8 前を向く
頭の中でちょきちょきとはさみが踊っている。そうだ、切ってしまおう。そう考えると、びっくりするほど自分自身の中が静かになって、はっとした。すっきりして、体中が楽になった。
街の中は、赤い糸で溢れている。小さな頃から見飽きた光景だ。誰もが指に糸を巻きつけて、くっついたり、伸ばしたり、切れていたり、ぐちゃぐちゃの世の中だ。
テレビでは、ビッグカップルがスピード破局、としばらく前に世間を騒がせていた芸能人のニュースが流れていた。以前はしっかりと二人を結んでいた糸は、ぷっつりと切れてしまっていて、彼らの関係が終了したことを物語っていた。
目的は決まった。けれど、どうしたらいいのだろう、と坂を上った。足が重たくってたまらない。
坂の名前は染井坂、という。桜の木がたくさん植えられているからの名前なのかどうかは知らない。私が最初に咲崎くんに会ったのはこの場所だった。私が彼と話したのは数えるくらいで、登校の時間が近いのか、何度かここで出会ったことがある。彼は杉原さんとは違うのか、大事なものを内に置くのではなく、言葉にしたいようで、彼女のことをときおり話した。あまり楽しくない思い出だ。
すっきりした、と思うのに、やっぱり思い出す度に私はどす黒く変わっていく。けれどまた考える。同じことばかりだ。杉原さん。咲崎くん。消す。はさみで。どうやって。……でもなんとなく朝テレビを見て思いついたこともある。私は、その瞬間を知っている。
校門までたどり着いたとき、仲良く、ゆっくりと坂を登る二人を見た。杉原さんと、咲崎くんだ。私の糸がちりちりと揺れている。私はじっと二人を待った。そうして、二人は私に気づいた。杉原さんは自転車を押していて、その隣を咲崎くんは歩いている。
「おはよう、瀬戸さん!」
まず、挨拶をしたのは杉原さんだ。私はゆがんだ顔を隠すように、ゆっくりと笑顔を向けた。今日も綺麗だね、と言ってくれる。ありがとう、と返事をする。いつもどおりだ。そんな私達を、咲崎くんはほほえみながら見つめている。知っている。見ているのは杉原さんだけだった。
私と相性がぴったりであるはずの彼は、私のことなんててんで見てやしない。杉原さんは、よいしょ、と自転車を持ち帰るとき、ふと振り返った。その先には土屋くんがいたようで、おおい、と彼女は片手を振った。小さな体のバランスを崩して、そのまま倒れてしまいそうになるところをすかさず咲崎くんが抱える。私はそのさまをじっと見つめた。
土屋くんは随分足が速いようだった。あっという間に坂を上ってきた土屋くんは、私を見て、ぎょっとしたような顔をした。何か、おかしな顔をしているだろうか。薄く微笑むと、彼は眉をひそめて杉原さんの腕をひこうとする。けれど、すでに咲崎くんが杉原さんを支えているから、それはできない。気の毒だな、と思ったとき、土屋くんはむっと私を睨んだ。まあいい。
「……ねえ、杉原さん、咲崎くん、私、二人に伝えたいことがあるんだけど、あとでちょっと、時間をくれない?」
ほんとうに、ちょっとの時間でいいから、と告げる私に、二人は首を傾げたけれど、すぐに頷いた。ときおり話す杉原さん相手ならともかく、二人セットに、となると我ながらおかしな話のように思えたけれど、お人好しな彼らは何も思わなかったようで、それじゃあ、昼の休憩時間に、と告げる。「おい、やめとけ」となぜか土屋くんは止めてくるけれど、杉原さんにじろりと睨まれて、ひゅっと口元を閉じていた。
別に、この場でもよかったけれど、いきなりとなると私の心臓が持たない。まだ、どうするのか、やり方を決めかねている。違和感のないように、と幾度も考えて、これなら大丈夫、と納得する。でもすぐあとにやっぱり、と練り直す。昼休みが近づくごとに、心臓の音が大きくなる。カバンの中に隠し持ったハサミに指を伸ばして、心臓を鎮める。イメージはできた。そう、ちょきんと。
