七章(4)
「光耀球!」
なんてことない、ただの光の球を、古竜へ向けて蹴った。古竜の爪がやすやすと球を切り裂き、そして光が爆発した。
古竜が叫び声をあげた。大量の光が古竜の目を焼いたのだ。光はすぐに収まったが、古竜は目を閉じたまま、まだ暴れていた。
(今だ!)
夜叉はスピードを上げて、古竜の額を目指した。もうすぐ黒玉へ届くというときに、古竜の目がカッと見開かれ、黒い炎が夜叉を襲った。
「ぐああっ!」
皮膚が焼けたというよりも、鋭い剃刀のようなもので傷をつけられた感じだった。
(何だ、今の炎は。それにあの赤い目……。さっきまでとは何かが違う!)
止血は諦め、警戒の表情で古竜を睨みつけた。
古竜がまとう空気はさっきと一変している。先ほどよりずっと、邪悪な空気を放っている。血のように赤い眼が、その空気をさらに助長していた。それこそ、今、空に浮かんでいる月をそのまま持ってきたかのような眼だった。
『はっはっは。驚いているようだな』
「なんだ、どこから」
辺りにややしわがれた声が響いた。
『痛いだろ? 私の魔力で生み出した怨恨の炎だ』
声こそ違っていたが、思い当たるとすれば、
「まさか、師匠⁉」
つい、顔を古竜からそらしてしまった。古竜の顔が、明らかに笑みの形に歪んだ。再び放たれた古竜の炎は、夜叉の宙靴を狙っていた。
「くっ!」
宙靴の要である推進部を守ることはできたが、一部が溶けて、原型が分からないほど崩れてしまった。
(宙靴を溶かした……。それほどの高温ということか? いや、それなら俺の腕など、とっくに焼け落ちている)
『くっくっく。この炎が、どういう性質のものか計り兼ねているようだな』
気のせいではなかった。声は、目の前の古竜から発せられていた。
「師匠……あなたですか」
『私以外にいると思うのか?』
「……。一体、どうやって」
『私は何百年とこやつを使役してきた。もはやこやつの精神は完全に私のものであり、こやつの精神に私が介入することなど、朝飯前のことだ。……こやつの全身に我が魔力を流し込み、今のような炎を吐かせることもな』
そんなことが可能なのか。一瞬、そんな考えが夜叉の頭をよぎった。しかし、長年師匠と呼んで、慕ってきたから分かる。
(もはや古竜は、師匠だと思っていいだろう)
夜叉は歯ぎしりをしてうなった。
『貴様に私が止められるか? 夜叉よ』
「……必ず、止めますよ」
夜叉がそう言って偃月刀を構えると、古竜は口を開けた。吐き出された炎はまたも黒。夜叉は思わず眉をしかめた。
(今度はどんな種類の炎だ)
ひとまず、炎をぎりぎりのところでかわす。だがその時、夜叉は自分の不利がさらに大きくなったことに気づいた。
(宙靴の働きが悪い。ほとんどが溶けてしまったせいか!)
