終末のベランダ
『――――あ、ああ、ちゃんと映ってます? あ、大丈夫そう? オーケーオーケー、こほん。どうも世界中の皆さん、テロリストです。
今、全世界の電源のついているモニター全てをハッキングしてこの映像を流しています。いやあ、大変でしたよ、とても。おかげで濃いクマができちゃって、ええ。
えー、突然ですが、今から丁度一週間後、世界を終わらせることにしました。世界中の国々が所持している核兵器、それとその他諸々を一斉に炸裂させます。多分、地球は一瞬にして焦土と化すでしょう。すべての生物は――というよりも、何もかもは蒸発して消え去ります。
安心してください。どこに隠れていても苦しみを感じる暇もなく、それこそ、死んだということにも気が付かないまま、皆さんは無に帰すでしょう。
優しい優しいこの僕からの、全人類へのせめてもの慈悲です。感謝してください。ええ。
ええっと、なぜこんなことをするのか、あなたたちは知りたがるでしょうけれど、その理由を僕がどれだけ説明したところで、どうせ理解されないので説明は省きます。どうしても知りたければ、僕のところまでやってきてください。無理でしょうけど。
まあ、長々と、べらべらと喋っていてもアレなんでここらで終わります。では、残りの時間、せいぜい悔いのないように過ごしてください。じゃ――――』
□□□□
全世界への、唐突な『終末宣言』から時間は経ち、タイムリミットは残り一日となった。
僕はいつも通りの時間に、スマホのアラームによって目を覚まし、身体を起こした。そのままの姿勢で、ふと思った。
今日は、どうしようかと。
腕を組み、うんうんと暫く悩んで、しかし何も思いつくことができず、僕は身体を伸ばしてからベッドから降りた。寝癖を手櫛で直そうとしたが、どうにもならず直ぐにやめた。
これまたいつも通りに家事をこなす。洗濯機を回し、掃除をして、ごみを出し、そしてソファーにもたれてインスタントのコーヒーを啜った。少し濃く作ってしまったらしくて、しつこい苦みが舌の奥に残った。
コーヒーにしては不味いが、泥水にしては美味いその液体を少しずつ舐めながら、スマホでSNSアプリを開いた。いつもなら雑多なつぶやきが見られるそこは、しかし今日に至っては殆ど全てが明日のことに触れていた。
あるいは胸糞の悪い犯罪の予告として。あるいはネタに昇華(降下?)させて。あるいは女子中学生のようなポエムとして。あるいは創作のネタとして。様々なものに姿を変えた終末が、そこにはあった。
僕は無表情で、その情報の濁流を親指一つでスワイプし、見るでもなく見ながら欠伸をかましていると、洗面所の方からぴー、ぴー、と無機質な電信音が聞こえてきた。どうやら洗濯機の労働が終わったらしい。
すっかり温くなった泥水を飲み干し、僕は立ちあがった。洗面所に行って洗濯機からタオルやらシャツやらパンツやらを洗濯籠に移し、ベランダへ向かった。
カーテンを開くと、そこには素晴らしい晴天が広がっていた。次いで窓を開けると朝特有の爽やかな、不純物を感じない空気が部屋の中に流れ込んでくる。部屋の洗濯だと思った。気持ちがいい。
ベランダに出て、辺りを見渡す。人はいなくて、とても静かだ。どこからか、姿の見えない小鳥の鳴き声が良く聞こえた。
深呼吸をして、かすかに残った眠気を吐き出す。籠からシャツを取り上げ、物干し竿に掛ける。そのままゆっくりと洗濯物を干していると、不意に隣室の窓が勢いよく開いた。あまりに勢いが良くて、僕は野生動物のようにびくっと飛び上がった。
その窓から「ふわああ」と大きな欠伸をしながら、一人の女性が姿を見せた。彼女はそのぼさぼさの茶髪に指を突っ込んで頭を掻きながら辺りを見渡し、そして僕に気が付いた。
「ああ、隣の。おはよう」
