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五章(3)

 「お姉ちゃんは、初めて会ったときから私を殺そうとしていた。だけど、レマイン国では違った。『先約があるから』って言って、帰っちゃったよね。……今だって、絶好のチャンスだったのに」

 「だ、黙れ! もう口を開くな!」

 「レマイン国でのお姉ちゃん、とっても優しい顔をしていたよ」

 「黙れと言っているんだ!」

 「私を殺すことよりも、優先させたい約束を、交わした人がいるんだなあって、分かったよ。それが誰かまでは分からないけど、お姉ちゃんはその人のことがとても大切で、大好きなんだ」

 「そ、それは……。そんなことは…………」

 違うと言いたかった。でも、千鶴と触れ合った記憶がそれをさせない。

 「思い当たる節、あるみたいだね」

 「っ!」

 銀星がくすっと微笑む。図星を指され、夜叉は言葉に詰まった。

 「もう止めよう、お姉ちゃん。その人、ずっとお姉ちゃんのことを心配してるよ。その人と平和に暮らすためにも……さ。もうこんなこと、止めよう?」

 すっと夜叉のほうへ手を差し出す。限りない慈愛の表情で。


 目の前の、あの手を取りたい。


 そう思ったことに、夜叉は愕然とした。

 俺は、銀星の……一番憎いはずの奴の言葉に心を動かされたということか。俺が苦しんでいる間、ずっと家族の愛に包まれ暮らしてきた奴の言葉に!

 ギリッと歯ぎしりをし、銀星を睨みつける。彼女はまだ微笑みを浮かべて、こちらに手を伸ばしていた。

 「俺は……俺は〈黄昏の者〉だ」

 「お姉ちゃん?」

 銀星がけげんそうに首を傾げる。

 夜叉は、右腕に巻いていた包帯を解きながら思った。

 千鶴と平和に暮らしたい。その願いを捨てるつもりは決してない。

 だが、奴の言葉に流されるつもりもない。いや、流されるわけにはいかないのだ。


 それは、今までしてきたことを否定することだから。


 「俺は貴様を殺してこの世界を終わらせる! 俺も、千鶴も、もう誰一人、悲しむことも苦しむこともない、本物の『楽園』を築くために‼」

 夜叉は、黒の染料で複雑な文様が描かれた右腕を地面につけ、喚んだ。

 「千の象 万の名 影を好みて闇に住まうモノ 我が声に応えていざ現れよ!」

 夜叉を中心にして突風が吹いた。

 「あれはまさか、シャドー・ブレスト?」

 「まずいぞ。ありゃあ、確か、術者以外の全てを喰らっちまう化けもんだったはずだ!」

 「え?」

 昴とユースの声を聞いて、銀星の顔色が変わる。そんな危険なものを喚び出させるわけにはいかない。

 (お姉ちゃん……ごめんなさい)

 心の中で謝りながら、銀星は目をつむって蒼穹を放った。

 そう、銀星は目をつむり、視界を閉ざしていた。夜叉は、シャドー・ブレストを喚ぶのに気をとられていて、周りが見えていなかった。結芳たち三人は、不気味な唸り声とともに激しくなってくる風の勢いに目をしっかり開けることができず、なおかつその中で銀星と夜叉の二人に意識を集中していた。

 だから誰も気づけなかった。


 一人の少女が、夜叉の前に飛び出したことに。


 「お姉ちゃんを傷つけないで!」

 少女の声が聞こえた時には、全てが遅かった。

 夜叉を狙って放たれた蒼穹が、小柄な少女の身体に深々と突き刺さっていた。

 「ち……づる…………?」

 ぐらりと傾き、自分のほうへ倒れてくる少女を、夜叉は実に緩慢とした動きで受け止める。いつの間にか、風も、雨も、止んでいた。

 「お……姉、ちゃん………………」

 千鶴の焦点の合わない目が、夜叉の顔を見上げる。

 「ち、千鶴? 何で、お前……お前が、何でここに……?」

 「夜叉、千鶴を貸せ!」

 空間転移を使用したのか、劉が突然、夜叉の隣に現れた。そして、呆然としている夜叉から千鶴を半ば強引に取り上げる。

 「ナーシャ、頼むで!」

 現れたのは、緑色のワンピースを着た、かわいらしい少女だった。だが、顔は相応に緊張したものだった。

 「任せて下さい、必ず……はっ!」

 「どうした?」

 「いえ……しかし、これは蒼穹? だとしたら、マズいです!」

 少女の手が緑色の光に包まれる。治癒の使役魔に見られる特徴だ。

 「何がマズいんや? 傷があらへんのは確かにおかしいが……」

 「いえ、傷がないこと自体は別におかしいことではありません。蒼穹という術は、傷を負わせても、瞬く間にそれを自身の力で癒すんです。間違っても殺さないように」

 「そう、なのか?」

 夜叉が、かすかにうわずった声で尋ねる。だが、ナーシャの顔色は悪かった。

 「ええ。これは傷を残さず……痛みだけ残す術なんです。もともとは、拷問用として主に使われていた術ですから」

 「なに?」

 「え?」

 ナーシャの声は、銀星にもしっかりと聞こえていた。ただでさえ、十歳ほどの少女を傷つけたことに衝撃を受けているのに。この蒼穹は、母が唯一契約していたというこの攻撃系術は、もともと拷問用だった?

