいた。
「お姉ちゃん……」
「なんだって?」
「お姉ちゃんって、一体どういうことだよ」
「あれが銀星さんのお姉さんか」
銀星の意外な言葉に驚きの声を上げる昴とユース。結芳は緊張した顔で白い指輪を取り出した。
(なんて殺気。一体どんなことをしてきたらこんな風になるんだか)
夜叉は銀星の姿を捉えると偃月刀を振り、極小さく唱えた。それは、一瞬にして多くの命を奪った。
「烈火」
「っ! 青嵐‼」
刀の軌道に合わせて膨大な炎の渦が現れ、悲鳴を上げて逃げる人々を飲み込んだ。辺りは一気に、地獄さながらの凄惨な状況になった。結芳が間一髪で防御の呪文を唱えたので四人は焼死することをなんとか免れたが、衣服などの一部がこげた。
「……!」
結芳がさっきまでいたほうに目をやって息をのんだ。ユースもつられてそちらに目をやる。彼が店長を務めていた店は、もはや跡形も無く焼けてしまっていた。中にいた客も従業員も皆、死んでいた。
「大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫、です」
銀星は胸を抑えて喘ぎながら昴に答えた。その背中を優しくさする昴の手もわずかに震えていた。
「おい、てめえ。よくもやりやがったな!」
ユースはそう叫んで指先のない手袋をはめると、夜叉に飛びかかった。
「ちょっと待ちなよ! あんた、死ぬぞ!」
「火炎‼」
結芳の忠告も無視して、火の呪文を唱えた。手袋から炎が吹き出し、ユースの拳をおおう。
夜叉の偃月刀が真っ直ぐにユースの首を狙う。だが、それが届く寸前、ユースの体が銀星達の方へ引っ張られた。同時に、昴が放った紫電が夜叉の腕に刺さる。
「なにすんだ、小さい嬢ちゃん。てめえ、おれを殺す気か⁉」
「小さいって言うな! あんたじゃ敵わない相手なんだよ、あの女は。それに、あの女は殺しちゃだめなんだよ」
「なに?」
ユースが結芳の術からはい出そうともがきながら訊いた時、銀星が一歩前に踏み出して夜叉に呼びかけた。
「止めて、お姉ちゃん!」
「銀星さん」
昴が引き戻そうとするが、銀星はその腕を払って、もう一歩夜叉に近寄った。
「もう止めて、お姉ちゃん。そして、私の話を聞いて。お願い」
だが夜叉はかまわずに鎌鼬を投げつけてきた。昴が銀星を押し倒すようにして伏せさせる。後ろで、誰かの悲鳴が聞こえた。
「お、お姉ちゃんは知らないかもしれないけど、今この世界は不幸の波に覆われ始めている、そういう時代なの。私たちでそれを払わなきゃいけないの。私は〈暁の者〉の化身でお姉ちゃんは〈黄昏の者〉の化身だから。だから、もう人を殺すのは止めて! 一緒に神樹のところへ行こう!」
銀星はやっとの思いでそれだけを言ってのけた。だが、夜叉は鼻を一つ鳴らしただけだった。
「何を言うかと思えばそんなことか」
「そんなことって」
「知っている」
銀星が続きを言おうとするのを遮って、夜叉は淡々と告げた。
「え?」
「知っているさ。今この世界が不幸の波に覆われようとしているのは、時の流れにあやかった師匠が起こしたものだ」
「……え?」
「俺が〈黄昏の者〉の化身であることも知っている」
銀星は自分の耳が信じられなかった。
「そ、そんな。それじゃあ、お姉ちゃんはこの世界を不幸にしている人に従っているの? 自分が〈黄昏の者〉であることを知っているのに?」
「そうだ。俺は師匠の計画の最後の駒だ。俺のこの力は、師匠の野望を叶えるために使う」
そう断言した夜叉は呆然としている銀星に向かって行った。と、ユースの呪文を唱える声が聞こえた。
「火遁!」
辺りに凄まじい砂埃が舞う。その中で銀星は腕を誰かに引っ張られた。
「こっちだ、銀星さん」
腕を引っ張ったのは昴だった。そのまま銀星は引きずられるようにして昴のあとを行く。
「とりあえず、港に行って船に乗るんだ。そうすれば、移動しながらでも僕とユースの術で守れる」
「しっかし、とんでもねえ女だな。なんなんだよ、あれは」
「銀星さんのお姉さん」
「それはさっき聞いたよ」
「私もそれ以上はよく、知らない」
結芳がちらっと銀星を見る。銀星は青い顔をして何も話せないようだった。
「よし、あと少しで港だ」
昴がそう言ったとき、頭上からなにかが降りてくるのが分かった。
「危ない!」
「火柱!」
結芳が銀星を突き飛ばすのと同時に、ユースが術を放つ。銀星の首を狙っていた偃月刀は結芳の腕をかすめ、ユースの攻撃は防御の術で躱されてしまった。
「結芳ちゃん!」
「だ、大丈夫。それより、今の術は何? 武器に風が引っ付いてるなんて。あれって飛んでいくモノじゃないよね」
「あれは秋水だ。殺傷能力が格段に上がる。厄介だね」
「一体どんだけの攻撃系術と契約してんだよ」
銀星たちが荒い息をついているのに対し、夜叉は涼しげな顔をしていた。ここに来るまでにも人を切ってきたのか、偃月刀に付いている血は舐めらかに刀身を滑っていた。
「同じ手は二度と食わんぞ」
「くっ。あと少しだっていうのに」
昴が唇をかんで言う。確かに、この道を真っ直ぐに突っ切れば港なのだ。もう船の姿も見えている。
(いっそ海に飛び込むか?)