昼休みのチャイムが鳴って、杉原さんは、約束だとばかりにすぐさま立ち上がった。小柄な体をころころさせて、私に近づく。「咲崎くんもそろそろかな」と告げると、ゆっくりと彼も来た。私はカバンを抱えたまま、入り口に近づく。ハサミを持っているから。
「やあ」
咲崎くんの存在は、糸が教えてくれた。つんつん、と揺れている。すぐに彼はきて、教室の後ろ扉から顔を覗かせた。思わず指を見るのは私の癖だ。さて、今だ。心が揺れてしまう前に、決断しなければいけない。
「私、二人に言わなきゃいけないことがあるんだけど」
そっと静かな声だ。自分の声なのに、何かとても遠くて、からからしている。教室の中を見回して、私は覚悟を決めて、行動に移そうとした。そのとき、杉原さんの赤い糸も揺れていた。
土屋くんが、私と杉原さんの間に、必死の形相の土屋くんが飛び込んだ。片目を隠して、いつもは飄々としている顔をゆがませて、額に汗をびっしょりかいて、まるでいつもと違う人のようにも思えた。「あ……」 続きの言葉は、何度も考えていたはずなのに、土屋くんを見ると、そのとき全部が吹っ飛んだ。そして、上塗りされてしまった。
気づいたら、土屋くんを杉原さんから引き離すように腕をひっぱり、それにとびつく。まるで抱きつくようにしたら、長い土屋くんの背が斜めになって、彼はきょとんとした顔をしていた。カバンは足元に落ちている。ぎりぎりまでハサミを持っていたから、イメージなんてもうできた。だから大丈夫。
「私、土屋くんとお付き合いをすることになったの!」
……は?
と、聞こえた低い声は土屋くんのものだ。言ったあとに、口元が震えた。何をこんなバカなこと。でもバカではない。私は消そうと思った。
咲崎くんと、私をつなぐ赤い糸を、切ってしまおうと思ったのだ。
***
ぐずぐずと、教室の中で情けない音が聞いている。一つの机に椅子を反対にくっつけて、土屋くんと向き合うように座った。目の前に座る土屋くんは腕を組んだまま、不機嫌な顔をしていたけれど、意外なことにも付き合いがよく、私がこぼす、もはや言葉にすらもなっていない単語の残骸を無言のまま聞いてくれている。こぼれていた涙は、とっくの昔に乾いてしまった。
「ほ、本当は、土屋くんと、なんて、いう気は、なかったんだけど」
教室の中は、ありがたいことに私達以外誰もいない。グラウンドからは、えいっおー、えいっおー、と部活をしている人達から元気な声が聞こえてくる。
嫌だったのだ。どんどん汚くなる自分が嫌だった。
勉強ができる、運動もできる、容姿だってそこそこで、好きだ、嫌いだと色恋沙汰に騒ぐクラスメイト達を冷めた目で見ていた。おそらく、バカにしていたと思う。恋愛なんて相性が合うもの通しが、互いの努力を持って成り立たせるもので、そんなこともわかっていないだなんてと、一歩上を上っている気分で呆れてみていたのかもしれない。
けれども実際には私一人が上から見下ろしている気分になっていただけで、みんな同じ平坦な場所にいた。むしろ、糸が見えるというおなしな自尊心があって、ずっと考えないふりをしていたから、私の方がみんなよりもずっと遅れていたかもしれない。
土屋くんに、汚いやつだと言われて、見ないふりをしていた場所に気づいてしまった。私はみんな自分にとって都合のいいように動いてほしいし、自分さえよければどうでもいい。そんなことはない、表側では否定しても、心の底は泥のように汚らしい。
身内に不幸があった、咲崎くんとのデートが台無しになったとなっても、杉原さんはがっかりするわけではなく、咲崎くんのことを心配していた。私はざまあみろ、と考えて、自分のことしか考えてはいなかった。よかったと汚く笑う私に、杉原さんは、瀬戸さんが一緒にいてくれて嬉しかったと笑っていた。苦しくなった。
