八章(3)
「なに、あいつ。とうとう頭いかれた?」
その揺れで目を覚ましたのか、ユースの背中で結芳が疲れの抜けきっていない声で言った。
「お、起きたか結芳」
「ん。あんまりいい目覚めじゃないけどね」
「だろうな。この状況でいい目覚めと言えるやつの気がしれん」
「はあ?」
夜叉のセリフに結芳が噛みつこうとするが、それより先に夜叉へ呼びかけた者がいた。
「いいのか? 〈暁〉に〈黄昏〉の娘たちよ」
「何がです」
夜叉が答えた。その口調が敬語のままであることには、誰も何も言わなかった。
「もっと焦らなくていいのか、ということだ」
「あなたが何をなさっているのか分からなくては、うかつに手は出せないでしょう」
「なるほど、正論だ。では教えてやろう。私が何をしているのか? 世界の崩壊を加速させているのだよ」
「なに⁉」
「そんな!」
真っ先に夜叉と銀星が反応し、あとから他の面々も口々に何かを言う。
「はははっ。どうした、貴様ら顔色が悪いぞ、ん?」
こちらの顔色が変わったのを見て、男は愉快そうに笑った。明らかに、先ほどとは態度が異なる。銀星たちの行動が、男の何かのスイッチを入れたのだろうか。
「それが分かった以上、手をこまねいている必要などない!」
夜叉が飛び出した。偃月刀が琥珀色の炎に包まれる。男の姿がかすんで見えるほど黒く染まった視界の中で、その色はとても鮮やかに映った。
その炎を見て、さすがに男は表情を歪めた。自分の右手にあるものを、砕いたのだから。
いや、もう一つ、男のプライドもこの炎は砕いた。
「え、なに、あのきれいな火」
結芳が目を大きくして、劉の方を見た。すると、なぜか劉が誇らしげに胸を張って答えた。
「あれが、夜叉の中に眠っていた〈黄昏〉の者の力や。あれで、それまでびくともせんかった古竜の黒玉を砕いたんやからな」
「〈黄昏〉の者の、力?」
銀星が小さく呟いた。そして、自分の蒼穹を見た。
琥珀色の炎が夜叉の、銀嶺の持つ〈黄昏〉の者の力が顕現したもの。なら、私のは?
さっき、あの穴を消し去ったとき、使ったのははあくまで蒼穹の力。私の中にあるはずの〈暁〉の者の力は?
「っと、こうしてる場合とちゃうわ。早よ、夜叉の応援に行かんと」
ハッと我にかえったような顔で、劉が方舟を発進させようとする。それを、慌てて銀星が止めた。
「ダメです! あの人は皆さんのような普通の人でかなう相手じゃありません! 私が……私とお姉ちゃんが倒しますから、皆さんはここを動かないで下さい!」
「ええ?」
「いや、それはさすがに……」
四人が抗議する。
「そいつの言う通りだ! 貴様らは下がっておけ!」
遥か前方から夜叉が叫んだ。劉が不満顔で方舟を少し前へ動かしたとき、突然息ができなくなった。まったくできないのではないのだが、それがむしろ苦しかった。銀星と夜叉以外は、劉と同様、苦しそうに身をよじり首を掻き毟っていた。
「なっ!」
「みなさん⁉ どうしたんですか?」
言ってから気づいた。四人の顔の周りだけ、黒い空気が濃く渦巻いている。
まさか、と思いつつも、その空気を祓うように(人には刺さらないように)蒼穹を放つと、思った通り、多少咳き込んだが、四人はその空気から開放された。
「なるほど、あなたはこの空気を操っていたのですね。今のように窒息させることも、俺の攻撃を防ぐこともできる」
そう。さっきからまったく攻撃が当たらないのだ。攻撃されているとは思わないが、こちらの攻撃が当たらないのでは無意味だ。
