11 頑固者
「……僕は、何をやってるんだ」
自分らしくもなく、やっていることも、考えていることも馬鹿らしい。瑞穂と咲崎の仲をめちゃくちゃにしてやりたいと“美人”が考えていたとして、僕はいつだってそれを聞こえないふりをして生きてきた。だから瑞穂と咲崎の待ち合わせの場所を“聞いて”それを“美人”が知っていることもわかっていたとしても、いつものように知らぬふりをしながら家の中でヘッドホンをつけながら本を読んでいたはずが、かちりとデジタル時計の数字が動いた。気づいたら家のドアから飛び出していた。
結局、咲崎は瑞穂との待ち合わせに来なかった。“美人”は瑞穂と仲良く買い物をしたらしく、拍子抜けした。“美人”は僕が睨んでいると思っているようだけど、もともとこんな顔つきだ。それから言い過ぎたと後悔することや、“美人”がハサミで瑞穂を消すのだと頭の中で繰り返していたから、止めようとした。
教室の壁につけられた時計がかちかちと進んでいく。気が気じゃなかった。チャイムがなって、終わったと飛び出そうとしたら、教師に呼び止められた。気づくと咲崎は消えていて、“美人”と瑞穂のもとへと向かったのだとわかったとき、教師に制止もふりきって廊下を足で叩きつけるように必死に走った。少し汗ばむような時期だ。走りにくいとブレザーを脱いで袖を握りしめてネクタイを無理やりひっぱり緩める。
廊下には木々の合間から窓を通り過ぎてぽつぽつと光が落ちていた。東向きの窓だからか、昼間にしては暗い廊下だ。授業が終わったばかりだから出歩く生徒も少ない。誰もいない、止まった時間の中で走っているようだった。なのに吐き出す息が熱くて、とにかくちぐはくだ。繰り返す。僕は一体、何をやっているんだ。
汗だくになって瑞穂と“美人”の間に飛び込んで、僕はただ恥をかいただけだった。夕焼けに染まる教室の中では“美人”がぼたぼたと涙をこぼして泣いていた。気づくと僕は“美人”と付き合うことになっていた。
“美人”の名前は瀬戸しおり。このとき、やっと僕は彼女の名前を認識した。
***
「工藤先生、落としましたよ」
授業で使った資料落として去っていこうとする若い女の教師に咲崎が声をかけた。「あら、ごめんね」 教師は黒縁のメガネをずらしてへにゃりと眉を八の字にした。本当に、どこにでも妙な力を持っている人間はいるもんだな、と僕は自分の席で頬杖をしながらその光景を見ていた。工藤という教師は瑞穂のスマホを没収した女教師だ。そりゃまあ、授業中にさわってりゃそうなるわな、ときっと下手な隠し方をしていたであろう幼なじみを思い出した。職員室ですみませんでしたと必死に頭を下げている姿を見たのだ。
ざわつく教室の中で視線を机に落とすと、とたんに髪に隠れて前が見えなくなる。青々とした木々が教室に影を作って、まるで僕の頭の上にぼんやりと立っているようだった。
瞳を閉じると、いろいろなことを考えてしまう。
『ガク、いつのまに瀬戸さんとそんなことになっちゃったの!?』
文字通り言葉の通りに驚いて、目をひんむいていた瑞穂の声を思い出した。
『不快な思いをさせてしまって、ごめんなさい……』
こっちは付き合うふりをしてもいいと言ったときにすこしばかり浮上したくらいで、ただただ顔も声も、ついでに心の中も沈鬱にさせていた。対照的なやつらだ。
窓はわずかに開けている。ざわざわと葉がこすれる音と一緒に、教室中の“声”が溢れていた。
瀬戸しおりは、瑞穂を嫌っていた。けれどもそんな自分を恥じていた。僕と付き合うことになったとうそぶいた彼女が謝罪したとき、伏せた襟首から見えた首筋は真っ赤に染まっていて、僕の奇妙な“力”がなくても、どういった様子なのか察することができるくらいだった。
ふりをする、ということを了承したのだから、適当にするにはしてもすべきこともあるだろう。とりあえず授業が終わったあとは迎えに行くことにした。幸いなことにも、僕も瀬戸さんも部活には入っていない。
