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一章(1)

  一の詞  幸せの者と奪う者


 うららかな春の夕暮れ。そろそろ子供も大人も家に帰る頃だ。と言いたいが、ここ、治安のいい東陽とうようの街は昼間とたいして変わらない賑わいを見せていた。

 「ねえ聞いて。私やっと使役魔しえきまと契約を結べたの! これから、もっと忙しくなるわ!」

 「わあ、すごい! 私はもう少しのところでだめだったの。早く追いつけるようにがんばらなきゃ」

 「応援してるわ」

 道の往来で二人の少女が、手にした紙を見せ合いながら喋っている。その横を男の子が一人、走り抜けた。

 「早くしろよ! 始まっちまうだろ?」

 「待ってよ〜。まだ大丈夫だって、お兄ちゃん」

 「なにのんきなことを言ってんだよ。早くしねえといい席他の奴らにとられっちまうじゃねえか!」

 「でも〜」

 十歳前後の男の子が足踏みをしながら、後ろを必死に走ってくる妹に文句を言う。二人が目指しているのは、この街で一番人気がある料亭『春風しゅんぷう』だ。さらにここは、東大陸にある料亭の中で五本の指に入るとも言われている。けれど決して高くない値段だった。

 春風の人気の秘密は、むろん料理がおいしいのもある。しかしもう一つのほうが、人気の理由の半分以上を占めていた。亭主の娘、銀星ぎんせいの舞だ。

 「いらっしゃいませ」

 入り口で帳簿を付けているこの店の次男坊、秀礼しゅうれいに拝観料を渡しながら、客が店に入っていく。料理とは別料金なのだ。兄妹も子供料金を払って駆け込んでいった。

 「まだ始まってねえよな、おっちゃん!」

 駆け込んでくる子供の中には、そう尋ねる子もいる。だが、肝心の答えを聞く前に、奥へ行ってしまうのだ。秀礼は頭をかきながら小さくつぶやく。

 「おれはまだ二十だぜ? なのにどうしてガキからはおっちゃんって言われるんだろうな。つーか、人にもの聞いたんならその答えぐらい聞いていけっての」

 さて、店の奥では、もうほとんどの席が埋まっていた。

 「皆様、長らくお待たせしました。この料亭の花形、銀星の登場です。一つ目の舞は『紅遠江くおんこう』」

 長い髪を、後頭部で一つに丸く結んだ女性が、一礼をしてそう言った。彼女の名前は明蘭みんらん。銀星の四歳上の姉で、亭主の次女だ。明蘭はそのまま用意してあった箏の前に座ると、客が静まるのを待って弾き始めた。

 「千の理、よろずかたち。我が契約の名の下に現れよ。我が望むは幻。皆を酔わせる美しき幻夢」

 そう唱えてから、低い尺八の音を重ねるのはこの店の跡継ぎ、少峰しょうほうだ。少峰によって呼び出された術は、店内を大河・紅遠江のほとりに変えた。

 その中に現れた銀星は、濃い薄いはあったが青色の服を身にまとっていた。

 「ハア。本当にいつ見ても綺麗だなぁ」

 誰かがため息をつきつつ、言った。銀星はほぼ毎日のように舞い、ほとんど毎日見に来ている人々だが、銀星は日を追うごとに美しくなってきているという人もいるほど、彼女はきれいだった。何人もの若者が彼女に求婚したが、残念ながら、受け入れられた者はいない。

 銀星が少し身動きするごとに、彼女の手首と足首についた小さな鈴が音を鳴らす。ゆったりとした水の流れのような動きをしたかと思えば、子鹿のように軽やかに跳ねる。上にしなやかに伸びたかと見れば、地面ギリギリのところで滑るように回る。

 灯りに照らされて光る黒髪。その横顔は、一流の彫刻家が丹精を込めて彫り上げたように整い、その白い肌は透き通るようだった。加えて、その名が表すように星の如く煌めく銀の瞳と、首元で光る大粒の緑玉が、彼女をさらに美しく見せていた。

