12 後悔の夏
――今日はありがとう。
その日、意外なこともやってきた瀬戸さんからのメッセージを見て、僕は特に返事はしなかった。
向こうの画面では既読の文字が表示されているだろうから、僕が確認したということはわかるだろう。話はそれで終わったはずだ。
スマホはベッドに放り投げて、絨毯の上に座り込み本を読んだ。リビングからも離れているから、部屋の中では何も聞こえない。けれども耳を押さえていると落ち着くので、ヘッドホンを耳に当てる。音楽は流れていない。
文庫のページを一枚めくって、文字を読み込む。さらに一枚。かさりと紙がかすれる音が聞こえる。
それから一週間、僕は普段どおりに生活した。そしてふとしたときに自分が付き合っている、いやそのふりをしていたということを思い出して、瀬戸さんの教室に行こうとして前回の失敗を考えた。だからメールを送った。一緒に帰ろうか、と短く送って、瀬戸さんからありがとう、と返事が来た。同じような返事だな、と思った。瀬戸さんのボキャブラリーの中に強く根を張っている言葉なのだろうか。
下駄箱で待ち合わせをして、やってきた瀬戸さんは僕を見てにこりと笑っていた。けれど足元には相変わらずどろどろと重たい泥のような感情を引き連れていて、見ないふりをするのにも難しかった。もちろん、大したことを話すわけでもなく、そのまま帰路についたわけだけれど。
***
蝉の鳴き声とともに、うだるような夏が来る。僕と瀬戸さんは相変わらず体育委員で、周囲は何を勘違いしたのかセットで扱われるようになった。いや、こちらが勘違いをさせようとしているわけで、これは成功してしまった結果なのだが、体育祭の当日の準備は驚くほどに瀬戸さんとかぶっていた。
競技ごとにフラッグやら紐やら、ときには大玉やらと必要なものを出したり、戻したりといったことを自身の出場と合わないように、かつ委員全体で平等にすべき必要があると思うのだが、係の割り振りを行っている最中で、おそらく委員長がどうでもよくなってきたのだろう。僕も瀬戸さんももともと押し付けられた余り物の体育委員同士、やる気のなさは出場競技の数と比例していて、扱いやすすぎる立場だった。
だから自分の出場競技以外は常に設営のテントで待っている状況であり、平均台など持ち出せば僕と彼女の身長差が大きくて斜めになってしまう。いっそ一人で運ばせてほしい。
瀬戸さんはと言えば、「大変だね」と言いつつ困ったように苦笑していて、心の中では仕方がないことだと諦めつつも同時に激しく悪態をついており、ここまでくると面白くはあった。別に、文句を言う感情を恥じる必要はないと思う。
口で言っていることと腹の中がまったく違うというのは、別に当たり前のことだ。僕自身だってそうなのだから。僕はごまかすことすら面倒だからあまり話さないけれど、同じようなものだ。
でも他人の心の中なんて僕以外に知るわけがないから他人と自分との差なんてきっと普通はわからない。
だから、そこまで恥じる必要なんてないんじゃないか。
押し付けられた役目に悪態をついたところで、実際に口に出したわけでもない。だから自分の考えをそれほど羞恥して、胸を押しつぶされるような感情になる必要なんてまったくないんじゃないの、なんてことはもちろん言えない。瀬戸さんの横顔を見ていると、何かこっちまで苦しくなってくるようだった。
「少し、外に」
「え? うん……」
なのでテントの外を指さして、水分補給のために持っていた凍らせたペットボトルを持った。立ち上がって外に行こうとすると、周囲からやっかみのような視線や思考が突き刺さる。隣り合っていちゃいやしやがって、という苛立った声は僕ではなくセットに扱った委員長に言うべきだと伝えたい。それから美人を引き連れやがって、というのは別に引き連れているわけではない、と心の中で言い返し、振り向くと瀬戸さんがいた。
