いつの翌朝だったか分からない翌朝
だいぶ間隔空きましたね。
朝、学校には、一時間以上の余裕をもって登校する。
それが俺の心配性な性格ゆえの信条だ。それくらいあれば、万が一にも遅刻することはないと思っているからだ。現に、こんな生活を始めてから、一度も遅刻したことはない。
ついでに言うと、誰もいない教室に「おっはよー」と叫ぶのがとても楽しい。そんな理由もある。
ただ、高校に入ってから、雅まほろさんと同じクラスになってから、その優越感に浸れなくなってしまった。
彼女も俺と同じモットーを持っているのかは定かではないが、いつも彼女のほうが先に来ていた。そしていつもブックカバーに包まれた文庫本を読むことに耽っている。日によってその本の厚さはまちまちだった。つまりたくさんの本を読んでいる、ということだ。
一週間もそれが続くと、やはり彼女も自分の考えをもって早く来ているのか、と思うようになり、妙な親近感をもって彼女に話しかけてみた。ちょっとだけ、朝の教室に一番乗りできなかった悔しさもあったのかもしれないけれど。
「えー……と。その本、なんて題名の本?」
話題に困り、手近なものから聞いてみることにした。他意はなかったのだが、雅さんは一度こちらにキッと鋭い視線をぶつけた後、本へと戻し小さな声で答えた。
「…………変身」
「…………変身?」
一瞬、ヒーローにでもなったのかな、という現実味のない思いがよぎり、十分な間を置いて、やっと本の題名を答えてくれたのだと分かった。
「『変身』って題名? 俺が知ってるのはフランツ・カフカの変身しか知らないけど」
「そう……それよ」
ちらっとこちらを窺ったように見えたが、気のせいだろう。それにしても、朝からカフカの「変身」を読んでるなんて。……まあ、読書に時間帯は関係ないけど。俺は春休みのうちに暇をつくってその本を読んでいたので、ある程度の内容は記憶に残っていた。
「ずいぶんと暗い話だよねぇ。主人公が毒虫に『変身』しちゃって、家族に自分の言葉を伝えられないまま、彼らに疎まれ沈んでゆく……。作者の当時の思想とかがまるっきり映されてるみたいで、俺は恥ずかしながら泣きたくなったなー。――――――――ってまだ読み終わってないのにネタバレしちゃった!?」
「…………いいわよ、別に。そこまで感情移入して読んでたわけじゃないし」
ふう、と安堵のため息がこぼれる。と同時に、初めて二言以上話してくれたことに喜びを感じた。
「それより、なんで三宮くんはいつもこんなに早く来てるの?」
突然、どこの風の吹き回しかと疑うような言葉を耳にした。俺に関して聞いてきている? 雅さんが?
「え? いや、それはむしろこちらの疑問と言いますかなんと言いますか……」
俺のほうを向いて睨んできているので、それ以上の反論は出ず、仕方なく雅さんの疑問に答えることにした。
「あー、えーと、端的に言うと極度の心配性なんだよ。『もしも事故が起きて遅刻したらどうしよう』とか、『もしも学校に着いてから忘れ物に気づいたらどうしよう』とか考えちゃうんだ。んで、手っ取り早いその問題の解決法が」
「始業時刻より一時間も早く学校に来ること、なの?」
「お、うん」
なんか今、すごく馬鹿にする言い方をされたような。
でも、
「三宮くんは面白いのね、ほかの人と違って」
こんなこと言われたら、そんな楽しそうな顔をされたら、全部吹き飛んじゃうじゃないか。
自分が特別視されてるとか、その笑顔を守りたいとか、青臭い気持ちがどんどん湧き出てくるじゃないか。
つやのある黒髪を、前は切りそろえ二つに分け、後ろは無防備なくらいに腰のあたりまで伸ばしている。鋭く見えて、しかし笑顔とは相性のよさそうな目。緩く引き結んだ薄い唇。見れば見るほど完成された「大和撫子」のようであった。
「まったくもう、可愛いなぁ雅さんは! 惚れてしまいました! 俺と付き合ってください!」
「それはお断りするわ」
「真顔デ即答デスカ!?」
「――――――――話し相手くらいなら、してあげてもいいけど」
ふい、と目をそらし、口を尖らせそう言った雅さんもとても魅力的に見えた。
彼女のその最大限の譲歩に救われて、俺は現在までの関係に至るのだ。