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あなたがそう仰るなら ~我慢強い令嬢の行く末~

掲載日:2026/01/30


 煌びやかな王宮のホールで、うつむきがちに壁際に立つ一人の女性がいる。

 ややオレンジがかった金髪を持つその女性は、前髪までも後ろで一つにかちっとまとめ、肌の露出の少ない地味な深緑色のドレスを身にまとっていた。

 その女性――伯爵令嬢エレイン・ラザフォードは、揶揄をこめて「我慢強い令嬢」と呼ばれている。

 彼女の視線の先には、婚約者である侯爵令息ニコラス。見た目だけはいい彼は、婚約者であるエレインをほったらかしにして女性たちに囲まれている。

 そんな彼を見つめるエメラルドのような緑色の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「あらあら、お気の毒に」


「仕方がないわよ。あいかわらず地味だもの、エレイン嬢は」


「まだ十七歳だというのに、まるで未亡人のようだわ」


「陰気だし、ニコラス卿の気持ちがほかに向いてしまうのも無理はないわね」


「あら、そんな風に言ってはかわいそうだわ。デビューのときは普通だったじゃない? 浮気されて落ち込んであんな風になってしまわれたのよ」


 令嬢たちがクスクスと笑いながらエレインを嘲る。

 それが耳に入っても、エレインはそちらを一瞥もしない。

 今夜の舞踏会でもエレインは婚約者にダンスに誘われることもなく、壁を彩る地味な花として終わった。



 エレインとニコラスが婚約したのは、エレインが十六歳になったばかりの頃、ちょうど一年前だった。

 今でこそ地味なエレインだが、当時はよく笑う愛らしい令嬢であり、ニコラスも最初は優しかった。

 だが、二度目のデートでニコラスが口づけをしようとした際、「もう少しゆっくり進めたいです」とエレインが拒んでからは態度が一変した。

 大人の世界に足を踏み入れたばかりのエレインは、二十一歳のニコラスには物足りなかったのだろう。ニコラスはほかの女性とも会うようになっていった。

 もちろん、エレインは抗議した。だがニコラスはどこ吹く風。

 それどころか、


「婚約者は君だ。それは変わらない。結婚前にほかの女性とほんの少し交流するくらい、うるさく言わないでくれ。結婚は君とするんだから」


 と言い放った。

 次期侯爵と、歴史は古いが金銭的に厳しい伯爵家の娘。

 どちらの立場が強いかは一目瞭然で、エレインは「ニコラス様がそう仰るなら」と耐えた。

 その頃からパーティーでのほったらかしが始まったが、愛らしいエレインが一人でぽつんといると声をかけてくる若者もいた。エレインを放置している張本人であるニコラスは、それが気に入らなかったらしい。

 ニコラスのアカデミー騎士科の同期ですべてにおいて敵わない公爵子息オスカー・ブライトウェルが彼女に声をかけたのが特に許せなかったようで、パーティーが終わった後、エレインに言った。


