16 空
「ちょっと工藤先生、口元にパンくずついてるけど」
「ひぃ……タッ……迫井先生!」
危なかった、タコイ先生といいそうになってしまった。自分の口元を慌ててごしごしする私を迫井先生は首にくいっと角度をつけながら私を見ていた。「最近、昼は職員室で見かけないみたいだけど、どっかに行ってるわけ?」 ドキッとして視線を金魚のごとく泳がせまくる。
「い、えあの、なんといいますか、その、購買で~、パンを買って、食べて~」
「あそこは生徒用」
「ホントはコンビニで買っています! 大丈夫です!」
「それは昼にいない説明になってなくない? ……まあいいけど。なんか前に変なこと聞いてきたし、工藤先生、最近いつも以上に変だね」
目をつけられているからか、まるで地を這うような声として聞こえてしまう。ぎゅっと心臓が痛くなりつつ、もう、迫井先生から逃げてしまおう! と「すみません、次の授業が!」と無理やりに会話を終わらせた。失礼とは思いつつ、こう言えば追いかけられてくることはない。
想像通りに、先生は言葉を止めて、ふんっと鼻から息を出したがそれだけだ。失礼します、と頭を下げて足早に通り過ぎようとする。
「……校門当番、ちゃんとしてよ。生徒に嫌われたくないなんて理由でやってられるほど、甘くはないから。ちゃんと、生徒を見なさいよ」
「はは……」
一瞬で、びっくりするほどぺちゃんこになった。乾いた笑い声を抑え込んで、教科書を抱きしめて廊下をかつかつと歩いていく。気づくと指が真っ白になるくらいに強く握りしめていた。凹んで、膨らんで、なのに吹き込む息が足りなくて、どんどんへたって浮き上がらない。
***
明日が来なければいいと願ったのは一体いつのことだろう。学生時代、嫌なことがあったときは電車や自転車に乗りながらもこのまま学校と反対に逃げてしまったらどうだろうと考えていた。でもそんなことをする勇気もなかったので、それなら学校が爆発してしまえばいいと思った。もちろん爆発はしないし、自分以外のみんなが上手に生きているように感じる。教師になった理由も、親が教師だったから。なんとなく決まった進路だから目的も、したいことも、何もない。
何もない。
空っぽだ。
そうなのだろうか?
さて、目の前では分厚い眼鏡の少女が問いかけている。地味な女の子で、昔の私だ。自分が一番強くて、すごくて、最強だと思っていた頃だ。今では忘れたくてたまらない過去である。
腕を引っ張られたように感じたから、振り払った。私は自分が凡人だと知ったことが辛かったわけじゃない。根拠のない万能感を持っていた自分が恥ずかしくて、見ないふりをしたかった。私は何でも見ないふりをする。
――ちゃんと、生徒を見なさいよ。
「工藤先生?」
名前も知らない“ことになっている”彼女が不思議そうに首を傾げた。今日もいい天気だから、一緒にご飯を食べた。
「どうかした?」と、彼女が聞くから、何でもないよ、と笑って否定した。自分にもそう言い聞かせて、パンを両手で握りしめて、苦しくて、顔を伏せた。言葉が怖い。言いたくない。でも、擦り切れたような小さな声が、喉からこぼれていた。
「……本当は飛び降りる気なんてなかったんだよね?」
とうとう、言ってしまった。
暑いはずなのに、肌寒いのは強い風のせいだろうか。長い沈黙が落ちた。おそるおそる顔を上げると、目の前の少女はどこかに表情を落としてしまったみたいにぴくりとも動かないで、ただ一点を見つめていた。ただ、座っていた足の上に置かれた両手の拳だけが真っ白になるくらいに、強く、強く握りしめられていた。言ってしまったのだから、もう戻ることなんてできない。続けるしかない。
「あなたが落ちようとしていた場所には大きな木があったもの。あんなところに落ちても……意味がない」
彼女が屋上に入るための鍵を見つけた木である。だから初めから彼女が命を落とすつもりはなくて、ただそのふりをしていたということはわかっていたのだ。それでも、ほうってなんかおけなかったし、万一もある。
「ごめんなさい、もう名前も知っているよ」
それは迫井先生に確認した。
妙なことを聞くやつだなと顔をしかめられたが、迫井先生は誰よりも生徒の名前を覚えている。名札をつけなさいと何度も指導した生徒のことは特に覚えていて、彼女は今年入ったばかりの一年生だった。誰も名前を覚えてくれない、と彼女は言っていたが、そんなことがあるわけもない。誰かが彼女のことを知っているし、見ているに決まっている。
