第9話 影、目覚める
黒い霧が塔の根元から滲み出した。
足元から冷気が立ちのぼり、空気が急速に張りつめていく。
ナイルは反射的に後ずさった。
霧の中で、赤い光がひとつ、またひとつと灯る。
「……っなんだよ、あれ……!」
答えの代わりに、リュミエールが小さく震えた声を漏らした。
「影の守護者……
都市の眠りを妨げた者を排除するための……自動防衛機構です」
その言葉を聞き終わる前に――
ドッ。
黒い影が、矢のように飛び出した。
「っ!!」
ナイルは身を捻って地面を転がる。
影の爪が石畳を削り取り、鋭い火花が散る。
一体目。
続いて二体目、三体目――霧の中から次々と姿を現す。
ナイルの喉がひきつった。
「なんだよ、これ……数が……!」
リュミエールが急いでナイルの前に浮かぶ。
彼女の身体が光を広げ、薄い盾を形成した。
「……守ります……!」
影が大きな音を立てて光の盾にぶつかる。
衝撃で盾に波紋が走り、光が一瞬歪む。
「リュミエール!? 大丈夫か!」
「……わかりません……
思念体のままでは……長く防げません……!」
その言葉通り、彼女の輪郭は覚醒直後のせいか不安定で、
影が当たるたびに光がちぎれそうに揺れていた。
影の一撃が盾をすり抜け、ナイルの腕をかすめた。
「っ……!」
痛みが走る。
恐怖が胸にせり上がる。
(やばい……死ぬ……!)
そのとき。
ナイルの胸元で《空図巻》が青く輝いた。
空気の流れが“線”として視界に浮かび上がる。
風が軌跡を描いていた。
「……見える……?」
ナイルは思わずつぶやいた。
風の線が、影の動きを先読みするように走っている。
「ナイル……!」
リュミエールが苦しげに呼びかける。
「それは――あなたの中に宿る“風の紋”。
継承者だけが持つ……古の感覚……!」
影の守護者が跳んだ。
黒い爪が迫る――
「うおおおッ!!」
ナイルは体をひねり、風の線に従って側面へ飛んだ。
影の攻撃は、紙一重で空を切る。
「やれる……!」
リュミエールが光を手に集める。
その光は揺らいでいるが、確かな力が宿っていた。
「ナイル……!
これを……あなたに――!」
光が奔流となり、ナイルの腕へ絡みつく。
風と光が重なり合い、一本の“光輪”を形成した。
「これ……!」
「風はあなたを選びました。
私の光は……あなたの意志に反応します」
影が四方から襲いかかる。
ナイルは光輪を握りしめ、風の線を読む。
「いけえる……ッ!」
光輪が風を切り、軌跡が残る。
刹那、影の中心――鼓動する“核”が見えた。
「そこだッ!!」
ナイルは跳び込み、光輪を突き出す。
風と光が一点に収束し、影の核を貫いた。
――バシュッ。
黒い霧が渦を巻き、赤い光が消える。
影の守護者は、霧散した。
戦いが終わると同時に、リュミエールの光が揺れた。
彼女の身体全体が薄く透ける。
「リュミエール!!」
「……大丈夫、です……
ただ……思念体のままでは……
あなたを守る負荷が……大きすぎる……」
そう言うと、彼女は胸に手を当て、目を伏せた。
「私の“本体”は……まだ目覚めていません……
ここでは、長く形を保てない……」
「本体?」
ナイルが問い返すと、リュミエールはかすかに微笑んだ。
「ええ……どこかに眠っています。
都市と共に……封じられたまま……」
ナイルは拳を強く握りしめた。
「だったら――探そう。
お前自身を取り戻せる場所を。
絶対、見つけよう」
リュミエールは驚いたように目を見開き、そして柔らかく笑う。
その微笑は風に溶けてあまりに儚い。
「……ありがとう、ナイル。
あなたの風は……とても温かい……」
その瞬間、都市全体が低く唸りを上げた。
遠くの塔の奥で、赤い光が脈動している。
「……まだ終わっていません。
影は……これだけではありません」
風が吹いた。
眠っていた都市が、完全に目覚めようとしていた。