 観客は男女を問わず、その美しさに見ほれていた。

 箏が一つ鳴り、一曲目が終了した。その瞬間に術は解かれ、周りはいつもの店内に戻った。銀星はひとつ息を吸うと、初めて口を開いた。

 「皆さん、こんばんは。今日もたくさんの人に来てもらってうれしいです。この舞は、街の南を流れる紅遠江が見て来た、かつてこの地にあった国の興亡を想像し、創ったものです。少し暗く感じた人もいたと思いますが、それは間違っていません。一曲目にするべきではなかったかもしれませんね」

 前に座っていた子供たちから笑い声が上がる。その子たちに微笑みかけながら、二曲目の舞に移った。

 「さて、二曲目は『紅遠江』より明るい『在るもの全ての喜び』です」

 箏と尺八が音を奏で出す。二曲目に、術は不要だった。舞台の中央まで戻ると、銀星は両手を前に差し伸べた。そこから勢いをつけて、右に回る。一回転し終わる時には、海のような青い服を脱いで、鮮やかな山の若葉に似た緑色の服になっていた。

 「おおー!」

 観客が一瞬どよめく。

 そこから、舞台の上をつま先だけを使って移動する。くるっと回ったり、軽く跳ねてみたり。そして、見事なまでにカモフラージュされていた階段を駆け上り、これまた巧妙に隠されていた天井からぶら下がる棒の上を、全身の柔らかさを使って歩く。いつの間にくくったのか、長い黒髪は後頭部の高い位置で結ばれ、銀星の動きにあわせて左右に揺れていた。

 時々、下の観客の方を見下ろしてにっこりと、実に魅力的な笑顔を見せるのだが、それを自分に笑いかけてくれたと勘違いする若者が、おもしろいほど大勢いる。そういう者の大半が、真っ赤になってその場に座り込んでしまう。

 『紅遠江』とは違い、はっきりとした動きがあるこの舞で銀星は、生きているというその喜びを全身で体現していた。

 天井からぶら下がる棒からふわりと降り立った銀星は、一礼をすると奥へ下がった。銀星はまだ十六歳の少女。体力的にもまだまだだ。なので、しばらく奥に下がって休憩する。その間は、明蘭と少峰が曲を披露したり、秀礼が舞ったりする。秀礼の舞は切れないように加工した剣や槍を使うもので、それは元々五穀豊穣を祈ったり、災厄を鎮めるものだった。が、いまではそんなことに使われるのはまれだ。