「君は魅力的でか弱いから、自分の身を守るためにもっと地味な見た目にしたほうがいい。僕も清楚で控えめな見た目の女性が好きだ」


「わかりました。大好きなニコラス様がそう仰るのなら」


 とだけ言い、以降は地味な髪形や服装をするようになった。


 地味な見た目になったエレインにニコラスはさらに興味を失ったようで、より一層女性遊びが激しくなった。

 だが、エレインは何も言わない。

 それどころか、以前にもましてニコラスに愛の手紙を送るようになった。

 ある日ニコラスはエレインを屋敷に呼び出し、彼女の目の前で愛の手紙を暖炉に投げ込んだ。


「悪いが、こういう手紙は重いんだ。今後やめてくれないか」


「……わかりました。ニコラス様がそう仰るなら。もうやめますから、どうか嫌わないでください」


 目を潤ませ、エレインが言う。

 彼女は手紙を書くのをやめた。



 ニコラスの二十二歳の誕生日パーティーに招待されたエレインは相変わらず放置されていたが、それでも休憩室に二人きりになった時間を狙ってシャツを渡した。

 高価な品は用意できなかったけれど、時間をかけて一生懸命縫ったものだと。

 包装紙を乱暴に破り、シャツを手に取ったニコラスはエレインにそれを突っ返した。


「僕の家は君の家のように貧しくない。素人の手縫いのシャツなんて着られるわけがないだろう」


「そうですか。申し訳ありません」


「以後こういうことはやめてくれ。侯爵夫人になっても、手縫いのものなんて不要だ」


「わかりました。ニコラス様がそう仰るなら」


「……従順なのは嫌いじゃないが……」


 ニコラスが眉根を寄せて、ため息をつく。

 エレインはびくりと体を揺らした。

 

「お願いです。もうこんなことはしませんから、嫌わないで……ください……」


「……もういい。今日は帰ってくれ」


「はい……」


 突っ返されたシャツを胸に抱きながら、玄関ホールへと向かって廊下をとぼとぼと歩く。

 向こうから歩いてくる人物に気づいて、エレインは顔を上げた。

 公爵子息オスカー・ブライトウェル。ニコラスが最も嫌っている男。

 それも納得だとエレインは思う。

 ゆるく波打つ黄金色の髪に、サファイアのような青い瞳。ニコラスも整った顔立ちだが、オスカーは飛びぬけて美しい。

 さらには剣の腕も一流で、学業も常に学年トップだったのだという。

 おまけに次期公爵となれば、国じゅうの女性が放っておくはずがない。ニコラス以上に女性に囲まれてはいるが、だれに対しても平等に一線を引いており、婚約者もいまだにいないのだという。