僕は、干そうとして手に持っていたボクサーパンツをさりげなく背に隠す。
「あ、お、おはようございます……七尾さん」
七尾さんは再び欠伸をして、薄ピンク色のキャミソールの下に手を入れるとお腹をぽりぽりと掻き始めた。
「いい天気だねえ、本当に。風も気持ちがいいし、そして何より、人がいない。静かで平和。もう少しで終わるなんて、全く思わないよね」
「……そうですね」
それから、僕は洗濯物を干す作業に戻り、七尾さんはまるで猫のようにしなやかに身体を伸ばすと、ベランダの欄干に肘を突いて、もたれかかった。眠たそうな目で街の様子を眺めている。そよ風が吹き、彼女のその緩やかにうねった茶髪を揺らした。
穏やかな時間が流れる。停滞を感じさせる、そんな穏やかさだった。
そんな中、不意に七尾さんが「あ」と声を出した。見ると、七尾さんが真下の道を見下ろしている。僕はつられてその方へ視線を向けた。そこにはくたびれた背広姿の、サラリーマン然とした中年の男が道の端にいた。スマホを耳に当てながら速足で歩き、頻りに頭を下げている。
七尾さんが、何処か勝ち誇ったような横顔で言った。
「あの人、仕事なのかなあ」
「ぽいですね」
「……明日終わるのにね。勤勉だ。勤勉」
僕はタオルを叩き、皺を伸ばしながら口を開いた。
「七尾さんは、仕事じゃないんですか?」
「勿論あるよ。ブラックだからね、うち。ブラックと言うより漆黒だよ。今までは愚直にさ、毎日毎日会社に行ってたけど、流石にこんな時に行く気にはなれないよねえ」
「まあ、そうですよね」
「今頃、上司に鬼電されてるよ。いっそ狂気だよね。まあ、スマホの電源切ってるけれど」
七尾さんは横目で僕の方を見ると「君は?」と言った。
「確か大学生だよね?」
「今日は講義ないんですよ」
「それで、やることがなくて洗濯物なんて干してるの?」
「……ええ、まあ。明日が本当に終わりなら、意味はないんですけど」
七尾さんは「ふうん」と気のない返事を寄越す。
「じゃあ、今日はもう予定ないの?」
「ですね。残念ながら」
「なら、少しお姉さんに付き合いたまえよ」
そう言って、七尾さんは部屋に戻った。僕は少しばかり呆然としていたが、直ぐに我に返って洗濯物の続きに取り掛かった。その後、僕が最後の靴下を吊るし終えるとほとんど同時に彼女はベランダに戻ってきた。
その両手に何かを握りしめている。僕がそれを何かと認識するよりも早く、彼女はそれをこちらに向かって投げてきた。大きく弧を描き、虚空を飛翔する。それは、銀色に輝いていた。
「ほら、キャッチ!」
距離にして三メートルほど。スピードも出ていない。本来ならば取り落とすことはないだろう。ただしかし、あまりにも条件が良くなかった。突然だったことと、投げられたそれが何かわからなかったこと、そして、僕は運動神経があまり良くなかったのだ。
差し出した僕の両手の間を、『それ』は見事にすり抜ける。バンッ! と、それは強くベランダに叩きつけられ、銃声にも似た大きな音が辺りに鳴り響いた。
七尾さんが微苦笑を浮かべている。
「鈍くさいねえ、君」
「と、突然だったからですよっ」
僕はそう抗議しながら、足元をゴロゴロと転がっているそれを拾い上げる。キンッと、鋭いくらいによく冷えていた。
「……ビールですか?」
僕はビールのロング缶を持ちながら七尾さんの方を見ると、彼女は笑みを浮かべながらプルタブを起こしているところだった。カシュッと小気味いい音が鳴る。
「一人で飲む酒も美味しいけどね、やっぱり誰かと飲む酒も、これまた美味しいんだよ」
「……僕、まだ十九ですよ」
七尾さんが目をパチパチと瞬いた。
「あれ、まだ未成年なんだ? ……んまあ、酒くらい飲んだことあるでしょ?」
僕は諦めの溜息を吐いた。プルタブに指を掛ける。