夜叉が言うと、男は愉快そうに口を歪めた。
「空気? そう言うと語弊があるなあ、夜叉」
「……では、なんだと言うのです」
男が愉快そうに笑えば笑うほど、夜叉には不快感が募る。喉の奥で笑いながら、男は答えた。
「混沌だ。混沌」
「こん、とん……?」
「そうだ。貴様も聞いたことがあるだろう。この世界ができた時のことを」
『混沌の空間があった。』
『龍尭は混沌の中にいくつもの雷撃を降らせ、一部の混沌が次第に形を持ち始めた。』
『固まった混沌は、三人の神によって作り替えられた。』
『混沌は海におおわれ、そこから陸地が生まれた。』
『そして大地海洋の遥か上空には、暗い混沌を隠すように蒼い空が広がっていた。』
「まさか……」
「うそでしょ……」
二人が絶句する。つまり、世界が崩壊し始めたことで、それまで封じ込められていた混沌が吹き出したと。そしてそれを、男が操っていると……。
「しかし、そんなものをあなたが操れるはずが」
「そうだ。普通の人間にはな。だが、私には操ることができるのだよ! 自由に!」
優越感溢れる声音で男はそう夜叉に言った。それを聞いて、夜叉は小さく歯ぎしりをした。
(操れるはずがないものを、師匠なら操れる。まるで、古竜のようだな)
「私なら操れる。なぜか。それは私が優秀で偉大な魔術師だからだ!」
「は?」
「魔術師? なにそれ」
「ほら、言うとったやんけ。ストレイアとか言うたあいつが。『主様は史上最高の魔術師だ』とかなんとか」
男の意外なセリフに、いや聞き覚えのない単語に、皆が首を傾げた。ただ、ユースだけがその単語に反応した。そして、ユースのそのセリフに、もっと反応したものがいた。
「そうだ! 私は非常に優秀な魔術師だった! 王にも、大臣にも、そして国民にも! いいや、世界中の人間から尊敬され、称えられた魔術師だった!」
そして、ふっと男は憐憫の表情を浮かべた。
「魔術と言う学問は、貴様らにはなじみがないだろう。私が力をためている長い年月の間に、廃れてしまったようだからな。あれほどすばらしい学問が廃れてしまったのは惜しいが……私の計画にとっては好都合だった。どの人間も先天的に持っている力を魔力と呼ぶ。そしてその魔力と、今も貴様らが使っている術とを組み合わせた学問が魔術なのだ」
男は、自らの過去を回想する。
* * *
私は千年以上昔の世に、貧民街で生まれた。
母は娼婦で、私の世話などろくにしなかった。
父は賭博師だったが、半分は運に頼っているような小物だった。
そんな二人が親だったから、自分のものは自分で調達しなければならなかった。似たような境遇の者たちと毎日ドブをさらい、時には人を襲い、日銭を稼いでいた。
それが、私が十になる頃、突然変わった。王宮から迎えが来たのだ。私には魔術の才能がある。そう言って。
そして、私は国立の魔術専門学校に入った。一年も経たないうちに基礎を習得し、次々と高度な魔術を、私は自分のものにしていった。
当時、私はある男を先生と呼び、慕っていた。先生は、国のトップの魔術師で、世界でも五本の指に入ると言われていた。私は彼の存在を知ると同時に弟子入りを志願し、先生は私の才能を見抜き、その場で私を弟子にした。
スポンジが水を吸収するように、私は猛烈な勢いで魔術を極めていった。二十の頃には学校の教壇を任されるようになり、二十代後半で、王宮入りを果たした。
三十をすぎた頃。ある日、私は王宮の図書館で、巧妙に、そしてとても厳重に隠されていた一冊の魔術書を見つけた。その中身は大変素晴らしいものだった。
