第3話:スキルの真価、殺さずの《無双》
ライル(レオン)は、自分でも気づかないうちに、一歩前に踏み出していた。 ミラの前に立ち、彼女を背中に庇う形で、ゴロツキたちと対峙していた。
「……ライル、さん?」 ミラが、初めて「感情」らしきもの……純粋な「驚き」の音を、背後で小さく響かせた。
その「音」の変化が、ライルの張り詰めた意識を現実に引き戻す。 目の前には、下卑た笑いを浮かべる三人の男。古びた図書館の静寂は完全に破られ、男たちの濁った欲望と殺意の「音」が、本棚の間に反響している。
「ハッ! なんだぁ? このガリ勉野郎が、嬢ちゃんのナイト気取りか?」 リーダー格の男が、顔の傷を引きつらせて嘲笑う。 「ちょうどいい。昨日、俺たちに恥をかかせやがった分も、ここでまとめて返してやる!」 男がナイフを逆手に持ち替え、明確な殺意の「音」がキィン、と甲高く響いた。
その瞬間、ライルの世界から、目の前の景色が消えた。
――『死にたくない』 ――『痛い』 ――『寒い』 ――『怖い』
フラッシュバック。 脳裏に蘇るのは、雨に打たれる魔族の子供の、恐怖に歪んだ顔。 そして、その子供の「音」をかき消す、仲間たちの「憎悪」の不協和音。 『なぜ殺さない!』 『裏切り者!』 『異端!』
「……っ、ぐ……あ……!」 息が詰まる。 ゴロツキたちの殺意の「音」が、引き金になった。 あの日の絶望が、音の「洪水」となって、ライルの鼓膜と精神を蹂躙する。頭が割れるように痛い。敵の苦痛、敵の殺意、かつての仲間の悪意、街の雑音、そのすべてが濁流のように押し寄せ、彼の思考を麻痺させる。
(ダメだ……聞きたくない……!) 足が鉛のように重くなり、すくんで動かない。 これが彼の呪い。《共鳴》は、彼から戦う力を奪うハズレスキル。
「どうしたぁ? 怖くて動けねぇか!」 リーダー格の男が、勝利を確信したかのように、ゆっくりと距離を詰めてくる。その「愉悦」と「残虐」の音が、ライルをさらに苛む。
(ああ、俺は……また……) また、何もできずに、目の前の誰か(あるいは自分自身)が傷つくのを見ていることしかできないのか。 心が絶望に飲まれかけた、その時だった。
「ライルさん」
静かな、鈴の音のような声が、濁流のようなノイズの「洪水」を切り裂いて、彼の耳に届いた。 背後にいる、ミラの声だった。 彼女の声は、震えていなかった。
「うるさいですか?」
ライルは、痛みでかすむ視界の中、かろうじて振り返った。 ミラは、ライルの背中をまっすぐに見つめていた。 彼女の「音」は、相変わらずだ。 三人の殺意に晒されながら、凪いだ湖面のように静かなまま。ただ、そこには昨日なかった「音」……ライルに対する、純粋な「信頼」の音が、細く、しかし確かに響いていた。
「あなたの力は『洪水』ではありません」 ミラは、まるで書物の内容を読み上げるかのように、淡々と告げた。 「それは、『情報』です。……すべてを聞くから溺れる。必要な情報だけを『選別』してください」
「……情報……?」 ライルは、ミラの言葉を反芻した。 (選別……する……?)
「はい。今のあなたに必要な『情報』は何ですか?」 ミラは問いかける。 「私にはわかります。彼らの『音』は、とても単調で、うるさいだけです。……でも、あなたの『音』は、もっと複雑で、もっと強い」
そうだ。 この半年、俺は「聞かない」ことだけに腐心してきた。 音の「洪水」に飲まれないよう、耳を塞ぎ、心を閉ざしてきた。 だが、もし。 もし、この濁流の中から、必要な「音」だけを抜き出すことができたなら?