「そんなに強くないですよ」
そう呟きながら、指先に力を籠める――その瞬間だった。
「――うわあっ!?」
細かく、真っ白い泡が勢いよく噴出した。慌てて缶を指先で摘まむようにして、身体から遠ざけた。絶え間なく溢れ出る泡が缶を伝って滴り落ち、ベランダを盛大に濡らしている。
僕が困惑していると、七尾さんの笑い声が聞こえてきた。
「あはははっ! 地面に強く叩きつけられたばっかりなんだから、そりゃあ溢れ出すよ。ふふっ、いやあ君、面白いねえ!」
ばんばんと欄干を叩いて笑っている七尾さんに、抗議のジト目を送りつつ、泡が落ち着くのを待った。ようやく笑い終えたらしい七尾さんが「ふー」と息を吐きながら涙を指で拭う頃、ようやく溢れる泡は落ち着きを見せた。
それから僕は一通り文句を言い、七尾さんが笑って聞き流して、僕らはベランダ越しに乾杯をした。僕らは同時に、口をつける。
目を閉じて、勢いよく喉へ流し込む。爽やかな炭酸の刺激が心地いい。僕は口を離すと「ふう」と息を吐いた。舌の奥に残る苦みと、独特の香ばしい香りがゆっくりと消えていく。胃の奥がぼんやりと温かくなって、それが全身に広がっていくこの感覚は、嫌いではなかった。
僕から少し遅れて缶から口を離した七尾さんが「ぷはあっ!」と気持ちよさそうに顔をしかめながら言った。
「こんな平日に朝から飲めるなんて、終末様々だね。終末万歳!」
缶を天高く掲げ、笑顔でそう叫ぶ七尾さんは、失礼かもしれないが子供のようで可愛らしかった。燦々と照りつける陽光が、彼女の寝癖だらけの茶髪を輝かせている。キャミソールの裾が持ち上がり、透き通ったように白いお腹が覗く。
そんな七尾さんの様子を眺めながら、僕は欄干に身体を預けた。暫し、僕らは無言でビールを楽しんだ。そよ風を頬に感じる。七尾さんが小鳥の歌に合わせて、欄干を指先で突いていた。
暫くして僕はその静寂を破った。
「……あの、七尾さん」
「ん、どうしたの?」
「終末なんて、本当に来るんですかね」
七尾さんは僕の目をすっと見ると、即答した。
「終わるよ。……終わってくれないと困るしね。上司に大目玉を食らっちゃう」
「でも、こう、なんて言うか、現実味がないんですよね。終末世界系映画だと、こう、人々が暴動を起こしたり、色んなところから炎が上がってたりするじゃないですか。なんか、あまりにも平和だと思うんですよ」
七尾さんは「んー」と首を傾げ、手に持ったビールの缶をゆっくりと回し始めた。
「海外だと色々起こってるらしいけど、確かに国内じゃ聞かないね。メディアが情報規制しているのかもしれないけど。……まあ、日本の警察が優秀なんだよ、きっと」
「……雑ですね」
「雑だよ。わたしの取り柄なんて大雑把なのと、おしりの形くらいだからね」
七尾さんが下手くそなウィンクをしながら、己のおしりを叩いた。ペちん、と気持ちのいい音が鳴る。
それから僕達は生産性のない、脳の表面だけを使っているような稚拙な会話をしながら、ビールを飲んだ。初めこそ七尾さんのペースに着いていこうとしたが、死んでしまうと思って途中からは水と交互にゆっくりと飲んだ。ベランダ越しに、僕たちは徐々に人間の形を失っていく。なにか、柔らかいものへと崩れていくような、そんな感覚だった。
そして、七尾さんの部屋にはどれだけのビールのストックがあるのだろうと辟易してきた頃、彼女は「ねえ」と僕のことを挑む様な視線で見つめてきた。頬が微かに桃色がかっている。この距離からでもわかるほど、瞳がぬらりと濡れているのがわかる。
その時、僕は美しいと思った。七尾さんのことが、この世の何よりも美しいと。
どんな風景や、どんな美術品、モデルや映画スターの誰よりも、このベランダで見る無防備な格好の彼女は美しかった。いっそ、神々しいと言えるほどに。
