早稲田・神田川
裏切りの陰には男あり。早稲田大学探検部、穂村吾朗。北海道の釧路の先の山奥の、何てったっけ? 熊蔵? 羆蔵? ともかくそのクマの穴ぐら出身で、釧路の高校から、三浪して早稲田の文学部に入った。で、「名前はゴローだけど三浪で済んだんで、ラーメン二郎でマシマシ豪遊しました」というのが笑えない一つ小噺。せめて「すきやばし次郎」にしろってのよ。
葉桜の制服であるクラシックなセーラー服姿を桃ちゃんに見せたくて、早稲田へ遊びに行った。桃ちゃんは大学の中を案内してくれた後、わたしを吾朗の住処に連れていった。
大学まで徒歩十五分の、高田馬場の風呂なしトイレ共同の木賃アパート四畳半。窓の下には神田川が見えた。ちっちゃな台所がついていて、ちっちゃな冷蔵庫が置かれていた。部屋の天井からは自転車が一台とフレームが二台吊り下げられていた。壁にも床にもハンドルやらホイールやらごちゃごちゃ掛けられたり、積まれたりしてて、自転車屋の倉庫みたいだった。
吾朗とはそこで初めて会ったんだけど、桃ちゃんの話からわたしが勝手に想像してた「熊男」とは全然違ってた。髪は短く、清潔そうで、髭もキレイに剃っている。
「訪問先に失礼がないようにって、バイトの指導が厳しくってさ」と言い訳する。ちなみにバイト先はクロネコヤマトの宅急便。自転車でリアカーを引いて荷物を配達してた。
背はそんなに高くなくて、長身の桃ちゃんと同じくらい。細身だけど、しっかりと筋肉がついている。いわゆる細マッチョ。総体的に、けっこうカッコいい奴だった。それはわたしも認める。認めたくないけど。
床に散らかったあれこれを隅に寄せて、何とか三人座れるだけの場所を作って、桃ちゃんと吾朗は缶チューハイ、わたしはコーラで「高校入学おめでとう」「ありがとうございます」と乾杯。
あらためて部屋の中を見渡すと、壁際の道具棚に見えたのは実は金属パイプの二段ベッドで、下の段には本棚が入ってて、他に自転車工具棚、その他パーツでいっぱいなんだけど、上の段はちゃんと寝られるようになっている。思わず立ち上がって見てみた。布団も枕も古くて臭そうなのに、シーツだけが妙に新しいの。まっ白でパリッとしてるの。
ここがッ! ここが桃ちゃんとクマゴローの「愛の巣」! その瞬間、わたしが直面したのは「不都合な真実」ってやつ。桃ちゃんと吾朗は単なる大学のお友達で、ご学友で、清い交際で…って、そんなわけないだろ! しっかりとできちゃってるんだよ、このお二人さんはよ。このベッドで、このシーツの上で、あんなことをしたり、こんなことをしたり、ああッ!そんなことまで…
…目の前が急に暗くなって、ふらついて台所のシンクにもたれかかったら、そこにはプラスチックのカップに歯ブラシが二本。青とピンクの。…決定的じゃないの。
クマゴローは筋金入りの自転車野郎で、小学生、中学生の頃に北海道一周を五回。高校生で日本一周を一回やってんだって。さらに浪人時代にもう二回日本一周。現在の目標は、自転車での南米大陸縦断。その資金を貯めるため、せっかく入った大学にもろくに通わずに、肉体労働のバイトに精を出してるんだってさ。
何考えてるんだろ。どうせチャリ乗るなら競輪選手にでもなって賞金稼げばいいのに、南米縦断?
「馬鹿じゃないの?」思わず口に出して言ってしまった。しまった! 一時の気の迷いか、何かの間違いであるのは確実だとしても、今現在、桃ちゃんの彼氏カッコ仮であるところの男を馬鹿呼ばわりするなんて。
でも、桃ちゃんはわたしの暴言を聞き流していた。いや違う。聞こえなかったふりをしてたんだ。で、クマゴローが「そうだよなあ、馬鹿だよなあ」とへらへら笑うのに「そうよねえ」と阿諛追従したのよ、桃ちゃんは。
許せん!
でもまあ、悪いことはそう長くは続かないものよ。数か月後に吾郎はあっさり南米へと旅立ってしまった。成田に見送りに行った桃ちゃんに、当然わたしも付き合ったんだけど、愛する男の出立を笑って見送る桃ちゃんの姿に、その健気さにわたしは泣いたわよ。でも、心の底では「しめこのうさうさ」とほくそ笑んでいた。桃ちゃんの心にぽっかりと開いた大きなスキマ。それを埋められるのはわたしだけだって自負してたから。
実際、その後しばらくの桃ちゃんは、魂が抜けた人形みたいだった。わたしは学校なんてそっちのけで、桃ちゃんの傷心ケアに専念していた。桃ちゃんは、わたしを早稲田界隈のあちらこちらに連れて行った。「ここで吾朗さんと初めて会ったの」という、サークル棟の汚ったない部室やら、「ここで初めて一緒にご飯を食べたの」というショボい定食屋やら、「初めて二人でお酒を飲んだの」という安っちい居酒屋やら。全部付き合って回った。
で、あれこれ楽しそうに話してた桃ちゃんの声がふと止まって、あれ、どうしたんだろう、と思うと、ボロボロ涙を流してるの。無言のまま大泣きしてるの。
やめてよ、桃ちゃん。わたしは心の中で絶叫する。そんなの桃ちゃんじゃない。桃ちゃんはさ、とにかく強くてたくましいのよ。凄腕のアクアの図書委員で、クラウゼヴィッツも平伏する「卓越せる指揮官」で、当たるを幸い食らい尽くす「ピンクのシャチ」で、大学空手部三人を素手で叩き伏せる、「スト2」の春麗もびっくりのスーパーヒロインなの。わたしの絶対の憧れなの。それが、あんなクマゴローのせいで、こんなになっちゃって。
でも、わたしには何もできない。クマゴローの代わりにはなれない。
うわあああ、腹立つ。許せん。何もかにも。ゴジラに変身して、すべてをぶっ潰してやろうかしら!
わたしが変身する前に、事態がさらに急変した。
梅雨に入って数日後の六月の末頃だった。桃ちゃんから電話があったの。
「カオリン、わたし、決めた」
「何を?」
「追いかけるの吾朗さんを。わたしも南米に行く」
「行くって?」
「今、成田なの。飛行機乗る前に、最後にカオリンと話しておきたいって思って。ありがとう、カオリン。カオリンが励ましてくれたおかげで、わたし、決心できた」
…って、わたしは何も励ましたりしてないけど。それに「最後」って何よ?
「さよなら、カオリン。わたし、カオリンのこと、一生忘れない」
…と、わたしが呆然としてたところで電話は切れた。
何何何何ーっ! 何なのよーっ!