 エレインは、ニコラスが彼に対して強烈な劣等感を抱いていることを知っている。

 だからこそ、かかわりたくなかった。

 頭を下げ、彼の横を通り過ぎようとしたのだが。


「こんばんは、エレイン嬢」


「……ごきげんよう、オスカー卿」


 オスカーの視線がエレインの持つシャツに注がれる。


「もしかして……プレゼントを返されてしまったのですか?」


「……ご心配には及びません」


「彼はなぜあなたにこんなひどいことを」


 エレインがぐっと唇を噛み、顔を上げた。

 視線をしっかりと合わせる彼女に、オスカーが少し驚いた顔をする。


「もし、私のことを少しでも気の毒に思うのなら、放っておいていただけると助かります。では、失礼いたします」


 エレインはもう一度頭を下げ、今度こそ彼の横を通り過ぎて家に帰った。



 そのひと月後。

 相変わらずパーティーで放置されているエレインは、嘲りと憐みの視線から逃れるかのようにバルコニーへと足を踏み入れた。

 だが、すぐにそれを後悔する。

 誰もいないと思っていたそこには、オスカー・ブライトウェルがいたから。


「ご休憩中に大変失礼いたしました。誰もいないものだとばかり。私はすぐに去りますので」


「そう避けられると切ないですね。女性たちから逃げてきてここで休憩しているところですが、エレイン嬢も少しここで休んでいかれませんか?」


「いいえ、それならよけいにここにいるわけにはいきません。失礼いたします」


 そう言って踵を返し、ぎくりとした。

 大きなガラス扉の向こうに、ニコラスの姿が見えたから。

 彼が最も嫌う男と一緒のところを見られたくないと焦るエレインの手を、オスカーが引いた。


「静かに。私と一緒のところを見られたくないのでしょう。手をつないだまま、声を出さないでください。認識阻害の魔道具の指輪をつけていますから、気づかれません」


 そう言う彼の手元を見ると、彼は赤い石がついた指輪をしていた。

 今出て行っても鉢合わせるだけだし、もう彼の言うとおりにするしかない。

 そっと手をつないでくる彼の手の大きさと手のひらの硬さに驚いた。

 扉の横の壁際に彼と共に移動すると同時に、ニコラスと二人の男友達がバルコニーへと入ってくる。

 女性ではなく男性と一緒とは珍しい、とエレインは思う。

 三人は酔っているようで、バルコニーで風にあたりながらとりとめもない話をしていた。


「それにしても、お前の婚約者のエレイン嬢」


 突然自分の話題になり、エレインがぴくりと肩を揺らす。


「見た目は地味だが、うらやましいよなぁ。浮気しても文句を言わない婚約者なんて。妻にするには理想的じゃないか」


「それはそうだし、そういうつもりで躾けてきたんだが。やりすぎたのか、ちょっと鬱陶しいんだよな。僕に嫌われたくないとビクビクした態度なのも気に入らない」


「贅沢言うなよ。気に入った女は愛人にすればいいだけだ。気の強い女と結婚した男は悲惨だぞ?」


「まったくだ。浮気は許さないなんて女よりよほどいいじゃないか」


「だが愛の手紙だの手縫いのシャツだの、重いんだよ。例えば結婚後僕が帰るのが遅くなったら、食事もとらず灯かりすらつけずに待っていそうな不気味さがあるだろう!?」


 そこでどっと笑いが起きる。

 どこまでも失礼な彼らを、エレインは微動だにせず見ていた。

 オスカーの手に、わずかに力が入る。


「じゃあ、『我慢強い令嬢』であるエレイン嬢がどこまで耐えられるか、賭けようじゃないか」


「賭ける?」


「ああ。彼女をデートに誘うんだ。そして――」



 後日、友人の提案どおり、ニコラスはエレインをデートに誘った。

 誘ってくれるのは本当に久しぶりだと、エレインが満面の笑みを浮かべる。

 そうして待ち合わせの時間。

 ニコラスは、やってこなかった。一時間待っても、二時間待っても。

 エレインは公園のベンチで、ただ静かに待ち続けた。

 やがて、雨が降ってくる。春の終わりの雨は冷たく、エレインの体温を奪っていった。

 ガタガタと震える彼女の背後から、そっと傘が差しだされる。それがニコラスではないことを知っているエレインは、振り返らない。

 冷たい雨は傘に遮られたが、エレインの震えが止まることはなかった。


「もうじゅうぶんですよ」


 雨音に混じる、男性の声。

 エレインは振り返らない。


「ニコラス卿がつい先ほど遠くからあなたの姿を確認し、帰っていきました。だからもうじゅうぶんです」


「そうですか……」


「お送りします」


「いいえ、結構です。お気遣いありがとうございます」


 声の主――オスカーが小さくため息をつく。


「では、この傘はお持ちください。返却も不要です。私は馬車に乗ってきましたので」


「……ありがとうございます」


 差し出されている傘を受け取り、立ち上がって振り返る。

 オスカーの姿を見て、エレインはぎょっとした。

 彼がエレインと同じくらいびしょびしょに濡れていたから。


「馬車で来たのに、なぜそんなにびしょ濡れなんですか?」


「さあ? 水も滴るいい男だからでしょうか」


 そう言って、彼は水を含んで重くなった前髪をかき上げる。

 その仕草や額があらわになった顔に、思わず見入ってしまった。


「では、私はこれで。家に戻ったら体を温めてくださいね」


 オスカーがエレインに背を向ける。


「傘……ありがとうございます」


 もう一度礼を言うと、彼は軽く手を上げて去っていった。

 


