第6話 星の兆し
夜明け前の工房は、しんと静まり返っていた。
外ではまだ靄が立ちこめ、煙突から吐き出される煤煙が空を灰色に染めている。
その二階の小さな部屋で、ナイルはまた《空図巻》を広げていた。
ランプの明かりに照らされた羊皮紙の上。
褪せた墨で描かれた星々の点が、一本の円を形づくっている。
昨夜、観測塔から見上げた空を思い出す。雲の切れ間に並んだ星のきらめき――あれは、確かにこの図と同じ形だった。
「……もうすぐ、なのか」
胸の奥で、父の声が蘇る。
“信じろ、ナイル。おまえがきっと辿り着く”
その言葉に導かれるように、彼は震える指で星図をなぞった。
昼、工房にて。
空挺機の点検を終えると、ガドロが大きな袋を抱えて現れた。汗で額が光り、競技の疲れも見せずに笑っている。
「よう、ナイル! まだ図巻にかじりついてるって聞いたぞ」
「……ティナが言ったんですね」
「ははっ、あの子はお前のこと気にしてるからな」
ガドロは機体の側面を軽く叩き、空を見上げた。
「にしても、この数日、風向きがおかしい。上層がざわついてる。俺たちでも計算が狂うくらいだ」
その言葉に、ナイルははっとする。
星の並び、風の流れ――《空図巻》に描かれていた条件が、確かに満たされつつある。
「……やっぱり」
呟いた声を聞きとめたのか、ヴォルス親方が作業台から顔を上げた。
「ガキの空想にしては、妙に当たるもんだな」
親方はそれ以上何も言わなかったが、油に濡れた手を拭きながら、じっとナイルを見つめていた。
その眼差しに、言葉以上の重みを感じ、ナイルは胸が熱くなる。
夜。広場では、昼の競技大会の祝勝祭が始まっていた。
花火が夜空に咲き、笑い声と音楽が通りを満たす。
だがナイルは、ひとり人混みを抜け、丘の上の観測塔を目指していた。
背後で、ティナが小さく手を伸ばす。
「ナイル……」
その声は祭囃子にかき消され、彼には届かない。
彼女はただ、夜空へ歩み去る背中を見つめるしかなかった。
観測塔の頂に立つと、街の明かりが遠くに揺れ、頭上は濃紺の闇に包まれていた。
ナイルは空図巻を開き、夜空と見比べる。
――星々が、少しずつ並びを変えていく。
やがて、空に浮かぶ光が一つの輪を描き、淡く揺らめき始めた。
「これが……“門”……?」
胸が高鳴る。
その瞬間、風が強く吹き抜け、銀の粒子が夜空に舞い上がった。
耳の奥で、かすかな声がささやく。
――「来て」
ナイルは思わず空へ手を伸ばす。
塔の下で、ティナが必死に呼ぶ声がした。
しかし彼の瞳は、ただ光の輪の向こうを見つめていた。
雲が裂け、星の円環がひときわ鮮やかに輝く。
夜の空に――“何か”が、目覚めようとしていた。
第7話予告:「雲を越えて」
開きゆく光の門。
ナイルは一歩を踏み出すか、地に留まるか――
ティナの声、親方の背中、ガドロの言葉。
すべてを胸に、少年は決断する。