あなたを夏に残して
あなたは部屋の窓から、夏の空を眺めている。
だけど、それまで何をしていたかを思い出すことができない。
まるでたったいま目覚めたように、あなたは気が付けば窓辺に立っていた。
「もうすぐ終わっちゃうね、夏休み」
その声にあなたが振り向いてみると、部屋の入り口に一人の女性が立っていた。
真っ白な防護服に身を包み、大きなキャニスターを取り付けたガスマスクで顔を覆っている。
あなたがそれを女性と判断したのは、トンボの眼のようなグラス部の奥から覗く表情と、マスク越しでも伝わる澄んだ声のせいだった。
「もったいないよ。こんなところでゴロゴロばかりしていたら」
女性はそう言いながらゆっくりと歩いてくる。
重々しいブーツの底が、畳を優しく抉る。
「ゴロリになっちゃうよ」
あなたは間近からマスクの奥の目を覗き込んだ。
やや吊り上がった目じりの、涼し気な眼差しがあなたに向けられる。
そうしてしばらく見つめ合うも、やがて女性の瞳が根負けしたように揺れた。
「大昔にそういう化け物がいたんだよ」
どこか恥ずかし気に視線をそらし、女性は言った。
その様子が、あなたにはなぜか懐かしく感じられた。
「海に行こうか。車を運転するから、きみは助手席に乗って」
少し考えてからドライブへ行くことを承諾すると、女性があなたの手を取った。
「空間洗浄が完了するまで、ちょっと待ってね」
言われた通り、車に乗ったあなたは女性の隣で大人しく待つ。
しばらくすると女性はガスマスクを外し、防護服から上半身だけを抜け出す。
黒髪のショートボブ、小さな耳たぶにはシンプルなシルバーのイヤリングを着けていた。
「観察しないでよ」
女性が笑うと、冷たいように感じられた目元が柔らかな線になる。
あなたが頷くと、車はゆっくりと走り出した。
「提案された走行可能なルートを進んでいくから、だいぶ遠回りになっちゃうけど、いいよね」
カーステレオをいじりながら、女性は言った。
「ラジオは……、やめとこうか。外のFMなら拾えるかもだけど、そもそもつまらないしね。うーん、『ドライブにぴったりな曲をお願い。できれば古めで』」
スピーカーから流れてきた曲を、あなたは知っていた。
思わず頬が緩む。
「私これ知らない。なにか可笑しかった?」
女性は少し嬉しそうに、だが不思議そうにあなたに尋ねた。
真っ黒なジープは木々の生い茂る山道を進む。
スピッツという名の、太古のアーティストが奏でる音楽は軽やかに響いている。
「ああ、そういうことね」
女性が無邪気に笑った。
下り道が続き、やがて景色が開ける。
キラキラと輝く水面が、あなた達を迎えた。
「全体に藻が繁殖しているね。これは壮観だ」
女性はハンドルを握りながら、一面に広がる緑色を横目で見た。
「この調子だと大気中の酸素濃度はさらに上昇していくに違いない。いずれはそれに適応した馬鹿でかい昆虫なんかも生まれてくるのかな。いやぁ、世界は巡るんだね」
スピッツと女性の話を聞き流しながら、あなたはもったりと揺れる波を眺めていた。
「きみはずっとそのままでいてね」
その言葉にあなたははっとして、運転席を振り向いた。
ようやく思い出したのだ。
あなたがこの女性としてきた、数えきれないほどのドライブを。
夕焼けの海を、あなたは美しいと思った。
そして名残惜しいとも。
すべてがオレンジ色に染まって、優しさに包まれているようだった。
その暖かな輝きを背にして、女性があなたに言った。
「やっぱり押しつけは良くないね。私はきみの好きなように選ばせてあげなくちゃいけない。だからこのまま行ってしまっても良いんだよ」
あなたは女性の手を握り、まだ美しいままの海を目に焼き付ける。
見上げれば、ガスマスクの奥で女性が微笑んでいた。
その笑顔のせいで、あなたはどこへも行くことが出来ない。
きっと次の夏も会いに来てくれるこの女性を、あなたは悲しませたくない。
だからあなたは、いつまでもこの星から離れることができない。
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