 その日の夜、エレインは熱を出した。

 翌日の午後になっても熱は引かず、エレインの父が濡れたタオルを額にのせたり消化の良い食べ物を用意したりとかいがいしく世話をする。


「お父様。ニコラス様に、私が風邪を引いたことは……?」


「ああ、もちろん伝えてあるよ。大丈夫だ、心配ない」


 そう言ってエレインの頭を優しく撫でる。

 娘を見る父の瞳は、悲しげだった。


「そういえば、ブライトウェル公爵家から花と高価な風邪薬が届いてな。『もし風邪を引いていたらご使用ください』と。公爵家と何かあったのか?」


「……そういうわけではないんです」


「そうか。それについては何も聞くまい。だがエレイン、あまり無茶をするな。お前は私の大事な娘なんだ。お前に何かあれば、私の最愛の妻リリーネも天の国で悲しむだろう」


「はい、お父様……」


 もう一度、エレインの頭を父が撫でる。

 結局、ニコラスが見舞いに来ることはなかった。

 


 ニコラスが父である侯爵をともなってラザフォード家を訪れたのは、その三日後だった。

 応接室に通されるなり、テーブルの上に一枚の書類を置き、エレインの父である伯爵の前に差し出す。


「閣下、これは……?」


「婚約解消の書類だ。すまないが、息子ニコラスとエレイン嬢の婚約を解消させてもらう」


 伯爵の隣に座るエレインが、息をのんだ。


「そ、そんな、閣下! 一方的すぎます! なぜ急にこんな……! エレインの何がいけないというのですか! 今までニコラス卿の言うことに逆らうことすらしなかったというのに……!」


「それが問題なのだ。妻が夫に従順なのは美徳だが、度が過ぎればまともな結婚生活も送れない。みじめったらしい辛気臭い妻は侯爵家にふさわしくない」


「そんな……なんてひどいことを……!」


 うなだれる伯爵の横で、エレインが目を潤ませる。


「ニコラス様……」


 呼びかけられても、ニコラスは目も合わせない。


「ニコラス様……私、悪いところは直します。なんでも仰ってください。だからお願いです、婚約を解消するなんて仰らないでください。どうか私を捨てないでください……」


「君のそういうころが嫌いなんだ! いい加減鬱陶しいんだよ!」


「そ、そんな……ひどいですニコラス様……」


 エレインがポロポロと涙を流す。

 侯爵はさすがにばつが悪くなったのか、ニコラスを軽くたしなめた。


「もちろん、エレイン嬢が何か問題行動を起こしたわけではないのだから、婚約解消はこちらの都合ということになる。相応の慰謝料を支払おう。そこの書類に金額も書いてある」


「金なんかで……」


「困窮した貴家には必要だろう。こちらとしてもそれなりの額を用意し、誠意を見せているつもりだ。エレイン嬢とてまだ十七歳。息子が傷物にしたわけでなし、次の縁談にも困らぬだろう」


