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20 落書きの世界

 

 茶碗に片手を添えて箸を持つ。二人しかいない、静かな食卓だった。湯気が立つ味噌汁をそっと持ち上げ、息をかける。ゆっくりと飲んで、テーブルに置く。


「あのさ……お兄ちゃん、朝ごはんくらいなら私が作るよ」

「由美は寝ときなよ。別にそれほど負担にも思ってないし」

「そう? うん、ううん……」


 そうなのかなあ、と由美は困ったように視線をぐるぐるさせて、卵焼きを食べている。俺は苦笑しつつも朝食を終え、テーブルを片付けた。由美を見送った後にお盆に食事を載せて、階段を上がる。廊下を進み、突き当たりのドアの前にじっと立った。そしてそのまま膝を立てつつ座り込み、食事を床に置く。


 こんこん、と。ドアに向かって拳をうった。


「……母さん、食事、置いとくよ」


 返事はない。別に、いつものことだ。




 ***





 この世には少し不思議な力がある。幼い頃、ページをめくると色とりどりの物語が本の中から飛び出した。本の中にいる登場人物達はみんなそれぞれ奇妙な力を持っていて、大活躍をする。空を飛んだり、仲間の危機を救ったりとみんなとにかく大忙しで、俺は両手を打ちながらケラケラと笑った。彼らのことを俺は物語の枠を飛び越え、友達のように思っていた。なんせ、自分も人とは違う力を持っているから。


 きらきら、きらきら。みんながみんな光っていて、自分もその中の一員だと思っていた。きっと大きくなったら、彼らのように物語に書かれるような冒険をするのだ。布団の中で本を抱えてお宝を求めて海賊船を走らせる船長になったり、反対に悪者を追いかける正義のヒーローになったり、考えるだけで幸せな日々だった。


 けれど、全ては幼い自分の空想で、色あせたちゃちならくがきなのだと理解したのはそう遅くはなかった。

 物語は物語だ。それが現実に近づくわけがない。


 街を歩くと赤い糸がそこいらに伸びている。気持ち悪いほどのゆらゆらと、うねうねと動いている。考えて、ぞっとした。この糸は見知らぬ男女の縁を繋いでいる。これが『赤い糸』と呼ばれるものだと気づいたのは一体いつの頃だろうか。


 他人に見ることができない『何か』を知っているという事実は万能感と、そしていつでもわずかな不安も引き連れた。

 ゆっくりと家を出過ぎたから、もう少し急いだ方がいいかもしれない。こつこつと地面を叩くように歩きながら先に家を出た由美はすでに坂のあたりにいるだろうか、と考えた。高校の前にはずんと高い坂がそびえ立っていて、誰しもが毎朝ため息を吐きながらそれを登る。俺が知っている中で、楽しそうに坂を登る人間は一人しか知らない。


 由美は坂があまりにも苦しいから、登校がギリギリになってしまうのが嫌ということでいつも俺よりも早く家を出る。

 そんなに嫌なら別の高校に行けばよかったのにと思わないでもないが、丁度、由美が受験の時期に父が死んだ。彼はあまりいい父親ではなかった。いなければいいのに、と何度考えたかわからない。


 それでも母は父が死んでからふさぎこむようになり、今ではまともに部屋から出てこない。彼女は、父に恋していた。そんな不安定な母を見て同調し、苦しくなる由美の気持ちもわかる。だから不安を少なくするために、俺と同じ高校を受験した。これが、去年の春のことだ。


 吐き出す息が白かったのは、すでにしばらく前のことだ。もう少しでまた一つ学年が上がる。赤く変わった信号を確認して、その場で止まった。あいかわらず、人がいればどこもかしこも赤い糸だらけだ。車が排気ガスを撒き散らし、いくつも通り抜けていく。雑踏を耳にしながら、遠く瞳を細めた。


 まるで誰もががんじがらめになっているように見えた。

 俺が見ることができる『赤い糸』は物語のように幸せなもの同士をつなぐものではなく、ただ相性がいい人間を教えてくれる軌範にすぎない。それでも糸の力は強く、強烈だ。父と母は赤い糸に結ばれていた。だからこそ父が外で家庭を作っていることを知りながらも、母は彼と別れることはなかった。そして結局最期まで父に振り回された。


 そんな両親を見ながら願ったことは、俺は糸などには振り回されてたまるものかということだ。誰しも、赤い糸を小指に結んでいる。だから俺だってそうだった。自分の指を見る度に吐き気がした。


 通り抜けた車の隙間から、一人の少女がこちらに向かって手を振っているのが見えた。「咲崎くん」と言っているんだろう。にこにこと、いつも元気に小さな体を飛び跳ねさせている。

 瑞穂、と俺が小さく口元を動かすと、彼女は気づいたのだろう。にっかりと口を開けて、さらに嬉しそうに笑った。信号が青く変わったから、足を踏み出す。うねうねと赤い糸が、世界を覆っている。


 ――だから、昔から決めていた。


「瑞穂、そっちに行くからまってて」

「あっ、ごめん、思わず! 咲崎くん、おはよう!」

「うん。おはよう」


 恋に狂った人間とは吐き気を及ぼすものであり、ただただ他人の迷惑を顧みずに、自己本位に生きる。そんなものに俺はならない。

 俺は、決して自分の赤い糸で結ばれた人間とは関わらない。好きにならない。好きになってたまるものか。




 決して、愛しく思う人間と、付き合ってなどたまるものか。





「瑞穂、今日も元気だね。でもまた膝小僧に絆創膏があるけど。もしかしてまたこけた?」

「うわあ! 気づかないでほしかったな……!」




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