『今ある世界を破壊し、新たな世界を構築する』方法。さらに、その本には、新たな人類の創造の方法まで載っていた。
私は飛んでいって、先生に報告した。当時、我が国は他国と戦争状態にあったから、これで我が国の国民だけを残して世界を滅ぼせば、世界全てが我が国土となる! 私はそう力説した。
だが、先生は頷かなかった。それどころか、むしろ私を説得しようとしたのだ。こんなことは止めておけと。必ず後悔するからと。
何故だ! 当時の私には、自分が神になりたいなどという野望はなかった。なのに先生は止めておけと言うのだ。
そのとき、私は気づいたのだ。先生は出来ないのだと。世界を滅ぼすなどというのは、神に対する冒涜だとかくだらないことを言って、自分ができない事をごまかそうとしているのだと気がついたのだ。
そして、私はそいつを先生と呼ぶのを止めた。アンタが出来ないなら、私がやる。そう言って私はその場を辞した。他の魔術師など、私より遥か下の存在だったから、最初っから当てにしていなかった。私は、ひとりでもやる覚悟だった。
だが、奴は卑劣で下劣な奴だった。
その夜、私が眠りについたところを襲ってきたのだ。いま思えば私も甘かったものだが、当時の私は奴を先生と仰ぐのは止めたが、人間としては信頼していたのだ。
奴は、その信頼を裏切ったのだ‼
そして奴は、私の魔術師としての能力を奪った、いや、封じ込めた。さらに、奴は私を国から追い出した。二度と魔術に関わるなと言って!
もちろん私は、その術を解く方法を知っていた。知っていたが、それにはたくさんの供物が必要だった。しかし、私は奴によって、魔術のまの字も知らんアホ共の暮らす地へ飛ばされていた。そこでは必要な供物が手に入らない。術が使えなければ、いくら優秀だとしても、王や大臣たちから尊敬されていようとも、ただの人でしかない。自力で脱出する機会を探し、そこでの冷遇に耐えていれば、今度はたまたま訪れたというある貴族の目にとまってしまった。毎日毎日鞭打たれ、奴の寝所で夜の相手をさせられ、流行病に罹ったと分かれば、さっさと捨てられ……。
酷い屈辱だった。何故、私のように、世界中の人間から称えられるべき人間が、あんな目に遭わねばならないのか。あんなことは、もっと卑しい人間がするべきことだ。私は自分の運のなさを呪った。だが、これで終わりではなかったのだ。
次は戦争だ。戦争に巻き込まれ、関係ないのに捕虜にされたのだ。奴らは人の言葉を解さない、血に飢えた獣でしかなかった。知性や理性などという言葉とは、まったく無縁の奴らだった。そんな奴らだったから、私を好きなだけ殴り倒したあとにこき使い、ろくに飯も食わせなかった。
過労と栄養失調で私が倒れて動けなくなったとき、その場所で戦いが起こった。私は人や馬に蹴り飛ばされ踏まれても、動けないほどに衰弱していた。その頃には、もはや私は自分の運命を呪わなかった。世界を、神を呪ったのだ。このままでは死んでも死にきれん。
呪い、憎み、怨み…………。そしてふと、あの魔術書を思い出したのだ。まったく、何故そんな時まで忘れていたのだろうな。
今ある世界の破壊、新世界の構築、そして、新人類の創造! 自分で世界と人類を創れば、私は誰からも不当な扱いを受けることはなくなり、それどころか、私の命令を聞く奴しかいない世界が創れるのだ。
素晴らしい、素晴らしすぎる!
だからこそ私は決意した。たとえ何百年、何千年かかろうとも、必ず叶えるてやると!