(必要な情報……) 今、俺に必要なのは、敵の苦痛か? 違う。 街の雑音か? 違う。 過去のトラウマか? 断じて違う。
――今、必要なのは、目の前の敵が放つ、「殺意」の音。
「……そうか」 ライルは、目を見開いた。 世界が、変わる。
「うるせぇぞ、クソガキが! ご高説は地獄で垂れやがれ!」 リーダー格の男が痺れを切らし、ナイフを振りかぶって突進してきた。 その「殺意」の音が、他の雑音を引き離し、クリアな「旋律」となってライルの鼓膜に届く。
(――来た!) ライルの意識が、極限まで研ぎ澄まされる。 もう「洪水」はない。 彼が聞いているのは、ただ一つの「情報」。
《音:右袈裟斬り。到達まで、0.4秒》
ライルは、振り下ろされるナイフの軌道を「見る」のではなく、「聞いて」いた。 彼は、最小限の動き――左足で床を蹴り、半歩だけ後ろに下がった。
ズシャァァッ! 男のナイフは、ライルがいた空間を空しく切り裂き、その勢いのまま、古い木製の本棚に深々と突き刺さった。
「なっ!?」 男が、バランスを崩して体勢を立て直そうとする。
「この野郎!」 背後から、二人目の男が、短い槍を突き出してきた。 《音:直突き。到達まで、0.5秒。狙いは、背中の(ミラの)心臓》
(狙いが、浅ましい……!) ライルは振り返らず、ミラの腕を引くと同時に、自分の体を独楽のように回転させた。 ミラの体がライルの胸に収まり、同時にライルの体が、槍が来るはずだった位置からわずかにずれる。
ガギィンッ!! 槍の穂先は、先ほど男がナイフを突き立てた本棚に、同じく深々と突き刺さった。 「しまっ……抜けねぇ!」
「二人まとめて、死ねや!」 三人目の男が、本棚と槍に気を取られたライルの死角(左側面)から、ナイフを薙ぐように振るってきた。 《音:水平薙ぎ。到達まで、0.3秒。狙いは、首》
(遅い) ライルは、振り向きもせず、左手を背中側に回すように動かした。 ガシッ。 彼は、男の手首を正確に掴んでいた。 「な……馬鹿な!?」 男の「驚愕」と「混乱」の音が、けたたましく響く。
「お前の音は、うるさすぎる」 ライルは、掴んだ男の手首を捻り上げ、その勢いを殺さずに、ナイフが本棚に刺さって身動きが取れない一人目の男の方へと、突き飛ばした。
「うわっ!?」 「ぐえっ!」 二人のゴロツキが、無様にぶつかり合い、床に転がった。
残るは、リーダー格の男一人。 彼は、槍が本棚から抜けずに焦っていた二人目の男を突き飛ばし、ライルに向き直った。その顔は恐怖と屈辱に歪み、「音」は怒りと混乱でめちゃくちゃに鳴り響いている。 「き、貴様……いったい何者だ……!?」 「…………」 ライルは答えない。 ただ、静かに男の「音」を聞いている。
「ふざけるなぁぁぁ!!」 男は理性を失い、ただがむしゃらに、ナイフ(を本棚から引き抜いていた)を振り回しながら突進してきた。 《音:ただの力任せの滅茶苦茶な連撃。軌道、バラバラ。隙だらけだ》
ライルは、その場から一歩も動かなかった。 男が振り下ろすナイフを、紙一重で、右に、左に、最小限の上体の動きだけで避けていく。 「なぜだ!」「当たれ!」「なぜ、当たらねぇんだ!」 男の「焦燥」の音が、悲鳴のように甲高くなっていく。
そして、最後のナイフが空を切った瞬間――男が体勢を立て直す、わずかな隙。 《音:無防備。0.2秒》
ライルは、初めて自分から動いた。 彼は男の懐に踏み込むと、その体勢を崩すように足首を軽く蹴り上げた。 「うおっ!?」 バランスを失い、前のめりになった男。 そのがら空きになった腹部に、ライルは容赦なく肘を叩き込んだ。
「ぐ……ぼ……っ!」 男は、カエルが潰れたような呻き声を上げ、白目を剥いて床に崩れ落ちた。
シン……。 図書館に、再び静寂が戻った。 床に転がる三人の男たちの、苦しげな寝息だけが聞こえる。 あれほどライルを苛んでいた殺意の「洪水」は、完全に止んでいた。頭痛も、吐き気も、トラウマのフラッシュバックもない。 あるのは、澄み切った静けさと、自らの手で掴み取った確かな「制御」の感覚だけだった。
ライルは、ゆっくりと自分の手のひらを見下ろした。 日雇い仕事で汚れた、節くれだった手。 この手は、誰も殺していない。
「……これが、《共鳴》の……」 呟きは、誰に言うでもなく漏れた。 ハズレスキル。呪われた力。そう呼ばれ、蔑まれてきた力が、今、確かに彼を、そしてミラを守った。 殺さずに、ただ、制圧する。 相手の敵意を「情報」として読み解き、その力の流れを逸らし、無力化する。 これこそが、《共鳴》の真価。
「……ライルさん」 背後から、ミラの静かな声がした。 ライルが振り返ると、彼女はライルをまっすぐに見つめていた。その硝子玉のような瞳には、初めて見る、柔らかな光が宿っているように見えた。 彼女の「音」は、凪いだ湖面のままだったが、その水底で、小さな「安堵」と「称賛」の音が、美しい和音を奏でていた。
「『情報の洪水』を、乗りこなしましたね」 そう言って、彼女はほんの少しだけ、微笑んだ気がした。
心を閉ざし、無気力に生きてきた追放勇者。 その止まっていた時間が、この静かな図書館で、今、再び動き始めた。




