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22 運命の人がいたとして

 

 小指の先で細い糸が揺れていた。糸から逃げるために俺は瑞穂と付き合った。けれどももう、糸はどこにも伸びていない。つまり、逃げる必要などどこにもなくなってしまった。


「咲崎くん、今日はお昼、もしかして忙しかった?」

「……なんで?」

「LINEが既読になったのに返事がなかったから……あっ、別にね、返事を絶対してってわけじゃなくって、忙しいときに送ってたら悪かったなあって思って!」

「ああ、ごめんね。確認したけど返事をし忘れちゃってたんだ」


 それだけだよ、とにこりと笑うと瑞穂はバタバタと振っていた両手をピタリと止めて、ぱあっと顔を輝かせた。そんな仕草を見て、顔をそむけていた。ずっしりと体にくる重みは鞄に詰め込まれた教科書だけではない。


 瑞穂は俺を自転車で“ひいて”からというもの、自転車での登校はやめた。小さな体で大きなリュックを抱えて、てくてくといつも必死に歩いている。互いに何かの部活動をしているわけではないから、俺と瑞穂は待ち合わせて登下校を一緒にするようになった。なんせ、“付き合っている”のだから当たり前だ。授業が早く終わった側が、もう片方を迎えに行く。それが自然とできたルールだった。


 当たり前のことだから今更変わるべきものでも、変えるべきものでもない。瑞穂の短い足では坂を下りるのも一苦労らしく、てくてく、つんつんとつま先立ちをするように歩いてときどきすっ転びそうになる。思わず手が出た。するとにかっと瑞穂は笑った。彼女はよく笑う女の子だ。多分可愛らしいのだろう。俺にはよくわからないけれど。


(どうにかしないといけない)


 そんな声は、いつまでもついてくる。付き合っている理由がない。それなら別れたらいい。心の内で聞こえる声に耳を傾けた。ひょおひょおと、風の吹いている音が聞こえる。


(どうにかしよう)


 今、俺は彼女の時間を食いつぶしている。恋をしたくないと願ったのは、身勝手な人間になりたくはないからだ。なのに今の俺はとにかく自分本位で、杉原瑞穂を振り回していた。それなら終わらせる方法はただの一つだ。


 ――杉原瑞穂と別れよう。


「咲崎くん、見て、桜の木。きっと、もうちょっとなんだろうね。私達が入学したときは、桜吹雪だったもの。きっと今年もすごいんだろうね」

「うん、そうだね。もう少しだね、楽しみだ」


 我ながら随分下衆な仮面をかぶったものだ、とほほえみつつも頷いた。瑞穂はもう少しで芽吹きそうなほどに膨らんだ蕾をまっすぐに指さして、ぴかぴかとした太陽みたいに笑った。俺は彼女の言葉を肯定しつつも心の中は歪んでいる。そう、もう少しで俺と瑞穂は他人に戻る。別に何もおかしなことではない。初めから、人は全員他人なのだから。



 その夜も、俺は返事のない扉を叩き、食料を置いた。由美には瑞穂の近況を尋ねられ、相変わらず元気にしているよと伝えると、彼女は大切にしなよと訳知り顔で説教され、その通りだねと適当な返事をする。部屋に戻って授業のノートを開きながら復習をして、さて、どうやって別れようかと考えているときなんとも軽薄に生きたものだと自分自身に呆れた。

 恋に狂わぬように生きた末路がこれだった。多分俺は、一生救われないだろう。



 ***



 さて。いざ瑞穂と別れようと考えても、どうやって別れたらいいかわからない。付き合ったことが初めてならば、別れることだって初めてだ。そしてできるかぎり、彼女の記憶に残らないように静かに消えていきたかった。彼女の中の長い時間を奪ったのだから、これ以上の時間はいらない。一刻も早く俺という存在を削除し、これからの人生を生きてほしい。こう願うのは、おそらく騙した人間の思い上がりだ。結局、どう転んだところで瑞穂を傷つけることに変わりはない。十分なほどに、俺は彼女にとって加害者だった。


