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ハーニエーラ風コールドブリュー 糖蜜抜き

作者: 笠間屋灯



 ここは、観光客が休暇を有意義に過ごすために訪れる街、ハーニエーラ。年中通して温暖で過ごしやすい気候で、仕事を忘れ、身も心もリフレッシュするためには最適な観光地として有名だ。


 街の南には蒼い海が延々と続いている。美しいシルエットを持った船たちが、この地方独特のゆるやかな波に抱かれている。土地の特徴は港町というだけではない。西から北側にかけて広がっている小高い丘には、街の特産品であるハーニエーラレモンの果樹園が連なっている。そこを、穏やかな東からの風が通り抜け、柑橘系の香りを街へと運んでいる。


 その街はというと、石やレンガで作られた古くからある建物が、一種独特の雰囲気を醸し出し、訪れる者の目を楽しませていた。映し出された非日常は、普段の生活にはないものを味合わさせてくれる。石畳の道を通ると、そこかしこに植物が植えられ、咲いた花々は暖かな日差しの愛情を一身に受けている。ここは都会の喧騒とは無縁であり、時間はゆっくりと流れ、訪れる者をやさしく包み込んでいた。この街を目的も無く歩けば、時間の流れそのものを忘れそうになる程に。




 そんな心のオアシスのような街に、とある一軒の喫茶店があった。

 やや肌色がかったレンガ造りのアパートが連なる丘の上に、ひっそりとたたずんでいる。この喫茶店は街路樹が作り出す涼しげな日陰にありながら、入り口から店を挟んで反対側には、蒼い海とオレンジ色の屋根を連ねた街並みを眺めることができる。

 さほど混雑するほどではないが、閑古鳥が鳴っているほどでもない。いわゆる穴場的な喫茶店だ。


 この喫茶店の目玉は、マスターが淹れるアイスコーヒー。一年を通して温暖な気候のハーニエーラでは、暖かいものより冷たいもののほうが好まれる傾向があるので、それほど不思議なことでもない。

 このアイスコーヒーは、まるで紅茶のような色をしていて、それ自体が透き通っている。コーヒー独特の苦みはあるものの、その主張は思ったより控えめだ。喉を通るときにはハーニエーラの風を思わせ、この街の気候にぴったりのさわやかな後味を残してゆく。最初の一口目はブラックで。二口目以降は各々が好きなように楽しむのがハーニエーラっ子の流儀らしい。しかし、そんな彼らでさえも、製法や使っている豆の種類は誰も知らない。マスターだけが淹れることができる奇跡のアイスコーヒーは、一度味わうとそうそう忘れることは出来ない。そのためこの喫茶店に足しげく通うものは少なくはない。


 だが、こんなにも素晴らしい看板メニューがあるにもかかわらず、この喫茶店が混雑しないのは、土地柄に関係しているのだろう。時間がゆっくり流れるこの街では、ここで住んでいる人々をもそうさせている。いや、人々がそうであるからこそ、この街の時間はゆるやかに流れて行くのかもしれない。そんな彼らだからこそ、気が向いたときにだけ、マスターのアイスコーヒーを飲みに来るのだ。

 さわやかで、暖かい、冷たいアイスコーヒーを。


 今日も喫茶店には、清潔感漂う服をきちんと着こなしたマスターがいる。

 蝶ネクタイが映える白いシャツに黒のベスト。下は黒のスラックス。撫でつけられた混じり気のない銀髪。そんなマスターの姿は、細身な彼によく似合い、気品すら漂わせている。


 彼はカウンターの内側で、ガラスのコップを布巾で拭いながら、輝く青に目を細めている。さほど忙しくないときはいつも、窓から見えるハーニエーラを眺めている。その目はやさしさを湛えているように見えた。


 持っていたガラスのコップに街並みを映し出し、曇りがないことを確認する。

 慣れた手つきで所定の棚に音も立てずに置く。

 そしてまた、新たに洗い終えたコップを手に取り、同じ作業を繰り返す。丁寧に、正確に、こなしてゆく。


 そうして最後のコップを棚に置いたとき、ドアに付けられたベルが鳴った。


 チリンチリン――


 彼はドアのほうへ顔を向け、静かに口を開いた。

「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」

 客はカウンター席に着くと、注文を口にする。

「何がいいかな……」

 表情のあまり変わらない顔で、ゆっくりと答える。

「アイスコーヒーは、いかがでしょう?」

「あぁ。そうだね。お願いしようかな」

「かしこまりました」

 彼は一礼し、アイスコーヒーを淹れはじめる。

 しばらく経つと客の目の前に、透き通った赤みがかった色をしたアイスコーヒーが出された。

「なんだこれは? 私は紅茶を頼んだ覚えはないぞ?」

 客は目の前に出された液体の色を見て、オーダーミスかと思っているようだ。

 オーナーは慣れているのか、落ち着いた動作で客に向き直り、ゆっくりと口を開く。

「これが当店のアイスコーヒーでございます。もしお口に合いませんでしたら、お代はいただきません。代わりのご注文を受け賜ります」

 客は、「本当か?」、と言い、アイスコーヒーかどうかを確かめるかのように口にする。すると、一瞬にして驚きの表情を顔に浮かべ、次ににやりと笑った。

「これは……ははは。素晴らしいアイスコーヒーだ」

「恐れ入ります」

「これはどうやって作っているのかな? こんなにも透き通ったアイスコーヒーは初めてだ」

「それは秘密でございます。しかし、ここにいらっしゃったら、いつでもこのアイスコーヒーと出会うことができますので」

 マスターはそう言うと、無表情だった表情に、小さな笑みを湛えた。どうやら彼なりに茶目っ気を出しているらしい。

「ははは。さっきはすまない。疑ってしまって」

「いつものことでございます。私にとっては挨拶のようなもの。お気になさらないでください」

「ありがとう。待ち合わせの時間をつぶすために入ったけど、掘り出し物だったようだ。とてもいい店だね」

「恐れ入ります」

「私も、昔は喫茶店で働いていてね」

「それはそれは……」

「そうだ。こんなに美味しいアイスコーヒーを淹れてもらったし、さっきの詫びと言ってはなんだが、聞いてくれないか。私の……喫茶店で働いていたときの話……後悔の話を」

 その口から言葉が紡が始めた。


 人の数だけ想いがある。

 人の数だけ物語がある。





 俺はあのとき、あんなにも簡単な決断が、どうして出来なかったのだろう―――



 道には人々が忙しそうに足早で歩き、車がその横を黒い息を吐きながら走ってゆく。まるで何かに追い立てられているように。すれ違う人々の顔は初めて見るもので、彼らの顔を見るたびに自分が一人ぼっちだと強く感じてしまう。街には高い建物が乱立し、空がとても小さくなっている。昔、誰かが言ったとおり、コンクリートと鉄で出来た森に一人でいる気分になる。