「世間はそうは見てくれません」


「悪いが世間の評判まで面倒は見てやれない。これ以上は話し合うつもりはない」


 うつむいて涙を流していたエレインが、再び顔を上げる。


「ニコラス様。私たちはもう本当に終わりなのですか……?」


「くどい。いつも言っていたじゃないか。『ニコラス様がそう仰るなら』と。今こそそれを言うときだ」


「ひどい……ううっ……うっ……」


 エレインはしばし泣いていたが、やがて心が折れたかのように書類に震える手でサインをした。

 父伯爵もあきらめたようにサインする。


「では私たちはこれで失礼する」


「じゃあ元気で、エレイン」


 侯爵とニコラスが立ち上がる。


「ううっ、うっ……さようならニコラス様……」


「かわいそうなエレイン……ぐっ……くうっ……」


 親子そろって重いなとニコラスがつぶやく。

 そうして、二人はそのまま応接室を出て行った。


「う、うっ」


「ぐ、くっ」


 伯爵が立ち上がり、窓の外を見る。


「ぐっ、やつら帰ったぞ、エレイン、ぐ、ぐう、ぐふっぐふっ」


「うう、うっうふ、うふふふふふふ、あははははっ……!」


「ぐーっふっふっふ!」


「うふふふ、あはは……! やりましたねお父様!」


「やったなエレイン! はーっはっはっは!」


 ひとしきり笑って、二人でソファに向かい合って掛ける。


「ようやくあの浮気男から解放されます。まったく、あんな男と結婚なんて冗談ではないわ」


 ひっつめた髪をほどきながら、エレインが言う。

 つい先ほどまで泣いていたとは到底信じられない、晴れやかな顔をしていた。


「慰謝料はなかなかの額だな」


「侯爵は性格は最悪ですがケチではなかったようでよかったです。こちらに非のない婚約解消ですから、さすがに侯爵家の体面を気にしたのでしょう」


 エレインはニコラスに浮気されて以降、あえて彼に嫌われるような行動をとってきた。

 ニコラスが浮気者とはいえ、格上相手ではこちらの希望で婚約を解消するのは難しい。できたとしても、あちらは痛くもかゆくもない上にエレインは「婚約解消された女」の烙印を押されてしまう。

 ニコラスの女癖の悪さは皆知っていても、男の結婚前の火遊び程度は目をつむるべしという悪しき慣習のせいで悪く言われるのはなぜか女性側。

 それなら、せめて相手から婚約解消を申し出るよう仕向けて慰謝料をむしり取ってやろうと考えたのだ。


「金が入ったのはよかったが、そもそも私が縁談を受けたばかりにこんなことになってしまった。婚約前は社交界でニコラスの悪い噂は聞かなかったが、せめてもう少し詳しく調査していれば……すまない」


「相手は格上なのですから婚約を打診された時点で断るのは難しかったのでしょう。私こそ、わがままを通して我が家に損害を与えたのではないかと」


「娘の幸せ以上に大事なものはないよ。それに、借金の原因である領地の家畜伝染病の影響も薄まり、税収は上向いてきているんだ。まだ幼いとはいえ跡継ぎであるお前の弟もいるし、何も心配はない」


「お父様……」


 父の優しさに胸が温かくなる。


「この慰謝料はお前がすべて自由に使いなさい」


「いいえ、半分はお父様に託します。私のわがままを聞いてくださったせめてものお礼と考えてください」


「そうか、わかったよ。今後はどうするんだ?」


「そうですね、領地へ行って、まずは目いっぱい自由を楽しんでみたいと思います。そのあとは、一人で生きていく術をゆっくりと探します」


「……新たな結婚相手を探さなくていいのかい?」


「ええ、男に振り回されるのはもう御免ですから、自分の人生を楽しみたいと思います」


 そうしてエレインは王都から伯爵領へと戻り、宣言どおり幾日も自由に楽しく過ごした。

 町を一人で歩き、ふらりと書店へ寄って本を買い、木の下でゆっくりと本を読む。

 伯爵家直営の大農園で農作業の手伝いをする。

 児童養護施設を訪れ、子どもたちと一緒に遊ぶ。木のぼりが得意なエレインは、子どもたちの尊敬を集めた。もちろん、プレゼントを渡すのも忘れない。

 草原を馬で駆け抜け、小高い丘の上に寝転がって沈む夕日を見る。

 人間より家畜の多い領地で自由に育ったエレインは本来は活発で気も強く、王都にいる間に演じていたのとは正反対の性格だった。

 領地に戻って、ようやく自分を取り戻したような感覚を味わっている。


「あー、生きてるー! 私の人生最高!」


 今日もひとしきり乗馬を楽しみ、帰宅したところで乳母ハンナが父からの手紙を渡してきた。


「ありがとうハンナ」


「いえいえ。それにしてもお嬢様、今日も頭に草がついています。王都ではないとはいえ、あまりお転婆ではいけませんよ」


「うふふ……気をつけるわね……」


 昔から、この乳母にはかなわない。

 部屋に戻って父からの手紙を読むと、社交界はニコラスの悪い噂でもちきりだという話だった。

 もともと浮気者で婚約者をないがしろにしていたのは皆の知るところだが、友人との賭けで婚約者との約束をわざとすっぽかし、雨に打たれた婚約者は高熱にうなされた。それを謝罪するどころか、一方的に婚約破棄を突きつけたと。


(たしかに間違ってはいないけど……なんでこんな噂が?)