 「おつかれさま。調子はどう?」

 「お母さん」

 母親の花蓮かれんが、汗を拭いて次の衣装に着替えている銀星に、お茶を持ってきた。

 「うん、まあまあだよ。いい感じ」

 「そう。それはよかったわ」

 「……どうかした? お母さん」

 銀星はお茶を飲み干して一息つくと、隣に座って自分をじっと見つめるる母に尋ねた。

 「ハッ!」ターンッ! 「やあ!」

 秀礼の気合いの声や、槍が床を討つ音が、時折聞こえる。

 「お母さん?」

 「……いいえ、なんでもないわ」

 黙ったままの花蓮に、もう一度銀星が呼びかけると、彼女は小さく首を横に振ると、彼女に笑いかけた。

 「それよりそろそろもう一度出番じゃない? あなたが頃合いを見て出て行かないと。退屈で帰ってしまうお客さんだっているかもしれないわよ。」

 「そんなことないよ。お姉ちゃんのもお兄ちゃんのもすごいから」

 「ふふっ」

 花蓮は楽しそうに笑うと、湯のみを持って厨房の方へ帰っていった。銀星は首を傾げたが、すぐに立ち上がって、鏡の前で最終チェックを始めた。



 「あー、疲れたっと!」

 椅子にどかっと座りながら秀礼が言った。

 「こらっ! 座る前に着替えて来なさい。それが決まりでしょ」

 「まあまあ。明蘭、そんなに怒らなくても」

 「兄さんは優しすぎるのよ」

 「少峰兄さんの言う通り。べっつにいいじゃねえかよ」

 「よくないわ!」

 食卓をはさんで三人が言い争う。そこに、軽装に着替えて来た銀星が下りて来た。

 「お姉ちゃん。お腹すいたんだけど……どうしたの?」

 「ううん。たいしたことじゃないの。でもやっぱり銀星の方が偉いわ〜。誰かさんとは大違い」

 秀礼の方をちらっと見つつ言う。

 「……何が言いたいんだよ、明蘭」

 「別に〜。二十歳になっても言わなきゃ分からないなんて、子供ねえと思って。そんなんじゃ、女の子に好かれないわよ」

 「よけーな世話だ!」

 フンッと腕を組んで開き直る秀礼。それを見た明蘭は、四人分の食事をのせていたお盆から一人分を下ろして、さらりと言ってのけた。

 「それじゃあ、秀礼は着替えてくるまで食事はお預けね」

 それを聞き終わるか終わらないかの間に、秀礼は二階にある自分の部屋へ走って行った。

 「あはははは!」

 食卓の周りに立っていた三人は顔を見合わせると大笑いした。

 一分もしないうちに着替えてかけ戻って来た秀礼は、もう一度椅子に座ると箸を持って食事が運ばれてくるのを待つ。

 「早く持ってこいよ、明蘭。おれは腹が減ってんだ!」

 「何よ、偉そうに!」

 「またお前は飯が遅いと文句を言っているのか、秀礼。何年経っても子供だなあ」

 厨房から父親の張敬ちょうけいがやってくる。いすに腰掛けて秀礼を見ながら、あからさまにため息をつく。

 「何だよ、そのため息は」

 「いや、本当に呆れてね。腹が減ったとごねて泣きわめくのは、赤ん坊の頃にそっくりだと思ってな」

 「んだとぉ!」

 そう言って身を乗り出した秀礼は、頭上に構えていた明蘭の肘に頭を思いっきり打ちつけ、しばらくの間頭を抑えて呻いていた。

 「つ〜〜」

 「ほんと、落ち着きがない。だから子供だって言われるのよ」

 「あはははは!」

 再び食卓の周りで笑い声が上がる。

 「さあさあ、あったかいうちに食べちゃいましょ」

 花蓮がご飯と吸い物を運んできた。六人はいすに座って手を合わせると、口をそろえて言った。

 「いただきまーす!」

 


 一方その頃、東陽の街から遥か遠く。西大陸の中央にそびえ立つ帝呀山の頂上から一人の女性が、偃月刀えんげつとうと呼ばれる大刀を持って東のほうを眺めていた。

 雲が切れ、顔を出した月光が女性の美しい銀の髪を輝かせる。女性は、獲物を狙う野生獣のような赤い瞳を静かに閉じ、心の中でつぶやいた。

 (俺の復讐が、やっと始まる……)

 女性の脳裏に、たった今してきた会話が蘇る。


 『夜叉、許可を出そう』

 彼女が師匠と呼ぶ人が言う。

 『師匠。それはつまり……』

 『そうだ。十日以内に撒け』

 『分かりました』


 目を開くと、夜叉は偃月刀を力強く握りしめた。

 (言われずとも、奴らは血祭りに上げる!)

 その背後で足音がした。木の下に、黒い髪で額に布を巻いた若い男が立っていた。

 「やっぱり殺さんでもええんやないか? 地面に血を撒けばええだけや。お前がこれから殺りに行く言うてる人らは……」

 「何度言わせる気だ、りゅう。俺は奴らを許しはしない」

 「はぁ。何度も聞いとるから言うんや。復讐なんてやるだけ無駄なもんやで、夜叉。何の意味もな」「黙れ」

 身体を少し後ろに向け、その切れ長の目で劉を睨む。

 「貴様は師匠の考えに賛同しているから、この計画に参加しているんだろう。……それに、こういう言い方は不本意だが、復讐であれなんであれ、俺たちは命を奪っている。いまさらだろう」

 「そう睨むなや。お前はそのままでも十分恐いんやからよ。……確かに、オレらはぎょうさん命を奪ってきた。けど、復讐っちゅう言葉で括ると、同じ事でもちゃう意味になる言うとんねん。せやし、」