 こうして、家にいる最中も学校にいる最中も瑞穂と別れる方法を考えた。なんせふとしたときに頭の片隅から飛び出てくるのだから。

 いつものように考え込んでいると誰かに肩を叩かれたと振り向いたら、土屋くんである。人差し指を伸ばして頬を突き刺すという小学生のような古典的な手法である。若干の苛立ちを感じつつ、「なんなの」と聞いてみると、「別に」と答えられた。いやだから一体なんなんだ。


 土屋くんはまるで全てをわかっているようだと思っていたが、実際はその反対なのではと指で突き刺された頬をぬぐいつつ、またもや飄々と去っていくクラスメートの背中を睨んだ。彼はいつもポケットの中に手をつっこんだままであるため、いつか顔面からこけたらいい。思考がそれた。


 考えれば考えるほど、深い穴を掘っているような感覚だった。瑞穂が一番傷つかずに別れる方法と言えば、やはり自然消滅だろうか。俺達は今は高校二年生。もう少しで三年になる。つまり受験生だ。異なる大学に進学すれば、いつしか互いに連絡も途絶えることは想像に難くなかったが、これだけ時間を奪って、なおかつさらにと考える自分に吐き気がした。決めたのなら、早い方がいい。


 学校に通学している最中、下校している最中。毎日瑞穂とは会っているのに、『別れよう』というたった一言が言えなかった。なぜなのかと考えると、きっと坂のせいだった。登るにも、下るにも息が切れて、学校にたどり着いた頃や、坂を降りきった後には何を言いたいか忘れてしまう。一つ、山を乗り越えた、というような謎の達成感に満ちあふれてしまうのだ。腹立たしいことに。


 それなら、坂がなければいいのかと言われるともちろんそれはただの言い訳で、自分の中の覚悟が足りないからだ。染井坂はただのきっかけの一つである。けれどないに越したことはない。坂よ今すぐ消えてくれ、と願っていたある日のこと。


「ねえ咲崎くん、遊園地のチケットをもらったんだけど、ちょっとお出かけしない?」


 と、瑞穂から誘われた。

 千載一遇のチャンスだった。



 ***




 瑞穂はいつものお団子頭をほどいて、くるくるした髪を伸ばしていた。真っ白いワンピースは少し肌寒いように感じたが、動いてみるとすでに春の陽光だ。自分の長袖のシャツが暑いくらいで、上着を一枚脱いでいた。


 考えてみると、瑞穂とこういった場所には来たことがなかった。受験生になってしまうと気軽に行くことができなくなる、といった理由にはなるほどと頷いた。もちろん、今を逃しても、逃さなくても、俺は瑞穂と出かけることはないだろう。


 昼をどうするかについては特に言及はなかったため、作った弁当を持っていくと瑞穂は口元を引きつらせた。家で支度をしている最中、『お兄ちゃん、それを持っていくのはちょっと引かれるんじゃないの』という由美は言ったが、適当に残り物を詰めただけの弁当だ。これくらい大したことないだろう、と考えてだったのだが、素直に由美の意見を聞けばよかったと後悔した。けれども瑞穂は自分は何もせずに恥ずかしい、と言いながらも嬉しそうに頬張っていた。



 遊園地と聞いていた施設は動物園も併設していたらしい。たくさんの親子連れがいれば、年老いた夫婦もいる。パンフレットを右に、左に傾けて、さてどっちだと首を傾げる彼らに、瑞穂とともに案内した。困っているかもしれない、と突撃したのは瑞穂だった。



 唐突に、転がってくるベビーカーを瑞穂は体を呈して受け止めた。子供が入っていないことは幸いだったが、坂を転がり落ちてしまったらしい。しょうがない、とそのまま運んで、持ち主に届けた。





 瑞穂といると、奇妙なハプニングに出くわすことが多い。「……ごめんね、咲崎くん……」 遊びに来たにもかかわらず、なぜか瑞穂はボロボロである。「……大丈夫……」 そして隣に立つ俺も同じく。正直、気づいてはいた。こんなところで別れ話などできるわけがない。


