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9 この坂がなかったら

 この世には不思議な力を持っている人間がいる。力を利用していたり、見ないふりをしていたり。それぞれ生きづらさを抱え込んで、自分の力を秘密にして生きている。みんな口を閉ざして秘密にしているものだから、実はこの力がありきたりなものだなんて誰も知らない。どこを見ているかもわからずに、誰しもまっすぐに目の前の道しか見ることができないのだ。


 けれども残念なことに、僕はほんの少しだけ振り返ることができる。みんな必死で足元をもたつかせて、前に進むことに必死なのに、僕だけは彼らの姿を見渡すことができる。それは別に大して面白くもないクソみたいな力であって、なくしてしまうことができるのならさっさとなくしてしまいたいくらいだ。


 だから僕と同じように力に振り回されている人間を見ると、憐憫のような感情は抱くが、所詮は他人だ。僕ができることといえば、自分と、両手を伸ばしたちょっとくらいの面倒を見ることがせいぜいだから、彼らの“声”が聞こえたところで、アア、そうかい、おつかれさんと長い前髪の向こう側で見ないふりをするしかない。


 少し説明が過ぎたので、簡単に言葉をまとめると、僕は昔から『他人の心の声が聞こえる』。誇張でもなんでもなく、本当にそうだ。話す言葉とは別の、奇妙な音のような“声”がいつでも流れ込んでくる。


 ――だから自分の力が稀有なことでも、なんでもないことを僕はよく知っている。




 ***ケース2 【土屋岳人】






 ざあざあと雨のように花の雪が降っていた。桜吹雪、とはうまいことを言ったものだとズボンのポケットの中に手を入れながら感心して坂を見上げた。


 入学後の四月の桜なんて、大体散っているものなのにほんの少しの異常気象と、いつもよりもわずかに早い日程の入学時期だったという二つの組み合わせのお陰でざうざう、ぞうぞう、ざあざあと強い風が吹く度に坂の上にはピンクの花弁が降り積もっていた。


 高校生活は始まったばかりだ。横掛けの鞄は真新しく、まだ背が伸びることを懸念された母親からは制服は一つサイズが大きいものを買うことを命じられたが、さすがにもう伸びないことを願いたい。


 そしてまだ数日しか通っていない道のりだが、校舎までの距離を考えると自然と眉間にシワが寄る。まるで山の斜面にでも建っているような、どうしてこんなところに建てたんだと多分大半の生徒達が在学中に一度は思うような場所に高校はそびえ立っていた。


 家から一番近い高校を選んだつもりで、面倒くさがって立地を調べなかったことが裏目に出た。入学試験の日、僕は呆然として高校までの道のりを見上げた。信じられないような急斜面の坂の名前は染井坂と言うらしいが、そんなものはどうでもいい。


 少し登って、ため息をついて額を押さえて頭を下げて、それから顔を上げた。ざあざあ、と狂ったように吹き荒れる風の中で雨粒のように大量の桜が目の前の視界を染め上げていく。


「…………」


 何か、言葉にもならない感情が胸の内を通り過ぎた。ぴたりと足を止めて、薄く息を吐き出す。そのときだ。


『毎朝この場所が辛いんだよな』


 聞こえた声に顔を動かさないようにそっと顔を伏せたまま視線のみを移動する。前髪の隙間からあくびをしつつ進んでいく男子生徒の姿が見えた。新入生にしては制服が着慣れているから上級生だろう。


『この坂がなかったら、もっと寝てられるのに……』


 今度は女生徒だ。さきほどの上級生ほどわかりやすい仕草はないが、無表情に両手に鞄を持って進んでいく。


「…………」


 考えるのは在学中に一度どころではないんだな、と先ほどの自分の思考を否定した。


(朝は聞こえる“声”まで眠そうなものが多いな)


 それは僕にしか聞こえない声で、心の言葉だ。

 他人の思考のすべてがわかるわけではなく、ときおり勝手に流れ込んでくる。使い勝手の悪い力で、ただの個性のようなものだと自分では考えている。なんせ、この世には奇妙な力を持つものは数多くいる。そのことを多くは隠しているから一般的には知られていないだけだ。


