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私と消失

せめて儚き幻想を

作者: 杞憂

「ホスピタル――――起動」

 鈍重な雲が鉄の色をした空を覆っている。

 それはさながらベッドに横になりそれを眺めている、八雲真白の心の内そのものだった。

 陽野総合病院。彼が今現在入院している場所である。病院らしい、白に染められた室内には、花瓶とベッドと、彼にはよく分からない機器が置いてあるのみ。個室は患者にとって喜ばしいことではあるが、彼にとっては退屈極まりないものだった。

 両足の骨折。言葉にしてみれば、たったそれだけの事実。しかしそれは活気あふれる学生にとってはとても憂鬱なものとなる。リハビリをこなしつつ少しずつ感覚を取り戻してきてはいるが、まだ院内すら満足に歩けない。

 彼は退屈していた、彼自身に。

 そんな頃だった。看護師の一人が、院内ネットワーク、通称「ホスピタル」を彼に紹介したのだ。「ホスピタル」は、いわゆる仮想現実と呼ばれる電子空間に自らの姿を忠実に模したアバターを出現させ、思いのままに操ることができる。

 例えるならば、よりリアルなネットゲーム、とでも言うのだろうか。

 舞台は、彼が入院している病院の構造とほぼ同一に作られている。そのため、「ホスピタル」内で迷うことはない。

 このシステム、遊ぶためだけに作られたのではもちろんない。重い病で寝たきりの患者や、まさしく八雲真白のように自由な行動を取りにくい患者に大いに貢献している。

 「ホスピタル」では、現実の障害を乗り越えて動くことができる。故に、主に患者同士の触れ合いや交流などのために利用されることが多い。

 真白にこれを紹介した看護師は言う。

「長く病に伏していると、どうしても人恋しくなる時があるでしょ。「病は気から」ということわざまであるように、人間の精神と身体は何らかの形で密接にリンクしている。治療のために心を保つためには、どうしても生身の交流が必要なの」

 それが困難な人のために、「ホスピタル」は在る。

 埋められない心の隙間を電脳空間にまるごとそっくりな環境を作り、そこで埋めさせる。

 実験的に取り入れられたこのシステムによって、不自由な患者たちは、看護師や医師とは違う、同じ境遇で考えることができる仲間ができた。事実、八雲真白も暇な時は電脳世界に入り浸っている。

「現実には曇っていても、この世界はいつも青空だ」

 HMDと呼ばれるモニターを頭にかぶせると、「ホスピタル」内の視界が開ける。

 作られた景色は信じられないほど正確で、それでいてどこか冷たい死体のような印象を持たせる。

「することもないし、今日も適当にぶらつくか」

 八雲真白は今日も沈む。深い深い電子の海へ。


 真白は「ホスピタル」内にある売店に向かっていた。この世界では、先に現金を電子マネーに変えておけば、自由に買い物ができる。買ったものは後で店側が病室まで届けてくれるのだ。

 リハビリで疲れた時などはよく利用している。

 長く続く白いタイルの上を歩いて行くと、ほんの少しの違和感に気付いた。

 ――――ザザ。空間に僅かな歪みが生じた。

 その歪みの向こう側に、一人の少女が立っていた。

 人形のように細長い手足。病弱な雰囲気を感じさせる、透き通るような白い肌。夜を写し取ったかのような漆黒の長髪は、腰元まで流されている。患者の着る服がこれ程まで似合う人間を、真白は初めて目の当たりにした。目の前の人物からは、生気が、感じられない。