そして古竜も——古竜の目を通じて、男も宙靴の不調に気づいた。男は心中でほくそ笑むと、古竜に間を空けず、次々と炎を放たせた。
「くそっ!」
夜叉はやっとのことでよけていくが、スピードも落ち、バランスもとりにくくなっている。炎が身体をかすめ、傷が増えていった。
『無駄だ、無駄。貴様の動きは手に取るように分かるぞ。貴様のその動きは、殺人技術は、一体誰が教えてやったものだと思っている?』
「うああ!」
ついに、左腕がまともに炎に巻き込まれた。黒こげに近い状態で、嫌な匂いが、夜叉の鼻をついた。
「ぐ、はっ、はあ」
焦げた部分に直接触れるのはためらわれ、だが何もしないのも耐えられず、ただ肩に爪を立てて、痛みをこらえる。
『貴様を殺す前に、一つ聞いてみたいことがあるんだがな、夜叉』
「……?」
『貴様は、何をしている?』
「何、を……?」
わずかに首を傾げる。聞かれている問いの意味が分からない。
『そうだ。貴様は今、私に歯向かっている。何故か。〈暁〉とともに世界を救うためだ。おかしなことだと思うだろう、自分でも。貴様は世界を憎んでいたはずなのに。何故、今、私に歯向かう?』
「それは……それは、あなたが千鶴を傷つけたからだ!」
『傷つけたから、か。はっはっは。なるほど、では貴様は私に歯向かうだけの理由は持っているわけだ。では、世界を救う理由は、なんだ?』
「っ……!」
つい、詰まってしまう。今まで古竜と戦うのに必死だったが、よく考えれば、なぜ自分は世界を救うつもりでいるのだろう。あれほど憎んでいた世界なのに。
古竜と戦うのはかまわない。師匠は千鶴を傷つけ、俺を捨てたからだ。銀星に言ったように、千鶴を傷つけられただけで、自分の戦う理由になる。
だが、古竜を倒したあとは? 銀星が師匠を倒していなければそれに加勢するし、倒していれば……俺は奴の手を取って神樹のところへ行くのか? なんのために? 世界を救うためにか? あんな、腐りきった世界を元に戻すというのか? そんなこと……。
自問自答しすぎたようだ。夜叉が気配を察して、はっと顔を挙げた時には、すでに自身の身体は炎の中にいた。
「……!」
全身を焼く痛みに、悲鳴を上げたはずなのに、それは音にならなかった。
『そもそもだ。貴様が世界を救うなどという願いを持つこと自体が、おかしなことだ』
炎の中では思うように息もできず、身をよじり苦しむ夜叉。男の声が、直接夜叉の頭に鈍く響いた。
『〈黄昏〉とは夕暮れを示す言葉だ。誰もが昼間の快活さを忘れ、全ての行動を止め、世界は一種の仮死状態におちいる。そこに明るさや笑顔などという光の言葉は皆無』
夜叉の身体から徐々に力が抜け、それに比例するように、夜叉の瞳から光が失われていった。
『そして、貴様は〈黄昏の者〉の化身。その身に持っている力は、全てを破滅へと導く力だ。決して始まりなどではない。お前に何かを救うことなどできやしない』
黒い炎の中を漂いながら、夜叉は考えた。
そう、なのか……。
俺には何かを……誰かを救うことはできないのか……。
ならば千鶴は……?
いや、確かに、俺は千鶴を救えなかった。
そうか、俺に『救う』ということはできないのか……。
『そうだ。貴様はこのまま、何もできずに焼き尽くされる。貴様が憎んでいた世界とともに滅ぶのだ。喜んでもいいことではないか』
男の言葉に、身体も脳も、納得している。だが、それでもなお、どこかは違うと叫んでいた。抗うように、偃月刀を握る手に力を込める。
『諦めるんだな、夜叉。貴様はどう足掻いてもヒカリになれやしない』
夜叉の目が閉じられかけたその時、彼女の身体は炎の外へ引っ張られた。
「夜叉! しっかりせえ、夜叉!」
劉が方舟に乗り、夜叉の耳元で、必死で呼びかけていた。
すかさず古竜が炎を劉めがけて吐きかけるが、それを劉は軽々と避けていく。彼は、自分の周りに水球を展開させ、炎の力を多少なりとも削っていた。
「……ぁ…………?」
「聞こえてるか、夜叉⁉」
「り……ゅ…………う……?」
「せや、俺や! 分かるな、夜叉!」
『ふん、どこまでも私の邪魔をするか』
男が嘲笑うような口調で言った。それに劉はきっと古竜を睨みつけて答えた。
「ああ、してやるよ! 夜叉は殺させねえし、世界だって滅ぼさせやしねえ! 最後まで抗ってやらあ!」
『ふん。どれだけ貴様が気負おうが無駄だ。肝心の夜叉はすでに堕ちた』
虚ろな、焦点が合わない夜叉の目。だが、その目はまばたきを繰り返し、まだ完全に堕ちてはいないことを示していた。
「聞けよ、夜叉……いや、銀嶺と言うべきか? 確かに〈黄昏〉は一日の終わりの時間帯を示す言葉や。けど、逆に言えば、夜の始まりを示す言葉でもある」