だから、私は自分と咲崎くんの糸を、切ってしまおうと思った。それさえなければ、私はもっと綺麗になることができる。この期に及んでやっぱり自分のことしか考えていない私に愕然とした。もう嫌だった。
テレビではビッグカップルと言われた芸能人二人が記者会見でお別れの言葉を告げていた。その瞬間、彼らとつなぐ糸は、ぷっつりと切れてしまった。互いに覚悟をして、もうだめだと悟ったとき、糸は切れる。だってもう、彼らは相性のいい相手なんかじゃないのだから。
それが一人きりで行うことができるかわからなかったけれど、咲崎くんにはもう杉原さんという彼女がいる。だから、二人を前に、嘘でもいいから好きな人ができたと宣言すれば、私自身の覚悟で糸が切れるんじゃないかと期待した。その好きな人は適当に指定して、告白をするために協力してほしいから二人に告げたとでも言い訳をしたらどうだろうと教室の中を物色していたところに、土屋くんが汗をびっしょりかいてやってきたのだ。気づいたらひっぱって、恋人宣言をしていた。
土屋くんは、「は?」と眉をひそめて端的に短く呟くばかりで、私に腕を引っ張られながら私の顔と、杉原さんを何度も見つめた。
そのとき、私の左の小指と、咲崎くんの小指につながる赤い糸は、ぷっつり切れた。
何度もはさみを持って、切るイメージを頭の中で繰り返していた光景とそっくりで、驚きはしなかった。ただ、そうなってほしい、と思ってたのに呆然とした。長さが自由に変わる不思議な糸は私と咲崎くんの丁度真ん中付近でぷつんと切れて、地面にたれて、少しずつ消えていく。すっと息を飲んで見つめた。……今は糸の残り滓のようなものが、ちょろりと指にあるだけだ。わかっていたのに、口元を噛み締めて、またぼろりと涙がこぼれた。
土屋くんには、私が咲崎くんのことが好きだった、と伝えた。だから彼を諦めるために、目の前で妙な宣言をしてしまったのだと説明した。
それで納得してくれたかどうかなんて、わからない。
オレンジ色の光が教室の中をとろりとつつんで、土屋くんの顔の半分を照らしている。見てみると、随分呆れたような顔をしていた。当たり前だ。それに彼の指には、未だに杉原さんとの赤い糸が静かにつながっている。
「勝手に、巻き込んでごめんなさい。冗談だって、明日には杉原さんに説明するから」
目的はもう達成したのだ。もともと、好きな人ができたと嘘をついても、咲崎くんとの糸が切れたら、やっぱり気の所為だったかも、とでも言う気だったのだ。それに。
「……土屋くんは、杉原さんのことを好きなのに、本当に、ごめんなさい」
あまりにも相手が悪かった。
謝って許されるものではない、とさすがに自分に嫌気がさしていたところで、「はぁ?」と私が土屋くんと付き合っている、と嘘をついたときよりも、もっとはっきりとした声を出して、眉を寄せた。
「なんでだよ、瑞穂はただの幼馴染だ」
「なんでって、だって」
――赤い糸が伸びているから。
と、いっても咲崎くんが私を好きにならなかったように、赤い糸があったとしても、互いに好きになるわけじゃない。でも、なんとなく、杉原さんが私と一緒にいるとき、いつも機嫌悪く睨んでいるように見えたから、そうだと思いこんでいた。
彼のこの言葉が、ただの照れ隠しなのかどうかはわからないけれど、とりあえず、そう言われたら納得するしかない。これ以上つつくのは野暮のような気もした。
改めて、私は頭を下げた。
「なんにせよ、不快な思いをさせてしまって、ごめんなさい。誤解はかならず解きます」
「別に、どうでもいいから、なんだっていいけど」
これは少し予想外な対応だった。
「……それ、なら、しばらく付き合っているふりをしてくれるのなら、とても……助かる、けれど」