僕は目を閉じ、頭を押さえる。瞼の裏の暗闇が、ぐわんぐわんと動いていた。アルコールを少しでも飛ばすように、息を細く、長く吐き出す。
七尾さんがもう一度「ねえ」と言った。
「今日のためにさ、ちょっと良いお酒買ってあるんだよ。どう? わたしの部屋に来て、一緒に呑まない?」
□□□□
洗面所で寝癖を直す。それから服を着替えようとしたが、何かを期待していると思われそうで、やめた。それに僕はオシャレな服を持っていないのだ。
鏡を見る。いつもの、パッとしない顔がそこにあった。耳だけが、熟れた果実のように赤くなっている。
僕はいままで、自分のことを欲の無い人間だと思っていたけれど、どうやらその認識は間違っていたらしい。こんな僕でも、しかし確かに男ということだろう。
部屋を出る。
荒んだ廊下を数歩歩き、隣の七尾さんの部屋の前へ。インターフォンを押そうとして、手を下ろした。あまりに心臓が暴れすぎている。
僕は、自分の中で暴れる爆弾のようなそれを少しでも沈めるように、深呼吸をした。コンクリートと生ごみの混ざった、湿っぽい臭いを肺いっぱいに吸い込んで、そして吐き出す。
何を緊張しているのだろう。そう、自分自身に問いかける。たかが隣人の部屋にお邪魔するだけだろう? ただ、女の人と酒を飲むだけだ。震えるほど、緊張することじゃない。
拳を作り、そして開く。それを何度か繰り返し、思い切ってインターフォンを押し込んだ。力が入りすぎたらしく、ボタンがぎしっと変な音を立てる。無骨な扉の奥で、間抜けなチャイムの音が鳴っていた。
唾を飲み込もうとして、口の中がカラカラに乾いていることに気が付いた。手汗も凄いことになっている。緊張するなと自分自身に言い聞かせても、やっぱり身体は素直だった。
一秒が経ち、二秒が経った。それからも何秒もの時間が去っていく。一秒一秒が、何倍にも引き延ばされたように感じられた。
そして、ドアノブがカチャリ、と音を立てる。気が付けば、奥歯を噛みしめていた。
「いらっしゃい」
癖のある茶髪が見え、そして七尾さんの顔が覗く。まるで、年に一度だけ会う年の離れた従弟を迎え入れるような、優しさと、僅かな緊張を混ぜ込んだような笑みを浮かべていた。
前かがみになっているから、キャミソールの胸元から深い溝が覗いている。僕はそれから必死で目を逸らした。
「おいで」
そう言って、七尾さんは扉を大きく開いた。僕は緊張で、もつれそうになる脚をなんとか動かし、玄関へと入った。靴を脱いで、僕の部屋と全く同じ廊下を進んだ。野郎の住む場所とは明らかに違う甘い匂いが、鼻腔をくすぐった。
「散らかってるけどごめんね、適当に座ってもらっていいから」
そう言われて通されたリビングを見て、僕は目を見開いた。僕の部屋と全く同じ作りのはずのそこは、しかし全くの別の空間であるように思えたのだ。
つまり、物凄く――比喩ではなく本当に足の踏み場もないほどに散らかっていた。分別もされずに乱雑に詰め込まれたゴミ袋が部屋の隅にあり、床には雑誌やら何かのケーブルやら雑多のモノが散乱している。部屋の中央に置かれた小さなローテーブルは、メイク用品と酒の空き缶で溢れていた。ローテーブルの前に置かれた二人掛けのソファーにも、衣服が山のように積まれている。
さっきまでの緊張はどこへやら、僕はこの汚部屋を前にして、ただただ戦慄していた。僕の中で築かれていた七尾さんの印象が、ぐにゃりとその姿を変えていく。
適当な所に座れって言われても、そもそも場所がなかった。しばらく部屋を見渡し、ソファーの方へ近づいた。戦々恐々としながら指先だけで洗濯物を隅に寄せ、どうにか一人分のスペースを作る。洗濯物の山の中に潜んでいたショーツやらブラジャーには気づかないふりをした。男なら紳士であれ。