「なんで」
「え?」
外に行こうと言われたと彼女は一緒に来てほしいと言われたように勘違いしてしまったらしい。自身の言葉足らずを改めて理解し眉をひそめた。しかしあっちに行けというわけにもいかず、自身の困惑を押し殺してグラウンドの端の植垣に指を向けたのだが、『うわあ、土屋くん、めちゃくちゃ迷惑がってる……』と伝わっていた。だから一部だけ察しがいいのはやめてくれ。それに迷惑に思っているわけじゃない。
次の準備の時間まで僕らは木陰で休憩しつつ、体育祭に出場する生徒を観覧する生徒を見守ることにした。ようは生徒の頭が邪魔をしてグラウンドを見ることができないので、観覧席に座る生徒の背中しか目に入らないのだ。それなりにつまらない。
なんだかんだと言いながら生徒達は盛り上がっていた。頭にしめられたはちまきはいくつかの色合いがあり、たまたまであるけれど、僕と瀬戸さんの色合いはまったく同じだ。つまり同じチームということになる。しかし点数には興味がないので、現状をまったく把握していない。体育委員長はおそらく泣いているだろう。
木々の影がぽっかりと頭の上に落ちている。何かに似ているな、と思って考えてみると、教室の窓のようだった。でかい木が邪魔をしてあまり日が当たらないし外も見えない。木の幹はごつごつとして茶色く、まるで年寄りのようだったが、奇妙な力強さも感じた。席替えは定期的にするからいつも同じ場所に座っているわけではないけれど、窓辺近くになったときは開けた窓の外と白いカーテンを見ていると、自分が一体何を目にしているのかわからなくなる。
ほんのわずかに瞳を伏せて、冷えたペットボトルを握りしめた。溶けた氷が水になって手のひらを濡らし、ぽたぽたとこぼれていく。ざわざわとした言葉の海の中にどっぷりと落ちていった。そのとき、わあ! と湧きたつような声が聞こえたから慌てて瞳を開けて前を見ると、生徒たちが手と手を叩き合って喜んでいる。どうやら僕達が見ていた目の前のクラスが、点数が高い種目で巻き返しているらしい。
生徒達は僕と瀬戸さんと同じ色のはちまきを頭に巻いていたが、そんなに喜ぶことだろうかとぼんやりと瞳を細めると、瀬戸さんからは愕然とした感情が伝わってきた。言葉にもならないざわつくような感情を奇妙に思って彼女の視線の先を見てみると、咲崎と瑞穂がいた。他の生徒達と同じく、互いに手を叩き合って喜んでいた。
そのとき僕には見えないはずの赤い糸がつるりと瀬戸さんの小指から伸びているように見えた。まっすぐに、ぴんと迷うこともなく続いている。けれども糸は彼女が“切った”のだから、これはただの気の所為だ。
瀬戸さんはぐっと唇を噛み締めていたが、視線をそらすことはなかった。
そのとき、波のように後悔する気持ちがやってきた。僕は同じように、このグラウンドで彼女に暴言を吐いた。
「……ごめん」
「えっ、なにが?」
勝手に口から飛び出た謝罪の言葉を瀬戸さんは驚いて、「私、何かした?」と困ったように瞬いて首を傾げている。僕が謝っているのに、なぜそうなるのか。自分の顔が嫌になる。
瀬戸さんいわく、さらに僕は嫌そうに顔を歪めて、「以前に、ひどいことを言ったから」と呟いた。僕と瑞穂をくっつけようとする彼女に、願望を押し付けるなと吐き捨てた。そして汚いやつだと告げた。
僕が謝罪すると、瀬戸さんはぴたりと時間が止まったように表情を固まらせた。それが、一秒だったのか、二秒の間だったのかはわからない。すぐに彼女はにっこり笑った。
「そんなの、気にしてないよ」
何を言っているの、とくすりと微笑むような柔らかい表情だった。しかし聞こえた言葉は、『絶対に許さないし、忘れない』とも言っていた。
「……そう」
会話はこれで終わりだ。
返事をしつつも、まあそうなるよな、という感想しか出てこなかった。