切れてしまった赤い糸の行方なんて私にもわからない。今まで見てきた中では、なくなってしまった赤い糸が、もう一度誰かと結ばれたり、もとの人に戻ったり、といった例はなかったけれど、恋愛に興味のないふりをしていたから、実際どうなのかは不明だから、念には念を、と入れたいところだ。
と、まで考えたとき、自分自身に苦笑した。すっかり涙は乾いていて、ほっぺが少しかさかさする。ここまで恥を見せて、今更ではあるけれど、それ以上重ねたいわけではなかったから、顔を下にうつむけて、土屋くんの視線から逃げた。紺色のスカートの上で、両手を合わせて指先をいじる様をじっと見つめ、さらに自分を陥れる言葉を落とした。そうしなければ、自分の情けなさがもっと深くなるような気がして。
「土屋くんからしたら、本当に、馬鹿馬鹿しい話のように、思うだろうけれど」
けど、実際はもっと辛くなるだけだった。何をしているんだろう、と自分の左の小指を見つめた。恋ってこんなものだったんだろうか。もっと明るくて、簡単で、幸せなものだと思っていたのに。
私はただ、汚くなるだけだった。
「馬鹿馬鹿しいとは、別に思わないけど」
土屋くんは、ぽつりと呟いた。はっと彼を見上げると、やっぱりむっつりとした顔をしていたけれど。
「……僕は、人の心を読めるから。理解はできなくても、あんたにとって、それは重要なことで、人が思うよりも、とても悩んで、行動したんだってことは、わかる」
「心が読める?」
しばらく間を置いて、吹き出してしまった。お腹を抱えて笑った。土屋くんのような人でも冗談を言うんだと思ったら面白くて、「嘘じゃない」と、言う彼の顔がひどく真面目だったから、また面白くてたまらなかった。笑って、笑って、笑ったら。
涙が出てきた。
ぶるぶると震える口元を、何度も噛み締めて、我慢をして、さっきまで散々泣いて、どこかにいってしまったと思ったはずなのに、ぼろぼろ止まらなくて、上を向いて天井を見つめたままぐずぐずと止まらない。
「咲崎くんのことを、私は、運命の人だと思って」
返事はない。でも、土屋くんは聞いてくれていた。
子供の頃から、自分の小指を見つめて、この先にいる人は、どんな人なのだろう、と思いを馳せた。でも、自分から糸をたぐって探しに行くのは、なんだかルール違反のような気がして、妙なプライドを持ったまま、ベッドの上で見つめて、転んで、ときどきちょっと、想像して。
私が何をすることなく糸に続いている人に出会ったら、それは本当の運命だ。ただの相性がいいだけの人なんかじゃなくって、私だけの唯一の人なんだろうと考えていたのだと思う。でも違った。私は、私が想像するほど綺麗な人間ではなく、薄っぺらにしか生きていなかったから、自分のことすらも知らなかった。
そもそも、私は本当に咲崎くんのことが好きだったのか。それすらもわからない。そのはずなのに、消えてしまった糸を見る度に悲しくて、苦しくて、たまらなかった。こんな自分はもう嫌だったから、そうならない道を選んだ。でも、もう後悔している。
ただこの場に、土屋くんがいることがありがたかった。私一人きりだったら、なんてバカなことをしたんだろう、ときっと涙ばかりをこぼしていた。土屋くんがわかると告げてくれたことがきっと彼の想像に以上に嬉しくて、それでも胸が苦しくて、制服のシャツをぎゅっと掴んだ。「土屋くん、ありがとう」と小さく伝えた言葉に、どれくらいの意味があったかなんて、きっと私にしかわからない。
心が読めるとまで嘘をついて、一緒にいてくれる彼の優しさに触れた。
土屋くんの指からは、杉原さんに続く長い真っ赤な糸が続いている。彼の恋が、どうなってしまうのか、私にはわからないけれど、それでも彼はこんなに優しい人だから、納得のいく結果になればいいと願った。
そう考えたとき、土屋くんはもとの不機嫌そうな顔に戻ってしまったような気がするけれど、もしかしたら、気の所為なのかもしれない。
次回はケース2【土屋岳人】編です。