 ここはこの国の首都、ミルカイル。太古の昔には港として発達し、それでいてレンガ造りの建物が立ち並ぶ雰囲気のある街だったが、今では見る影もない。排気ガスとゴミの臭いが常に渦巻く場所に成り下がっている。


 俺はそんなミルカイルの中の小さなビルで働いていた。その一階の喫茶店で、バイトとして雇われている。

「おい。新入り。洗い物はとりあえずいいから、フロアのほうやってきてくれ」

 俺を呼びかけたのはオーナー、ベルクルトさんだ。この喫茶店の名前、ベルクルトカフェの名前は、オーナーの名前からとっている。

「はい、わかりました」

 ベルクルトカフェは、夜になるとバーに早変わりする。ベルクルトバーに形を変えるのだ。そんな営業形態が新規の客を掴みやすいのか、客の入りは上々だ。

 俺は言われるままに、フロアの机を布巾で拭ってゆく。戻ったあとで、指定の棚に置かれた食器類をベルクルトさんに渡した。

「もう終わったのか。じゃあとりあえず店の前に打ち水してこい」

「わかりました」

 言われたことを淡々とこなす。バイトである俺は、その日もそれ以上のことを考えずに仕事をする。金を稼ぐ手段としてバイトをしているわけで、それ以上は何も考える必要もない。言われたとおりにやるだけだ。

 打ち水をするべく、店の倉庫からホースを引っ張り出す。それを転がしてほぐし、片方を水道の蛇口へ。もう片方を左手に握ったまま蛇口をひねった。

「今回はいい具合に出たな」

 以前に、蛇口をひねりすぎて惨事を招いたことがある。通行人の足にわずかばかりの水がかかってしまったのだ。あのとき被害にあった会社員の剣幕はすごいものだった。クリーニング代を寄越せと、あたりかまわず怒鳴り散らした。それも法外な値段で。高いと指摘すると、店の前にあるメニュー表や植木鉢を蹴り飛ばし、やりたい放題をはじめた。

 ベルクルトさんがいなければ、どうなっていたかわからない。あの強面で助けに入ってくれなければ。ベルクルトさんに感謝だ。もうあんなことはこりごりだった。

 そんなことを考えながら、往来する人には二度と当てないように注意しながら水を撒く。


 道行く人たちは急ぎ足で通り過ぎてゆく。オフィス街の一角なのもあるのだろうが、皆スーツを着ている。この暑い中、長袖のワイシャツを着込み、スーツを手に持っているビジネスマンもいた。頭がおかしいんじゃないかと思う。

 だが、自分も数年後にはああいう大人になっているんだろうなと思うと、陰鬱な気持ちになった。

 働かなければ食べてゆけない。だから自分の好きなことで働こうと考える人は多いが、希望の職業に就ける人は、ほんの一握りだ。

 昼間にバイトをし、夜の学校に通っている俺には、その一握りに入れるはずもないだろう。

「時間がこのまま止まるのもありかな」

 そう、ありもしない妄想を思わずつぶやいたとき、視界の端に、スーツの色ではない白い服が映った。

 平日の昼間、どこかの大学生が来たのだろうと気にせず打ち水を続ける。

 だが、その白い服は店の前でうろうろしている。

 入るなら入れよ、とイライラしつつ、俺は顔を上げた。



 それが、今の俺の後悔の始まりだった。



 顔を上げるとそこには女の人がいた。

 背は女性の平均か少し低いくらいか。仕立てのいい白い帽子を被り、これもまた高そうなワンピースを着ている。

 打ち水を止めるのも忘れ、彼女を眺めてしまった。すると、つばの大きい帽子で隠れていた顔がゆっくりと現れた。するとそこには金の髪を長く伸ばし、その金髪に負けないくらいの輝きを持った緑の瞳があった。

 そのとき俺は、アホみたいな顔をしていただろう。口をあんぐり開けて、サーカスのピエロにも引けを取らない間抜け顔だ。その様子を見た彼女は、くすっと笑った。その笑顔がまた綺麗だった。俺の語彙力では表現できない美しさだった。

 笑われたことで急に恥ずかしくなった俺は、彼女に声をかけた。

「どうかされましたか?」

 彼女は困った顔をした。そしてすぐに顔をうつむけてしまった。

 呼びかけても何もしゃべってくれない。しばらく待つと、彼女は顔を上げた。その顔は何かを決意したような表情をしていた。

 真剣な、それでいた少し不安な表情のまま、彼女はのどに手を当ててから、バツマークを指で作った。

 そのジェスチャーでわかった。彼女は声が出ないのだと。慌てて俺は謝った。

「ごめんなさい! 気付かなくて!」

 すると彼女は困った顔をしながら柔らかな笑顔を向けてくれる。気にしていないよ、と言いたいのだろうか、顔の前で手を振る動作をしながら。

 俺は、しばらくどうするか躊躇したが、意を決して彼女に言った。

「もしかして、うちの喫茶店に入りたいの?」

 返事は何度も頷くとびきりの笑顔。笑顔を向けたのが俺だと思うと、とても幸せな気分になった。そのまま調子に乗ってしまった俺は、彼女を喫茶店へ案内することにした。蛇口を閉め、ホースを物置がある裏のほうへ片付けもせずにほっぽった。すぐに彼女を店の中へ促すために。