ソファーに座ったものの、もちろんリラックスすることはできず、背もたれに身体を預けることもできないまま、改めて部屋の中を見渡した。見渡しながら、鼻を鳴らす。見れば見るほど汚い部屋だけど、しかし不思議と嫌な臭いはしなかった。それどころか、桃に蜂蜜をタップリとかけたような、女の人特有の甘くフルーティな匂いさえした。つくづく、男と女は違うんだなと思った。
そうこうしていると、リビングと一続きになっているキッチンから七尾さんが戻って来た。片手には器用に徳利とお猪口が握られ、もう片方の手には一升瓶があった。
「おまたせー」
そう言って、一升瓶で薙ぎ払うようにして、ローテーブルの上の物を雑に退かす七尾さん。空き缶やら、メイク用品やらがゴロゴロと床に墜落していく。僕がその光景に引いていると、七尾さんは気にする様子もなく、無理矢理に作られたローテーブルの上の空間に一升瓶と、徳利とお猪口を置いた。
「これね、わたしがいつも贔屓にしている日本酒なんだよ」
一升瓶のラベルを見る。青黒く染色された和紙のような質感のラベルには、白い文字で恐らく商品名だと思われるものが書かれていた。書かれてはいるが、しかし如何せん達筆すぎて読み取ることができなかった。
「高そうですね、これ」
僕がそんな頭の悪そうな感想を零すと、七尾さんは僕の向かいの床に直接座りながら「そんなことないよ」と言った。一升瓶の栓を抜く。
「一升瓶で四千円くらいだからね、これ。言ったじゃん、『ちょっと』良いお酒だってさ。ほら、徳利押さえてて」
言われるがまま、徳利を手に取った。徳利とお猪口には、それぞれ同一のデフォルメされた黒猫のイラストがあった。生意気そうな黒猫だ。どことなく、七尾さんに似ている。そんなことを思った。
僕が徳利を差し出すと、七尾さんが慎重な動作で日本酒を注ぎ始めた。真剣な眼差しで、流れ出る液体を見つめている。
そんな七尾さんに言った。
「わざわざ徳利に移さなくても、直接お猪口に注いだらよくないですか?」
注ぎ終え、瓶を置いた七尾さんはワザとらしく哀れみの表情を作った。
「雰囲気だって、味を構成する重要な要素の一つなんだよ。わかってないなあ」
「はあ、そんなもんですか」
「そうだよ。家で食べるおにぎりより、公園で食べるおにぎりの方がおいしく感じるでしょ? そういうことよ」
それから、僕たちはお互いに相手のお猪口に日本酒を注ぎ合った。乾杯、とお猪口を軽く打ち鳴らすと、その丸く切り取られた、透き通った水面に波紋が生まれた。朝日のようだなと、酔っている頭で思った。黒猫のイラストと、しばし目が合う。
僕は少し間を置いて、舐めるように一口飲んだ。途端、口いっぱいに芳醇な香りが広がった。それに追随するように、まるで梨のようなフルーティーな甘みが味蕾を撫でる。それらを一つにまとめる、確かな旨味が感じられた。
こくっ、と飲み込むと、丸みを帯びたアルコールの刺激が心地よく喉を降りていく。胃の奥に、温かな花を咲かせるようだった。
ああ、美味しい。そう、自然に言葉が転がり出た。素直な言葉だった。
「でしょ」
得意げな七尾さんに、頷き返す。
「本当に、美味しいです。しっかりした味なのに、すっきりと飲みやすい」
「そうなんだよ。飲みやすいんだよ。まるで水みたいに飲めちゃうからさ、よく飲みすぎて次の日後悔してるよお。……でもまあ、今日は明日を気にせずに飲めるけどね」
ちゅっ、と音を立ててお猪口の中を空にする七尾さん。彼女が超人的なスピードで日本酒を胃の中に収めていく中、僕はゆっくりと味わいながら、ベランダの方へと視線を向けた。
昼下がりの陽光がレースカーテン越しに淡く輝いていた。空気中の埃が不規則に泳いでいる。それを捕まえようとして手を伸ばすが、しかし踊るように埃は僕の手をすり抜けていった。