* * *
「その願いが、もうすぐ叶えられるというのに! なのになぜ! 貴様らは邪魔をするのだ! やっと、やっと、私が神になれる瞬間が近づいてきているというのに! なぜ貴様らは私の邪魔をするっ‼」
語り終えた男が、突如攻撃に転じた。
「ぐはっ!」
強烈な一撃が、夜叉の腹に叩き込まれる。吹き飛んできた夜叉を劉が受け止めるが、それでも勢いを殺しきれず、二人揃って数メートル飛んだ。
かと思えば、
「きゃあ!」
今度は、銀星が横へ張り飛ばされた。大きな手で体全体を叩かれたような感じだった。
「銀星さん!」
昴たちが前へ出ようとするが、それよりも速く夜叉が再び男へ向かって行ったため、その場に踏みとどまった。
「が、ぁ……!」
だが、偃月刀が男に届く前に、夜叉ののどが絞められる。昴たちの前に戻ってきた銀星が蒼穹を放つより先に、なんとか夜叉は自力で脱出した。
「はあ、はあ、はあ……」
男もさすがに息を切らしていた。あれほど喋り通していれば当然かもしれないが、それ以上に気持ちが大きく高ぶっているのだろう。
「ゲホっ、ゲホっ!」
「大丈夫か、夜叉!」
「ど、にか……な……」
夜叉は、首を絞めていた混沌から自力で脱出したとはいえ、正直、男を守っているあの混沌は破れそうにも無い。せっかく得た〈黄昏〉の力も、役に立たない。
どこかにつけいる隙はないか。そう思って、目を皿のようにして男を見る。
そしてふと、
「やっと、分かった気がするわ」
場が言いようのない緊張感に包まれる中、それを感じさせない穏やかな声が全員の耳に届いた。
「銀星さん?」
「ふっ」
いぶかしげな結芳たちを尻目に、男が小さく息を漏らした。
「そうだ。ようやく分かったか。お前たちは決して私には勝てない。私が神になる時は、もうすぐだ!」
高笑いする男に、銀星は同意も反論もせず、言葉を続けた。
「私の、この力の、使い方が」
「なんだと?」
「私があなたを可哀想な人って言ったこと、覚えてるよね?」
男の顔が歪む。
ユースたちが説明して欲しそうに昴を見るが、彼はは少し目線をさまよわせ、結局、唇に指を当てて、銀星の話を聞かせることで流した。
「人から愛をもらえず、裏切られてずっと生きてきた人。私は、あなたは天涯孤独の身で、独りで生きてきたんだと思っていた。でも、本当は違っていたのね」
「貴様の耳はただの飾りか? 私の話を聞いていただろう。私は今までずっとひとりで生きてきた。だが、それを憐れまれるいわれは何一つない! 共にいれば、足手まといになるか、裏切られるからな!」
「いいえ、違う!」
「何が違うんだ⁉」
「あなたには両親が! 共に支え合う仲間が! 競い合ったライバルたちが! 尊敬した先生が! たくさんの人があなたの周りにいた! あなたはさっき、自分の過去で〝そんな奴らはいなかった〟とは言わなかった。あなたは覚えているのよ、彼らのことを。あなたは、独りでなんか生きてこなかった!」
男の口から、呆れの溜息がこぼれる。
「阿呆か。〝いた〟ことぐらいは情報として脳に残っている。だが、どんな顔で、名前で、声で、話していたかなど、そんなくだらんことはいちいち覚えておらぬ。あんな低俗で下等な奴らのことなど、人として生きていた時から、まったく相手にしていなかったのだからな」
その言い草に、皆が殺気立つ。特に、夜叉は飛び出さんと身構えたが、銀星がそれを制した。
「ひとりでいることと、独りで生きるのとは、意味が違うと思うわ。あなたは、お姉ちゃん以外にも何人かを自分の配下としておいていた。身近に人をおいている時点で、あなたは孤独ではなかった。何度でも言ってあげる。あなたは、独りで生きてきたわけじゃない!」
「まだ言うか……!」
銀星のひとことひとことが、やけに男の癇に障る。
「そのふざけた口、今すぐ閉ざしてやろう!」
迫る重厚な混沌に対して、銀星が蒼穹を構えるよりも速く、夜叉が前に躍り出た。混沌を切り裂いた琥珀色の炎が、さらに男めがけて飛翔する。だが、男は腕の一振りで、その炎を消してしまった。
「チッ!」
「お姉ちゃん」
心配そうな顔の銀星に一瞥をくれる。
「ぐだぐだ話している時間はないぞ。それよりさっき言っていた、貴様が分かったという力は何だ?」
「……私の」