 「千の理、万の象。我が契約の名の下に現れよ。我が望むは方舟。我を遠き異国へ運ぶ方舟」

 相手にしているのも馬鹿らしい。そんな感じで、夜叉は劉を無視して、物質召還の呪文を唱えた。顕われた黒い板に乗ると、そのまま漆黒の夜空へ出て行った。

 「あ、おい、ちょう待てって、夜叉! 人の話は最後まで聞けっ」

 呼んでも返事がないのは承知の上だった。案の定、夜叉は振り返りもせず、夜空にとけて見えなくなってしまった。

 劉は小さくため息をついてそっと呟いた。

 「夜叉。復讐からは何も生まれやしいひん。そもそも、お前のその憎しみかて愛情を求めとる証拠やないか」

 何故それが解らないのか。いや、彼女の性格上、彼女自身がそれに気づくのはかなり困難なことだとは思うのだが……。もう一度小さくため息を吐く。

 「オレがなんぼ言うても、意味はあらへん。お前が自分で気づかなあかんのや。背中を押してやることぐらいは出来るけど……。ホンマ、分からん奴やな、お前……」


 星空の下を翔ながら、夜叉はこれから向かう先のことを考えた。

 (必ず奴は殺す)

 ギリッと歯ぎしりをする。この気持ちは、とても抑えきれるものではなかった。

 「許すものか……」

 行く先を睨んで、声に出してつぶやく。東陽の街は、まだまだだった。



 真夜中、東陽の街はようやく眠りについた。

 春風の二階にある花蓮の部屋の窓が、静かに開いた。少し肌寒い風が吹き込んできて、この部屋の主は体をぴくりと動かした。

 「あの時貴女は、貴女だけは俺を救おうとしてくれた」

 窓から入ってきた人影が、布団で横になっている花蓮を見下ろしながら本当に小さな声で話しかける。

 「だから、一番最初に。悲しい思いをしないうちに、苦しい思いをしない方法で……」

 すっと手を差し出すと、人影は小さい声で物質召還の呪文を唱えた。

 「千の理、万の象。我が契約の名の下に現れよ。我が望むは蓮の欠片。我を想ってくれていた母を葬る花弁」

 手の平から現れた輝く無数の花びらが、花蓮の上に降り注ぐ。人影はしばらく彼女を見つめていたが、さっと身を翻して外へ出て行った。



 翌日の朝。

 「お母さん、起きてこないね」

 「そうねぇ。いつも私たちより早く起きているのに」

 「たまには、そういうこともあるんじゃないか」

 銀星と明蘭は家の敷地内にある井戸で朝食の後片付けをしていた。少峰は縁側に腰掛けて瓦版に目を通している。張敬と秀礼は畑や店に行って、今日の食材集めをしている。彼らの日課だ。

 「それはそうだけど。いままで、少なくとも記憶にある中では、一度もそんなことなかったわよ?」

 明蘭が食器を洗う手を止めて、少峰のほうを振り返る。

 「そう言われればそうだな。僕の記憶にもないや」

 「ま、何でもいいけど、これ以上遅くなるとお店の開店準備に間に合わなくなるからね。そろそろお母さんを起こしてこなきゃ。銀星、食器洗い任せちゃっていい?」

 「うん、いいよ」

 明蘭は水でさっと流したその手を拭きながら、階段を上って行った。「お母さーん」と呼んでから、戸を開ける音が聞こえた。しかし、次に聞こえた呼びかける声は、悲鳴に変わっていた。

 「お母さん⁉ どうしたの。ねえ、返事してよ、お母さん‼」

 銀星と少峰は顔を見合わせると、階段を急いで上って母の寝室へ駆け込んだ。部屋の畳には、たくさんの花びらが落ちていた。

 「お母さん! ねえ、お母さん!」

 明蘭が母を揺さぶっている。だが、花蓮は眉一つ動かさない。

 「母さん!」

 少峰も駆け寄り、母の首筋に手を当てる。肌は冷えきっていて、血管は全く脈打っていなかった。

 静かに首を振る。

 その動作だけで、明蘭も銀星も、母が生きていないことが分かった。明蘭は母に泣きすがり、銀星は戸口のところで膝をついたまま動けなくなってしまった。

 「お、母さん……お母さん」

 嗚咽混じりに泣き叫ぶ明蘭。少峰は隣で顔を抑え、涙をこらえていた。銀星は驚きのあまり、母が死んだ現実を受け入れられずにいた。しかし、涙は目からあふれ、その頬を濡らしていた。