僕がそうやって遊んでいると、ふと七尾さんが声を出した。
「改めて訊くけどさ、ホントにわたしに付き合ってよかったの?」
僕は空気中の埃から視線を切り、七尾さんの方へ向いた。視線が絡み合う。彼女の大きくて黒い瞳が、何処か恐ろしくて、僕は手元のお猪口を見下ろした。
「大丈夫ですよ。本当に」
「そうは言っても、恋人とか、友達とか、家族とか、会うべき人くらいいるでしょう?」
確かに。とそう思った。
普通の人なら、恋人と愛を誓いあったり、永遠の友情を確認したり、家族との最期を過ごすのだろう。でも、僕にはそういう人達はいなかった。
改めて、寂しい人生だな、と思った。我ながら。
「確認するまでもなく、いたら洗濯物干したり、お隣さんと酒なんて飲んでないですよ」
「ふうん」
「そういう七尾さんは、いないんですか?」
七尾さんは手灼で日本酒を注ぎ、それを一息で飲んだ。
「いないねえ。両親には勘当されちゃってるし、この街に引っ越してきてから友達もできないし、彼氏とは半年前に別れちゃったからさ」
まあ、でも。と続ける。
「別に寂しくはないよ。わたしの人生において、お酒を飲むことは最も優先すべきことの一つだからね。お酒さえ飲めたならそれでいいんだよ。あ、強がりじゃないからね!」
もう一度「強がりじゃないからね」と、そう言って七尾さんは、どこからともなくイカソーメンの袋を取り出した。彼女がその袋の開封に手こずっているのを眺めながら、僕はぼんやりと思った。賞味期限は大丈夫なのだろうか。
君はさあ、と七尾さんがイカソーメンを咥えたまま言った。
「彼女、いたことはあるの?」
「いやあ、残念ながらそういうのとは縁のない人生だったもので」
「ふうん」
七尾さんが咥えたイカソーメンの先を、器用に上下に振りながら僕の顔をじっと見つめてくる。その一対の深く黒い瞳から、僕は目をそらすことが出来なかった。蛇に睨まれたカエルと言ったところだろうか。いやまあ、七尾さんを蛇と言うつもりはないけれど。
彼女は言う。
「結構可愛い顔してると思うけどなあ」
「……そうですか?」
可愛いなんて言われ慣れていない僕は、顔を引き攣らせた。
七尾さんはイカソーメンを食べ、日本酒を飲んでから口を開いた。
「うん。少なくとも、わたしは嫌いじゃないよ。やっぱりあれかな、性格かな? モテない理由」
「性格ですか?」
「なんか、暗そうだしね」
「……僕の唯一の取り柄は暗いことですからね」
僕はお猪口の中を飲み干し、少し休憩しようとローテーブルに置いた。流石に結構酔っている。座っていても、身体がぐらぐらする。七尾さんを見ると、彼女もある程度は回っているようだった。その白い頬が桃色がかっている。ほう、と小さく吐く息が凄まじく艶めかしかった。僕はまだ寝癖がついたままの、そのふんわりと優しく乱れた茶色い髪を眺める。触れてみたいと思った。
僕がそんなことを考えていると、七尾さんは僅かに前のめりになり、口を開いた。
「誰かを好きになったこともない?」
「ん、ない……ないですね」
「えー、もったいない人生だね」
「好きってものが、よく分からないんです」
そこまで言って、不意に一人の少女のことを思い出した。中学の三年間、一緒に登校し、そして帰宅していた少女のことだ。あの、吸い込まれるような黒い髪が、何故か鮮明に思い浮かぶ。
学校で話すようなことはなかった。休日に二人で遊ぶようなこともなかった。たた、家が近いからという理由だけで、三年間通学路を共にしただけだ。
あの女の子のことを意識しなかった、と言えば嘘になる。しかし、あれが恋だったと言うには、どうなのだろう? 今まで顔も名前も忘れてしまっていた彼女のことを好きだったと言えるのだろうか?
