金庫の番人
闇の中を走る竹林の道は、地獄への回廊のように感じられた。
鏡子 (Kyōko) は、掘り起こした土が無残に散らばった穴を背後に、心臓を鷲掴みにされたまま、全速力で裏口へと駆け戻った。彼女の掌には、粘着質な血の跡と、冷たい金属の感触(鍵)が焼き付いていた。
彼女が裏口の戸に触れた瞬間、背後から光が射した。
それは、懐中電灯の鋭く、白い光線だった。
「鏡子! そこで何をしている!」
和人 (Kazuto) の怒声が、夜の竹林を切り裂いた。彼の声には、冷静さの仮面が完全に剥がれ落ち、制御不能な怒りと恐怖が露わになっていた。彼は、鏡子が竹林に戻ったこと、そして何かを掘り起こしたことを直感している。
鏡子は、振り返らなかった。彼女は、戸を乱暴に開け、屋敷の中へと飛び込んだ。
リビングの広大な空間に逃げ込んだ瞬間、鏡子は立ち止まった。逃げ場はない。彼の支配は、屋敷全体を覆っている。
「もう逃がさない。何を持っている、すぐに渡せ!」
和人は、裏口から侵入し、リビングの大理石の床に乱暴な足音を響かせた。彼の顔は、もはや夫の面影はなく、獲物を追い詰めることに熱狂した、醜い殺人者の顔だった。
鏡子は、竹林で手に入れた、石膏像の破片と鍵を胸に抱き、和人の目の前で突きつけた。
「これが、悠真 (Yūma) が最後に残した、真実よ!コンクリートの中に埋められた、あなたの動機よ!」
「動機?」和人は、嘲笑した。「悠真の狂った芸術に騙されているのか。すべて妄想だ!それを壊せば、すべてが終わる!」
和人は、鏡子に向かって飛びかかってきた。その動きは、優雅さや計算を完全に欠いた、暴力的な衝動だった。
鏡子は、反射的にリビングの隅にある大きな木製キャビネットの後ろへと飛び込んだ。鍵を握りしめたまま、壁へと視線を走らせた。
「金庫」。悠真の血文字が、彼女の脳内で響く。
キャビネットの背後、豪華な壁紙に隠されて、電子ロック式の巨大な金庫が埋め込まれていた。和人は、家族の金庫を、最も目立つ、しかし誰も触れないリビングに隠していたのだ。
和人は、キャビネットを力ずくで引き倒し、金庫の電子パネルが露わになった。
「バカな。君は何をしている!」
鏡子は、床に転がったまま、和人が金庫に気を取られた****一瞬の隙を見逃さなかった。彼女は、身体を起こし、懐中電灯の光を金庫の鍵穴へと向けた。
「これよ、和人さん。悠真が私に託したもの!」
彼女は、掌の血とセメントで汚れた鍵を、必死に金庫の鍵穴へと差し込んだ。鍵は、抵抗することなく、スムーズに奥まで入った。
和人は、電子パネルにパスコードを打ち込もうとしていたが、鏡子の行動に凍りついた。
「止めろ!」彼の声は、絶望的な叫びだった。
鏡子は、鍵を回した。重々しい音を立てて、金庫のロックが解除された。
和人は、顔面蒼白になり、電子パネルから鏡子へと向き直った。彼の目は、破滅を目前にした人間の恐怖で満ちていた。
鏡子は、金庫の重い扉をゆっくりと開けた。中は、金や宝石で満たされているわけではなかった。
金庫の中には、数冊の通帳と公正証書、そして一枚の大きな写真が入っていた。
彼女は、震える手で公正証書を取り上げた。それは、六条家のすべての不動産と事業を、悠真から和人へと譲渡する合意書だった。しかし、通帳の残高は、想像を絶する額で、和人が悠真の署名と捺印を捏造し、全財産を引き継いだことを証明していた。
そして、最後に、金庫の最も奥に隠されていた写真。
それは、悠真と鏡子が生まれた日の写真だった。しかし、鏡子と悠真の隣に、もう一人の赤ちゃんが写っていた。三つ子。
「もう一人の私」。
写真の裏には、和人の筆跡で、簡潔なメモが記されていた。
「悠太(Yūta)。五年前、事故死。悠真は、この事実を暴露しようとした」
悠真が守ろうとしたのは、兄である和人の隠された真実、すなわち三つ子の一人、悠太の死と、それに関わる和人の罪だった。和人は、財産だけでなく、悠太の死の真相をも隠蔽するために、悠真を消したのだ。
鏡子は、金庫の書類を抱きしめたまま、立ち上がった。彼女の目は、涙ではなく、燃えるような決意に満ちていた。
「終わりよ、和人さん。金庫の番人は、真実を隠し通せなかったわ」
和人は、膝から崩れ落ちた。彼の完璧な世界は、悠真が残した、一つの鍵によって、完全に崩壊したのだ。