 これはもう諦めるしかないな、と、俺と瑞穂はとぼとぼ帰宅することにした。幸いなことに遊園地は近場であり、バスで行くことができる距離だ。最寄りの駅は通学路の近くであり、そこからしばらく歩くと、染井坂の麓につく。


 瑞穂はせっかく綺麗にした髪をぼろぼろにしてじっとうつむきながら歩いていた。正直、気づいてはいたのだ。これはデートというものであり、デートの最中に別れ話を告げるなんて、一番あり得ないパターンだろう。一生の心の傷にもなりかねない。


 影がオレンジ色の光の中で長く伸びる。ぽっくり、ぽっくり、ぽっくり……。自分の足音と、瑞穂の足音がゆっくりと混じった。

 ときどきライトをともしながらも車が通り抜けていく。たゆんだ甘ったるい光の中だ。暗くなるにはまだ早いが、少しずつ夜を準備する空気の匂いがする。


(別に、もういいかもな……)


 別れよう、とずっと息巻いていたくせに俺はタイミングを逃してばかりだ。何度だって言えるときはあったはずなのに言わない。今だってそうだ。しんとした空気に心が苦しくなってやっぱりいいんじゃないか、と思ってしまう。つまり、別れなくていいんじゃないだろうか。


 俺が彼女に対して申し訳なく思うのは、瑞穂に恋愛感情を持ってはいないからだ。俺は多分、誰に対してもそんな気持ちは持てないし、持ちたくない。でも、そのことを一生隠していれば、なんの問題もないことなんじゃないだろうか。


 言わない真実は事実と同じだ。いつもは元気に飛び回っている瑞穂が落ち込んでいることも相まって、そうしよう、とさらに頷き、ほっと楽になっている自分がいた。人を傷つけたいとは思わない。自分から望んでそうしようとすることはとても勇気がいることで、とても辛い。だから、諦めてしまうと楽だった。


 それなら、こうしてとぼとぼと歩いている場合ではない。いつものように瑞穂の手を握って、怪我がないか確認して笑えばいい。なんと楽だ。よかった。そうしよう。振り返って、笑った。すると瑞穂はぼんやりと顔を上げた。ほんのりと、ほっぺをピンクの色に染めて笑っていた。花が散った。


 ぽつぽつと桜の花が花開き、ぱつんっと弾けた。



 ――咲崎くん、見て、桜の木。きっと、もうちょっとなんだろうね。


 今すぐにでも芽吹きそうな、桜の蕾を指さしていた瑞穂は、にっかりと白い歯を見せ、スカートをふわふわにさせてくるくると回った。そして、いつもみたいにつまずいて、どすんとこけた。これはただの記憶の中の彼女だ。坂の上で別れよう、と決意したとき、そんなことも知らずに瑞穂は笑っていた。今年の桜は例年よりも早く、もう少しだと言った桜吹雪は、あっという間に開花し、消えてしまっていた。俺たちが入学した年は、春を惜しむように桜が残っていたというのに。


(何を、やっているんだろう……)


 胸の内が締め付けられるほどに苦しかった。


(別れようと考えたり、やめよう、と考えたり……)


 なんて俺は自分勝手なんだろう。自分がなりたくないと願ったものから逃げようとして、意味もなく生きている。


「瑞穂、俺」


 不思議と、するりと言葉は漏れた。


「俺、お前のこと、好きじゃない」



 ***



 告げた後に、ひどく言葉を間違えたと気が付いた。傷つけないように。そう思っていたはずが、突き立てるほどの刃を握っている。「違う……」 でも違わない。苦しいほどに事実だった。俺は彼女にはなんの興味も持っていない。彼女が可愛らしいかどうかもわからない。こんな人間が、関わっていいはずもない。


 最低な告白だった。後悔した。でもこれでやっと終わると思った。やっと終わらせることができると思った。


 なのに不思議なことに、瑞穂はなんの表情の変化もなく俺を見上げていて、随分落ち込んでいるようにも見える。聞こえなかったのだろうか。ならもう一度言うべきか。今度は言葉を変えて、伝え方を柔らかに変化させなければいけない。しかしどう言えばいいのかと必死で考えている間に、瑞穂はにかっと笑った。