空にしたお猪口の中の、その虚を見下ろす。黒く塗られたその小さな穴は、何もかもを吸い込んで閉じ込めてしまいそうに思えた。
……多分、あの子に恋をしていたわけじゃない。恋に憧れていただけなんだと思う。思春期特有の、女子に対する期待や不安や、その他諸々がまぜこぜになって、勘違いしてしまっただけのこと。
僕がそんなことを、麻痺した思考回路でぼんやりと考えていると七尾さんがぐいっと顔を寄せてきた。いつの間にか空になっていた徳利に彼女の身体がぶつかって、ぐらぐらと揺れる。
「もしかしてさ、童貞?」
「……そうですけど」
「だよね」
七尾さんがお猪口の中身をくいっと呷った。それから立ち上がり、床に積み上がった雑誌の山を蹴飛ばしながら、僕の方へ近づいてくる。
ソファーに座る僕の前に立った七尾さんがじっとこちらを見下ろす。キャミソールの裾から、お腹が見えている。完璧なほどの曲線だった。カンタービレって言うんだろうか。
僕達が見つめあったまま、数秒が経つ。沈黙と静止が支配したこの世界で、唯一、埃だけが遊泳していた。僕の中の心臓が凄まじい運動を開始する。
その沈黙と静止を破ったのは、果たして七尾さんだった。
不意に僕のシャツの胸ぐらを掴んだのだ。突然のことにフリーズする僕を力任せに引っ張り上げながら、彼女も背を曲げて屈む。何もかもが、スローに見えた。
瞬間で、僕の唇と七尾さんの唇の距離がゼロになる。温かくて、どこまでも柔らかいそれは、アルコールの支配した僕の脳を機能不全にするには十分だった。うねる舌がねじ込まれる。熱いほどの液体が――七尾さんの口の中の日本酒が、無理矢理に送り込まれる。
唇が離れた。ソファーに戻った僕が口の中のそれを嚥下すると同時、七尾さんが言った。
「卒業、させてあげようか?」
七尾さんの目を見る。深い、どこまでも深い、その黒と視線が交差する。濡れたナイフのような、鋭い目だった。
僕は視線を外すことが出来ず、ぎこちなく頷いた。
□□□□
照明が落とされ、窓から射し込む月光だけがこの暗黒を辛うじて食い止めている室内で、僕は荒い息を吐いていた。汗ばんだ肌に、乱れたベッドシーツが張り付く。脳の質量が半分になったかのような不思議な浮遊感と、一切がどうでも良くなるような圧倒的な安心感だけが今の僕を支配していた。
ブラジャーとショーツだけを身につけた七尾さんが、ベッドから立ち上がってキッチンの方へ歩いていった。ごちゃごちゃと散らかったそこから灰皿とタバコとライターを救出し、再びベッドの方へ戻ってきた。
七尾さんが僕の隣に腰掛ける。
「感想は?」
僕は額に手を当てた。激しい運動と、アルコールのせいでものすごく熱を持っていた。
「なんて言うか……そうですね、そりゃ人類も増えますよねって感じでした」
「ははっ、でしょ。いいものだよね」
笑いながら、七尾さんがアメスピを咥えた。月光を反射させて、その唇はぬらりと輝いている。その感触を思い出して、僕は視線を外した。
「タバコ、吸うんですね」
「うん。まあね。意外だった?」
「まあ、そうですね」
「元彼の影響だよ。こんなくだらないことだけ、わたしの中に残して去っていったんだ」
「元彼……」
七尾さんがライターで火をつけた。暗い室内が一瞬、真っ赤な光に包まれた。タバコの先端がちりちりと音を立てて燃える。細く立ちのぼる紫煙が、薄く広がり、やがて闇と一緒になった。
僕はその、煙の消滅した辺りをぼんやりと眺める。眺めながら、胸の内に微かに広がる不快感の正体を探ろうとした。
嫉妬。その二文字が真っ先に思い付く。しかし、僕は信じられなかった。僕が嫉妬している? 七尾さんに? 彼女の口から出た『元彼』という言葉に? まさか。