 少女の虚ろな瞳が、真白の姿を捉えた。その瞳に、光が灯る。少女の口が、開いた。

「……迷った」

 たった一言だったが、人間らしい様子に真白は安堵した。

「君もここの患者だよね、どこかに行きたいの?」

 声をかけてみると、少女は首をかしげた。

「行きたいところ、ない。どこにも行けないから」

「え、どういうこと?」

「……あなたは、どこへ」

 真白の質問には答えず、少女は尋ねてくる。

「売店。なんだったら、君も来る?」

「……うん」

 しばし逡巡した後、少女はうなずいた。

「僕は、八雲真白。よく変な名前って言われるんだ。君の名前は?」

「私は……天音黒花。よろしく」

「ああ、こちらこそ」

 思えばその時から、止まっていた時間が動き始めたのかもしれない。


「それじゃあ、僕はそろそろログアウトするよ」

 一階にある広いロビーのソファに腰掛けていた真白は、不意にそう言った。

 売店に寄ったはいいが、黒花は何も買わなかった。

 僕は雑誌を購入し、二人で院内をぶらぶらと歩き回り休んでいる時だった。

「僕に付き合わせちゃってごめんね、退屈じゃなかった?」

 ふと訊ねてみる。

「ううん。よく分からない」

 彼女は本当に分からなそうに答えた。

 一緒に周ってみて気付いたのだが、黒花はどうにも感情表現が苦手なようだった。いや、というよりも感情がない、と言う方が正しいのかもしれない。まるで今生まれたばかりの赤子のように本当にまっさら、という印象を与える。

 まあ、いくらそう感じても、これはあくまで仮想現実である。彼女が今本当はどんな気持ちで、どんな表情をしているかは、ディスプレイ越しには窺うことができない。なのに何故かそんな彼女の様子が、八雲真白には気になるのだった。

 少しの間が空いて、少女は再び口を開く。

「けど、きっと楽しかった、と思う」

「うん、そっか。君さえ良かったら、また明日もここで会わない?」

「……どうして?」

 黒花は首をかしげる。そう言われると、真白は少したじろいでしまった。実は結構勇気を振り絞っての一言だったのだ。

「えぇと、その。君と居ると、なんだかほっとけないっていうか、なんていうか……僕も結構、楽しかったんだよ」

 しどろもどろになりながらも、何とか言葉を紡ぐ。

 場を包む沈黙。真白は段々と自分の頬が熱を帯びていくのを感じていた。冷たすぎる空気は、その熱を冷ましてはくれない。やがて黒花は真白に告げた。

「分かった。いいよ」

 小さく、笑みを浮かべ。真白はその笑顔を見て、自分の中に宿った気持ちを初めて理解したような気がした。


 それからというもの、二人は「ホスピタル」のロビーでよく待ち合わせをするようになった。相変わらず黒花はまっさらだし、感情もあまり表に出さないけれど、それでも少しだけ、笑顔を見せることができるようになった。会ったところで他愛もない雑談に花を咲かすだけだが、それでも二人は幸せそうな様子だった。臆病者の八雲真白は、中々友達以上の関係に進展することはできなかったが、妙な焦燥感のみは常に感じていた。