「もちろん、知ってるよ」


 何を言っているかわからなかったし、何を言われているのかもわからなかった。見開きすぎた瞳がひどく乾いて、喉が熱い。「咲崎くんが、私のことを好きじゃないのは、最初から知ってるに決まってるじゃない」 にこにこと、変化のない表情に撃たれた衝撃のままに体をふらつかせ、ガードレールにもたれた。


「……し、知って、るって……」

「そりゃあ、二年も一緒にいるもの。でも最初から、何か変だなって思ってもいたよ」


 変わらない笑顔が恐ろしかった。俺は卑怯者だと罵られるはずだった。なのに瑞穂の様子は普段とまったく変化がなくて、今、一体何を話しているのかすらもわからなくなる。裏も表もない少女だ。そう思っていたはずなのに、まったく違った。瑞穂にとって、裏も、表も全て同じだったのだ。


 なんてこともないように小さな体で俺を見上げる様を見て、ぞわりと腹の中に膨れ上がるような恐怖を感じた。何を言っているかわからない。目の前にいるものはまちがいなく人間なのに、それ以外のもののようにも思えた。それは、俺にとっての化け物と同じだ。


「知ってて、どうして、二年間も」

「どうしてって、なんで?」


 瑞穂はこてんと首を傾げた。

 化け物だから言葉は通じない。なんせこちらと常識が違うのだから。同じ言葉を話しているから通じるはず。そんなものはただの思いこみであることを俺は知っている。なまじ同じ言葉を話しているだけ、空恐ろしい。


 ――お父さんとは、別れないわよ……。


 まだ父が生きていた、もう何年も前のことだ。父と、他の女が歩いている姿を見たと妹が寝静まったことを確認して俺は母に確認した。どういうことなのかと幼い正義感にかられ問い詰めようとしたのだ。それで、何をしたかったわけでもない。自分がしたことに対する結果も考えずに洗い物をする母の背中に問いかけた。


 がちゃん! と大きな音が響いて驚くと、母が食器を洗い場に落とした音だった。『母さん……?』 大丈夫なの、と駆け寄ろうとしたとき、母が地を這うような声を吐いて、俺を睨んだ。


『誰が、なんと言おうと、私はお父さんとは別れないわよ……!』


 力いっぱいに投げつけられた泡だらけのコップはくるくると螺旋を描いて床にぶつかり、砕け散った。


『母さん、俺、そんなこと言ってない。何も言ってないよ……。と、父さんと別れるか、どうかじゃなくって、あの女の人は誰なのかって』

『だからあの女に父さんが盗られたって言いたいんでしょ!? 私は、絶対に別れないわよ』

『そんなこと言ってないったら……! 落ち着いてよ由美が起きちゃうよ……!』

『あんたが、あんたが言い出したんでしょうが!』


 何を言ってもねじ曲がる。届かない。母の小指から伸びた赤い糸がぐねぐねと踊っている。その先が父につながっているのだと思うとただただ、ぞっとした。父が好きだから別れたくないと嘆く母。外に女を作りながらも母への情を捨てきれない父。どちらも理解ができず、ガタガタと体を震わせて言葉を飲み込んだ。出した全てが悪意的に変換されることは恐ろしくて、それから腹立たしくも、悔しくもあった。化け物は言葉など通じないのだ。


 彼らは恋という別の世界に生きている。だから俺は彼らのようにならないし、なってたまるかと誓いを立てた。そのときの母と、瑞穂は同じ瞳をしていた。大きな瞳を極限まで開いていて、こちらの言葉など何も耳に入っていない。聞こえているけれど、届いてはいない。


 幼い頃のままの自分であったなら、きっと一目散に逃げ出していた。

 俺は瑞穂を利用しているつもりで、本当は彼女の手のひらの上で、一人踊っていただけだったのだ。

 しかしこれが自分が招いた結果であることは理解している。だから慎重に言葉を選んで、距離を探った。野生の動物を前にして、肉の塊を指し示しながら、一歩一歩、近づいていくように。


