15 心臓止まるかと思ったよ!?
なんで一体どういうことだってばよ危なすぎるんですけど、いやよ放して邪魔しないでスカートひっぱらないでよ、放すもんかぁ放すもんかぁ放すもんかコノヤロー!
といった流れをあらかた終えて、私と少女はぜえはぁと屋上のコンクリートの上にて手をつき崩れ落ちた。運動不足の大人としては必死にがんばりすぎてオエッと口から何かが出てきそうなのだが、少女も少女で似たようなものだ。彼女が文化系(推測)でよかった。
「あ、危なかったよ……危なかった……一体なんでこんなことを……」
「説明する義理はまったくないです……」
「あるよ!? めちゃくちゃあるよ!? 心臓止まるかと思ったよ!?」
改めて少女の顔を見てみると、どことなく儚い雰囲気をした小柄な女の子だった。けれども彼女はさっきまで勢いよくがるがる進んで行こうとしていたので、夢か何かかと思った。思い出すと心臓がヒュッとする。
「ええっと……」
あまりにも初めてすぎる経験に頭がついていかない。つまりこれは、あれだ。それだ。ぺちゃんこだ。くらりと血の気がひきつつも確認できるところはしなければいけない。ストレス発散のためにと来た屋上だったが、本当によかったとため息をつかざるを得ない。まずは本人に事情を聞いて、担任の教師、いやご家族とも相談してと、とにかく頭の中がぐるぐるする。でも一番にすべきことは。
「あなた、名前は!? どこのクラス!?」
学校の生徒達の名前はほぼほぼ把握しているつもりだけど、もちろん全員ではないので彼女の名前は出て来ない。
「言いたくありません」
「あ、あのねぇ……」
とは言っても名札を見ればいいだけでしょ、とちらりと目を向けると本来なら校章とともにつけられているはずのバッヂごと存在しない。「名字は嫌いなんでつけてないです」 なんてこった。
はあ、とため息をついて私はゆっくりとコンクリートの上で正座をする。今からするのは真面目な話である。生徒に指導するのが怖い、とか嫌われたくない、とか。そんなことを言っている場合じゃまったくない。
彼女も何かを察したのか、私と同じように座った。今まさに飛び降りようとしていたはずなのに、意外なほどに冷静であることはありがたかったが、むしろそっちの方に違和感がある。これはやばい、と思わざるをえない。互いに向き合って、風通しもよすぎるためにひゅるひゅると風が頬をなでて、髪の毛までばたばたと泳がせていく。
「今、あなたはここから飛び降りようとしていたところを、私は止めました。じゃあ次からはしないでください、わかりましたはい終わり……なんてことは、私は教師としても、一人の人間としてもできません」
「いえ隙を見つけてまたやろうかなとは思っています」
「するんかい」
堂々としすぎじゃないだろうか。ここまで来ると何を言ったらいいかわからない。
「何か、悩み事があるのなら、力になります。話してくれませんか?」
「お断りです」
「……ですよねぇ」
名前を言いたくないというくらいなのだ。それ以上話してなんてくれるわけない。ため息が出た。予鈴のチャイムが重たく響き渡る音がする。いつの間にか随分時間が経っていたらしく、なんとなく慌てて周囲を見回したとき、彼女はすっくと立ち上がった。スカートがひらめいて、健康的な膝小僧が眩しい。
「それじゃあ工藤先生。授業がありますので、さようなら」
「いや、さよならじゃなくて……!」
こちらの名前を知っているということは、どこかで会ったことがあるということだろうか? でも受け持ちのクラスの子達の中にはやはり覚えがない。ぱっと目をひく容貌をしているのに、いますぐに消えてしまいそうな、不思議な少女だった。
少女はひらりと背中を向けたが、まさかここで諦めるわけにはいかない。次の授業は空き時間だったし、そうじゃなくても人命と引き換えだ。躊躇など一つもない。勢いよく立ち上がる私に向かって少女はゆるりと振り返って、「追いかけたら死にますね」
「えっ、死……えっ?」
「別に、死ぬ方法は一つきりじゃありませんし。先生が私を止めようとしたところでここから飛び降りる以外の方法を探すだけですよ」
「そっ……いや、あの」
「でもあんまり考えるのも面倒だし、できればここがいいとも思っています。私のことは探さないでください。屋上の鍵も変えないでください。……無理ですか? それじゃあ明日のお昼もここに来ます」
脅し文句がひどすぎる、とひくついた私の表情を見て、さすがに彼女も無理を言っていると悟ったのだろう。
「それまでは生きているので安心してください。なので、放っておいてください」
か弱そうな姿のくせに、力強い声だった。
ぽかん、と私が口を開けている間に鉄の扉は閉まっていて、片手を伸ばして力尽きた。すぐさま本鈴のチャイムがなったが、お昼ご飯なんてもちろん食べることはできなかった。
***
「はいこんにちはーーーーー!!!!」
「いらっしゃいませ」
店か何かか。
スパーンッ! と屋上の扉を開けると昨日の少女がお弁当を開きながらピクニックをしていた。時間になったと勢いよく走ってきたので相変わらず口からオエッと何かが飛び出しそうだ。
「今日こそ話そう、話し合おうね。まずは名前からスタートしようか」
「スタートすべきは食事です。卵焼きが美味ですので」
「いやそんな当たり前です的にいうことではなくない?」
一体全体、何がどうなっているのか。もちろん私はお昼のことなんて考えてもいなかったから何も持っていない。力尽きてへたり込みつつ腹の音を鳴らしていると、そっと少女からおにぎりを恵まれた。いやだから、何をしているの?