 (どうしてお母さん……。昨日笑って、喋ってくれていたのに。どうして……お母さん……)


 多くの人が花蓮の葬式に集まり、みんなが泣いていた。

 彼女の作る料理は大陸一と言われるほどおいしく、加えて彼女は優しく話し上手だったので、老若男女を問わず好かれていた。だから、彼女の死はたくさんの人に衝撃を与えた。明蘭も銀星も、涙が枯れるのではないかというほど泣いた。

 「花蓮さん、箱で運ばれていったけど、どこに行くの?」

 幼い子供が母親を見上げて尋ねる。母親はかがんで子供と目線をあわせ、涙で喉をつまらせながら答えた。

 「花蓮さんはね、遠くに行っちゃったの。とっても遠くにね、行っちゃったの」

 「また戻ってくる? また花蓮さんのお料理食べれる? お話聞ける? まだ途中なの」

 子供の無邪気な問いかけに母親は小さく息をのむと、子供の身体を強く抱きしめながら言った。

 「うん。きっと、いつかね。また食べられるし、お話も聞けるよ。花蓮さんが作ってくれるあったかくておいしい料理も、花蓮さんが話してくれるわくわくするお話も、きっとね……」

 「ほんと?」

 「うん。本当だよ。いつかね、きっと」

 外傷らしい外傷もなく、病気になっていたわけでもないし、老衰死をするような年齢でもない。自殺か他殺かの判断はつかないが、おそらく毒を使った、というのが医者の見立てだった。

 「母さんが自殺するわけない! きっと誰かに……」

 「ちくしょう。どこのどいつだ! 母さんに何の恨みがあるんってんだ!」

 少峰も秀礼も、持って行き場のない怒りに苦しんでいた。張敬は、愛する妻が突然いなくなったことが未だ信じられぬ思いだった。

 姉の隣で顔を伏せていた銀星は、ふと顔を上げた。その時、木の陰からじっと葬列を眺めている人物が目に入った。黒い布を身体に巻き、頭までそれをかぶっていたせいで、顔も体格も分からなかった。同じ黒い布で巻いた長い何かを持っていた。

 (誰だろ?)

 その人物が、こちらを見たであろう瞬間、銀星は突き刺さるような痛みを感じた。思わず、一歩後ずさる。

 「どうしたの? 銀星」

 明蘭が泣きはらした赤い目で銀星を見る。銀星はハッとすると、あわてて首を横に振った。

 「ううん。何でもないよ、お姉ちゃん」

 銀星が視線を外した間に、問題の人物はどこかへ行ってしまっていた。

 (何なんだろう、あの視線。よくわからないけど、すごい恨みと殺意でいっぱいだった。もしかして、お母さんを殺したのは……)

 しかし、そんなことを言えば、姉の心労はさらに重くなってしまうだろう。

 (悪いことが起こらないといいけどな……)

 だが、悪い予感ほど当たるというもので、その日の夜に現実となってしまった。


 その日の夜、明蘭は食材の買い出しに出かけた。花蓮急死の知らせを受けて、張敬と秀礼は食材集めを全て放棄して、家にかけ戻ってきたためだ。もちろん、それを責めるわけにはいかない。

 秀礼は「おれが行く」と言ったのだが、明蘭はただ、心を落ち着かせ、考える時間と家じゃない場所が欲しかったのだ。家だと、どうしても花蓮を思い出してしまって落ち着けない。

 (しっかりしなきゃ。お母さんは、もういないんだから。ほっとくと、秀礼なんか洗濯物ためてしまうもの。お父さんだって憔悴しきっているし……)

 「そうよね、私がしっかりしなきゃ」

 「決意が固まったところで悪いと思うが、死んでもらう」

 突然横道から、銀星が花蓮の葬列で見かけた人物が出てくる。だが、明蘭は知らなかった。声の調子から女だと知れたが、もはや彼女にとって目の前の人物が男でも女でも、どちらでもよかった。ただ、『死』という単語に恐怖を抱いた。