「じゃあ、こちらへどうぞ」

 そのままニコニコしながらついてくる。

 一番奥のカウンターに座らせ、メニューを渡した。

 彼女の細くて白い指がメニューを開き、中を真剣に読んでいる。そこまで真剣に読むものじゃないのに。

 カウンターの内側に移動し、残っていた洗い物を再開する。洗い物をしながら、彼女を見る。オーダーを待つ。なにせ彼女は話すことができないのだ。声でオーダーは無理なのだ。

 しばらくじーっと、メニューとにらめっこしていた彼女にしびれを切らした俺は、メニューを聞く。

「お決まりになりましたか?」

 すると彼女は困った顔で首をひねった。

「とりあえずアイスコーヒーなんかどうです?」

 また彼女の笑顔が翻った。そのときすでに俺は、彼女の笑顔にやられてしまったのだろう。

「えっと、お腹減ってませんか? 何か召し上がりますか?」

 彼女が頷く。

「甘いものがいいですか? それとも軽いものがいいですか?」

 彼女は少し困った。そこで気付く。俺が彼女の意思としてわかる行動は、首を縦に振るか、横に振るかだ。

 あらためてゆっくり言ってみる。

「甘いもの?」

 すると彼女はすかさず首を横に振る。

「軽いもの?」

 すぐさま首を縦に振る。そんなに急いで返事しなくてもいいのに。

 その様子がとてもかわいくて、俺も思わず顔がほころんだ。

「承りました。少々お待ちを」

 彼女は頷き、メニューを元に戻した。

 さっそく俺はオーダーをするべく、ベルクルトさんに顔を向ける。するとベルクルトさんは俺が言う前に低い声で言った。

「アイスコーヒーと、ベルクルト『ストロング』サンドな」

「いいえ、ベルクルト『ライト』サンドで」

 後半を修正する。

 ベルクルトサンドはこのカフェの名物だ。暖かい特製パンに、みずみずしいレタスとトマト、肉汁たっぷりのチキンを特製ソースで挟んだものだ。一口食べると、後は誰もが勢いのまま胃袋に収めてしまうほどのものだ。

 ベルクルトサンドには、ストロング、へヴィ、ミドル、ライト、と四種類ある。ライトが普通サイズで小腹が空いたときに丁度いい。ミドルは昼飯代わりになる大きさ。へヴィはそれよりもちょっとだけ大きい。

 そして、残るストロングサンドは、大の大人でも、それどころか、大食いの人でも平らげるには大変な大きさだ。

 ベルクルトストロングサンドなんて彼女に出したら引かれる。間違いなく。

「なんだよ。年長者がかわいい女の子との会話の種を提供しようってのに」

「いいんですよ! ってか勘違いしないでください! 彼女はお客さんですよ」

 ボリュームを下げて反論する。口を動かしながらも、俺はアイスコーヒーを作る。その間にぶちぶち言っているベルクルトさんはベルクルトライトサンドを作っている。もちろん、俺がジト目で監視してたからこそベルクルトライトサンドなのだ。放っておいたら間違いなくストロングになる。

 俺はオーダーを作りながら、彼女が気になってちらりと見た。

 すると彼女は、カウンターのほうに体を向かせず、店の中をキョロキョロと見回している。まるですべてのものが珍しいものだと言わんばかりに。

 彼女のその姿はとてもかわいらしいもので、ずっと見ていたい気分になった。だが、その幸せなひとときをぶち壊す声が横からかかる。

「アイスコーヒー、ベルクルトライトサンド持っていけ。俺が出さないだけやさしいと思え、新入り」

「新入りなんて名前じゃないっすよ、もう」

 何度目かもわからない抗議の声を上げながら、ベルクルトさんからトレイを受け取る。そうしてカウンターから彼女を見据えて声をかける。俺の顔は真っ赤になっているんだろうな。

「あの……お待ちどうさま」

 彼女は気付いて体をこちらに戻した。心なしか顔が赤い。キョロキョロ見回しいたことを恥ずかしかったのかな。

「こぼさないように気をつけて」

 カウンターへ身を乗り出し、彼女にトレイごと渡そうとする。だが、彼女は見ているだけ。机に置かれるのを待っているのか。

 カウンターの内側からは意外と距離があって、ここからでは静かに置くことが出来ない。

 宙に注文を浮かべていた俺は、そろそろ体がきつくなってきた。いつ気づいて持っていってくれるんだろうと。

 腕が震え始めたところで、俺の限界が来た。

「は、早く持って! 持って!」

 ここの喫茶店は大衆喫茶店だ。高級フランス料理みたく、フォークを落としても拾うのは店員なんてことはない。助け合いの精神が大切なのだ。

 つまり、それを彼女に要求した俺はアホだっただけの話だ。

「持って! 落ちる! やばいやばい! 限界!」

 そう言うと、それまでニコニコとしていた彼女は、あわててトレイを持って自分の机へ置いた。

「あぶねぇ。ここは高級料理店じゃないからね」

 そう冗談めかして言うと、彼女は急に小さくなったように見えた。今の一言を冗談と取っていないようで、怒られたと思ったようだ。

 あわてて俺は、彼女に弁解する。

「あぁ。いや、いいんだ。気にしないで。ほら、誰でもぼーっとしてることとかあるし! あ! いや! 気付かなかった俺が悪いんだ。ごめん!」

 そう焦って言うと、彼女はこちらを見上げ、一瞬びっくりした顔をした。しかし次には笑顔を向けてくれた。どうにかなったようだ。

「俺は仕事があるから。何かあったら言ってね」

 彼女は笑顔で頷いた。

 その返事を見届けると、仕事を再開した。洗い物をしながら彼女の様子を覗う。

 出されたコーヒーを見つめ、そしてコップを持ち上げて口をつける。軽く口の中で転がした後、驚いた顔をする。

 口に合わなかったのかとも思ったがそうでもないようだ。ただ単に驚いただけ。

 そんなにおかしなものでもないだろうになぁ。

 トレイにコーヒーを置くと、隣の、店自慢のベルクルトライトサンドを見つめる。トレイの中で視線をさまよわせる。何かが足りないのだろうか。俺はトレイの中を確認した。だが、いつもどおりきちんと出ている。

