13 僕は、あんたのことが
『……でも本当のことだし』
『許すも許さないもないよね』
『汚いと言われたことは忘れられないし、本当のことだったから、すごく痛かったけど』
よかった、と瀬戸さんはぽとりと胸の内を呟いて前を向いていた。静かな風が吹いていた。
『土屋くん、言ってくれてありがとう』
言われたから気がついたと感じる彼女の胸の内は、その一言では終わらない感情が渦巻いていた。でも、あんな言い方をしなくていいじゃない、とか恥ずかしかったとか。彼女の言葉の全てを僕は飲み込んで、じわりと耳の裏が熱くなった。
(なんでそんなことを思えるんだ)
じわじわ、しゃわしゃわと響く虫の音と、ホイッスルの音や盛り上がる生徒達の声がぐちゃぐちゃに入り混じった。
わからなくて、手元のペットボトルの蓋を開けて、そのまま飲んだ。冷たい水が体に染み込んで、少しだけ落ち着いたような気がする。息をつくと瀬戸さんがこっちを見ていた。ほしいわけではないようだけど、ただの礼儀のような、社交辞令のような気持ちでペットボトルを彼女に向けて、「飲む?」と聞いた。
一秒、二秒の間のあとで彼女は一瞬にして指先まで真っ赤にさせてさっきまでの考えは全部消し飛んでしまったらしい。それから彼女の考えを聞いて、また僕は間違えたということに気づいた。でも人の感情を見ないようにするのはすでに癖のようなもので、なるべく表情を殺した。いつの間にか瀬戸さんも挑むような気持ちで僕からもらったペットボトルを受け取って水を飲む。蓋を閉める頃には互いにそっぽを向いていた。
無事に体育祭も終わり、半年ごとの委員を終えて、僕は見事にまたじゃんけんに負けた。これでまた秋の球技大会もこき使われることになるんだろう。示し合わせたわけではないが、瀬戸さんも同じく体育委員になった。てっきり僕のようにまたじゃんけんに負けたのかと思ったら、あまりにもみんなが嫌がるから、押し付け合っている様に腹が立って、自分から手を上げたそうだ。でも上げたあとに後悔をしたらしく、僕にはじゃんけんに負けたと言っていた。あいかわらずの嘘つきだった。
『この人、ちゃんと笑うんだな』と、瀬戸さんが考えた。僕はどうやらいつもよりも表情筋が緩んでいたようで、慌ててひきしめた。『今、すんってした』 そして何か妙な効果音をつけられた。
付き合っているふりは続けていたが、いつの間にかなあなあになっていた。瀬戸さんの目的は咲崎との赤い糸を切ることであって、とっくに目的は果たせている。ただ終わりを見つけることが難しいだけだ。だから週に一か二度、校門を下ってため息をついてしまうような下り坂を二人で歩いた。
待ち合わせの場所を相談することができるからスマホは便利だ。ベッドの上になげっぱなしにしていたスマホは、絨毯の上に置くようになった。本を読んでいるとき、たまにぴかりと画面が光る。いくつかの操作をして、返事を考えて打ち込んだ。
こうして僕はいつもゆっくりと文字を打ち込んだ。そして少しずつ何かが変化していった。
***
教室の中で足を放り出すようにしながら椅子に座っていた。
机の中に足を折りたたむようにしていれるとどうにも苦しい。ありがたいことにも前の席には誰もいない。椅子の背もたれに片手を乗せて広々とした窓を見る。それはまるで映画のスクリーンのようだった。
日の当たりづらい真っ暗な教室の中で、窓のような大きなガラスがぴかぴかと光っていた。その向こうでは大きな木々がわさわさと揺れている。それが真っ赤な色合いに変わって、散った。季節を飲み込むほどに、木々の色合いは変わっていく。変化をしていく。
――空を見上げると、どこまでも真っ赤に染まっていた。
「土屋くん、どうかした?」
「いや……」
一体何を考えていたんだろう。教室でもなんでもない。ただの、いつもの坂道だ。桜の木は赤く染まり、まるで空まで覆っているようだった。染井坂という坂の名前を知って、ゆっくりと桜吹雪の中を上ったあのとき、僕は何かを考えた。そうだ。ソメイヨシノだから、染井坂。最初は単純にそうなのだと思った。でも、違うんじゃないか。桃の色に、緑の色に、赤い色に。どこまでも坂を染め上げるから――染井坂。
この坂で僕らは出会った。瑞穂は咲崎にぶつかり、瀬戸さんは呆然として、僕は他人のようにその光景を横目に見ていた。それが、どうしてこうなったんだろう。
このまま僕が何も話さなければ、多分何も変わらない。映画のスクリーンを見ているように日々は少しずつ変化しながら流されていく。それが僕の生き方だし、見えるものを見えないように扱って生きてきた。ただ、なぜだろうか。真っ赤に染まった桜と、しゃくしゃくと落ちた葉を踏みしめているとき、たまらなくなった。
僕らは付き合うふりをする意味なんてとっくの昔になくなっている。それじゃあ、なぜ一緒にいるのか。
そんなの答えは一つしかない。
「僕は、あんたのことが好きなんだけど」
まるで日常で、他愛も無い話をするみたいに伝えると、「……ん?」と瀬戸さんは瞬いた。「あんた、僕が瑞穂のこと好きって勘違いしたまんまだろ。めんどくさいから放ってたけど、そろそろ腹が立ってきた」 それはただの口実だったが、事実の一部だ。
他人の心が聞こえても、無視をして生きるというのが僕の処世術のはずだった。だからこれを伝えることは自分の信条を曲げることになるが、僕は最初からおかしかった。瀬戸さんが関わると妙な心配をしたり、口を出したり、恥をかいたり。散々だった。
ハサミを心に描いた瀬戸さんと瑞穂の間に僕が割り込んで、結局ただの勘違いだったとわかったあとに彼女と付き合うふりをすることになって、必死に謝る瀬戸さんを見たとき感じたことは、こいつすげえな、ということだ。
きっと自分にはできない。他人のためと自分のため、両方をもぎとって彼女は傷つく選択をした。でも、だから好きになったわけでもない。難しくて言葉にはならないし、僕の赤い糸はまだ瑞穂にくっついているのだという。だから瀬戸さんは、また言葉をごちゃまぜにして困惑している。
うん、とうなずいて、「じゃあ帰るか」と僕は続けた。「な、なんで!? それだけ!」「満足した。それじゃあ続きはまた明日」「続きがあるの!?」「続けていいなら」
別に急ぐ必要はどこにもない。1かゼロかを決める必要だってまったくない。人の気持ちは難しく感じるし、知りたくないものばかりだ。けれど、知らなければ僕は瀬戸さんを好きになることはなかったんだろうな、と思うと、少しばかりは自分の力が愛しくなるかもしれない。やっぱり、面倒ばかりだけど。
しゃくしゃく、と音をたてて坂を下る僕の後ろから、慌てたような足音が一つ聞こえる。なんで笑っているんだろう、と疑問を抱く声が聞こえたとき、自分の顔に気がついた。手のひらを当てて確認し、さらに苦笑を深めてしまった。
「ちょっと、ちょっと!? 土屋くんったら!」
こちらで土屋編終了です。次回は工藤編になります。
瀬戸と岳人はメインではありませんがちょこちょこ出てくる予定です。もうしばらくお付き合いくださいましたら幸いです。