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第2話 焼きたてパンと油の匂い

空挺機工房レヴォルの朝は、焼けた鉄と機械油の匂いから始まる。


 ナイルは早朝の点検作業を終え、ひと息ついて腰を下ろしていた。空は薄曇り。けれどその向こうで、今日も星はどこかにいるのだろうと、彼はぼんやり思う。


 工房のシャッターがぎぃと音を立てて開き、外からふわりと香ばしい匂いが流れ込んできた。


「ナイルー! また朝食忘れてるでしょ!」


 声と一緒に入ってきたのは、隣のカフェ《ベルノッサ》の看板娘――ティナだった。

 薄茶の髪をざっくりと後ろにまとめ、エプロン姿でパンの包みを抱えている。


「……別に、忘れてたわけじゃない」


「うそ。あんた、毎朝“食べたつもり”になるんだから。胃袋じゃなくて、頭で満足してるのよ」


 言いながら、ティナはナイルの隣に腰を下ろし、包みをぽんと膝の上に置いた。

 中には、焼きたてのライ麦パンと、湯気の立つスープが二つ。


「これ、親方の分。こっちはあんたの」


「……え、俺の分も?」


「ついで。ついでよ」

 ティナはそっぽを向きながら、スープのカップを押しつける。


 ナイルはそれを受け取ると、静かに「ありがとう」と呟いた。


 二人の間に、少しの沈黙。スープの湯気がその空間をやわらかく満たす。


「また、昨夜も空図巻見てたの?」


「……うん。星の位置が、少しずつ近づいてる気がしてさ」


「そっか」


 ティナは、パンをちぎる手を止めた。

 目を伏せ、言葉を探すようにして、やがてぽつりと続けた。


「ナイル、さ。もし、空の上に都市があったとして――そこに行けたら、帰ってこないの?」


「え?」


「……なんでもない」


 すぐに言い直し、ティナは明るく笑った。

 「冗談よ、冗談! まさかあんたが“空の王子様”になるとは思ってなかったし!」


 ナイルは、ちょっと困ったように笑って首をかしげる。


「俺、王子って柄じゃないだろ」


「うん。せいぜい、空の整備士ね」


 そう言ってティナは、ふいにナイルの前髪を指でぐしゃっとかき上げた。

 油で黒ずんだ額がのぞく。


「ほんと、石鹸と仲悪いよね、あんた」


「……機械とは仲良いんだけど」


 二人の笑い声が、工房の鉄骨にやさしく響いた。


 


 その日の午後、ティナは再び工房にやってきた。親方に頼まれた工具の配達。

 だが、作業中のナイルの姿を見つけると、そっと近寄って耳打ちした。


「ねえ、ナイル。今度、ガドロさん、街に戻ってくるんだって」


「ほんと?」


「訓練学校で成績トップだって。今度の大会、空挺競技の予選にも出るらしいよ」


 ナイルの顔がぱっと明るくなる。

 あの空の男の名は、今でも彼にとって憧れであり、導きのような存在だった。


「じゃあ、また話が聞けるな。空のこと……父さんのことも」


「……うん、そうだね」


 ティナは笑った。けれどその横顔には、わずかに翳りが差していた。


 


 夜。

 工房の灯が落ちたあと、ナイルはひとり、部屋の隅で空図巻を開いていた。

 ページには、星々の軌道と、風の流れ。雲の上に浮かぶ都市の輪郭が、まるで彼にだけ見えるかのように描かれていた。


 「本当に、あるんだよな……ペルニシカ」


 そうつぶやくナイルの声を、誰も聞いてはいなかった。


 けれど、遠くにいる誰かの心には――きっと、届いていた。


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