 しかし、その後に続けられた言葉のほうが、銀星にも、そして夜叉にも大きな衝撃を与えた。

 「千鶴ちゃんがこの痛みに耐えられるかどうか……」

 「なっ……!」

 「そん、な……」

 銀星が手を口に当て、結芳たちも絶句する。

 「そうか。とにかくやれるだけのことをやってくれ」

 劉が、髪を乱暴にかきむしりながら言う。その顔にははっきりと焦りが表れていた。

 「とりあえず夜叉。お前も止血を」

 そう言って包帯を手渡そうとしたが、それを聞くか聞かぬかの間に、夜叉は素手で、銀星につかみかかっていった。

 「ぁっ……!」

 夜叉は銀星の上に馬乗りになり、その細い首を力任せに締め上げた。

 「おまえが……お前が、千鶴をぉ…………!」

 夜叉の身体が小刻みに震える。それは、先ほどの動揺したときの震えとは違う。腹の底から湧きあがってくる、怒りで震えているのだった。

 ユースと昴が力ずくで夜叉を銀星から引きはがした。しかし、二人をやすやすと投げ飛ばし、

 「————‼」

 はっきりとした音になったわけではない。だが、それが憤怒の叫びであることは誰にでも分かった。

 再び銀星につかみかかろうとする夜叉に、結芳が紫電を打ち込む。だが、先ほどは効果があった紫電も、今はまったく効かなかった。

 「銀星さん、避けてぇ!」

 結芳は、茫然自失として、夜叉が迫ってきていることすら気づいていない銀星に向かって手を伸ばす。間に合わないと、そう思った時、夜叉を止めた者がいた。

 「夜叉、お前も治療が先や!」

 夜叉が何かを言う前に、劉は睡蓮香を嗅がせた。睡蓮香は生物を強制的に眠らす効果がある。夜叉は数秒逆らおうとしていたが、目はすぐに閉じられ、身体から力が抜けて倒れそうになったところを、劉が支えた。そのまま夜叉を横抱きにして抱え上げると、自身の使役魔に尋ねた。

 「いけるか、ナーシャ?」

 「ひとまずは。でも、千鶴ちゃんが目を覚ますまでは油断できません」

 「そうか、分かった。お前もひとまず戻り」

 ナーシャは小さくうなずくと、劉の腰に下げられた水晶玉に戻っていった。

 「焔成!」

 そのまま、空間転移の呪文を唱えようとするが、ユースの呼びかけに口をつぐむ。

 「焔成。お前……お前は……」

 「呼び止めるんやったら、いいたいことをはっきりさせてからにせえや」

 「っ。お前、またあの山に戻る気か?」

 「そうや。何の問題がある? オレらはあこが住処や。そんぐらい知っとるんとちゃうんか」

 「戻るな!」

 「は?」

 ずっと背を向けられたままだったが、そこでようやく、半身をこちらに向けた。

 「戻るなっつってんだよ。その子の治療ならここでもできるだろ? だから、」

 「ふざけんな」

 今まで見たことがないような、冷たい目でユースを睨みつける。

 「オレらは敵同士やぞ。忘れたんか」

 「敵じゃねえ!」

 「オレから見たら敵や。お前も、結芳も、そこのお嬢さんと兄さんも。お前ら四人はオレの敵や」

 「焔成、てめえ……」

 劉はすっと前を向き、今度こそ呪文を唱えた。そして、自分自身に言い聞かすように呟いた。

 「そう……。お前らはオレの敵。今度会うたときは、容赦なく潰す」

 「待て、焔成!」

 「お前らはオレらの逆鱗に触れたんや。……覚悟しとけよ」

 一瞬だけ、こちらへ向けられた瞳には揺るぎない意志が、覚悟が見て取れた。この男は次に会ったときは宣言した通り、自分たちを殺す気でかかってくるだろう。だが、

 「お前と、戦えるわけないやろ。アホ……」

 ユースには、劉と生死をかけて戦える自信がなかった。


         *         *         *


 あれから三日が経つ。その間、銀星はひとことも口を利こうとしなかった。

 (……私は、なんてことをしてしまったの…………)

 銀星はクルトの隅に膝を抱えて座っていた。その膝に顔を埋め、少しの身じろぎもせず、彫像のように。

 前にも同じような体勢でいたことはあったが、今回、彼女の心はその時よりも深く深く、沈んでいた。

 

 夜叉と名乗る姉を止められるかもしれなかったのに。そのきっかけを自分の手で傷つけてしまった、壊してしまった。

 いいえ、違う。そこじゃない。私は、あんな小さい子に……十歳かそこらの少女に、酷い傷を負わせてしまった。死んでしまうかもしれないような酷い傷を。

 正しくいえば、『傷』は負わしていない。痛みを……死にも等しい痛みをあの女の子の身体に刻みつけた。

 私が護らなければならない、世界の一欠片を。この手で…………。


 自責の念に囚われ、銀星はその歩みを止めかねなかった。どんな叱責も励ましも、彼女の心には、届かなかった。

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