定義域は「恋≧1」
そろそろ本題に入ります。
俺が雅まほろさんに出会ったのは、高校の入学式の日。まあ、同じクラスになったのだから当然と言えば当然だ。
そのときは「可愛い人」という印象だけで、俺はただ今後の高校生活が不安で、それ以上の感情を抱く余裕はなかった。決して容姿だけで好きなわけではないことを、ここに明示しておきたい。
俺が彼女を意識しだしたのは、その二日後だった。クラスの役員を決めるのが予想以上に難航したこともあって、この日のホームルームの時間にようやく「自己紹介」の枠が設けられたときだ。
正直言って、俺は「自己紹介」という名の「公開処刑」が苦手であった。ここで個性を発揮しようとしたら、自分が怪我するだけだし。かといって、普通に「三宮です。好きな花は紫陽花です」なんて言ったらしらけるに違いない。紫陽花が普通なのかどうかも微妙だ。そもそも普通という概念が抽象的すぎる表現であり、俺が(中略)。
出席番号に並んだ席順に、一番から紹介していくことになった。俺は二十二番。自分の番は早くに訪れた。
結局、中途半端な紹介で終わったらしい。無駄に緊張していた俺は、自分の番で頭が真っ白になってしまった。ほとんど覚えていないのだが、たしか「ハイドレンジア」という未知の単語を口走ったのは記憶に残っている。のちに紫陽花の英訳だったと知って、変なところで貴重な英語の才能を使い果たしてしまった、と後悔した。知らない単語を言うなんて、きっと二度と起きない奇跡だよね。
正気に戻ったのは、三十番辺りの紹介のときで、一人沈んでいた。高校生活三日目で早くも〝黒歴史〟に一行目を書き込むことになってしまった、と。
彼女の出席番号は三十六番だった。そこで俺は彼女に惹かれたんだ。
「県立林高校一年四組三十六番名前は雅まほろ性別は女年齢は十五歳好きな植物は勿忘草趣味は特にありませんよろしくお願いします」
と、着席。ひと息で、早口に終えた彼女に、誰もが唖然としていた。今思えば、同じ「好きな花」を紹介に盛り込んだという共通点が、俺を強く惹きつけたんだと思う。
放課後、ちょっと声をかけてみた。何てことはない、世間話を用意して。
「雅さん、だったよね? 自己紹介すごかったよね。……そういえばこの辺で」
「……」
彼女は振り返ったけど、言葉は発しなかった。無言で、「どっか行け」と言われた気がした。負けまいと、俺は話を続ける。
「この辺で勿忘草って見かけないけど、いい花だよね」
「……え、見たの?」
ぱっと彼女の目が見開く。何か変なこと言ったのかな、と思いつつも口は止まらなかった。
「写真でしか見たことないけど、素朴な美しさというか、謙虚に咲いているって感じがするんだよね、あの花」
得意げに言い切った後にはもう、目の前には雅さんはいなかった。どうやら走り去っていったらしい。
ため息をついて、とりあえず帰ろうと思った矢先、背後に気配がした。
「お前、よく声かけられたな。あの人、お前の自己紹介のとき、威嚇してるみたいにお前をにらんでたぜ? よっぽど気に障ったんだな」
後ろから肩を叩いてきたのは、同じクラスの男子だった。俺より身長がちょっと高くて、ただ細いように見えて、意外と頑強そうな風体をしていた。名字は社で、名前が……。
「慎之介だよ、社慎之介。漢字で書いたら読みにくいって評判の……ってこれ紹介のときも言ったっけな」
なるほど、言われてみると読みにくい。何も知らずに見たら、俺はきっと『しゃしんのすけ』と読んでいたことだろう。口頭だけで言われても、しっくりこなかった謎が解けた。
「それより、雅のことだ。俺、中学が同じだったんだけどさ、そんときも『好きな植物』を紹介してて、その話題に乗れる一部の女子とぐらいしかろくに話もしなかったんだぜ? ほら、見た目は可愛いじゃん? だから最初は近づく男子もちらほらいたんだけど……そのうちに絡まれるのが嫌になったんだろうな、今じゃあの態度さ」
要するに、社が言いたいことはこういうことだ。
『可愛いからってあの人にうかつに近づくと、自分が傷つくだけだから話しかけないほうがいい』と。
でも、それでは俺は腑に落ちなかった。
「忠告ありがとう。でも俺は第一印象だけで心が動くタイプじゃないから、何ともないよ」
「そういうやつに限って大抵危ないだろ。……まあ、止めはしないけど。ほどほどに頑張れよー」
話しやすい人だな、と思った。彼には情けがあるわけでもなく、関心がないわけでもない。俺は何となく、仲良くなれそうな予感がしていた。
もちろん、社と……雅さんとだ。
ま、この日は雅さんを追いかけるなんて青春チックなことはせずに、普通に家に帰ったんだけどね。