「…………」
「それにあの野郎、お前に何かを救うことなんかできひん言うたけど、そんなことないやろ。現に、お前は千鶴を救った。千鶴は今、記憶喪失になって、オレやお前のことは全部忘れてしもうとるけど、お前が今まであいつと過ごしてきた時間がなくなるわけやない」
夜叉に言い聞かせるようにゆっくり、力を込めて。軽い息継ぎを挟んで、劉は続けた。
「……知っとるか? たいていの場所では、人は夜になったら眠りにつくけど、ある場所じゃ人は夜になったら目覚ますんやで。なら、その場所とはどこか」
夜叉の顔に変化はない。
「正解は砂漠や。灼熱の砂漠に住む人間は、たとえオアシスに住んどるもんでも、昼間に活動することは滅多にあらへん。暑すぎて活動する気にもならんって言う方がええかもしれんけどな。そんなところに住んどるもんにとっちゃあ、夜は天国にも等しいやろ」
「てん……ご、く…………?」
夜叉が少し身じろぎする。
「せや。道ばたのおしゃべりなんて最高の贅沢やし、素肌を見せるときのあの開放感がたまらんのやと。そう言うとったで、何年か前に行った砂漠の街の人らがな。……あの野郎になんと言われようがな、お前が悲観的になる必要は、どっこにもあらへんのや。自信持て、銀嶺」
「自信……か」
「ああ。それによう考えてみい、銀嶺。黄昏はいずれ真夜中を通り、暁へ辿り着く。タマゴとニワトリの話のようなもんや。どっちが先なんてはっきり言えるかい。必ずしも黄昏=終わりってもんでもないっちゅー話や」
「……そうか」
「そうや」
だいぶ夜叉の声がしっかりしてきた。そう思った劉は安堵のため息をついた。
「……しかし、劉」
「ん?」
「〈黄昏〉の者に、生み出す力がないのは事実だ」
「!」
思わず、劉は夜叉の顔を覗き込んだ。自分の声は、夜叉の意識を取り戻すことはできなかったのかと疑って。だが、夜叉は自ら体を起こしてきた。
「夜叉……?」
呼び慣れた方の名が、口をついて出た。その顔にはありありと困惑の色が浮かんでいた。
「〈黄昏の者〉がもっている力は、人々の滅びの願いを叶える力だ。……だが、お前が言ってくれたことも正しいのだろう」
劉は、今、自分の腕から離れ、目の前に浮かんでいる夜叉が、自分の知っている夜叉とは明らかに違う空気をまとっているのに驚き、かすかな不安を抱いた。
『そんな、バカな! 持ち直すなど……あり得ん!』
男が初めてうろたえたような声を出した。
「劉、お前は確か『「世界の終わり」を終わらせろ』と言っていたな。……お前のその願い、俺が叶えてやろう」
そう言って振り返った夜叉は、一見して変わりはない。だが、劉はいきなりの夜叉の申し出に驚いて、だいぶ素っ頓狂な声を出してしまった。
「へ、あ、い、え、ええ⁉」
「なんだ、その妙な声は」
「は、あ、いや。特に意味はないから気にすんな……ってか、今なんて?」
「まあ、その前に終わらせなければならないものもあるが……劉、下がっていてくれ」
「え? あ、おう……?」
釈然としないような、戸惑ったような顔で、劉は夜叉を見ていたが、夜叉のある種異様な迫力におされ、夜叉からそっと距離をとった。
(……宙靴はじきに強制送還されそうだな)
夜叉は、ちらっと自分の足下を見下ろして思った。だいぶ破損が激しい。
喚び出した者が死んだ場合、喚び出されたもの自体が壊れる寸前まできた場合。この二つの場合に限り、喚び出されたものはもとの場所へ強制送還される。
(だが、今、この時だけ保てばいい)
『ええい、今度こそ、この炎で貴様の心を砕いてやるわ!』
「あぶねえ、夜叉!」
時すでに遅し。劉の警告が夜叉の耳に届いたときには、炎が夜叉の眼前にまで迫っていて、そしてすぐに彼女を飲み込んだ。
「夜叉っ!」
再び飲み込まれた怨恨の炎の中。もう一度夜叉を惑わそうと、様々な言葉が渦巻いていた。
だが、夜叉の耳にはまったく入ってこない。そればかりか、身体を焼く痛みも、水の中のような息苦しさもまったく感じなかった。
ふと、自分の握っている偃月刀に意識を向けた。
(こいつは俺が自分で選んだ武器。一番俺のそばで、一番長く俺の所業を見てきた。こいつは俺の分身のようなもので……俺が背負う罪の象徴だな)
静かに目を閉じ、ゆっくり偃月刀を持ち上げた。
(俺は〈黄昏の者〉の化身。誰かを照らす光にはなれない。だが、誰かから何かを奪う虚無の闇でもない)
右手から偃月刀へ何かが流れていく感覚がする。
(俺は〈黄昏の者〉の化身。人々の滅びの願いを叶える者。今、滅ぼすべきものは——貴様だ、古竜ラグナロク!)