 なんだろう。

 その後、彼女は周りをきょろきょろとしはじめた。そして、窓際のテーブル席に座っていた、禿頭の中年のサラリーマンを凝視しはじめた。ベルクルトストロングサンドを美味しそうに頬張っているその姿を真剣に観察している。

 しばらく経つと、彼女は目の前に置かれたベルクルトライトサンドに向き直った。そして、意を決したように、顔の前で両手でガッツポーズを取ると、ベルクルトライトサンドを小さな手で掴みあげた。

 さっきの動きは、フォークとナイフを探していたのか。

 俺がそのことに気付いたのと同時に、彼女はベルクルトライトサンドに、一気にかぶりついた。小さな口にあらん限りの勢いをつけて。

 くちいっぱいにサンドをほおばり、もぐもぐと咀嚼しはじめる。その様子は何かの小動物のようで、とてもかわいいものだった。

 もぐもぐしている彼女の目はうれしそうだ。その顔は、もぐもぐ笑顔になっている。この笑顔は、俺がそう命名した。

 かわいいなぁ。

 仕事の手を休めて彼女を見入っていると、彼女は俺が見ていることに気付いた。目が合うと、ぴくっとして動きを止めてしまう。すぐに顔を真っ赤にしてしまう。

 これはまずい雰囲気だと思った俺は、彼女を安心させるために口を開いた。

「いい食べっぷりですよ。とても素敵です」

 自分ではとびきりだと思う笑顔を向けて。決まったはずだ。俺の渾身の誉め言葉だ。

 カウンターの端でベルクルトさんが「女の子に言うセリフじゃネェし」と、小さくつぶやいていた。あえて無視しようとしたが、よく考えると一理あった。

 あわてて自らをフォローしようと口を開こうとしたとき、彼女の表情が変わった。

 照れたような顔をして、小さく頷くとふたたびサンドをかぶりついた。まだ口の中に詰まっているのに。

 案の定、彼女のもぐもぐが止まり、苦しそうな顔をし始める。

 それを見た俺はあわててカウンターを出て、彼女の隣の席に行って背中をさすってやる。

 コーヒーを持ち上げ、彼女に飲むように促す。

 彼女はブラックのままのコーヒーを、俺が持っているのを受け取らず、口から迎えに行って慌てて飲んだ。両手がふさがっていたので咄嗟の行動だ。

 すると彼女は再び驚いた顔をこちらに向けて、顔を赤くして、あわてて顔をそらした。飲み物を赤の他人に飲ませてもらうことなんて、人生でそうそう起こらないからね。

 慌ててベルクルトライトサンドを皿に戻すと、俺の手からコーヒーの入ったグラスを受け取り、またすぐさま飲み込む努力を始める。

 一連の動きは、もうパニック状態と言っても差し支えない。俺はあわてていたが、それと同時に、背中をさすりながら、彼女のその行動を見ているのがとても楽しいと感じてしまった。