でも本人が嫌がっていた名前だから、わかっていてもどうしても口にすることができない。
そして、やはり不用意に彼女の心に内に踏み込んだのではないかと怖くて、心臓が痛くなる。けれども目の前の彼女は真っ青な顔をして、がたがたと震えていた。
「ち、違うからね、責めたいとか、そんなんじゃないの!」
飛び込むように抱きしめた。他の人からすればどうでもいいことなのに、苦しくて、辛くて、たまらないときなんていくらでもある。どうでもいいと笑われたくないのに、吐き出したくなるときだってある。私はちょっとは大人になったから、彼女の言葉を笑う気なんてない。でも、彼女にはそれがわからない。馬鹿馬鹿しいと一笑される自分を想像して、恥ずかしくて、前を見ることもできなくなって、まるでこの世が終わったみたいに感じる。
顔を伏せた“彼女”は私を抱きしめ返した。力ない指先だった。苦しくて、何もいうこともできない。でも、何かを言いたい。声にならないような、うめくような言葉を繰り返し、やっと言えたのは、「……飛んだら」と、いう一言だ。
「……何かが、変わる気がした?」
続きを私なりに考えて問いかけると、ぱっと女の子は顔を上げた。
きっと、ふりを、するだけのつもりだったのだろう。ただのおまじないで、リセットみたいなものだ。それでも下を見ると高くて怖かったから、万一があっても大丈夫なように大きな木の上になるようにした。
「うん、わかった」
誰に言うでもなく、自分に向かって頷いた。私を掴んでいた彼女の手のひらを両手でぎゅっと握りしめて、まっすぐに見つめる。
「一緒に飛び降りよう」
***ケース3 【工藤湊】
「…………え? 工藤先生?」
「大丈夫、大丈夫」
私を信じて、と先生は笑っていた。信じるも何も、この人は今、とてもおかしなことを言った。工藤先生は背が高い。でも、自分よりも背の低い迫井先生にいつも怒られていて、どんどん小さくなっていく。話したことはないけれども、工藤先生は私にとってそんなイメージだった。
なのに、今はぴんと背中を伸ばしている。
父の一周忌を終えて、私はどうにも胸の内がおかしくなった。ぐわん、ぐわんといつも頭の中で何かが回っているみたいで苦しかった。だから木のうろの中に屋上への鍵を見つけたとき、それは天啓のように思えたのだ。一人になりたかった。
屋上に忍び込んだことを指摘されたり、危ないことをしたと大げさな話にしたくなかったから、申し訳ないと思いつつも無茶なことを言った。馬鹿なことをしたと思う。私達を振り回した母よりも、誰よりも兄に飽きられたくはなかった。
気弱な教師なら丸め込むことができるだろうと思ったのに、こうして先生と二人で話をしていると、不思議とイメージが違った。先生は分厚い眼鏡の向こうの瞳をきらきらさせて、彼女は私の腕を引っ張っている。「一緒に落ちよう」 にっこり笑って、恐ろしいことを言い出した。「大丈夫、大丈夫」 そんなわけない。なのに、自分の足が抵抗しない。それどころか先生にくっついて、歩いている! 「……えっ」
落ちた。
つん、つんと引っ張られて片足跳びするみたいになっていた足の先が、唐突になくなった。「ひっ」 ひゅおっと風が巻き上がる。スカートが翻ってびょうびょうとうねるような風が巻き上がり、「あ、あああ、ああ、あーーーーー!!!」 大声で叫んだ。
目なんて開けていられなかった。恐怖で涙もこぼれていたかもしれない。飛びたい、と思ったのに、本当にそうなるなんて思わなかったし、なりたくもなかった。
「し、死にたくな、ない……!」
「死なない、死なない」
「なんっ……先生、なんで、こん、こんな……っ!」
「大丈夫、目を開けてみてよ」
このとき私は先生と手のひら同士をぎゅっと握りしめ合っているということに気がついた。体中が風にふきさらされて冷たいのに、そこだけが妙に温かい。いつまで経っても覚悟していた衝撃がないことも奇妙に感じたことの一つだ。ゆっくりと、まずは片目だけを少しずつ開いていく。そして両目を見開いた。
「ひっ……」
今度は違い意味で声が出ていた。飛んでいる。
文字通りに、飛んでいる。すでに桜も散ってしまった木々が校門からその先までを深緑に染まっていた。人も木も、建物もちっぽけで風に任されるがままに私と工藤先生は空を飛んでいた。
「な、なんで……っ」