 刻一刻と、八雲真白の退院の日が近づいていた。

 そんなある日のこと、二人はいつも通りに「ホスピタル」のロビーで再会していた。

「とうとう、退院の日が決まったよ。明後日だって」

 真白は嬉しそうにも、名残惜しそうにも見える顔で言う。

「……そう。おめでとう、と言いたいけれど、ちょっと寂しいね」

「うん、せっかく仲良くなれたからね。だから君さえ良ければ、退院後にお見舞いに行きたいんだけど……」

「それは駄目!」

 すごい勢いで拒絶される。彼女がこんなに声を荒げるなんて、初めてだ。

「え、ど、どうしたの」

「あ、その……なんでもないわ。でもお見舞いは無理よ。私には、会えないから」

「もしかして、面会謝絶、とか? 黒花って、そんなに重い病気なの?」

 基本的に病気のことについては触れないのが、暗黙の了解と言うやつなのである。そのため、お互いに相手がどんな状況かは、ほとんど分からない。

「そういうわけじゃないの。ただ……いや、もういいわ」

「もういいって言われても、」

「私のことはひとまず置いといて、今はあなたの退院を祝いましょう。売店にでも行って、何か買って」

 そう言いながら黒花は真白の腕を引き売店へと向かう。有無を言わせぬ力で、不本意ながらも真白はそれに従って行った。売店に着くや否や、黒花はデザート売り場に直行する。

「一緒に食べることはできないけど、同じものを食べてるって思うと繋がっている気がするの。だからこれ、一緒に食べましょ?」

 彼女はそう言って一個五百円のプリンを二個手に取り、その内の一つを僕に渡す。

「そういうの、ちょっと嬉しいな」

 真白はそれを微笑みながら受け取る。先程の黒花の言葉も、もはや気にしなくなっていた。


 黒花と別れログアウトした真白は、トイレに行く最中に妙な話を聞いた。それは仕事中の看護師たちが通り過ぎざまに話していたことだった。

「今日ね、変なことがあったの」

「なに、もったいぶらないでよ」

「それがね、408号室の患者さん、知ってる?」

「ああ、あの事故で半年以上意識不明の」

「そう。あの子のとこから、「ホスピタル」で商品が注文されてたらしいの」

「え、意識が戻ったの?」

「それが、まだなのよ」

「ちょっとそれ、どうなってんのよ」

「分からないの。それでね、注文されてたのがプリンだったから、もしかして意識不明でもどうしても食べたかったのかねって、先生たちは笑ってたけど。これ怪談よね?」

「間抜けな怪談ねぇ」

 ――――内容はそんな感じだった。しかし何故だか、真白にはそれが胸の奥底に引っかかる。

 何かを見落としている気がした。しかしそれに気付いてしまうと、大切な何かが崩れ落ちてしまう、そんな気がする。

「だけど、これをそのまま無視するのも、無理だ。だって僕は、黒花のことが――――」


 翌日。

 真白は黒花を「ホスピタル」のロビーに呼び出していた。 用件はもちろん全ての疑問について。

「黒花、ちょっと聞きたいんだけど」

「……なに?」

 黒花は、出会った頃のような冷たい雰囲気に戻っていた。もしかしたら、彼女ももう分かっているのかもしれない。

 これから何を聞かれ、どう結論するのか。

「君と出会ったとき、君は妙な歪みから出てきたよね。でもあんなのは、本来ありえない。そもそもプレイヤーは、自分の病室がアバターの出発点になるんだ。廊下でログインできるわけがない」

「……………」

 黒花は何も言わず、黙って聞いている。

「そして、これは聞いた話だけど、ある意識不明の患者が、その状態のままプリンを買ったんだってさ。君がこの世界でそれを買ったのと同じ日にね」

「……それが私と関係あるとでも?」

「いや、僕は別に何かの犯人を探してるってわけじゃないから、そんなに睨まないで」

 噛み付かれそうな表情だった。

「僕がそれらの事実を考えながら一番違和感を覚えたのは、お見舞いの話だよ。なんであんなに拒絶するのか、最初は分からなかったけど。今はなんとなく、分かるのかもしれない」

 黒花は諦めたように肩を落とした。

「君はお見舞いに来てほしくなかったんじゃない。来ても君には会えないから、断ったんじゃないか?」

 静寂が恐ろしいほどに身にしみる。

「……そうね、もういいわ。私も薄々気付いてたし」

「君の話、聞かせてくれる?」

「うん。私が分かったこと、全部」


 それから黒花が話したことは信じたくないが、きっと事実なのだろう。

 黒花と出会ったあの日、彼女は初めて「ホスピタル」で覚醒した。もともとデータは作られていたようで、それを基にしていたらしい。何故そのときになってこの世界に出現したかは、黒花にも分からない。彼女には記憶や知識はあったが、それが自分のものという確証はなかった。「ホスピタル」内でのみ動けるし、現実に眠り続けている黒花とは、もはや別人と言ってもいい存在らしい。つまり、現実の黒花が目覚めても、「ホスピタル」内で出会った僕のことは、知らないどころか、出会ってもいない、らしい。