 しばらくするとどうにか飲み込み、息を整えている。その目は少し涙目になっている。

「ほら、急いで食べるから。ゆっくり食べるんだよ」

 照れた顔で俺のほうを見て、彼女は頷いた。

 口の周りに食べこぼしをつけたままにこにこしている。

 あきれた俺は口を拭く紙を取り、彼女の口の周りをぬぐってやる。彼女は一瞬驚いていたが、この日、最高の笑顔をくれた。

「ったく。なにやってんだか。店で乳くりあってんじゃねぇよ」

 ベルクルトさんが遠くでつぶやく声が聞こえる。それは彼女にも聞こえたのか、また顔を赤くして下を向いてしまう。

「ベルクルトさん。下品です。ったく……。ごめん、とっさだったし……」

 口ごもる俺に彼女は、問題ないというふうに顔を横に振った。

「下品もくそもねぇって。まぁ、いいわ。バイトと学校にしか興味がねぇようなお前にも花があったってわけだ。今日はお嬢さんの相手をしてやれ」

 驚きの一言が出た。人をこき使うばかりのオーナーの言葉とは思えなかった。

「えっ。でも」

「でももクソもねぇ」

「だから下品です。本当に飲食店のオーナーですか? いいですよ、仕事ありますし」

 立ち上がろうとすると、エプロンをひっぱる感触がした。見ると彼女がエプロンの端を掴んでいる。

「ほらみろ。俺が正しい。なっ、お嬢ちゃん」

 すると笑顔でベルクルトさんへ向けて笑顔で首を縦に振る。なぜかとても悔しい。

「わかりました。じゃあ後のことお願いしますよ。今日のバイト代天引きとかしないでくださいよ」

「そんなちっちぇ男じゃねぇよ、俺は。わかったらとっととエプロンしまってこい」

「はいはい」

「はい、だろ」

「うい」

 肩を竦めながら俺は立ち上がった。彼女はくすくすと笑っている。

 俺は彼女の魅力の虜になってしまったようだ。くるくる変わる表情、かわいらしい仕草。もっと見ていたいという気持ちでいっぱいだ。

 エプロンをカウンター裏の部屋へ放り込むと、急いで彼女の横へ向かった。

「オーナー、俺もツケでアイスコーヒー」

「ったく。あまり付け上がるんじゃねぇよ」

「へいへい。ツケは却下します」

 カウンターにアイスコーヒー代を払う。先に払うのがベルクルトカフェのシステムだ。

そこで俺は気付いた。彼女はまだ支払いをしていなかったことに気がついた。

「あぁ、お代は……」

 それを聞いた彼女は、慌ててハンドバッグから直に金色のカードを取り出した。金色だ。見たこともない色のカードだ。

「あ、うちはカードは無理なんだ……」

 そういうと彼女はとても困った顔をした。どうやら現金を持っていないらしい。

「ま、まぁツケにしとくから、今日はいいよ」

 ほっとした顔で、安心してくれたのがわかった。だが、もう一人、それを聞いてたお邪魔虫が納得しなかった。

「バカ野郎。そういうときはおごってやるもんだ。有無は言わせネェ。バイト代から引くからな。彼女に払わせても返さねぇ」

 そもそもカード会社に手数料を払うのが嫌だからって現金オンリーにしているオーナーが悪いのに。

 でも、ベルクルトさんの言うことももっともだと思い、俺はそれに同意する。今日だけならばいいだろう。

 だが、彼女はそれに焦った顔をして顔をふるふると振る。

 ここは俺が払うから、となだめても顔を振るのを止めない。今どき珍しい女の子だ。巷ではおごってもらって当たり前と思っている女性が多いというのに。

「じゃあ、またこの店に来てくれないか。その約束の代金ってことにしよう」

 そう言うと彼女は、納得していない顔だが、頷いてくれた。

 ころころ変わる表情。

 女の子らしい、かわいい仕草。

 だが、俺はことさら彼女の笑顔に惹かれていた。



 俺はその日から、彼女に恋をしてしまったんだ。





「それから俺は、イロイロなことを話したよ。そこの喫茶店のこと。ベルクルトさんのこと。自分のこと。貧乏だったから働きながら学校へ行っていたこと。古い友達のこと……」

 男はアイスコーヒーをゆっくり飲みながら、話を続ける。

「さようでございますか」

「あぁ……っと、待った」

 そう言うと、ポケットから携帯端末を出してなにやらメールを打つ。そしてすぐさましまうとマスターに向き直った。

「ごめんごめん。それで、どこまで話たかな?」

「たくさん話をしたところでございます」

「あぁ、そうそう。たくさん話した。彼女のことも聞いたんだ。家族のことは言いたがらなかったけど、好きなこと、好きな食べ物、いろいろとね」

「それはそれは。かなりの時間、話をされていたのですね」

「いや、うちの喫茶店は夜にバーになったからね。彼女は1時間くらいいてから帰っていった」

「では……」

「そう。それから彼女は毎日来てね。いつもの時間、いつもの席で会って話した。彼女から手話を習ったりもしたよ。気付いたら、あそこで彼女と過ごすためだけに、俺はバイトを続けてたようなもんだった」

 グラスの口をなぞりながら話を続ける。

「遊びに行こうかと誘ったが、彼女はあの時間にしか来られないと言っていた。だから、あの場所が彼女と会える唯一の場所だったんだ」

 男はアイスコーヒーの残りを最後まで飲み干した。

「お客様、おかわりは?」

「あぁ。よろしく頼むよ。さっきはブラックで飲んだからね。次はいつもどおりにするよ」

「かしこまりました」

 マスターはグラスを受け取ると、新たなグラスにアイスコーヒーを淹れはじめた。

「ブラックと言っても、ぜんぜん苦味が気にならない。本当に美味しいアイスコーヒーだ」

「恐れ入ります」

 いつもの顔でマスターはそう返した。

 しばらく男は窓外の海を見つめる。遠くに聞こえる波の音が、空間を支配する。

 すると、男はつぶやくように言った。

「でもね」

 グラスの汗でコースターに出来た水の輪を見つめて、男が話を続けた。


「そんな幸せな日々も続かなかったんだ」




 ガラスが割れるのと、椅子が倒れる音が同時に店に響いた。

 俺には何が起こったのか一瞬わからなかった。

 今日もいつもどおり、彼女といつもの場所で話をしている最中だった。

 その幸せなひとときが一瞬にして違うものへと変わる。

 視線を慌てて移すと、彼女が頬を押さえて床でうずくまっている。

「だ、大丈夫!?」

 俺は慌てて彼女に駆け寄り、彼女をゆっくりと起こしてあげる。

 はじかれたアイスコーヒーの入っていたグラスは砕け散り、中身がぶちまけられている。割れたガラスで怪我をしていないか確かめる。

 どうやら頬を打たれただけのようで、他の外傷はとりあえず無いようだった。安心したのも束の間、俺は彼女をこんなにしたヤツに激しい怒りを覚えた。

 振り向きざまに、俺は怒鳴った。

「なんてことするんだ!」

 そこにいたのはスーツをピシッと着こなしたビジネスマンだった。金の髪をオールバックに撫でつけている。仕事に生きている男の顔だ。

 その目は俺を見もすらしない。倒れた彼女にしか向いていなかった。

「なんとか言ったらどうだ!」

 彼女を置いて飛び掛ろうとした俺を、左腕をつかんで彼女は必死に止めた。

「なんでだよ!」

 そう言うと、彼女は俺が覚えたばかりの手話を使って説明した。

(あの人は、私の、父です)