隣に座る七尾さんの、その投げ出された素足を見る。細く引き締まったそれは、芸術品の様に美しい。ふくらはぎの曲線を、月光が滑り、輪郭を浮かび上がらせていた。
七尾さんは半分ほど燃えたタバコを灰皿に押し付け、新しいタバコを取りだした。再び、ちりちり。
僕は七尾さんの吐く煙の行方を目で追いながら言った。
「もう一度訊いていいですか。……七尾さんは、明日終わるって本気で信じてるんですか」
「信じてるよ。明日、終わる」
七尾さんは確信があるようにそう言った。そして僕も、七尾さんが言うなら間違いないって、すっと信じることが出来た。
「怖く、ないんですか?」
「……死ぬっていうのは本能的で、根源的なものだからね、そりゃ怖いけど、でも怖がってばっかりでも仕方ないじゃん。怖がってる暇があるなら、わたしはお酒を飲んでいたいね」
そう言う七尾さんの横顔を見た。薄く開いた唇から、糸のように細い煙が吐き出された。月が雲に隠されたらしく、部屋の中がいっそう深く闇に落ちる。彼女の持つタバコの先端だけが、唯一の光源だった。赤く、頼りない光だ。
「そろそろ眠ろうか」
「……そうですね」
七尾さんがタバコを灰皿に押し付けると、部屋の中は完璧な黒に満たされた。彼女が身体を動かす気配がした。その次の瞬間には、頬に柔らかい感触があった。急激に体温が上がる。そのまま、彼女は僕の身体を優しく押し倒すようにしながら、耳元で言った。
「ほら、横になって。腕枕して欲しいな」
「こうですか?」
ベッドに横になって腕を横に出すと、腕の付け根あたりに重みを感じた。桃のような甘い匂いと、アルコール、そしてタバコの臭いが鼻腔をくすぐった。
七尾さんが微笑んでいる。その気配がある。
僕は口を開いた。七尾さんが眠ってしまう前に、訊いておくべきことがあった。
「最期に。……なんで、僕だったんですか」
「……気を悪くしたらごめんね」
「はい」
「……誰でもよかったんだよ。独りじゃないなら、それで」
「そうですか」
「うん。でも、君とお酒を飲むの、なかなか楽しかったよ。初めは確かに誰でもよかったかもしれないけれど……君で、よかったと思ってる。付き合ってくれて、ありがとうね」
「……僕も、楽しかったです」
もう一度、七尾さんは僕の頬にキスをした。
「おやすみ……じゃあね。さようなら」
「おやすみなさい。さようなら」
暗闇の中、直ぐに小さな寝息が聴こえてくる。僕は目を開け、暗闇の形を捉えようとした。どこまでも広がるそれは、絶えず流動するように、僕と七尾さんを絡みとるように、そこにあり続けている。
僕は、ああ、と声に出さずに言った。
好きなんだ。僕は七尾さんのことが好きだ。そう認識すると、気持ちがいいくらいに、すとんと納得することが出来た。
この『好き』が、胸の内の柔らかい部分に巣食い、胎動する様に徐々に大きくなっていく。この不思議な感情が、どうしようなく性欲由来なのだとしても、僕にはこれがなによりも尊く、そして温かいものに感じられた。
もうすぐやってくる、終末を想う。終末を呼ぶ、あのふざけた誰かを想う。ありがとうって、そう想う。この終わりがなければ、僕は『好き』を知ることが出来なかったから。
ゆっくりと自由な方の腕を動かし、七尾さんの髪に優しく触れた。細く、柔らかい。いつまでも触れていたいと思った。
目を瞑る。部屋の中の暗闇とは種類の違うそれを見つめながら、再び、あの女の子のことを思い出していた。あの子は、今何をしているのだろうか。好きな人の腕の中で、微睡んでいるのだろうか。
そうだったら、どんなに素晴らしいだろう。僕は厚かましくも、そんなことを考えた。
七尾さんとこうして抱き合いながら、二人の存在の境界線が曖昧になっていくのを感じる。金属が圧倒的な力で捻転するように、確実に、そうなっていく。
終末の前日、こうして僕は恋をした。
□□□□
――そして、閃光。