 友人との賭けというところに、ふとある人物が思い当たる。

 彼の友人が裏切ったのかもしれないが、もしかして……と。


 その翌日。

 朝食を終えて部屋でゆっくりしていたところに、ノックの音が響く。

 返事をするとハンナが慌てて入ってきて、「お客様がいらしています」と言った。


「私にお客様? 先ぶれもなしに? まさかニコラスじゃないでしょうね」


「違います」


 なんとなく、嫌な予感がする。


「……先ぶれもなしにいらっしゃる方には帰っていただいて」


「そうはまいりません! 公爵家の令息ですよ!」


 ああやっぱり、とエレインはため息をついた。

 ハンナに強引に身支度を進められ、応接室へと連れていかれると、まばゆいばかりの金髪と青い瞳を持つ美男子――オスカー・ブライトウェルが立ち上がってエレインを出迎えた。


「お久しぶりです、エレイン嬢。真の姿を取り戻されたのですね。なんて愛らしい」


「……恐れ入ります」


 前髪までかっちりとまとめた髪型はやめ、今は前髪もちゃんと整えてサイドの髪のみを結っている。

 ドレスは淡いグリーンで、若々しく愛らしいエレインによく似合っていた。

 向かい合って座り、ハンナが新たなお茶を出して下がるまでは二人とも無言になる。

 やがてハンナが出ていくと、オスカーが口を開いた。


「まずは先ぶれもなく訪問してしまったことをお詫びします」


「ええ、本当に困ります」


「申し訳ありません。先ぶれを出すとお断りされそうで……強引なのはわかっています」


「こちらにはどういうご用件で?」


 そう問うと、オスカーがやや緊張した面持ちになる。


「単刀直入に言います。私とお付き合いしていただけませんか」


「申し訳ありません。お断りいたします」


「即答すぎやしませんか」


 オスカーが渋い顔をする。


「まず、オスカー卿には感謝しております。何かと気遣っていただき、ありがとうございました」


 ニコラスに冷たくされていた中で、彼が優しくしてくれるのはありがたい気持ちもあった。

 だが、ニコラスはオスカーに強烈な劣等感を抱いている。

 そのオスカーがエレインをあれこれ気遣っていると知れば、ニコラスはエレインを手放さなくなる危険性があった。オスカーに「自分のもの」を渡すくらいなら、重いのは多少我慢しても傍に置いておこうと。

 それに気づいたのかは定かではないが、ニコラスがいる前でエレインを気遣うようなことはなくなったが。


「それはそれとして、私はもう殿方とお付き合いするつもりはありません。大変申し訳ありません」


「あんな男が最初で最後の恋人でいいのですか?」


「もはや顔すら思い出せないので私の中ではなかったことになっています。……彼の悪い噂は、あなたが?」


「それはどうでしょう。天は悪事を見ていますから」


 答える気はないということだろうと思う。

 だが、彼が噂の発信源だと確信した。


「ところで、私があなたのどこに惹かれたのかというと」


「ま、待ってください。お付き合いするつもりはないので、そんなことはお話していただかなくて結構です」


「最初は放置されているあなたがただ哀れだったんです。ただ、その瞳の奥に強い意志のようなものを感じて」


 まったく話を聞いていない。

 強引すぎて、エレインは少しいら立った。


「明確に興味を抱いたのは、あなたが彼に突っ返されたプレゼントのシャツが中流階級向けの既製品だとわかったときですね。ニコラスはおそらく手縫いだと信じたのでしょうが」


 笑いを含んだ声で彼が言う。


「……裁縫は苦手なんです。手縫いのシャツなど無理に決まっています」


 彼がくつくつと笑う。


「やはりあなたは楽しい方だ。突っ返される前提だったので適当に用意したのでしょう。そんなあなたにどんどん興味が湧いてきて、あのバルコニーでニコラスたちを見つめる冷めた瞳に心を射抜かれました。そしてこの顛末。見事としか言いようがありません」


