自ら成長を辞めた人
私は会議室の端で、黙って話を聞いていた。
難しそうな横文字が飛び交い、資料には複雑な図が並ぶ。
それを前に、ある人が満足そうに頷いている。
分かっているつもりの顔。
理解している側の人間だと、自分に言い聞かせるような表情。
でも私は知っている。
その人が本当に理解しているわけじゃないことを。
優秀な人は、説明を難しくしない。
相手の知能や知識の位置を瞬時に測って、
そこに言葉を下ろしてくる。
専門用語を削ぎ落とし、
例え話を混ぜ、
「分かった気になれる場所」まで、丁寧に連れて行く。
だからこそ、
聞いている側は錯覚する。
自分も同じ高さに立っているのだと。
周りが優秀だと、
自分も賢くなった気がする。
難しい話題の輪の中にいるだけで、
その知性が自分に移ったような錯覚に陥る。
でもそれは、
借り物だ。
本当に頭の良い人ほど、
相手を置き去りにしない。
そして、置き去りにされていない側ほど、
自分が理解されるために「合わせてもらっている」事実に気づかない。
私はその様子を見るたびに、
不思議でならなくなる。
なぜ、自分を疑わないのだろう、と。
理解できた気がした瞬間こそ、
本当は一番、疑うべきなのに。
「本当に今の話、噛み砕けているか」
「自分の言葉で説明できるか」
そう問い直せない時点で、
知性はもう止まっている。
優秀さって、
正解を知っていることじゃない。
自分がどれだけ分かっていないかを、
正確に把握できることだ。
分からないことを、
分からないと言えること。
理解したつもりにならず、
理解しきれていない部分を直視できること。
それができない人ほど、
環境の知性を、自分の能力と履き違える。
私はグラスの水を一口飲み、
会議室の空気を吸い込む。
賢そうな言葉が、まだ宙を漂っている。
その中で、
本当に優秀な人ほど静かだ。
自分を誇らない。
分かったふりをしない。
自分を疑い続ける人間だけが、
ほんの少しずつ、
本物に近づいていくのだと、
私はそう思っている。