ひょう、ひょう、ひょう。風の音が大きくて、自分の声すらも聞こえない。首を右に、左にして片目をすがめながらも襲いくる壁のような何かにぶつかる。ぷあっと息を吐き出した。おでこの前髪がひっくり返って、大変なことになっているけど不思議と苦しくはない。でも絶対におかしい。わけがわからない。
「先生ね、空を飛ぶことができるんだよね」
声なんて聞こえない、と思ったのに、なぜかきちんと耳から通って私の体の中に響いてくる。「えっ、あ」 言ってみると、ちゃんと話すことができた。聞こえないに決まっている、と思っていたのは私の思い込みだったのか、私の左手と先生の右手をぎゅっと合わせて、スカイダイビングでもするみたいに体を大の字にしてばたばたと服が音を立てた。
ときどき私は両足のバランスを崩してしまってじたばたとさせながらも、なんとか先生に視線を向ける。
「と、飛べるって、なんで、どういうことですか!?」
「どうなんだろう。私にもわからないよ。高いところからジャンプしたら、人よりもちょっと高めに飛べる。それだけなんだよね」
「それだけなわけないと思いますけど!?」
これ、着地ってどうなるの? と不安はまずは横においておくことにした。気にしてしまったら心がもたない。
「それだけなんだよ。私だって、昔は自分がすごく特別な存在だと思ってた。でも、飛べたところで自転車よりも遅いし、それほど遠くまでいけるわけでもないし、普段役に立つわけでもないし」
飛行機があるんだから、私が飛べたって意味ないじゃん? と苦笑する先生は、いつもよりもどこか幼い。
「あの、でも誰かに見られたりとか、これ」
「案外見られないんだな。それがまた寂しかった」
だから、と先生は悲しそうに呟く。
「それに気づいてから、飛ばなくなったんだ。ねぇ、飛んでも変わらないよ。本当に、なんにも」
そうなのだろうか。
でもきっと、その言葉は先生の心の中で何度も繰り返されてきたものなんだろう。足元にはちっぽけな豆粒のような人達がゆっくりと歩いていて、敷き詰められているのはミニチュアの建物だ。その中に、覚えのあるものもあった。デパートの看板には飯塚くんの顔が大きく描かれていたから、私はよくその看板を見上げていた。なのに今は、それすらも小さくて、ぼんやりしている。
飛んでも、たしかに何も変わらない。
がっくりした。もっと大きな変化があるかと思った。そんなわけない。どこにいたって、私は私なのだから。
だから、「そうかもしれないです」と先生に肯定する。それでも。「――価値観、ぐるぐるにはなります!」
なんせ、重力が消えてしまったのだ。もう笑うしかない。大口を開けてけたけたお腹のそこから声を出すと、工藤先生は眉をよせてなんだか変な顔をした。泣き出しそうな顔にも見えた。そのとき、がくんと体が落ちた。落ちたという言葉は比喩ではなく、本当にそのとおりだ。「うわっ」と先生は慌てて私を引き寄せて自分の胸の中にかばった。ひいっ、と悲鳴すらも叫ぶことができない。
落ちていく。ぐんぐん下に行くにつれて、耳の中がきんとする。強く瞳をつむって、うん、と息を止めた瞬間、がさごさと何かにひっかかり、どさりと私は落ちた。工藤先生の上に。
先生は体を大の字にさえて伸びていて大変なことになっている。それから自分が落ちた場所を見上げると木の枝が折れていてしまっていた。周囲を見回すと、私が屋上の鍵を見つけた大きな木だ。下は空き教室だから生徒の姿は誰もいない。遠くのグラウンドでは、昼休みに遊んでいる生徒の声が聞こえる。
唐突に、現実に戻ってきたみたいだ。
屋上から思いっきり踏み出してどこか遠くに行けたと思ったはずなのに。
証拠の変化は落ちた葉っぱと、頭の上の折れた木の枝だけで、本当に私は空を飛んだのか今となっては疑わしい。夢だったのだろうか。そんなわけない、と首をふったときに、自分が踏み潰していた工藤先生を思い出して「先生っ」と声をかけると、「大丈夫」と彼女は体を起こした。
先生の上から逃げ出して何かを言いたい、言わなきゃ、と思ったとき、彼女の顔の変化に気づいて、私は指さしながらわなわな震えた。
「あの、め、眼鏡が……」
ばきばきだった。先生は、「あー……」と呟いてつるを持ち上げた。「毎回こうなるから、飛ばなくなったってのもあるんだよね……」 切実すぎる事情だった。
そのとき先生のあまりにも情けない顔を見て、笑ってはいけないと思いつつも吹き出してしまった。先生も釣られて笑って、次に聞こえたものは予鈴の音だ。