 それが終わるかどうかのとき、父親だという男が口を開いた。

「こんなところでお前は何をやっている。とっとと家に帰れ。婚約が決まってから、毎日どこかへ行っていると聞いてみれば、こんな汚い場末の喫茶店とはな」

「汚いとはなんだ!」

 見た目は古いが、毎日磨いて清潔を保っているのだ。汚いと言われるのは心外だ。

 だが、それよりなにより、俺と彼女の出会った場所を侮辱するなんて、彼女の父親であろうがなんだろうが許せない。

「とっとと起きろ。家に帰れ」

 俺の言葉を無視、というより初めから無いものとして話を進める父親。もう黙っていられないと、飛び掛ろうとするが、やっぱり彼女が腕を放してくれない。

「どうしてなんだよ」

 父親はそんな様子を歯牙にもかけず、彼女の腕を掴み強引に彼女を連れてゆこうとする。

 俺は必死に彼女の腕を取ろうとするが、彼女自身が腕をひっこめてそれをさせないようにした。

 その顔はすでに涙を流し、顔を横に振っていた。いつの間に泣いたのだろう。声を上げずに泣いている。

「待てって!」

 俺の呼びかけも無視して、父親がベルクルトさんの前を通ろうとした。そのとき、ベルクルトさんが静かに、だが有無を言わさない口調で父親に呼びかけた。

「なぁ。あんた。レヴィア・ノアーズ・カンパニーの社長だろう」

 そこで初めて父親が動きを止めた。

「そのとおりだ。なんだね? 君は」

「俺ァ、この小汚ぇ場末の喫茶店の店長様だ。あんた、タダで帰ろうってんじゃねぇだろうな」

「ふんっ。こいつの代金か。それなら後で部下に届けさせる」

 そう言って店を出ようとするが、ベルクルトさんがそうはさせない。

「天下のレヴィア・ノアーズ・カンパニーの社長が、うちの備品をぶち壊し、それでいて、うちの店員の制止を振り切って代金も払わず出て行くとはな。社長ってのは、強盗が仕事なのか?」

「それを含めて部下に届けさせよう」

 だが、その言い方が気に障ったのか、ベルクルトさんの堪忍袋の緒が切れた。

「てめぇのケツくらいてめぇで拭け! ツケなんか許さねぇって言ってんだよ!」

 しばし睨み合いが続いた後、父親のほうが折れたようだ。時間の無駄とばかりにスーツの内ポケットから札を何枚か抜き取り、カウンターの内側へ叩きつけるように放った。

「これでいいだろう! さぁ、行くぞ!」

 そして、そのまま店の外へ足早で行ってしまった。ベルクルトさんもそれ以上は何も言わない。

 俺は慌てて彼女の後を追った。今度は止めるものもいない。黒塗りの車が遠くに見えたが、関係ない。俺は父親の襟首をつかみ、怒鳴りつけた。

「あんた! 泣いてる娘を無理矢理引っ張っていってなにがしたいんだ!」

 すると父親はめんどくさそうに、彼女に視線を移しながら答えた。

「この娘の結婚が間近なのだ。せっかく私が相手を探してやったというのに。口が聞けなくて役にたたん娘が、今やっと役に立つのだ。こいつにとっていいことなのだ」

 そう言って俺に視線を合わせて、言い放つ。

「お前には関係ないことだ」

「関係大アリなんだよ! 彼女嫌がってるじゃないか! なんで彼女がここに来ているかわかんないのか。父親のくせに!」

「ふん。暇つぶしだろう。どきたまえ」

「どかないね。彼女を放すまでは」

 そう言って、彼女の腕をつかんだ。そしてそのまま引っ張ろうとして、またもや彼女の腕に振り払われてしまった。

「なんでだよ……?」

 俺は呆然として彼女を見つめた。彼女は首を振り、手話をする。

(この人に、逆らう、だめ)

「何をしている。行くぞ」

 父親が彼女を引っ張ってゆく。父親は手話がわからないようだった。そんな父親なのだ。娘を大切にしないやつなのだ。決まった時間にしか来れなかったということは、抜け出せる時間がそのときだけだったのだ。話ができないという理由で軟禁でもしていたのかもしれない。

 くだらない。

 世間体というやつで彼女を。

 くだらない。

 大の大人がやることじゃない。

 くだらない。

 こんなやつに彼女を持ってゆかれるわけにはいかない。

 そう思って俺は一歩を踏み出した。

 だが、俺は拒否された理由、彼女の言う意味を考えてしまった。父親は大企業の社長。彼が腕をちょっとひねれば、俺やベルクルトさんの将来は蟻を踏み潰すように奪われるだろう。


