八歩の闇
夜。六条家は、死んだように静まり返っていた。
屋敷の漆黒の闇は、和人 (Kazuto) の支配を物理的に体現している。鏡子 (Kyōko) は、黒い着物を作業しやすいように簡素にまとめ、懐中電灯の代わりに携帯の画面を最も暗く設定し、唯一の光として使った。
彼女の武器は、情報と静寂だ。
彼女は、和人の部屋の眠りの気配を確認した後、裏口へと忍び寄った。錠はかかっていなかったが、戸の隙間には目に見えないワイヤーのような緊張感が張り巡らされていた。
彼女は、息を殺し、竹林へと足を踏み入れた。
竹林の夜は、昼間とは全く異なる世界だった。そこは、音を貪り食うような深い闇。風に揺れる竹の葉の微かな摩擦音だけが、空間の存在を証明していた。
鏡子は、悠真の粘土を見つけた石垣の場所へと迷うことなく進んだ。そこには、彼女の心に刻まれた、悠真の絶望の残骸がある。
懐から、彼女は悠真のメモを取り出した。
「庭の石垣より 南へ八歩。 深さ一メートル。 もう一人の私」
彼女は、石垣を背にし、南、すなわち竹林の最も深い部分へと視線を向けた。
彼女の心臓の鼓動が、体の中で最も大きな音を立てていた。
一歩。二歩。腐葉土が足音を優しく吸収する。
三歩。四歩。闇が視界を侵食し、方向感覚を奪おうとする。
五歩。六歩。彼女は、呼吸を意識的に、長く、静かに行った。
七歩。八歩。
彼女は止まった。
ここだ。周囲の竹は、均一な闇の壁を形成していた。他の場所との違いは全くない。和人が、完璧に、表面を隠蔽した証拠だ。
鏡子は、持参した、古びた庭用のシャベルを握りしめた。シャベルの冷たい金属が、決意を彼女の掌に伝えた。
彼女は、メモの指示に従い、掘り始めた。
最初の数センチは、柔らかい土だったが、すぐに、粘着質で重い土に突き当たった。それは、以前、粘土を見つけた場所の土と同じだ。
一メートル。これは、尋常ではない深さだ。
鏡子は、息を切らし、汗を額に浮かべた。彼女の体力は限界に近づいていた。しかし、彼女の精神は、悠真のメッセージによって燃え上がっていた。
深さが腰の高さに達した時、シャベルの先端が、土の下で硬いものに触れた。カツン、という鈍い音が、夜の竹林に不吉に響いた。
彼女は、シャベルを放り投げ、最後の土を素手で掻き出した。
そこに現れたのは、コンクリートの塊だった。レシートのセメントが、ここで使用された確固たる証拠だ。
しかし、さらに、そのコンクリートの横に、大型のポリ袋の黒いビニールが僅かに見えていた。
鏡子の胃が、冷たく収縮した。「もう一人の私」。
彼女は、ビニールを引っ張り出した。袋は重く、硬い。彼女は、袋の結び目を震える指で解き、その中を携帯の弱い光で照らした。
袋の中にあったのは、人形ではなかった。粘土でもない。
それは、悠真のもう一つの作品だった。
それは、一見、完璧に和人に似た、等身大の人間の頭部と上半身の石膏像だった。目は閉じられ、唇は穏やかな笑みを浮かべている。
和人の完璧な仮面。
しかし、石膏像の胸には、深く、鋭い亀裂が入っていた。鏡子が、亀裂に指を差し入れ、石膏の破片を外した瞬間。
袋の中から、生々しい、濃密な匂いが噴き出した。血と、防腐剤と、腐敗の入り混じった、嘔吐を催す悪臭だった。
亀裂の奥には、石膏像の中に埋め込まれた、実物が存在していた。
それは、悠真の失踪の核心だった。石膏像の心臓の位置に、古い、錆びた鍵が埋め込まれ、鍵の先端には、乾燥した、黒い人間の血液がこびりついていた。
そして、鍵の上には、一枚の和紙がセメントで貼り付けられていた。
鏡子は、涙を堪え、和紙をゆっくりと剥がした。
そこには、悠真の血文字で、たった一言、記されていた。
「金庫」
悠真は、彼の失踪を証明する鍵と、和人の真の動機を示す場所を、この土の下に埋葬したのだ。
その瞬間、頭上の竹の葉が、微かに、音を立てた。
誰かが、近づいてきている。
鏡子は、シャベルと掘り起こされた土を見渡し、全てを元の状態に戻すことは不可能だと悟った。彼女は、最後の証拠を抱きしめ、闇の中を屋敷へと走り出した。