「……知っていたのなら、なんでこんな茶番に付き合っていたのかってことが、俺には不思議なんだよ。それに、まず謝罪したい。俺は瑞穂が俺に騙されていると思い込んでた、振り回していたんだから」

「それは謝らなくても大丈夫だよ。さっきも言ったけど最初から変だなって思ってたし。わかった上でのお付き合いだったんだから、咲崎くんが謝る必要なんてどこにもないよね?」

「いや、それは……」


 瑞穂はそれが当たり前というような顔をしている。まるでのれんに腕を押しているような感覚だ。今、俺たちは互いに違う土台の上に立って話している。こんなものは会話ではない。一台、一台と車が通り過ぎていく。その度に少しずつ辺りは暗くなり、瑞穂の表情を暗く、闇の中に埋めていく。


「咲崎くんは私のことを好きじゃない。うん、知ってるよ。でもそれって、別れる理由にはならないよね」

「理由にならないって、そんな」

「だって私は咲崎くんを好きだよ。咲崎くんが私のことを好きじゃなくても構わないって思ってるもの!」


 明るい声色だけが耳に届く。「理解が……」 これは今、言うべきことではないものだ、ということはわかっている。それでも。「俺は、君の考えを、理解ができない……」


 言わずにはいられなかった。

 恋愛なんて嫌いだ。している人間を否定したいわけじゃない。けれど、自分が恋をするということを考えると吐き気がする。それが今同じ舞台に引き上げられて、途方もない距離のままに相対している。

 杉原瑞穂はおどろおどろしい姿で俺につながるはずのない赤い糸をうねうねと動かしていた。あの日の母と同じように。


「理解なんてしなくていいよ」


 そして返ってきたのはひやりとした冷たい声だ。


「だって私と咲崎くんは別の人間だもの。全部をわかってほしいわけじゃない」

「どうして」

「……どうして、どうして。そればっかり!」


 瑞穂は拳を握って肩を震わせながら叫んだ。小さな体が爆発したような声だ。辺りはすっかり真っ暗になっていた。頭の上では電灯がぱちり、ぱちりと音を立てて灯りをつけた。爆発した瑞穂の声は俺自身に叩きつけられた。いつもけらけらと明るく笑う彼女だったから、こんな声も出せるのかと貫かれたように動けなくなった。


 そしてこのとき、瑞穂が泣いていることにも気がついた。


 母親と同じだ。そう思うのに、どこか違う。あれほど恐ろしい化け物のように感じていた彼女はただの弱々しい少女だったのだと気がついた。俺は勝手に母の幻影を瑞穂に重ねて、相手を人外のように貶め、自身が正しいのだと安堵していた。そう、思い込もうとしていた。


「……わ、私だって、辛いし、苦しいし……」

「うん」

「な、悩んだことだって、あるし……」

「……うん」

「こんなの、どうなんだろうって」

「ごめん」

「謝らないでほしい。だって私、咲崎くんと別れたいなんて思ってない!」

「あの、それは」


 随分自分勝手だ。俺は人のことなんてもちろん言えないけれど、互いに想い合っていないのだから付き合うなんて選択肢はもはや存在しない。そのことを理解している上で、瑞穂はぼろぼろと涙をこぼしながらもはっきりと言い放った。


「私は、咲崎くんが好き! 私は、何でもかんでも思ったことを口にしてしまうし、考えるよりもいつも先に体が動くし、ずっと人に迷惑ばっかりかけてきたよ。だから今日みたいに外に出ても一緒にいる人に迷惑かけちゃうこともある……でも、咲崎くんは、いつも嫌な顔の一つもしない」


 それって、本当はすごいことなんだよ、と瑞穂はぼろりとまた涙をこぼしたが、その程度のことで何を言っているんだろう、と困惑するばかりだ。


「私が最初に好きって言ったときも、断るのが申し訳ないって思って頷いてくれたんだよね?」


 それはある。答えを引き延ばそうとする中で瑞穂と付き合えば瀬戸しおりから逃げることができると気がついた。どっちが目的として先になるのかはわからないが、どちらにせよ瑞穂を利用していたことに違いはない。


