4 すごい、十番目だ
「……さくざき、よしき……」
並べられた掲示板の中から名前を見つけたから、私はゆっくりとその文字を読み上げた。咲崎良記。上から二十番までしか乗っていないから、勉強ができるのだな、と思った。移動教室の最中、教科書を抱きしめて、何回も、何回も読んだ。友達はとっくの昔に移動してしまっている。
「瀬戸さん」
掛けられた声にはっとした。「咲崎くん」 上ずってしまっていないだろうか、と短い間に、何度も思い返して考えた。変わらず、彼の左手の小指にはふわふわと赤い糸が揺れている。「あ……えっと、杉原さんは、もう音楽室に、行ったと思う」 聞かれてもないのに、わざわざ伝える自分が嫌になった。でももちろん、彼の目的は想像通りだったみたいで、そうだったの、と返事をしながら少しばかり苦笑した。その表情が少しだけ可愛らしかった。
ひどく居心地が悪かった。なのに、その場を移動したくもなくて、咲崎くんが去ってくれるのを待った。なんとも情けない話だ。彼と杉原さんが付き合っている、と知ったのはついこの間のことだ。彼らが付き合うことになったのも、この間。付き合いたてなのだそうで、きっかけは私だって知っている。
なんでだろう、と考えた。でもその考えを咲崎くんを見つめながらするわけにもいかず、ただぼんやりと廊下にはられた掲示物を見つめた。「瀬戸しおり」 いきなり名前を呼ばれたから、びっくりして彼を見た。咲崎くんは私を見ていなかった。ただ、私と同じように名前を読み上げただけだ。
「すごい、十番目だ」
「咲崎くんだって載ってるよ」
「僕より上でしょ」
勉強は嫌いじゃない。ただ普通にしているだけだ。はは、と笑った。それだけだった。家に帰って、ベッドの中に入って、彼が呼んだ私の名前を考えた。なんでだろう。
赤い糸は、決して運命の糸というものではない。夫婦や、付き合っている人たちでも糸がつながっていない人はいるし、糸がつながっていたとしても別れてしまう人がいる。たとえ相性がぴったりなのだとしても、結婚とは努力するものだからその努力を怠れば切れてしまうものなのだろう。糸がつながっている相手と出会うこともなく一生を終える人だっているかもしれない。だから私が咲崎くんと出会ったのは、奇跡的なことなのかもしれない。
体育の時間は隣のクラスと合同だ。でも女の子同士だけだから、男の子の授業を見ることはない。グラウンドを走って、進んでいく。走ることは嫌いじゃない。長い髪は一つにくくって、走った。もう少しでゴールだ、と少しばかりスピードを緩めたところで、苦しげな声が聞こえた。準備体操なのに、すでにへとへとになっている様子で杉原さんは歩くみたいなペースで走っている。
「……大丈夫?」
「い、いっしゅうおくれ」
あまり運動は得意ではないらしい。ぺとぺと歩きに合わせて走った。暑い日差しが肌をじりじりと焼いてくる。
杉原さんは私と比べると小さな女の子だった。初めに合ったとき、自転車で突撃してきたからてっきり元気な女の子かと思ったら、そんなことはなく、咲崎くんを乗せて染井坂を上ったのは火事場の馬鹿力だったのかもしれない。
「さ、先に行ってくれていいよおお~~」
「うーん」
彼女の心の声は聞こえないけど、本当は一緒に走りたい、と言っているような気がする。わかりやすい女の子だった。別に、もうちょっとで終わるから、と伝えながらも二人で並んだ。そのまま準備体操が終わっても、私は杉原さんとペアになって運動した。ソフトボールのキャッチボールは彼女が投げた見当違いのボールを受け取り、「瀬戸さん、すごい!」と純粋に称賛の声をもらった。体育は嫌いじゃない。
そのまま、杉原さんと一緒にご飯と食べるようになった。彼女は小さなお弁当をつついて、もぐもぐと頬を膨らませていてときおりぱかっと大きな口を開けて笑った。今日もふよふよと糸が揺れている。それを見ていると、正直なところを言うと、なんでだろう、と思った。
あのとき、私が咲崎くんに声をかけなかったら。
彼が、私をかばわなかったら。
杉原さんと咲崎くんが関わることも、付き合うこともなく、二人が出会うきっかけさえもなかったのだろうか。そしたら、と次の言葉を考えることが情けなくて、言葉に表すことはなかったけど、胸の奥がひどく痛くて、『瀬戸しおり』とただ彼が呼んだだけの声が頭の中で何度だって思い起こして体の奥が重たくなった。