「ん?」
「私の中にある、〈暁の者〉の化身としての力」
「なに?」
「ホント? 銀星さん」
結芳がさっと目を輝かせる。
「うん。お姉ちゃんの持つ〈黄昏〉の力は『破壊する力』……だよね?」
「ああ。だから、俺はこの力で師匠も倒せるんじゃないかと思ったんだが、そう簡単にはいかないようだ」
「できてもしちゃだめだよ、お姉ちゃん」
「なんだと?」
「あの人は『破壊』で止まるような人じゃないし、『破壊』では止められない。ここは、私に任せて」
「そんな無茶な!」
夜叉本人からではなく、昴たちのほうから反対の声が上がった。
「危険すぎる。皆で一斉に……」
「そっちのほうが危険ですよ」
「けどよ」
「大丈夫です。今までずっと、皆さんに助けてもらってたので、今は……今だけは、私がひとりで」
そう言って、銀星は夜叉よりも前に立った。そして、静かに蒼穹を構える。蒼い光が収束し、銀星の手に一本の矢を握らせた。
「ねえ、一つ聞いてもいいかしら」
「この期に及んでなんだ」
「あなたは、人の愛情がどんなものだったか、覚えてる?」
唐突な質問。夜叉たちがその真意を量りきる前に、男は即答した。
「そもそも、〝愛〟などというものは、この世のどこを探しても存在しない。ただの幻想、夢想、妄想の産物だ」
またも殺気立つ周囲をよそに、銀星は小さく頷いた。
「やっぱり、そうよね」
「やっぱり、だと?」
「ええ。あなたは、ただ忘れてしまっただけなのよ。人から与えられる愛がどんなものか。人に与える愛がどんなものだったのか」
「は……」
銀星を見る男の目が、怒りから馬鹿にしたような、見下した目に変わった。
「何を根拠にそんなことを言う。貴様に私のことが分かるはずないだろう」
「ええ、そうね。でも、分かるの」
「ちょ、ちょっと銀星さん。なに言ってるの?」
結芳がこっそり耳打ちする。銀星は彼女に微笑んで返すだけで、また前を向いて話を再開した。
「〝愛〟とは何かなんて、答えられるものじゃないのは確かかもしれない。私も昔、お母さんに同じようなことを聞いたことがあるわ」
そのとき、花蓮は歌うように教えてくれた。
『それは美しく、また醜く。
時に優しく、また時に狂おしく。
自らを縛る呪いにも、至上の幸せの誓いにもなり得るもの。
生まれるときも死ぬときも、人はいつでも一人。
だからこそ人は、愛によって互いと出会う。
裏切りによって別れ、優しさによって赦す。
そしてまた人を愛するの』
あのとき花蓮が見せた表情こそ、〝慈愛〟と呼ぶにふさわしいと銀星は思う。母は、誰よりも優しかった。
「人から、特に両親から与えられた愛情っていうのはね、いつまでも残るものなのよ。だからふとした瞬間に、その時の気持ちを思い出して優しくなれる。どれだけ憎んで忘れようとしても、愛情を求め、探知するのは生物としての人の本能だもの。ただ、あなたの場合は、時間が経ちすぎてしまったみたい。それで、自分ひとりでは思い出せないのよ」
「貴様……。いったい何が言いたい!」
またも男は怒りで顔を朱に染め、片手を銀星に向かって突き出す。大量の混沌が銀星を押し潰そうと迫ってきた。だが、それに焦ったのは周りの人間だけで、当の本人は平然としていた。
「大きな憎しみは、時として小さな、何気ない幸福を飲み込み、忘れさせる。そう、大海に浮かぶ小さな木の葉が、波に飲み込まれ海底に沈んでしまうように。あなたも、忘れてしまっただけなのよ」
「ば、バカな! なぜ、潰れていない⁉ 何が遮っている⁉」
壁や盾があるわけじゃない。あるのは光だ。銀星が持つ弓と矢が放つ光。
「銀星さん……。それは、なんだい?」
「なにって、蒼穹ですよ。……まあ、『蒼』色ではないですけど」
そうなのだ。今まで銀星が使ってきた弓も矢も、色は空色で統一されていた。天の女神が祝福したという空色に。さっき弓を構え、矢が出現した時も空色だった。
なのに今は——東雲色。暁の色だった。
「あなたの話を聞きながらずっと、私に何ができるんだろうって、考えてた。〈暁〉の者としての私に、何ができるのかなって」
夜叉の——いや、今は銀嶺と呼ぼう——銀嶺が持つ〈黄昏〉の者の力は、全てを破壊し、終わりの願いを叶える力。では、銀星の力は? 銀星の持つ〈暁〉の者の力は?