ホームルームは瀬戸さんのクラスよりも早く終わったようだから、彼女のクラスに向かって、廊下の壁にもたれかかりながら待った。そろそろかと腕時計を確認していると教室のドアをくぐりぬけた瀬戸さんと目がかち合った。
「瀬戸さん」
「えっ、え!?」
声をかけると瀬戸さんは黒目がちな瞳を大きくさせてのけぞった。丁度出てこようとする他の生徒とぶつかりそうになったから腕を引っ張る。
「うわ、ひっ……!」
流れた“声”は嫌がっているようなものではなかったが、驚かせたようだからすぐに放した。どうして、と聞こえた“声”は普段なら聞こえないふりをするものだが、瀬戸さんの様子を見ると反応しても問題ないようにも見えた。わたわたと視線を移動させて困惑している。そんな瀬戸さんの姿を見て、『美人がなんか困っている』『なんだあの長いやつ』と彼女のクラスメイト達の“声”が聞こえる。
自分のクラスでも、美人があだ名なのだろうか。ついでに長いってのは僕のことだろうか。若干の敵意を感じる。
「瀬戸さんを迎えに来たんだけど」
「さ、さんづけ!?」
「はあ?」
瀬戸さんがびくんと飛び跳ねた。それはもちろん心の中だけで、現実の彼女はぎゅっと唇を噛んで表情を押し殺している。だからこれは反応できないが、多分瀬戸さんは僕のことを何か勘違いしている。
じっと瀬戸さんを見ているとどうやら睨んでいると思われたようで、さらに瀬戸さんは強く拳を握って体を固くさせた。顔をそむけたふりをしてそっと自分の眉間のしわを伸ばす。そして顔をそむけたことがまたよくはなかったようで、無視されたと感じたようだ。どうすりゃいいんだよ、とゆっくりと彼女を見下ろすと結局睨んでいるような目つきは変わらなかったらしい。もう知らねぇよ。
瀬戸さんは僕のことを心の底では怯えていた。なのに顔を合わせるとにこりと微笑んでいる。なんでそんなに無理をするのか、僕にはまったくわからない。
「迎えに来たって、どうして?」
「どうしてって、付き合ってるから」
聞き耳を立てていたらしい生徒達の感情がざわりと波のように伝わる。その中には瑞穂もいた。面白そうに口元を両手で合わせて、にまにましている。瀬戸さんはぶるりと震えて上から下まで体までを真っ赤にしたと思ったら、心の中は真っ青だった。慌てて顔を伏せつつ僕の腕をひっぱって、下足場へと足早に移動した。
面白い、なんてことを思うべきではないだろうが、不思議と奇妙に口の端が緩んでいた。それから瀬戸さんの考えを知った。恥ずかしかったのだろう。心の中ではやめてほしいと願っているようだが、自分が願ったことだからと「ありがとう」と正反対のことを伝えてくる。
はあ、と僕は返事をしつつも次からは気をつけようと考えた。それから瀬戸さんとアドレスすらも交換していないことに互いにふと思い至って教師から隠れるようにスマホを取り出す。おそらく連絡をし合うことはないだろうが、万一の際もある。今日も事前に連絡すればよかっただけの話だ。
「じゃあ帰ろうか」
「えっ」
わからない程度に瀬戸さんは小さな声をだして、どうやら驚いている様子だったが、なぜ驚かれたのかはわからない。伝わってくる“声”を聞いてみると、ついさっき瑞穂の前で付き合っているといったわけでふりとしてはもう十分だからそのあともあるとは思わなかったということらしい。
なるほど、と納得したが、口に出しておいて撤回するのも奇妙だし、瀬戸さんもあえてそれ以上は何も言わなかったから、そのまま僕達は無言で下足場から出て運動場を歩いて校門に向かった。ざくざくと進んで瑞穂よりも背は高くても僕よりは低い瀬戸さんを見下ろした。なんてこともない、ひょうひょうとした顔のように見えたが、感情や言葉は伝わってくる。
恥ずかしさだとか、申し訳無さだとか、後悔だとか。あとは悲しさも少し。聞こえなければわからないんだろうなと思うほどの分厚い壁があったが、ふと、「……ごめんね、杉原さんの前で」と呟いた瞬間は心と顔が一致した。
僕が瑞穂のことは好きではないということを伝えて、なるほどと理解した顔をしていたものの、やっぱりそうだと心の中で思いこんでいる。
なんとも頑固なやつだと思った。