2 暴走列車
小指の先には真っ赤な運命の糸が伸びている。
それは、一体誰か言い出したのかわからないけど、もしかしたら私と同じように、"見る"ことができる人がいたのかもしれない。
その不思議な真っ赤な糸は幼い頃から見えていた。最初に目にしたのは、父母の指先だ。互いにまっすぐに伸びた赤い糸は、彼らが遠くに行けばどんどん伸びるし、近づけば短くなる。なんとも不思議なものだなあ、と幼い私は二人の間をくるくる回り続けた。きっと不思議な子供と思われていたと思う。愛している二人の指に伸びているもの、と気づいたのは小学校低学年のときだった。テレビ越しにも見ることができるから、芸能人達がくっつくこともわかるし、予言めいたことを言って楽しめたのは、小学生までのことだ。
けれどもこの赤い糸、想像しているよりも固く結び合っているわけではなく、夫婦でも赤い糸は別々に伸びている人もいるし、赤い糸が結ばれて、仲良くご結婚したカップルだって別れてしまう。もちろん、赤い糸同士が出会ったならだいたいは付き合うことになるから、恋愛になんらかの関係があるとは思うのだけど、不思議だった。
ひと目会ったときにぴこんと胸がときめく、一目惚れの糸。と、いうわけではなく、真っ赤な糸がぐるぐるとひしめく教室を見て、もしかしたらと気づいた。これは、巷で噂の運命のカップルというわけではなくただ相性がぴったりな人を表しているのではないかと。
ならやっぱり運命の糸と同じじゃない、と自分の中で結論づけた。だって、相性がぴったりなら、やっぱりそれが運命ということである。
毎日見すぎた赤い糸で、誰と誰がくっついて、誰と誰が別れてしまったか、なんとなく察することができたけれど、見すぎてもお腹いっぱいになってくる。関わるまい、と口元を閉ざして、他人の恋愛事情に口をつっこむことなく見守っていたのだけれど、私自身、どうしても無視することができないものがあった。それは私の左手の小指をくるんと巻いている赤い糸である。
家庭科の刺繍糸のように細くて、頼りなくて、ふよふよしている赤い糸は、部屋の壁を通り抜けて、どこか遠くに向かっている。つまり、私にも、いる。運命の誰かが。それは一体、誰なのだろう。ベッドの上にごろんと転がり、左腕を持ち上げた。左手を透かしてみて、ちょいちょいと小指を曲げていじってみる。ふよふよ糸も動いている。
この糸の先を想像した。どんな人がいるのか。いつか出会うことができるのか。想像して、少しだけ息を飲んで、ひっそりベッドに潜り込んだ。もしかすると、誰かいると思っているのは私の思い込みで、本当は誰もいないかもしれない。
わくわくする気持ちが大半だったけれど、怖いと感じるものも多くて、想像だけを繰り返しいつもそこで終わってしまった。私は他の人と違って糸を見ることができるから、手繰り寄せていくことができるけど、勇気と言えばいいのか、そういった気持ちが湧いてこなくていつかまた、そのうちと毎日を繰り返し、眠りについた。そしてセーラー服からブレザーに変わり、スクールバッグを抱えて桜吹雪の中を歩いていたとき、私は彼に出会った。私の左手の小指から、ゆっくりと細い糸が伸びている。
色素の薄い瞳で桜の木の下で立っている男の子は、私と同じ制服だ。茶色いチェック柄のズボンの男の子だ。
ぴかぴかの制服を着た生徒達が上り坂を駆けていく。見間違いかと、何度も確認した。でも、たしかにはっきりと、私と彼は赤い糸で結ばれていた。
「あ……」
緊張のあまり、一瞬息ができなくなった。優しげな瞳をしていて、どこか儚さを感じる少年は、彼を見て一方的に驚いている私を不思議に思ったらしく、首を傾げていた。「あ、あの」 驚くべきことに、私は彼に声をかけていた。名前を知りたい。彼を見た瞬間、胸の奥がどくんと大きく音を立てた。それが自分の心臓の音だと気づいたときには、しゃんしゃんと鈴のように降りしきる桜の花びらの中を走って、少年のブレザーの服の裾をつまんでいた。
「な、なまえを」