 「し、死んでもらうって? 殺すってこと? わ、私を……お母さんみたいに?」

 ちらっと辺りを見るが、今日の街はいつもと違って静寂が支配していた。

 「お前には、たいした恨みがあるわけではない。が、奴を苦しめるためだ。せいぜい苦しまずに逝け」

 女は右手に持っていた物の布を外す。現れたのは、よく手入れされていて切れ味が良さそうな偃月刀だった。

 明蘭の喉から悲鳴がこぼれかけたが、それより早く刃が動く。

 首から血が噴き出す。身体がゆっくりと後ろへ倒れていく。意識が薄れていく中で、明蘭は黒い布の下で光る、赤い冷たい瞳を見た。

 (あの赤い目……見たことある。でも、一体……どこ……で……?)


 「遅いな、明蘭」

 「ちょっとおれ見てくる。心配になってきた」

 少峰の言葉を聞いて、落ち着きなく部屋の中を歩き回っていた秀礼が出て行く。

 「珍しいな。あいつの口から、心配という言葉が出てくるとは」

 椅子に座り、沈んでいた張敬の口が何時間かぶりに、緩んだ。

 「心配もするよ。明蘭は秀礼の双子の妹だからね」

 「うんうん。ああ見えて、家族思いだから」

 銀星が三人分のお茶を持ってきた。そうして三人が微笑んだ時、戸ががらりと開いて秀礼が戻ってきた。

 「何だ、早かったじゃないか」

 張敬が声をかけるが、秀礼は黙ったまま顔を上げた。顔は真っ青で、その口から母の花蓮に続いて、第二の訃報が告げられた。

 「明蘭が死んだ……」

 銀星の手から、湯のみが滑り落ちる。ガシャンッという大きな音が、三人の硬直を解いた。

 「どういう意味だ!」

 張敬の問いかけに、秀礼はその場に座り込んで、涙混じりに答えた。

 「そのままの意味さ。いま、明蘭を探しに出て行ったら、八百屋の親父に言われたんだよ。明蘭が、明蘭が血まみれで道に倒れてるって。もう、死んでるってなぁ! ちくしょう! 母さんだけじゃなく、明蘭まで殺しやがって! どこのどいつだ! 二人を返しやがれ‼」

 「明蘭!」

 張敬が表へ飛び出す。ちょうど、顔に布をかけられた明蘭の遺体が運ばれてきたところだった。

 「旦那、その……」

 八百屋をしている男が、気遣わしげに張敬に呼びかける。張敬はおぼつかない足取りで明蘭の遺体の所まで歩いていき、そっと布をとった。その下にあった顔は、血の気がなく青白い顔をしていた。そのなかで首の赤い傷だけが目立っていた。