 そうはわかっていても、まるで水の中にいるような感覚に陥るときはある。ため息をついて長い前髪をかきあげた。途端にすべてが億劫になった。どうでもよくなった、と言ってもいいのかもしれない。


「げふっ!」

「ガクッ、おはよう!」


 そのとき、唐突に強く背中を叩かれた。瑞穂だった。幼稚園からの幼なじみで、笑うときはいつだって大口だ。同じ高校であることは知っていたが、登校中に会うのは初めてだ。朝からため息が出そうなほどに元気だった。


「やだなぁ! ガクったら元気ないね! 入学したばっかりなんだからもっとパワー出そうよ!」

「朝から頭に響く……それよりお前……」

「ん?」


 省エネで生きている身としては眉間のシワが深くなるばかりだった。しかしそれより俺は信じられないものを見た。振り返って背の低い瑞穂に合わせて、視線をさらに下げていく。


「冗談だろ」

「一体なにが?」


 瑞穂はまったくわかっていない様子だった。理解に苦しむ。なんせ、こいつは小さな体で自転車にまたがっている。

 電動自転車などではない。至って普通の自転車だ。校舎を目指していくと、これからぐんぐんと坂の斜面の勾配は増していく。それを電動のアシストがついていない、人間一人の足で登りきろうとするなんて多分どうかしている。


「……坂……」

「え? あー、ちょっとしんどいかもね! でも大丈夫、人間やってやれないことはないから!」


 言葉足らずを危惧してどう伝えるべきかと考えてゆっくり単語を吐き出している間に、さらに瑞穂は言葉を重ねた。言うべきことを先回りして察せられた上での反応なので、あるだろ、と思いながらもまあいいか、と口を閉ざす。面倒事は好きじゃない。


「それじゃ! おばさんによろしくって言っといてね! おっさきーーーー!!!」


 おいっしゃあ! と叫んで瑞穂はペダルに全体重を乗せた。心の声もだいたい同じようなものだった。瑞穂は言っていることと考えていることが同じなのでたまに本当に聞こえているのかわからなくなるときがある。


 気合の掛け声をのせつつ急な角度を登っていく自転車はよたよたぐらぐらしていたが、ゆっくりとでもしっかりと坂の上を進んでいく。別に特に止めるつもりもない。無言のままに見送って、無茶苦茶に突き進んでいく自転車の影も小さくなったところで、ぼんやり見ている場合ではないことを思い出した。僕も少しずつ坂を登っていくことにして、わずかに息を吐き出して地面に落ちた桜の花弁を踏みしめた。

 ざあざあ、と風の音が聞こえている。


 そのとき前髪がぶわりと巻き上がった。瞳をすがめて坂の上を見つめると、小さくなったはずの自転車が今度は巻き戻ってくる姿が見えた。何をしているんだと思ったら瑞穂は男子生徒の一人をひいた。そして自分の自転車に乗せて消えていった。


 なにやってんだと呆れのような吐息が口から漏れた。あっちはあっちで忙しい高校生活を送るのかもしれない。そうこう坂を登って進んでいくうちに、瑞穂が男子生徒をひいた場所では一人の女生徒が呆然としてへたりこんでいることに気がついた。長い黒髪で細い体をしていた。


 呆然としている女生徒を見る周囲の声は、『美人が座り込んでる』『かわいい子だけどどうしたんだ』というような声で溢れていて、静かなのにざわついている。いつものことだ。他人の造形には特に興味がないので、あれが美人ってものなのかと考えて、そのまま通り過ぎた。そうすると、“美人”もはっとしたように立ち上がって校門へと向かった。別にそれだけの話である。






 こうして僕の高校生活は始まった。それからひと月が経ち、瑞穂は僕と同じクラスの咲崎という男と付き合うことになったらしい。別に特には、興味はない。




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