 そんなことを考えてしまい、俺は一瞬、躊躇して、立ち止まってしまった。


 その一瞬が命取りだった。俺は黒服の男たちに足を払われ、一気にうつぶせにさせられてしまった。

 どんなにもがいても、黒服の男たちは容赦なく地面に押さえつけてくる。起き上がろうと力を入れるが、とても太刀打ちできるものではなかった。

 頭を押さえつける手だけをなんとか跳ね除け、顔を必死に上げて彼女の名を呼ぶ。

 だが、父親と彼女は目の前で車に乗り込んでしまった。

 乗り込んだ後部座席の窓に映る彼女の顔には、たくさんの涙が流れていた。

 俺は力の限り叫んだ。

 ドア越しの彼女に聞こえるように。

 ひたすら彼女の名を。

 車が見えなくなった後も。



「あの一瞬。あの一瞬の躊躇が、俺の人生最大の後悔なんだ」

 それを静かに、目を伏せがちに聞くマスター。

 沈黙が流れる。遠くから聞こえてくるかすかな波と、マスターが磨くグラスの音だけが静かに店を通り抜ける。

 しばらくして、ゆっくりとマスターが口を開いた。

「さようでございましたか」

「あぁ。あのとき俺は、自分がすごく情けなくて、弱い男だと思った。富という力に一瞬でも屈してしまったからね」

 男は、今度はミルクと専用の黒糖を入れたアイスコーヒーで喉を潤す。

「でもね――――」




 俺は男たちが彼女をさらって行った後、しばらくその場にいたが、ベルクルトカフェに戻った。

「おい。新入り。裏で傷を消毒しておけ」

 他の客たちの注目を浴びながら、俺は言われたとおりカウンター裏の部屋へ行った。

 だが、あまりのことに消毒どころじゃなかった。心の奥底から湧き上がるくやしさが体を動かすことを拒否した。

「ちくしょう」

 俺は好きになった女を守れもしない、ちっぽけなやつだった。力いっぱいエプロンを壁に投げつけた。これくらいしか力を持たない小僧なのだ。

「ちくしょう! 俺は! 俺は……」

 考えたくない。明日から彼女は来ない。あの幸せな時間は訪れない。そう思うと涙がこぼれてきた。なんてなさけない男なんだ。

 エプロンを投げつけた音に気付いたのか、ベルクルトさんが裏部屋に来た。

「おい。静かにしろよ」

「……」

 答えるのもおっくうだ。

 静かにしてほしい。そう、思った瞬間、右頬に石が激突した衝撃があった。いや、ベルクルトさんの拳だ。

「バカヤロウ! なにめそめそしてやがるんだ!」

「でも……」

「でももクソもねぇ!」

「オーナー! 俺は! 俺は彼女を守れなかった! それも、彼女に助けてもらってさえいたんだ! 俺は、俺は、こんな俺は――――」

 カッとなった俺は言い返した。

 だが、それにベルクルトさんは再び拳を叩きつけてきたことで答えた。巨体から繰り出されたパンチは、俺を軽々と吹き飛ばした。

「それがバカヤロウだって言ってんだ! んなことはもうどうでもいいんだ! 相手が色々な意味で強かった。お前はそれに為す術が無かった。それだけだ」

「だから……だから彼女はもう、来ない」

「ったくこれだから。いいか。相手はレヴィア・ノアーズ・カンパニーの社長。ここらのレストランチェーンの大元だ。他にも色々と事業展開している。てめぇみたいに金がなくて安い給金でこきつかわれて、やっとこさ学校行ってるような貧乏人に勝ち目はねぇよ」

 俺は黙って聞いていた。もう絶望的だ。

「諦めるか?」

 なにを言ってんだ、と俺は思った。諦めるも何も、何もできない俺にはその選択肢しか残っていないじゃないか。

「まぁ、諦めるのも勝手だが、俺様がいいネタを披露してやろう」

「ネタ?」

 得意げな顔がムカつくけど、気になるので先を待った。

「そうだ。さっき、常連の一人が言ってたよ。あそこの社長、娘を政略結婚に使うらしいな。相手は政治家の息子さ。サラブレッドってやつだ。たぶん、その相手になるんだな、あのお嬢さんは」

「政略……?」

「今どきなにやってんだって話だがな。たぶん、前に新聞に出てたアレだな。今をときめくレヴィア・ノアーズ・カンパニーの社長、それと政治家の息子。話題になったんだな。俺の私見だがな、息子とやらは見た目がいいから騒がれているらしいが、女癖が悪いって感じだ。どうせしゃべれない女には飽きてポイッ。もしくは飼い殺しってところか」

 俺の心が落ち着きを取り戻す前に、したり顔で彼女の未来を語られたらまともでいられるはずはなかった。雇い主であるベルクルトさんをにらみつけた。

「そんな話があるか!」

 俺の言葉に、ベルクルトさんは強面の顔をほころばせた。

「そうだな。ふざけるな、だ。結婚の日と場所は新聞に出てた。すげぇな。明日だとよ」

「明日……」

「そうだ。店のトラックの油は満タンで、使う予定もなかったな。俺は店離れられない」

「じゃあ!」

「だがな、奪い返して彼女と一緒に生きてゆく覚悟はお前にあるのか? 相手は社長の娘。当然駆け落ちって形だ。お前がどこかで働いていたら、両家は全力で潰してくるぞ?」

「俺は……もう、こんな気持ちになるのは……ごめんです」

 それを聞くとベルクルトさんがため息をついた。だが、顔はほころんだままだ。お世辞にもいい男とは言えない、ごつい顔で。

「今は心が揺らいでいる。急に起こったことだからな。今日は帰れ。一日頭冷やせ。それで自分で決めろ。お嬢さんと一生、一緒に生きてゆく覚悟が出来たなら――」

 一息にベルクルトさんは言うと、カウンターへ向き直った。

 俺のほうに背を向けたまま、低く、そして響く声で言った。 

「――勝手に持ってゆけ」




 俺は今、結婚式が行われるという建物の前にいる。最近流行の、ガーデンウェディングとやらだろう。チャペルではない、普段はレストランになっている場所だ。庶民派を印象付けようという考えなのだろうか、一般の人間でも使われている場所だ。

 俺は古い軽トラックの運転席から、会場を見た。会場の正面入り口はマスコミでいっぱいだった。カメラを構える人間で混み合う入り口の先に、大きな扉がある。どうやらあそこの奥が即席のチャペルらしい。

 チャンスは一度だけだ。正面に陣取ったこの軽トラックの屋根に上り、彼女を呼びとめる。それしかない。

 今は朝早い。

 とにかく待つ。

 路上に止めている軽トラックに注がれる人々の冷たい視線は無視する。

 ただ、彼女の顔を思い浮かべながら。

 彼女の笑顔を取り戻すため。

 今でも怖い。自分がこれからやることを考えると、両足が震えてきた。

 だが、その恐怖は彼女の笑顔を思い出すことで振り払う。

 常識知らずのお嬢さん。初めて飲む安いコーヒーに驚いた彼女。

 口がきけないからなのか、相手のことをとてもよく考える女の子。そんなに気を遣わなくてもいいのに。

 映画の俳優の話をすると、目を輝かせて聞いてくれた。俳優にちょっと嫉妬してしまった。

 俺のつまらない冗談を笑ってくれた。彼女の服を褒めたら、顔を真っ赤にして照れて見せてくれた。

 楽しかったあの日々。

 今、彼女とのあの日々を取り戻せるのは俺だけだ。



 どれくらい時間が経っただろう。

 会場の様子を覗った。すると、マスコミの面々がカメラを持って三脚の上に上り始めるところだった。

 俺は急いで軽トラックの屋根によじ登った。

 周りで俺の行動をとがめる者はいない。やりすぎな野次馬としか見ていないだろう。

 屋根の上で立ち上がると、白い人影が遠くに見えた。

 それと同時に辺りから歓声が上がった。野次馬とマスコミは感嘆の声を漏らす。祝福の声も。観客の視線はマスコミの向こう。

 彼女だ。

 白いウェディングドレスを着て、やや下を向きながら歩いている。ドレスの裾を小さな子供に持ってもらいながら、ゆっくりと歩いている。

 ライトや特殊なことをしていないのに、彼女は輝いて見えるほどの美しい姿だった。

 ヴェールの下の彼女の顔には化粧がされていた。いつも会うときにしていた薄化粧とは違う、彼女の心を覆い隠すかのような濃い化粧だった。それはそれで美しい姿だったが、悲しそうな姿の彼女は……本来の彼女ではない。

