第2話 一次審査「基礎ステップ」 part2
らら華が寝てしまった。
ウチ、久留美だけを現実世界に残して。
まじでクソだ。確かに、昨晩から慌ただしくて疲れているのはわかる。だからって、寝るか?今、この状況で!
一次審査までの、与えられた1時間。課題は、クラブステップ、ランニングマン、スポンジボブ、チャールストン、サイドウォークの 5 種。なんかの呪文かな?わけがわからない。なんかステージ上のモニターには「これをやるんだよ」的な説明が書かれたスライドが表示されているが、ごちゃごちゃした図と小さな文字で書かれていて、双眼鏡がないと読めそうもない。だれがあれを解読できるというんだ。んで、結局クラブステップってなんなんだ。ランニングマンもスポンジボブも全部だ。おーい、おーい、らら華、起きてくれ!なんて願って、客席を2つ占領して横たわる彼女を少し揺すってみたところで、目の前の能天気なアイドル様は目を覚ます気配もない。クソ、ヨダレなんか垂らして、幸せそうに。……って、よく見れば手に持ってるスマホ、配信切ってないじゃないか。通信料とか充電とか気にしないのか?自分の寝顔までファンに見て欲しいなんて、承認欲求とうなってるんだ。
「……あーあ。まったく。」
どうしたものか。
らら華のことはもういい。問題なのは、ウチがこれから1時間どう過ごすか、だ。ウチは競技場内を見渡す。目に映るのは、ただただだだっ広く、想像していた以上に殺風景で面白みのない帝国競技場のグラウンドだ。
アイドルでないウチでもこの競技場のことは一通り知っている。ここ、帝国競技場は、名称通り本来スポーツをするためにできた施設であるが、今やアイドルなら誰でも一度は夢見る日本最高峰のライブ会場の代名詞。もちろん、キャパは日本一を誇り、全部の席に客が来れば8万人だ。「アイドル抑制法」がある今、これを一人で埋められるのは、一流アイドルしかありえない。それか、プロアイドルなら1人につき最大500人の動員を許されているらしいので、彼女らが160人集まって合同ライブをすれば、ここを埋められないこともない。
もっとも、今目の前のグラウンドで等間隔で散らばり、たむろする約1000人はアイドルである法的根拠のない自称アイドル。ましてや自分は、自称アイドルですらない。ノー・アイドル。一般ピープル。これは本当だ。らら華はウチのことを中学からのアイドル仲間だと思ってるらしいが、それはらら華のとんでもない勘違い。繰り返すが、ウチはアイドルなんてやったことがない。それどころか、アイドルなんて、テレビのニュースで定期的に話題になる人騒がせな厄介者くらいにしか思っていなかった。ましてや、今は自分がその厄介者の真似事をしなくちゃいけないなんて。
「ほんと、どうすんだこれ。」
本当に中学からアイドルやっていればなんてことない課題なんだろうな。でもウチは違う。そもそも、昨晩ひょいひょいとらら華について行ってしまったのが間違いだった。仕方ないじゃないか。ウチは事の重大さを知らなかったんだ。特別審査の詳細も、るいくんの逮捕命令のことも、何もかも。だってアイドルじゃないから。昨日は彼氏にまで自称アイドルと思い込まれて、腹を立てて家を出てきた。しかし、今置かれている環境の方がもっと地獄だ。なに、この審査が不合格なら禁錮10年だ?とばっちりにもほどがある。このまま不合格になったらウチも刑務所とやらで10年過ごすことになるのだろうか。脅威はそれだけでない。それから、この競技場内にいるとされる謎の一流アイドル殺し、Xの存在。
「あーもー、クソクソクソ!」
頭をかきむしる。
らら華なら、自分のファンに頼るのだろうか。しかし、アイドルでない自分にファンなどいるはずもない。というか配信なんてしたことないし、やり方もわからないし。
ふと、ウチはつけっぱなしのらら華のスマホを覗き込んだ。簡素な配信画面の端に映るチャット欄。しかし、なんとまあ動かない、チャット欄が沈黙している。ファン同士で会話してるのかと思っていたが、そりゃそうか。彼らの主たるらら華が寝てるのだから、チャットを打ったところでらら華は返事できない。ファンがもしらら華だけにしか目がないのだとしたら、ファン同士の会話には意味がない。する必要がない。仲良くしておく理由がない。なるほど、らら華は自分と自分のファンとの繋がりを「家族」なんて言っていたが、それが成り立っているのは飽くまでアイドルとファンの個人個人、一対一の関係の上というだけで、ファン同士に目を向けたとき、その関係は家族どころか、友達以下。アイドルのファンとファンというのは、殺伐として、案外仲は悪いのかもしれない。
しかし、それにしても動かない。動かなすぎる。いっつもうるさいイメージのあるファンたちが、こうも急に静かになるだろうか。
……いや待て、違うかもしれない。ひょっとして、ファンの皆も寝てる……?