「電脳幽霊って知ってる? 俗にサイバーゴーストって呼ばれてる。多分、私はそれ」

「そんな重大なことを、どうして黙ってたのさ」

「こ、こんなこと、言えるわけないじゃない。変だって思われるし、私だってこの前までは信じたくなかった」

「僕は君を馬鹿にしたりしない」

「そんなこと分からない。それに、もう諦めたの」

「諦めたって、なにを」

「全部よ!」

 黒花が声を張り上げるのは二度目だな、とふと思う。 それと同時に、彼女を怒鳴らせてしまうのもまた、僕の失敗だな、と後悔する。

「……最近、気付いたの。私の存在が消えかかってるって。私は本来ここにあるべき存在じゃないから、形としては、バグと同義よ。バグは消去されるわ。生み出した「ホスピタル」によってね」

「そんな……消去……――――」

 黒花が消える。その事実が、真白の心にナイフのように突き刺さる。

「はぁ……何も知らずに退院してくれれば良かったのになぁ。そうすれば、こんな思いしなくて良かったし。君も……傷つけずに、済んだのになぁ……」

 ぽたん、と水滴が落ちる。黒花は泣いていた。仮想世界で生まれたモノが、現実の人と同じように。

 その涙を見て、真白は気付いた。彼女もまた不安だったのだ。消えゆく存在である自分を見るのがどれほど怖いことなのか、真白には分からない。だからこそ、これ以上泣かせてはいけない、そう思えた。

「……僕は、君に会えて幸せだよ。君が笑った顔、僕は好きだ。君が架空の存在だったとしても、それは変わらない。君は確かにここにいて、そして笑っていたんだ。君をバグだなんて思わない」

「君に会えて幸せ、か。駄目だよ、私のセリフとっちゃ」

「ごめん。でも、本当だから」

「ふふ…ありがとう。そんなこと言われちゃったら、なんか未練とかなくなっちゃうナ……」

 ――――ザザ。生まれたときと同じ、雑音が走る。

 次第に雑音は大きくなり、黒花の体を裂くように亀裂が生じ始める。二人を新たな関係へと変える言葉は、同時に終焉を告げる言葉でもある。

「私ね……真白に、お願いがあるの……」

「なに? 黒花」

 黒花の体が、足元から光の粒子となりながら消滅していく。真白は思わず黒花の手を握った。黒花もその手を握り返す。

「私を、忘れないで」

 目に涙をためていた。それでも、笑っていた。真白が好きだといった、笑顔を浮かべていた。

「ああ、絶対に忘れない」

 だから、真白も笑った。そうするしか、なかった。

「あと、もう一つ……これはさっきのと矛盾するかもしれないけど……」

 もう首元まで消えかかっている。

「……もう一人の私を、よろしくね」

 そう言って、本当に呆気なく、黒花は消えた。

 元から誰もいなかったように、八雲真白は一人で立っていた。その目で、虚空を見つめ続けていた。


 退院の日、真白は408号室の前に来ていた。医師から十分間の時間を与えられ、見舞いに来ている。

 扉を開けると、中には良く見知った、しかし初対面の少女が眠っていた。姿はほぼあの黒花と同じ。決定的に違うのは、中身だ。この子には、真白と過ごした思い出は存在しない。他人と言い切ってもいい。それでも会いにきたのは、黒花に頼まれたことだったからだ。

 それに、中身は違えど、この子も天音黒花なのだ。

 正確には、こちらの方がオリジナルだけど。それを放っておくなんて、真白にはできない。

 花瓶は、しばらく前に花を変えて以来放置していたようだったので、枯れた花を取り、持参した花と入れ替える。

「君と出会えて、よかった。またお見舞いに来るよ」

 真白はそう言い残し、病室の外へと旅立つ。

 意識不明のはずの黒花の手が、ぴくんと反応する。

 彼女の目が、開く――――



電脳世界が好きなのです。.ha○kの影響ですね……

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