「だからね咲崎くんはね、すごく、すごく優しい人なんだよ」

「買いかぶりにもほどがある……」

「買いかぶってなんかないよ。私が、そう見えたなら、それが真実だよ」

「あのね、何を勘違いしてるか知らないけど、俺はずっと適当に君に話を合わせていただけだよ。君のことをどうでもよく思っていたから、別に何をされてもどうでもいいし、優しくしようとか、そんなこと考えたこともない」

「行動に感情も伴わないと意味なんてないの? 気持ちなんて誰にもわからないよ。私のことを好きじゃなくても、口に出さなきゃ真実にならない。私が、咲崎くんを見てそう思った。それが全部だよ!」

「でも言っただろ! もう一回言うよ、俺は、君のことを好きじゃない!」

「だから、私は聞かなかったふりをするから!」


 信じられない女だった。ぼろぼろ涙をこぼしながら、両耳を手のひらで覆う。もちろん、そんなもので聞こえないわけがない。言う通りに、ただの“ふり”だ。俺は自分のことを、自分本位な人間だと思っていたけれど、瑞穂もたいがいだった。自分の思い通りにならない真実に目をつむって、要求を押し通そうとしている。


 驚くべきことに、俺達はそっくりの人間性だった。そのことに気づいても、もちろん好感なんて抱かない。けれど、違う場所に立っているわけではないのだと知った。

 瑞穂は決して化け物でも、言葉の通じない宇宙人ではない。俺と同じ人間で、俺達は、きちんと向かい合って会話をしている。


「……なんで、そんな俺のことが好きなんだよ。こんな言い方、したくもないよ」

「なんでって……。私、思ったことをすぐ言っちゃうって言ったじゃない? 隠し事ができないんだよ。正直者だって褒められるけど、本当は嘘をつくのが怖くて耐えられないだけの卑怯者なんだ。でも、咲崎くんのことなら嘘をつくことができる。咲崎くんが私のことを好きじゃないって知ってても、知らないふりをし続けることができるから」


 それって、特別ってことだよね、と尋ねられたとしても、そんなことは知らないよと首を振ることしかできない。


「……言っておくけど、俺は一生瑞穂を好きにならないよ」

「うん。わかってる」

「恋愛なんか嫌いだ。期待されたことは、何もできないかもしれない」

「咲崎くんがいてくれたらいいよ。それだけで十分なんだよ」

「理解できない」

「しなくていいもの」


 似た者同士の俺達は強く手のひらを握った。瑞穂はぱかっと大口を開けて笑った。振り回された人生だから、しょうがない。今度は、彼女に振り回されてみてもいいのかもしれないな、なんて。




 ***





「結局さ、咲崎は心の中でなんと思いつつも、瑞穂のことは大切にしてたんだよな」

「……いや土屋くん、なんの話?」


 公園のベンチにて土屋くんは相変わらず猫背に座りながら、缶コーヒーのプルタブをぱきんと開ける。それから一口飲んで、朗らかな春の空を見上げながらぽつりと呟くから、わけもわからず問いかけた。


「ただのこっちの話だけど。嫌でも毎日聞かされてたら、吐き出したくもなるんだよね」

「聞かされてたら……?」

「僕は他人の心の声が聞こえるから」

「ああ、はいはい」


 いつの間にか正式に付き合うこととなってしまった彼は定期的にそういったことを主張する。適当にいなすと、「まあそれは話の本質じゃないから別にいいけど」と缶コーヒーを斜めにしながらごくりと飲み込んでいた。主張するくせにそこは別にいいのか。


 土屋くんなりのボケなのか、相変わらず判断に困る反応をする人である。公園では子どもたちがきゃあきゃあと遊んでいる声がして平和だった。


「本質ってどういうこと?」

「僕が言いたいのはさ。人間、腹の中で何を考えていようと、外側にはわからないってことだよ」


 僕以外にはだけど、ときちんと付け足すところが設定が細かい。


「だからどれだけ自分自身じゃ恥と思うような、後悔するような汚い考えをしたってさ、表に出さなきゃ、ないものと同じなんじゃないかなと」

「……ええ? そんなことないじゃないかな。あの人は腹の中で何を考えているのかわからない……ってよく言うじゃない。悪い意味で、気をつけろってことでしょ?」

「それは、実際に思考を行動に移した場合だろ。もし腹に一物を抱えていても、行動に移さなきゃ誰にもわからない。一番大事なのは行動だよ。瀬戸さんもよく表と裏で考えてることが違うしね。そういうとこ、いいと思うし好きだよ」

