第4話 スープと夜風と、言えないこと
夕暮れの工房は、いつもより静かだった。
今日の作業は早めに片づき、ヴォルス親方も奥の作業室にこもったまま姿を見せない。
ナイルは油にまみれた手を洗い、タオルで拭いていた。
すると背後から声がした。
「――ねぇ、ちょっと来てよ」
振り向くと、ティナがカフェのエプロン姿で立っていた。
両手には布で包んだ鍋と、二つの木椀。
「スープ、余ったの。親方に持ってきたついでに……あんたの分も」
「……いつも悪いな」
「気にしないで。あんた、どうせ夜はパンの端っこで済ませるんでしょ?」
ナイルは苦笑し、ティナの後に続いて工房の裏手へ向かった。
そこは風通しのよい小さなベンチがあり、夜はよく二人の休憩場所になっていた。
二人並んで腰を下ろし、ティナがよそったスープを手にする。
湯気が、夕闇に淡く揺れた。
「どう? ちょっと味見、工夫したんだ」
一口すすると、ナイルは目を丸くした。
「……うまい。前より、ずっと」
「でしょ!」
ティナは嬉しそうに胸を張ったが、次の瞬間、少し声を落とした。
「……でも、あんたは食べ物より、空のことばっかり考えてるんでしょ」
「……そんなことない」
「うそ。昨夜もまた、空図巻開いてたでしょ?」
図星を突かれ、ナイルは答えに詰まる。
ティナは小さくため息をついて、空を仰いだ。
「ねぇ、ナイル。空の上にほんとに都市があるなら――行ったきり、帰ってこないのかな」
「え?」
「……なんでもない」
そう言って笑うが、その笑顔はどこかぎこちない。
沈黙が落ちる。
風が吹き、ベンチの横のランタンが小さく揺れた。
遠くの空には、雲の切れ間から星がひとつ、またひとつと顔を出し始めていた。
「……でもな」
ナイルがぽつりと口を開いた。
「空を見てると、父さんの声が聞こえる気がするんだ。『信じろ、ナイル』って。だから、やっぱり確かめたいんだ」
ティナは黙って彼を見つめる。
ナイルの横顔は、まだ子どものようで、それでいて、遠くを見据える大人の影もあった。
胸の奥に、言葉がこみ上げた。
――行かないで。
でも、それを言えば、彼の目を曇らせてしまう。だからティナは唇を噛み、代わりに笑って見せた。
「……ほんと、あんたは変わらないね。小さい頃から、ずっと空ばっかり」
「はは……そうかもな」
ナイルは屈託なく笑った。
その笑顔が、ティナにはひどく眩しく見えた。
しばらく二人は黙って星を眺めていた。
夜風がスープの湯気をさらい、やがて空には、いくつもの星が静かに並び始める。
「……なぁ、ティナ」
ナイルがふと口にした。
「空って、どこまで行けると思う?」
ティナは少しだけ考えてから、言った。
「……さぁ。でも――行けるとこまで、行けばいいんじゃない?」
ナイルは満足そうにうなずき、もう一口スープをすすった。
ティナは横顔を見つめながら、心の中で小さくつぶやいた。
――行かないで。けど、行くなら、どうか無事に。
その想いは、夜風に乗って消えていった。