偃月刀を真一文字に薙ぎ払った。
「夜叉っ!」
もう一度炎の中から夜叉を連れ出そうと、劉は急いで炎へ向かう。
『はっはっはっは! 無駄だぞ、劉。夜叉は堕ちた! 二度も奇跡は起きん!』
「勝手に決めつけんじゃね、え……⁉」
『ふん。……⁉』
突然、黒い炎が弾け飛んだ。とっさに腕で頭を庇った劉が、もう一度顔を上げた時、夜叉はすでに、炎に覆われた偃月刀を構えて、古竜の額へまっすぐに向かっていた。
「な、なんだありゃ……」
呆然と夜叉を見つめる劉。炎が弾け飛ばされた古竜は——男は、歯ぎしりをすると、もう一度夜叉に向かって炎を吐きかけた。
『小癪な……!』
しかし、夜叉は迫ってくる炎を避けようともしない。三たび黒い炎が夜叉を飲み込み、そしてそれは、まっぷたつに切り裂かれた。偃月刀に纏う琥珀色の炎によって。
『バ、バカな。い、一体何が……』
「我、黄昏の名を冠すもの」
厳かに夜叉が告げた。
「古竜ラグナロクよ。汝を囚えしその呪縛、今、我が名を以て断ち切らん——!」
炎を纏った偃月刀が、古竜の額に埋め込まれていた黒玉を砕いた。
ガッキィィ……ィンッッ……ッ…………!
その不気味さに似合いの、少々耳に痛い音が世界に響いた。
古竜が動きを止めた。
あまりの音に、思わず耳を塞いでいた劉が、呆然とした声で夜叉に尋ねた。
「な、なんや。何が起きたんや」
「見ての通りだ。古竜を、倒した」
「へ?」
確かに、ずっと吐き続けられていた黒い炎は途切れ、太い腕はだらんと垂れているし、広げられていた翼は不自然な形で背中に収まっていた。目も、赤目から色を失って灰色になっている。
古竜の全ての動きが停止していた。
「そ、そうか」
「ああ」
「よ、よしゃー、やんけ! やったな、夜叉。あとはあの野郎を銀星が倒したら」
方舟で夜叉のそばに寄ると、バシバシとその背中を叩いた。夜叉が顔をしかめて劉の方へ向き直り、口を開こうとした時、夜叉の身体がかくんと落ちた。
慌てて劉が手をのばしてその身体を抱え、何があったと警戒の表情で見れば、夜叉は首を振って言った。
「宙靴が強制送還されただけだ。心配するな」
「へ? ああ、だいぶぼろぼろやったもんなあ」
一つうなずくと、夜叉も自分の方舟を喚び出し、そちらへ移った。
「他の奴らはどうなっている」
「せやな。ユースと結芳は……」
劉が二人の方へ顔を向けると、そのすぐ目の前を何かが通っていった。思わず声をあげれば、夜叉が振り返り、すぐさま偃月刀を構えた。だが、その夜叉も、今、自分の目の前を飛んでいったものを思わず凝視してしまった。
それは握り拳二つ分ぐらいの、何色と断定することはできないが、綺麗で、完全な形の球体だった。
「たしか、あれって……」
その球体を注視していると、古竜の、ついさっきまで黒玉が収まっていた、今は不自然に陥没しているところへすっぽりとはまった。
「は……?」
二人して首をかしげる。と、その球体が、決して厳しくはない、温かさを感じられる光を放ち、古竜を覆っていった。