まさかまさか。らら華が寝ているからファンも寝るなんて、いくらファンでも推しの真似を百パーセントトレースするわけがない。せめて、家事か仕事かなんかを始めたってことにしててくれ。
……色々考えつつ、ウチはらら華のスマホを一瞬手にとって、配信画面にウチの顔を写した。
「……あの、らら華のファンの皆さん、起きてます?えっと、ファンネーム、ららクズだっけ?」
恐る恐る、弱々しい声で話しかけてみる。するとどうだろう。
【ゴミクズみたいに言うな】
【ららカスだ】
【二度と間違えるな】
【アンチか?】
起きてた。余裕で起きてた。皆、配信も見てた。暇な奴らめ。自分たちが悪口を言われたと思って全員がチャットをしだした様は少し滑稽だが、もっと滑稽なのは、ららクズもららカスも似たようなもんだろ、と突っ込みたくなったが日和ってしまった自分かもしれない。
「ああ、起きてたんだ。ウチ、ちょっとトイレとか行ってるから、らら華が起きてウチのこと聞いてきたら伝えといてくれます?」
【了解】
【らら華に心配はかけさせない】
【すぐ戻ってらっしゃい】
【俺もらら華起きるまでトイレ行ってくるわ】
どうやら通じたみたいだ。悪い人たちではないのだと思う。もっとも、らら華が「トイレに行く」なんて言ったときには【俺がトイレだ】なんて言ってそうな連中であることを思えば、ウチに対する反応なんてまるで薄い。大して関心はないのであろう。いや、それで良いのである。ただ、彼らがもしウチへの好感度がもう少し高かったら、ウチは今回の審査の練習に付き合ってもらいたかったところではある。だがしかし、ウチはただでさえぽっと出の女なのに、いずれ審査の行く末にらら華の敵になるかもしれないウチなんかが、らら華のファンに「力を貸して」というのは、やはり大分おこがましい気がするのだ。
「はあ。一人で練習かあ……。」
他に頼れる人もいないし。
ウチは、そこでぐーたらと寝てるらら華とそのスマホ越しのファンを置いて、グラウンドに消えていった。
さて、グラウンドに、降り立った。
クソ最悪だ。興ざめした。
ちょうど今、2人のヤンキーなアイドルが、一体どこから持ってきたのか、それぞれバイクに乗って、競技場のグラウンドを大きくぐるぐると周り始めた。そして、これまたどこから持ってきたのか、2人は暴走族の使うようなラッパをピラピラと吹いてやがる。てか完全に暴走族だ。
練習しているアイドルを妨害したいのか、ただ遊んでいるのか、はたまたるいくんへの抗議か。とにかく、2つのバイクはグラウンドを周りつつ、ときどき真面目に練習してるアイドルたちの横スレスレを通ったりなんかして、皆から怒りを買っている。ウチだって例に漏れず、グラウンドに降り立つや否や、バイクのエンジンとラッパの音に、汚らしい排気ガスを間近で浴び、イラつくより他にない。
「クソがっ!」
しかし、腹を立ててもしょうがないので、やる気が完全に消える前に、ここは一つ、グラウンドから引き返し、どこか静かで落ち着いて練習できる場所を探すことにした。
帝国競技場は地上5階地下2階の巨大建築。踊る場所といえば大抵グラウンドを選びがちであるが、なにもグラウンドにこだわる必要はないのである。グラウンドから屋内廊下に入って、歩き始めて一分。すぐに会議室というなかなか良さそうな部屋を見つけた。10人くらい入れそうな広さで、大きなテレビ付き。扉を閉めたら静寂に包まれる。外よりも暖かい。悪くないではないか。
「ここでいいか。」
さっそくウチは部屋に放置されていた会議机と椅子を端に寄せると、部屋の中央に立ち、大きく伸びをする。
「準備運動は、ちゃんとしないとね。」
それから、取り出したのは、ポケットに入れていたスマホ。それで、クラブステップ、ランニングマン、スポンジボブ、チャールストン、サイドウォークと検索していく。それぞれ、ちょうど動画投稿サイト「アイティービ」にお手本動画が上がっていたので、それらの動画を、目の前のテレビに繋いで再生する。準備はバッチリだ。ウチは、それを見ながら練習を始めた。
ところで、なんでらら華はウチを中学以来のアイドルだと勘違いして、ウチはそれを訂正しきれていないのか。どうしてウチは、アイドルを演じなければならないのか。それには理由がある。
ここだけの話。
らら華は、記憶を喪失している。