 そう言って、エレインをまっすぐに見つめる。

 さすがにエレインは目をそらした。


「……左様ですか。お話はわかりましたので、どうぞお引き取りください」


「私は一度欲したものは必ず手に入れるタイプです。あなたをあきらめるつもりはまったくありません」


 オスカーが少し不穏な空気を漂わせる。

 エレインは眉をひそめ、オスカーと視線を合わせた。

 オスカーが少し驚いた顔をする。


「私はものではありませんし、そういう女性を下に見た発言は大嫌いです。そして、私の意思を無視するのなら、ニコラスと同じです」


 オスカーはしばし黙り込んだあと、頭を下げた。


「大変失礼いたしました。私が傲慢でした」


「わかっていただけたのならよかったです」


「ただ……あなたをますます好きになってしまいました。やはりあきらめることだけはできそうにありません。女性に心を奪われたのは初めてですから」


「!」


 あまりにストレートな言葉に、さすがにエレインも動揺する。


「お付き合いする気はないと言ったはずです。私は一人を楽しみたいんです」


「あなたの気が変わるよう、努力します」


(話が通じない!)


 結局どこまで行っても平行線なので、その日はなんとか帰ってもらった。


 その翌日。

 オスカーのことを忘れようと大農園で農作業の手伝いをしていると、粗末なシャツにダボダボのズボン、麦わら帽子に首にはタオルという姿のオスカーが現れた。


「な、なにをしてるんですか!」


「何って……仕事です。こちらで人手を募集していましたので。ああ、私のことはお気になさらず。ただの農作業の人員ですから」


 服装は粗末だが顔と所作の美しさは隠しきれず、農作業を行っている老若男女が彼に見とれる。

 結局彼は本当に農作業だけして、それ以上話しかけてくることはなかった。


 さらにその翌日。

 一人で釣りを楽しんでいると、「釣れますか?」と話しかけてくる男がいた。

 もちろんオスカーである。


「オスカー卿は暇なのですか?」


「そうでもありませんが、今は休暇中です」


「しつこすぎませんか」


「そうですね。ですから、こうしましょう」


 彼が両手を開いてエレインに見せる。


「十日間。この十日間であなたが私に少しも興味を抱かなければ、私は王都に帰ります」


「……本当ですか」


「はい。さすがに私にまったく興味を抱けない女性にいつまでもしつこく付きまとうことはできませんから」


「……わかりました。じゃあ十日間は我慢します」


「ありがとうございます。約束は必ず守ります」


「とりあえず、静かにしていてくださいね」


「はい、わかりました」


 オスカーが少し距離をあけて隣に座る。

 彼は微動だにせず、ただ座っていた。


(公爵子息なのに、五つも年下の女性に下手に出るのは嫌じゃないのかしら。言われたとおり静かにしているし、なんだか変わった人よね……)


 とそこで、なんだかんだ彼のことを考えてしまっている自分に気づいて焦る。


(私は一人を楽しみたいの。男性とのお付き合いはもう御免なんだから)


 そう思ってちらりと彼を見ると、うれしそうな微笑を返された。

 ずるい男だと思う。彼は自分の魅力を存分に知っている。


(十日間……がんばろう)


 そう決意するエレインだった。


お読みいただきありがとうございます。


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― 新着の感想 ―
悪評が流されたもクソもニコラスの噂は事実なので自業自得。 二人目の被害者が生まれない事を願いますわ。(主人公は計画的に逃げたとはいえ、貴重な思春期を屑に浪費しちゃったので立派に被害者だと思う) オスカ…
>「さあ? 水も滴るいい男だからでしょうか」 ここすき
計算どおり!。 最後、敗北フラグが立っていますよw。
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