 変わり果てた娘を見て、張敬は泣いた。昼間あれほど泣いた銀星も、姉の動かない身体を見て大泣きした。



 花蓮、明蘭の死から三日が経った。あれから他に、十人殺ほどされたらしい。

 店を営業しなくては、という気持ちはあったが、二人の死は四人にとってかなりの衝撃だった。結果この三日間、春風の入り口に行灯がかかることはなかった。

 しかし、今日ようやく、四人は営業を再開する決心がついた。

 「お早うございまーす! 春風の秀礼です。野菜貰いにきましたー!」

 「おや、秀礼くん。今日からお店は再開かい?」

 「はい! これからもいままで通り、よろしくお願いします」

 「ああ。また近いうちに寄らせてもらうよ」

 「お待ちしてます!」 

 その頃、銀星と少峰は、かつて花蓮と明蘭が担当していた洗濯と掃除をしていた。

 「うーん。洗濯っていうのは、案外難しいものだったんだな。なかなか汚れが落ちない」

 「ほんと。こうして改めて掃除してみると、意外とお店のなかって広かったんだ。それにすみっこって、けっこうホコリ溜まるんだね」

 「店のほうはまあ、いつもそうだろうけど。洗濯物は、服を着る人が注意するだけでずいぶんと違うんだろうな。ほら、銀星。これを見てみなよ」

 一休みにお茶を飲んでいる銀星に、少峰が一枚の上衣を広げて見せる。胸の辺りに点々と、春風特製タレの薄い茶色のしみがついていた。

 「秀礼お兄ちゃん、だよね? 昨日夕飯急いで食べてたから」

 「そう。今日からはあまりがっつかないように言っておかなきゃな。洗濯するのが大変だ」

 少峰は、ため息をついてもう一度それを洗い始める。銀星も気合いを入れ直すと、食堂のほうに戻って掃除を再開した。

 あっという間に夕方になり、銀星の舞が始まる時間になった。明蘭の箏がなくなり、生演奏は少峰の尺八だけになってしまったが、少峰はかなり苦労をして、術の「幻夢」に明蘭の箏の音を入れることに成功した。

 人の出入りは二人が死ぬ前と変わらず、盛況だった。

 それからさらに四日が経ったが、あまり穏やかだったとは言えない四日間だった。この間に東陽の街で三人。他の街で五人、殺されたという知らせがあった。

 春風の休業日に、秀礼は居酒屋へ仲間内の少し変わった賭け事をしに出かけた。今日は珍しく、少峰も一緒だった。

 少峰は最初、断っていたのだが秀礼はこう言った。

 「たまにはいいじゃねえか。兄さんはちょっと頭固すぎるぜ。わいわい騒いで楽しく遊んでりゃ、母さんたちも喜ぶだろ」

 そう熱心に誘われ、ついに折れた。

 「母さんは喜んでくれるかもしれないけど、明蘭にはしかられそうだなあ」

 「ははは」

 答えた秀礼の声は、かなり乾いていた。思い当たるふしがあるようだ。

 そして、それが彼らの命運を決めた。


 「あー、笑った。りんの慌て方はほんとに面白かった〜」

 帰り道。謎の殺人犯がうろついているということで、人々は最近は滅多に夜出歩かなくなった。普段はもっと遅くまで行われているこの賭け事も、早々に切り上げられた。

 「てっきりお金を賭けてるものと思っていたよ。あれなら、確かにみんな夢中になるな」

 「金を賭けちゃ、ばれた時に困ったことになるから。一番負けた奴はその日のお題を絶対にやらなければならない。それも悪質なもんを吹っかけるような奴はいねえからな。安心して思いっきり楽しめるってわけだ」

 「ちなみに、お前はどんなお題をやったことあるんだ?」

 「……言いたくねぇ。あれはもうほんとに忘れたい」

 秀礼がその時のことを思い出して体を震わせたとき、空気を切り裂く鋭い音がした。

 二人が前方に目を凝らすと、少し離れたところに人が一人立っていた。影にとけ込むような黒い布を身体に巻いていたので、さっと見ただけではよくわからなかったのだ。

 「何か僕たちに用ですか?」

 少峰が警戒しながら呼びかける。秀礼も護身用にと持ってきた稽古用の棒を構え、前に出る。

 「期限が迫ってきている。手短にすませたい」

 冷たい、感情のない声だったが、やや高い声で女だと分かった。女は影からゆっくりと出てくる。右手に持った偃月刀が月光を反射して鋭く光った。

 「歯向かうな。おとなしく、俺の刃にかかれ」

 一足飛びで女は間合いを詰める。秀礼は棒を前に突き出すが、女はそれを少し体をひねるだけでかわした。その後、間発入れずに女が振るった偃月刀が、秀礼の右脇腹から左肩にかけてを深く切り裂いた。地面に倒れるまでの数瞬の間に、秀礼の瞳から光が消えた。

 「秀礼‼」

 少峰が叫んだ。素早く向きを変えて、彼のほうを向く。少峰は一歩退いたが、そんなことで女の斬撃はかわせない。秀礼が死んでからものの数秒で、もう一つ骸ができた。

 女はそのまま立ち去ろうとしたが、後ろで悲鳴が上がった。

 「う、うわぁ!」

 惨劇の現場を目撃してしまった青年は、つまずきつつも逃げようとするが、すぐに血を吐き出して地面に倒れた。女の投げた短剣は正確に目撃者の心臓を貫いたのだった。

 女は短剣を引き抜き、さっと血を払うと闇へ消えた。

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