***
お互い大笑いしたあとに予鈴の音が聞こえた。地面に座ったものだから、スーツは土に汚れているし、ばきばきの眼鏡はもう使うことができない。後先を考えていなかった自分にしまった、と思いつつもすっくと彼女は立ち上がる彼女を見送った。
「咲崎さん!」
思わず、名前を読んでしまった。彼女が名乗らないなら、知らないふりをしようと思っていたのに。しくじった、と口元を押さえると、咲崎さんはふわりと振り返った。
「大丈夫です」と、言って、笑った彼女は次の日はもう屋上には来なかったし、代々受け継がれてきたという鍵は私の職員室の机の上に置かれていた。どうしたもんか、と頭を抱えてしまった。
「……眼鏡、やめた?」
相変わらず迫井先生はじろりと私を見上げた。眼鏡の予備も度が合わなくなっていたから、いっそのこと諦めた。びくんっと私は跳ねて先生を相変わらず見下ろす。不機嫌な顔をしていらっしゃる。
「は……その、あ、新しいことに挑戦しようと思いまして、こ、コンタクトを……」
「いや別に怒ってないけど。いいんじゃないの。動きやすそうで」
「…………」
彼は体育教師なので、動けるかどうかを基準にして判断しがちである。そして私から渡されたバインダーに挟まっていた紙をぴらりとめくった。摘発件数、二件。相変わらず圧倒的な少なさだ。先生の眼光が鋭くきらめく。
「いなかったです!」
拳を握った。言ったあとに、息を吸い込んだ。言われる前に言え、の精神で前のめり過ぎた。しかしここは進むしか無い。今度は必死に吐き出した。
「い、いなかったんです、本当に! みんなきちんとしていて、ちゃんとしてて、その」
「先週、倉持先生だったからじゃないの。あの人めちゃくちゃ厳しいし。今週はいなかったんなら別にいいじゃん」
そして拍子抜けをした。
「だから何? 別に、僕だって言いたくて言ってるわけじゃないし。この五月でしょ、暖かくなって、生徒の気持ちと服装が緩むと同時に変な人も湧いてくるわけよ。それで変なのくっつけさせるわけにはいかんでしょ。ほんとはそんな変なやつが存在するのが一番許せないんだけど」
苛ついたような口ぶりで、先生は椅子に座りながら足を揺らしている。
奇妙な感覚だった。もちろん、迫井先生が悪い人ではく、熱心な人だと知っていたから、無理矢理にでも指導して数を増やせ、と言うわけがないとわかっていたけれど、それでもなんだかびっくりした。
胸の中のつっかえがいつの間にかとれている。へろりと力が抜けてしまった。はあ、と息をついてぼんやりしていると迫井先生の話が未だに続いていることに気が付かなくて、慌てて首を振って、ぴんと背筋を伸ばした。
「だから、ちゃんと注意して、確認してよ。女子だけじゃなくて男子だって危ないし、色々あるし、一応学校の評判ってのもあるし、下がったら内申に響く子もいるかもしれないし」
「は……はい!」
「工藤先生が言いづらいって気持ちはわかるけどね、生徒と友達みたいな感じがあるでしょ。僕はそういうのいいと思うけどね。友達じゃないと言えないこともあるでしょ。工藤ちゃんだっけ?」
手元のペンをくるくる回して工藤先生は唇を尖らせるように話した。大人として見られていない、と悔しいような、恥ずかしいような気持ちになることはあった。だから、そんな考え方があるなんて思わなかった。
「僕なんて、タコイって呼ばれてるみたいだけど。断然マシじゃん」
そして肺の中の空気が口から出てしまうかと思った。これは絶対に笑うわけにはいかない。
「せ、先生、ご存知……だったん、ですか……」
「好きに呼べばいいよ、好きに呼べば」
そういって、「じゃあね、おつかれ様」と言って背中を向けた迫井先生を見ていると、不思議と今までよりも距離が近くなるのを感じた。私よりも、二つか三つ上な程度なのにしっかりしていて教育熱心で、小さいのに大きな背中が自分の薄っぺらさを知ってしまうようで怖かった。でも当たり前なことに彼はきちんと人間で、ただの私の同僚だ。
そう思うと、疑問が湧き出てきた。
「……あの、先生って休日は何をしていらっしゃるんですか……?」
いやどうでもよすぎる。
それ、今聞く必要ある……? と心の中は冷や汗でいっぱいである。だというのに、迫井先生はちらりと私を振り返って、ボールペンのお尻でこんこんと自分の顎を叩く。真面目に考えてくれているらしい。
「スルメくってる」
「私と同じですね!!!!」
「共感めっちゃ激しくない?」