「さらっと最後に付け足さないで!?」


 褒められているのかけなされているのかわからなくて、心臓が跳ね上がるかと思った。


「だから本人が気にしている以上に、心の中のことなんてどうでもいいんじゃないかって思っただけ。でも言わなくても伝わるものもあるけどさ。瑞穂もなんとなく知っていたみたいだし。そこはもう、互いの関係だよな」

「一体全体、なんのことやら……」

「僕も日々、色々考えて生きているという意味かな」

「ぼんやりしてるように見えても心の中は荒波なんだね」

「そうだよ。瀬戸さん以外には言わないからロバの耳と思ってくれたら助かるかな」

「わかった。ぽっかり穴になった気分になっとくね」


 私は今、以前ほど咲崎くんのことを考えなくなった。その部分の大半を土屋くんが占めるようになった、ということもある。三年生になって杉原さんともクラス替えで関わることもなくなり、たまに廊下ですれ違う程度だ。もちろん不仲になったわけではないけれど、わざわざ関わり合いに行くほどの仲ではない。


 でもそんな私でも杉原さんと咲崎くんの二人の関係が、少し変わったようには見えた。どこが、とははっきり言えないけれど、杉原さん、いつもしていた背伸びをやめたんだな、とか。咲崎くんの声色が何か違うような気がするなとか。二人がそろっているのを見て、春の日差しみたいだな、と思ったのは丁度、廊下の窓からきらきらとした光が差し込んでいたからかもしれない。


 切れて短くなった自分の糸は、やっぱりいつも目についた。だって利き手の小指だ。見るなという方が無理に決まっているし、これはきっと一生目にして、気にするのだろうな、と覚悟している。


 だからこうして毎日見ていると、気にしていたことは気にならなくなるし、逆に感じなかった疑問を感じるようになる。


(どうしてあのとき、糸が切れたんだろう……?)


 土屋くんと付き合っている、と杉原さんと咲崎くんの前で嘘をついたときだ。もちろんそれは私の中にある強い意志が断ち切った……と、ずっと考えてはいたものの、土屋くんと杉原さんの糸は未だにつながっている。赤い糸を断ち切るということは二人の縁も切ったという意味なのだろう。土屋くん達は幼なじみで、縁は結ばれている。だから糸を切るということは、片方だけの感情ではなく、両方が望まないといけないことのように思う。


 それならあのとき、私だけではなく咲崎くんも私と縁を切ることを望んでいたということになる……ような気がするのだけれど、そこまで嫌われるほど関わった覚えはない。多分、おそらく。多分……? と知らぬうちに行っていた可能性がある自分の悪行に頭を抱えた。それこそ、腹の中で思っていたことが相手に伝わってしまったのかもしれない。


 土屋くんは、もし悪事を考えていたとしても、自分の中に収めて飲み込めていれば何も問題ないということを言っていたけれど、私はそうは思わない。だから過去の自分に対して頭を抱えた。杉原さんと咲崎くんの不仲を願ったことは事実である。


「……土屋くん、今度は私の穴になってもらってもいい?」

「ん? ああ、ロバの耳。いいよ、どうぞ」

「実はさ、運命の人って、いるんだよね……」


 言ったあとで後悔した。赤い糸の説明を省こうとして、大変な言い方をしてしまった。耳のあたりまでじんわり熱くなって、死にたくなる。


「いやいいよ。続けて。っていうか前にも咲崎が運命の人だと思ってたって言ってたし」

「言ったね、言ってたね! わかった続ける、どうせなら、もっと深い穴を掘ろうかな!? 運命の人なんて、いなけりゃいいのにねって言いたかっただけなんだけどね!」


 これでは現在の彼氏に対して元の人に未練があると言っているようなものである。言わなきゃよかったとやっぱり後悔しかない。

 赤い糸なんて見えなければよかった。初めからそんなものがなかったら、私は汚くならずにすんだ。


 でも、こんな私の感情が土屋くんに伝わるわけもなく、意味もない言葉だったと恥ずかしくなった。土屋くんは何も言わずに、相変わらず空のコーヒー缶を振って自分の手元を見ていた。頭の上では葉っぱがざわざわとこすれる音が聞こえる。ぽつんと頭の上に落ちる日陰は、なんだか寂しい。