思い返すと、このときの私は本当におかしかったな、と思う。後で名前は知ったけれど、咲崎くんはとても驚いている様子で、優しげな目をぱちんと大きく見開いた。なまえを、おしえて。そう口にしようとしたとき、「ひゃーーーーーー!!!」 暴走列車がやってきた。いや、自転車に乗った女の子だ。
女の子は私と咲崎くんを轢いた。と、思ったけれど、咲崎くんは男の人にしては細い体で、なんとか私をかばった。学校までは急な坂だから、バランスを崩して逆走してしまったらしい。咲崎くんをぺしゃんこの下敷きにした女の子は、ひぎゃあと大きく悲鳴を上げた。ごめんね、と何度も彼に謝って、大丈夫、と彼は返事をしたけれど、すっかり足をくじいてしまったらしい。私をかばったからだ。
ごめんなさい、と声を上げる前に、女の子がすぐさま咲崎くんの肩に手をかけ、「保健室、行こう!」と叫んだ。学校まではまだまだある。どうやって、と思った間に、彼女は再度自転車のペダルに足をかけ、咲崎くんをあっという間に後ろにのせた。いやそんな。まさかと考えていると、「うおりゃああああああ!!!!」 激しい気合いのもと、少女はぐんぐんと上っていく。
うそ、と、私はただ呆然と見送った。多分彼もびっくりしている。見回りの先生に二人乗りだと笛を吹かれても、緊急事態ですと彼女は叫んですべてを振り切り上っていく。驚くべき展開だった。彼女は、私の運命の人をさらっていった。
瞬きを繰り返して豆粒になっていく彼女をいつまでも見送るわけにはいかない、と私も慌てて彼女の後を追った。そして教室で再会したとき、彼女は「あのときの美人な人!」とびっくり声でこちらに人差し指を向けられたから、とりあえずお礼を言った。
「そう? ありがとう」
「すごい! 美人はやっぱり違うね! 言われたときの反応もスマートだ! 私、杉原瑞穂。同じクラスだったんだね」
「そうみたいね。私は瀬戸しおり」
入学したばかりでまだクラス全員を覚えていなかったけど、こんな元気な子がたしかにいたことを思い出した。お団子頭の少女は、かぱっと口を開けて笑った。あまりにも無防備な笑い方にびっくりした。それから、すぐにしゅんとして、自分の絆創膏だらけの膝小僧を見つめていた。
「さっきはごめんね。巻き込んじゃった人は隣のクラスの子だったみたい」
「そう……だったの。怪我の具合はどうなのかな」
軽く、世間話のように確認したつもりが、少し、言葉に熱がこもってしまったかもしれない。でも杉原さんは気づかなかった。「咲崎くんも少し足をひねっちゃったみたいだけど、これから足が治るまで、毎日送り迎えするよ!」 むん、と彼女は小さな体で胸をはった。咲崎くんって言うんだ、と心の中に言葉を刻んだ。
自分の小指を見てみると、ふよふよと泳いでいて、なんだかぎゅっと胸が痛くなってきた。この先に、誰かいるのかな。いないかもしれない。ずっと想像を楽しんでいたのに、いきなり具体的に降って来たのだ。頭のどこかがカッカとしてぐるぐるする。
でもそんな私に関係なく、はあっ! と杉原さんは大きな声を出して、両手をじたばたさせた。購入したブレザーが大きくて、サイズが合っていないから、小さな彼女の袖から指先は、ちょっとしか見えていない。でも、一緒に赤い糸もふわふわ揺れている。
「せ、瀬戸さんも怪我はなかった!? ごめんね私、いっつもこうで、おっちょこちょいで、ほんとにごめんね……!」
確かにびっくりはした。でも咲崎くんがかばってくれたし、それよりも膝小僧が絆創膏でいっぱいの杉原さんの方が重症だ。
「私は全然……。杉原さんの方が痛そうだよ」
「あ、これ? へへ、ごめんね、これ、いっつもなんだ。今日のやつじゃなくって」
おっちょこちょい、と言っていたのはこのことだろうか。
彼女と話していると、チャイムが鳴った。慌てて席について、真新しい教科書を鞄から取り出し、机に載せた。私の席は教室の一番後ろで、窓の隣だ。まだ僅かに寒い、頬をくすぐるような風がほんの少し開けられた窓から流れてくる。それから、ピンクの花弁が届いた。何かが、始まるような気がした。