 やっぱり、彼女は笑った顔が一番いい。

 金の細い髪をひらめかせ、緑の瞳をきらきら輝かせながら、太陽のような笑顔をする彼女が世界で一番魅力的だ。

 うつむいて歩く彼女は、これからあの世で審判を受けに行くみたいだ。

 俺は彼女に気付いてもらうために、声を出さず手を大きく振る。声を出しても、この歓声の中では埋もれてしまうし、何より彼女には意味がない。

 力いっぱい大きく手を振る。

 マスコミが一斉にシャッターを押す。フラッシュの光が辺りを踊る。

 その光に驚いたのか、彼女は歩を止めてマスコミのほうを見た。

 そして、俺はここぞとばかりに大きく跳ねる。着ていた上着を急いで脱いで、大きく振った。

 彼女の顔がこちらを向いた。

 彼女は驚きのあまり、目を大きく開いた。

 よし! 向いた!

 彼女がこちらを向いた瞬間、俺は覚えていた手話をした。

(来て。こっちに。行こう)

 覚えたての手話は、彼女にとっては片言の言葉に見えたはずだが、そんなことはかまわない。

 返事が来るまで、同じ、覚えたての手話を、何度も繰り返した。

 しかし、その答えは首を振ることで返された。

 驚きと、恐怖が心を支配した。だが、俺は諦めない。

(大丈夫。信じる。一生。守る。信じる。俺)

 すると、彼女は目に涙を浮かべ、白い手袋をした手で口元を覆った。

 周りは何事かとざわつき始めた。

 俺はそんなことに目もくれず、彼女を見つめる。

 返事を見逃さぬように。

 まばたきをすることを、俺は俺に許さなかった。

 しばらく見つめ合った。

 俺は一生で一番長い一分間だと思った。

 そして、一分過ぎようとしたとき、彼女は両手でドレスを持ち上げた。

 俺のほうをみて、今度はしっかりと頷いた。

「わかった!」

 声を出したと同時に入り口へ走って行った。野次馬の間をすり抜け、マスコミをかき分けた。

 すると、急に開けた場所に出た。


 転びそうになって下を向いていた俺は、すぐに顔を上げた。

 彼女がそこにいた。

 初めて出会ったときの、太陽のような笑顔を向けて。

 手を差し出すと、彼女は俺の手をしっかり握った。

 あとは、振り返らず、元来た道を走った。彼女を引っ張って。

 ギャラリーが何か言っていたが、そんなことは知ったことじゃない。


 俺の世界には、しっかりと握り返してくる手と、その手から伝わってくる暖かいぬくもりがすべてだった。




 

 チリンチリン――――


 男が続きを言おうとしたところ、喫茶店の入り口のドアベルが鳴った。

 開いたドアから女性が入ってくる。白のワンピースに帽子。金色の髪を下ろしているその姿は、男が語った物語に出てきた『彼女』そのものだ。

 だが、そのときと違い、彼女の手を取っている存在がいた。小さな女の子だ。

 女の子は男の姿を見ると、笑顔で駆け寄った。

「お父さん!」

 そう言うと、男の足を器用に上って膝に収まった。

「はは。この子は俺の娘なんだ」

 男は入り口に立つ女性を振り仰いで言った。

「それで、あの人が、そのときの彼女だ」

 それを聞くと、マスターはゆっくりと頷いた。

「いらっしゃいませ、お好きな席にお座りください」

 いつものようにマスターは言った。すると、彼女は軽く会釈をし、男の横に座った。

 座ったのを見届けた男はマスターに向き直る。

「彼女にもアイスコーヒーを。それとこの子にオレンジジュースか何かあるかな?」

「かしこまりました」

 彼女は軽く頷いた。

 マスターはそれを見届けると、いつもどおりにオーダーの準備をする。

 その姿を見ながら男が続ける。

「まぁ、あの後、大変でね。しばらくは二人でベルクルトさんの店で働いていたんだが、ベルクルトさんがキレててね。カウンターにお金を投げつけられたことを根に持ってたんだろうなぁ。あの社長を見返すとか言って、事業初めてしまってね」

 ひざの上に乗った女の子の頭を撫でながら、上機嫌に話をする。

「それが大当たり! 彼は今や、ベルクルトサンドウィッチーズの会長さ。俺も重役なんてものになってしまったよ。対してレヴィア・ノアーズ・カンパニーの方はあの後、粉飾決算とかなんだかが出てきて。労働者の使い方も良くなかったらしくて、評判ガタ落ち。今はどこかの小さな子会社さ」

 それを聞いたマスターは、驚いたように口を開いた。

「もしや、その方はベルクルト・アドリアーノ様でございますか?」

 逆に男のほうも驚いた顔で聞き返した。

「あ、あぁ。よく知っているね」

「うちに時々、復刻版ベルクルトサンドを卸しに来てくださる方で、同時にうちのカフェの常連様でございますよ」

 そう言うと、表情があまり変わらないマスターは笑顔になった。

「そうだったのか。今から久々にベルクルトさんと食事に行くために、ハーニエーラまで来たけれども、こんな出会いがあるなんて正直驚いた。ベルクルトさんも隠れて何やってたんだか」

 驚く男の横で、彼女も驚いた顔をしていた。

 そんな二人を見てから、マスターは口を開いた。

「ベルクルト様にお伝えください。勝手にツケにされた分、早く現金でお払いになられますよう」

 男は声を上げて笑い、彼女も楽しそうに微笑んだ。





 人の数だけ想いがある。

 人の数だけ物語がある。

 ここはハーニエーラ。

 訪れる者をやさしく包み込む街。

この小説はフィクションです。

実在の人物や団体などとは関係ありません。

登場する人物や舞台などは他作品とは関係ありません。

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