ユースが自身の左を見る。二十歩も行けばそこは海だ。しかし、その暇を与えぬと夜叉が迫ってきた。
「青嵐!」
結芳の指輪から竜巻めいた大風が吹き出した。弾き飛ばされた夜叉は空中で姿勢を立て直すと、元いた場所に降りた。
「結芳ちゃん、無茶なことしないで。怪我してるんだから」
「大丈夫だよ。それに、今防がなきゃ死んじゃうしね」
傷口を押さえ、苦しげでありながらも結芳はなんとか笑顔を作った。そのとき、ユースが視線は夜叉から外さずに小さく二人に言った。
「おれと昴で抑えておくから、その間に左の道を行くんだ。そんで、赤いシー・ルイージャを旗にしてる船に乗れ。これを見せりゃ、乗せてくれっから」
ユースが銀星に渡したのは手の平サイズの粘土板だった。真ん中に何やら文字が刻まれている。
「そんな! お二人を残してなんて行けません。それにお姉ちゃんは私でないと」
「聞こえている。そんなことをしても俺は止まらん。そいつが逃げるなら、俺はどこへでも追って行く。無駄なことだ」
「君が熱くなることも、それと同じくらい無駄なことだとぼくは思うね」
聞いたことのない、妙に落ち着いてのんびりした声が聞こえた。いつの間にか、夜叉の背後に男が一人立っていた。この場には似つかわしくない不自然な笑顔で、男が口を開いた。
「そうだろ? 夜叉」
「……ストレイアか。何の用だ? この街は俺が任されているはずだ」
「そのはずなんだけどね、夜叉。どうもイラ族の残党が命と引き換えに大量の使役魔を呼び出しちゃったみたいなんだ。ぼくたちを討ち滅ぼせって言う命令を添えてね。だから、大至急そっちに向かって欲しいってさ」
そこではじめて夜叉は視線をストレイアの方に向けた。
「使役魔に関してはレミリアの担当だろう。あいつには頼まなかったのか」
「レミィは今、ジルカスカ公国崩壊の最後の仕上げに取りかかってて手が離せないんだって」
「ジルカスカ公国を崩壊させる? バカな。あの国は屈強な兵士をそろえてるし、治安がいいことでも有名だ。あんな国を崩壊させるなんざ無理な話だ。どんな使役魔を使ってもな」
ユースが声をあげる。ストレイアは肩をすくめて、それができるのさと言った。夜叉も、不承不承と言った感じで、ストレイアの後を継いだ。
「レミリアはいけ好かん女だが国を崩壊、滅亡させることに関しては天才だ。あいつが関わって滅びない国はない」
「という訳で夜叉、急いでアペリア山脈に行ってくれる? 劉はもう向かってるからさ」
「その女を殺してからな」
「悪いけどさ、そんな時間無いよ」
ストレイアはそう言うと、火矢を上空に向けて射放した。
「あれ、ここの中心に向かって飛んで行ったんだ。って言ったらなにか分かるよね」
夜叉は火矢の飛んで行った方をちらりと見ると、小さく舌打ちをすると身を翻した。もう一度布を被ると方舟を呼び出し、西大陸へと向かった。
「あっ。ちょっと、どこ行くんだよ!」
結芳は夜叉に声をかけるが、昴とユースは飛んで行った火矢を見て、顔を青くした。
「まさか、あれは……」
「あと十五秒ぐらいじゃないかな?」
昴のつぶやきを受けて、ストレイアが言った。その顔は変わらず笑顔のままで、昴は背筋が寒くなった。
「っ!」
二人はそれぞれ銀星と結芳を抱えると、迷わず海に飛び込んだ。
直後。青海港の街を炎が覆った。それを四人は何も言えずに、海から眺めていた。
「攻撃系術最大の位、紅蓮。まったく、『紅の悪魔』にふさわしい術だ」
上空で夜叉が小さく呟いた。こんな、街一つを一瞬で潰すような大規模の術を使って平気な顔をしているのは、おそらく世界中を探してもあの男だけだろう。銀星を視認した夜叉は心の中で言った。
(そうだ。せいぜい頑張って生きろ。俺に殺されるためにな)