「しそ風味がとてもおいしいけれども!」
「兄は料理が得意なので」
「お兄さんが作ってるの!?」
***
それからというもの、私と“彼女”は屋上で出会うようになった。毎日昼の時間になると駆けつけて、よし今日も元気だ、と少女の肩を叩く。もちろん、時間なんてこれっぽっちもない日もあるので行って、確認して、それじゃあね! と手のひらを振ることもある。天気の悪い日はもちろん免除だ。
こうして互いにルールを作って、色々と確認する中で、彼女が屋上に忍び込むことができた理由も知った。なんでも学校にある大きな木にできたうろの中に、ぽつんと鍵が入っていたらしい。置かれて書かれたメモとともに察すると卒業生から代々引き継がれている屋上の鍵だそうだが、余計なことをしてくれたものだ、と丁度屋上からよく見える位置にある今日も立派すぎるほどに大きく枝という腕を広げているそれを睥睨する。
一年の教室の一部の窓をわさわさと枝と葉っぱを伸ばしていて隠していて教室が暗すぎると不評なのだが、私は案外好きだった。教卓に立ちながら待ち時間があったときに、ふと顔を覗くと映画か何かを見ているような、一枚の絵を切り取ったような気持ちになった。なのにこんな裏切りがあるとは思わなかった。ギリギリと歯ぎしりしたい。
何度も顔を合わせていると少しずつ距離も縮まってくるものだ。彼女は相変わらず名前は教えてくれなかったけれど、別にそれは問題ない。できれば本人の口から教えてもらいたいが、無理をして台無しになってしまっては元も子もない。
だから彼女はあの日、なぜ屋上から足を踏み出そうとしたのか。その理由をぽそりと、ぽそりと教えてくれたときは驚いたが、誰かに吐き出したいときもある。口を閉ざしてただ続きを聞いた。
「飯塚健二くんと、中口まゆかさんとのことで」
その言葉は、あまりにも意外で私はきょとんとして瞬いてしまった。そんな私の顔を見て、彼女はきっと強く睨む。
「飯塚くんのただのファンが、つまらないことを考えてって言いたいんでしょう!」
「い、いやいや、そうじゃなくてね。でも、あの二人ってもう一年以上前に破局してたよね?」
飯塚健二と、中口まゆか。
二人は世間を騒がせた、人気俳優と人気女優の大物カップルだ。彼らがくっついたということに世間は一時騒然として、ニュースはそれ一色になった。そしてくっついたということよりも正直に公表したということにも驚きの声の方が大きかったように思う。嘆くファンも多かったが、世間は概ね好意的に彼らを見ていた。一年前までは。
若い二人の破局報道もあっと言うまで、彼らは赤い糸で結ばれていなかった、と書かれていた週刊誌の表紙をコンビニで見かけて、本当にそんなものがあるんなら私が見てみたいくらいだとため息をついたものだ。
個人的な考えをいえば芸能人達の惚れたはれた、なんて話はどうでもいいのだけれど、人によっては大問題であることくらいはわかる。目の前の少女にとってはそうだった、ということなのだろうが、それにしても時期がおかしい。
「……飯塚くんが、中口さんとお付き合いするということを知ったときは……本当に、ショックでした。でも、ショックだったというのは自分にも可能性がある、と思っていたわけではなくて、うまく言えないです。でも、相手の人が中口さんなら仕方ないとも感じたんです。だって同じテレビの向こうの人達ですから」
お弁当のお箸を握りながら、消えてしまいそうなほどの小さな声で、少しずつ続けていく。
「でも、別れちゃったじゃないですか。あんなすごい人達でもだめなんだなって。うち、父親もしばらく前に亡くなったんですけど。いや、それはどうでもいいんですけど、ほとんど家にいない父親でした。だから、さっさとわかれたらいいのにと思って、でもわかれなくて……それで父親の一周忌が終わったとき、なんかもう、すごく、もう、嫌だなと」
屋上までの階段を上っていました、とか細い言葉で結んだ。
「私、ちっぽけなんです。ずっと、もっと大きな何かだと思ってました。なのに違ったんですよ。飯塚くんと、中口さんみたいなテレビの有名な人でもだめなのに、私なんて、誰も名前を覚えてくれないくらにどうでもいい存在なのに」
「…………」
自分の父が死んだことをどうでもいいという彼女の心情を、私なんかが全て理解できるわけがない。
それなのに、少しだけ近い距離を感じた。私が彼女と同じくらいの年の頃はいつだって根拠のない自信があって、何でもできると思っていた。
それがいつの間にかぺしゃんこになって、今では生徒にうまく指導もできない情けないただの大人だ。以前に授業中にスマホを使用していた子に注意をしたときだって、本音はもっとうまく隠してほしい、と願っていたのだ。何でも見ないふりをしたかった。
こんな自分がどんな言葉で幼い彼女を慰めればいいのかわからない。ふと、目の前にはもう一人、女の子がいた。メガネで、ひっつめ髪の地味な姿で、セーラー服は膝丈だ。洒落っ気の一つもない。幼い頃の私だ。でも、きらきらとした瞳で分厚いレンズの向こう側の空を見上げていた。
だから私も同じ先を見つめた。
どこまでも行けると思っていた。空を駆けて、どこまでも。見上げると、つうっと細長い雲が流れている。
あんなふうに、私だってどこまでも。