「別に、なければよかったってことはないんじゃない?」

「え?」


 いきなり言われたものだから、自分から伝えたにもかかわらず、なんのこと? と思わず首を傾げてしまった。そうしたあとに、私が言う『運命の人』のことを土屋くんが言っているのだと気づいて、わけもわからないことを考えさせてしまったと慌てて片手を振る。


「あの、ごめんね、さっきの、あんまり深い意味はなくて」


 深い意味がないどころか、深い意味しかないのだけれど、それを言うとややこしい。とりあえず話を終わりにしようとしたとき、「別に僕だってそれほど難しく考えたわけじゃないけどさ。たとえばだ。運命の人がいたとして――」


 土屋くんは、缶をベンチに置いて、ぴん、と長い人差し指を立てる。


「互いに普通に出会って幸せになる人はいるだろうし」

「うん……? まあ、いるかな」


 私の両親は互いに赤い糸がつながっている。もちろん困難はあっただろうけど、私の目には仲睦まじい夫婦だ。


「逆に、運命の相手と結ばれたからといって必ず幸せになるわけじゃないだろうし」

「そう……かなあ」


 あまり人の恋愛に首を突っ込んだことがないからわからないけど、なまじ結びつきが強くて別れられない人もいるかもしれない。


「あとはそうだな、結ばれたとしても、別の大切なもののために別れるってこともあるかもな」


 ここで思い出したのは女優の中口まどかと俳優の飯塚健二だ。しっかりと結ばれていたはずの彼らの糸は、いつのまにかちぎれてしまった。


「直接関係がなくても、振り回されたり、憧れたりもあるだろうし……まあ、いろいろだよ」

「そうかな、いろいろ、あるかな……」

「人それぞれじゃないかって思うだけだよ。それこそ、運命の相手がいたとして、一生出会わない人もいるだろ?」


 出会っているけど、まったく気づいていない杉原さんと土屋くんという人たちもいる。含みを込めて、私はうん、と頷いた。


「瀬戸さんが言うには、僕は瀬戸さんの運命の人じゃない。だから、いつも終わりを意識してる。意識しているからこそ、終わらないための努力ができる。瀬戸さんを大切にしようと強く思えるわけだ」


 土屋くんは饒舌に語った。


「僕は瀬戸さんの運命の人じゃなくてよかったと思ってるよ」


 そして意外な落ちをつけた。私はただ何もいえず、先程とは別の熱さを感じて、それこそ何も言えなくなった。でも、いくら土屋くんが飄々としているとはいえ、これを聞こえないふりをするのはあまりにも罪が深い。


「……私も、そう思う」


 つまり、今隣にいるのが土屋くんでよかった、という意味になるのだが、「そりゃよかった」とやっぱり彼は軽く返答した。そしてコーヒーの缶を持ち上げ、傾けるのを私は横目で見た。しかしだ。「土屋くん、それもう入ってないよ」 なんせ、さっきから何回も空を確認していたはずだ。土屋くんは、げほっと咳き込んで、缶を持っているのとは反対の手で顔をこすった。忘れてた、と付け足されたのは小さな声だ。


「土屋くん、もしかしなくとも、照れてるんだね」

「そうだね、少しね」

「びっくりするほど正直だね……」


 こうして、二人で朗らかに笑った。

 赤い糸が見えるけど、私の運命の人にはもう彼女がいた。それはとても悲しいことだ。でも。だからこそ。


 新しく開ける道もあるに違いないのだから。



最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。

いただきました評価、ブクマは次作への糧とさせていただきます。ありがとうございました……!

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