21 泥を吐く男
赤い糸は俺にとって多くの懸念を生み出したが同時にこの糸を見ることができてよかったと考える自分もいた。なんせ、俺の運命の相手とやらを回避することができる。
恋愛なんてしたくもない。人を好きになんてなりたくもない。それが幼い頃から培った価値観だった。
だから自身の小指をそっと持ち上げふわふわと、目的もなく漂うような、どこまで伸びているかもわからない赤い糸を見ながら、誰にもつながっていないことを願った。この先に、誰もいなければいい。けれどもいる。ときおりゆらりと揺れる糸を見て、『誰か』を感じた。そして彼女に出会った。
瀬戸しおりと言う名の少女は驚くくらいに綺麗で、ぞっとした。
あれほど恋はしないと願っていたのに人生とはままならないものだった。瀬戸しおりと同じクラスでないことは僥倖だった。このままずっと関わらずに生きていきたい。そう願うのに、ふとしたときに胸がざわつく。
このとき同じく出会った杉原瑞穂という人間は俺と違って裏表もなく、いつでも明るくちょこちょこした歩き方が似合う小柄な少女だったが、俺は彼女を利用し、瀬戸しおりを遠ざけることにした。そして、彼女との糸は切れた。
なぜそうなったのかは、何度考えてもわからない。ぶつりと弾け飛ぶように、俺と瀬戸しおりの縁はちぎれ、そして消えた。あんなにも俺を苦しませ続けた赤い糸が、今は力なく小指からぷらりとたれるだけで、その先には何もない。
これが、一年以上前のことだ。
教師の言葉を耳にしながら、ノートに文字を綴った。工藤先生はずり落ちそうになった眼鏡をもとに戻した、というような仕草をしたが、しばらく前に先生はコンタクトに変えたらしくもちろんそこには何もない。自分自身、あれっと不思議そうな顔をしたが、すぐに気が付き慌ててこちらに背中を向けて黒板にアルファベットの文字をせわしなく綴る。
「な、何度も言いますが、リスニングは重要です。そのためには自分の中でわかる単語を増やしていきましょうね」
小テスト、しますよ! と耳を赤くしながら黒板と話す彼女はまるで生徒に問いかけるように話す。彼女のおかげで、由美も随分明るくなった。本来なら俺や、家族がなんとかすべきだったはずなのに、自分自身のことでずっと精一杯だった。
この一年以上、ずっと俺は混乱し続けていた。ずっと自分を悩ませていた赤い糸がなくなってしまったのだ。それはとても喜ばしいことだったが、まるで心の中にぽっかり穴があいているようにも感じた。死んだ父は家庭も、俺の心の中もひっかき回して去っていった。そのことに大した感情はなく、瑞穂に『親戚』が亡くなったと死んだときも、嘘をついたつもりはなくその程度の関係だと考えていた。『父』という役割は、ただ血が濃いだけの他人にすぎない。
頭をひっかいた。すると、終業のチャイムがなり、工藤先生は授業を終えた。ため息をつくと、誰かに肩を叩かれた。振り返ると土屋くんだ。
「……えっ、ん? どうかした?」
「いや、別に」
それだけ言って彼はポケットの中に手のひらを入れて、猫背のままに背中を向け、スタスタと遠ざかる。椅子の背もたれに手をかけつつ何だったんだと眉をひそめた。土屋くんは前髪が長すぎるせいで表情がよくわからない。だからときおり見える瞳の向こう側では、まるで全てを見透かしているように見えて、ぎらりとこちらを睨んでいるような気がする。
(……そうじゃないか、そう思うのは俺に後ろ暗いことがあるせいなんだろうな)
なんとなく視線を追ったままにしていると、土屋くんはそのまま教室の後ろ扉から消えていった。途中机に寄って財布を持っていったところを見ると食堂か、購買部に行ったのかもしれない。彼が教室で昼を食べているのを見たことがない。おそらく、瀬戸しおりと会っているのだろう。
土屋くんは瀬戸さんの彼氏であり、そして瑞穂の幼なじみである。そして彼の赤い糸がつながっている先は瑞穂だった。ゆらゆらと彼がいたはずの糸の残滓が見えていた。俺がいなければ、土屋くんは瑞穂と付き合っていたのかもしれないが、そんなことを今更考えても仕方がない。俺たちはねじれあった関係だった。いや、本当は違う。そうじゃない。俺が土屋くんに後ろ暗さを感じているのは、こんなことではない。
そのとき、ポケットに入れたスマホが震えた。この時間に来る相手といえば妹の由美か、もしくはもうひとり。少し考えて、着信画面を確認する。
『(*^^*)』
きらきらとした絵文字と一緒に送られてくる顔文字はいつものことだ。送り主の名前には杉原瑞穂と書かれている。すぐに液晶の画面にタップして返事をしようとして、やめた。重たいため息とともに額を掻きむしった。
瑞穂とは入学して、すこし経ってから付き合うようになった。すでに彼女とは付き合って一年以上が経過し、もう少しで二年になる。俺は瀬戸さんの存在が怖かった。決して、恋に狂いたくはなかったのだ。
入学時、瑞穂からの告白を俺は一も、ニもなく頷いた。相手が存在すれば、瀬戸さんを避けることができると渡りに船と考えた。付き合っている彼女がいる。だから瀬戸さんに俺は恋をしない。そう思うと驚くほど心が穏やかになり、瑞穂の友人として瀬戸さんと相対することができるようになった。
そんなものは一時的なものだった。父の死や母の感情、そして切れた糸の存在はおかしいほどに俺を混乱させた。
瀬戸さんが土屋くんと付き合っていると知ったときはひどく意外に感じてちぐはぐなように見えた彼らだったが今では二人を見ると妙にしっくりする。糸は、決して幸せな相手同士を結ぶのではなく、相性のいい相手とつながっているだけだ。瀬戸さんと土屋くんの糸は結ばれてはいなかったが、そんな夫婦も、カップルも山ほどいる。だからきっと、二人はこれからもうまくやっていくのだろう。
俺は俺で、あれだけ重荷であった糸が切れてなくなり、必死に背負っていたはずの荷物が消えてしまった。なんてことだ、と吐きそうな気分になる。
俺は、瑞穂に対して、なんの愛情も抱いていない。
当たり前だ。そう思う相手を、俺は選んだのだから。