「〈暁〉の者は生み出す者。それは、無からの創造だけじゃないって思ったの。雲が雨を降らすように、大地が花を咲かすように。あなたの埋もれた記憶から、与えられた愛、与える愛、人の愛情を思い出させてみせる!」
引き絞られる矢を見て、男は久方ぶりに、恐怖という単語を思い出した。自分が恐怖しているということを自覚する状況なんてものは、果たして何年ぶりか。何百年? いや、人であった頃から考えても、決して大げさではない。
(恐怖、だと? この私が? あんな小娘に? いったい何を、何に恐怖するというのだ⁉)
男は、本能に従って震える手を、その力で潰してしまうのではないかと、危惧するほど強く握りしめた。そうして、やっと震えを押さえ込んだ。
(ふん! では、やってもらおうではないか!)
逆に言えば、この銀星の攻撃さえ攻略できれば、相手に他に策はない。一発逆転はないのだ。男は薄い笑みを顔に張り付かせると、自身の周囲に混沌で壁を作り始めた。
「混沌を、蒼穹に耐えられるところまで固めるだと……? そんなことまでできるのか!」
油断ない目つきでこちらを睨んでいた夜叉が、男の意図に気づいて声をあげた。
「おい、無茶だ! 固まった混沌ということは、世界と同じぐらいの強度を持っているということだぞ!」
銀星に撃つのを止めさせようと、その肩に手を置こうとした。だが、銀星を包む東雲色の光に、思わずためらう。
「大丈夫。心配しないで、お姉ちゃん」
光は徐々に姿を変え、ゆらゆらと、だが決して弱くない炎となった。
「我、暁の名を抱く者」
銀星の声は、まるで赤子をあやす母親のようだった。
「永く生きてきた憂愁の旅人よ。今、我が名を以て貴方に始まりの愛を捧がん――」
そして放たれた東雲色の矢は、一つの世界とも呼べる混沌をあっさりと通り抜けた。そう、砕いたのでも割ったのでもない。言い表すとすれば、融解させた。東雲色の炎が触れた瞬間、混沌は自ら男への道を開いた。
* * *
男は自分に刺さる矢を見た。不思議と、痛くはない。そういうことでは、刺さったというよりも、溶け込んでくるという感じだ。
妙な気分だ。
崩れて行く自分の身体を視界に捕らえながら思った。右手に持っていた黒玉も、今度こそ完全に、細やかな破片となっていた。
なぜ、これほど穏やかな気持ちなのだ。たとえるなら、春爛漫。
長年の悲願が、叶う目前で破れたというのに、不思議と気分は落ち着いていた。悔しいとか憎いとか、そんな感じの気持ちは、一切ない。ただ、心のどこか、頭の片隅辺りでよかったと思っている自分もいた。それだけが、解せない。
(まあ、いいか……)
目を閉じれば、ある情景が浮かんでくる。
——両親とともに、街の郊外へ小旅行に出かけた時だ。ちょうど春の盛りの頃で、母とともに花冠を作り、父に肩車されながら、広い野原をゆっくり歩いた。
ああ、これは確か、私が三歳か四歳ぐらいの時だ。
この時はまだ、両親を慕っていたな……。
* * *




