3/ 名も無き亡霊、名の有る奴隷
不定期更新です。
今回はほのぼの回?
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──夢を見ていた。
「……見事なり。だが、惜しかったな」
一面を包む焔。立ち昇る黒煙。
形容するのならば地獄としか言い様のない場の中心に、二人は居た。
「……」
一人は青年。鴉の羽のような漆黒の髪と白く明るい肌、黒尽くめの衣装が特徴的な亡霊のような男だ。
一人は壮年。浅黒く屈強な肉体は、山岳民族風の衣装で覆ってもなお隠しきれない威圧感を醸し出している。
青年もそうだが、特に異様であるのは壮年の方だ。
刈り込まれた短髪に厳めしい顔立ち。傷痕のように刻まれた苦悩の皺。
そして──この世全ての絶望を搔き集め、混濁させた凄絶なる闇色の瞳。
青年は蹲り、壮年の男はそれを昏い視線で見下ろしている。
「やはり今回も貴様らに阻まれたか。まぁ良かろう、私には"次"がある」
青年は満身創痍で、もはや男を睨めつけるしか立ち向かう術がない。
その手負いの虎のような殺意を受けながらも男は超然と佇み、決して怯むことも驕ることもない。
勝負は既に決まっている。
後はほんの数歩男が前進すれば終わりなのだが、男はそうしなかった。──否、できなかった。
男の方も、既に限界を迎えていた。
双方共に惜しむことなく全てを出し切った対決だった。
限界を超えた青年と、限界に留まった壮年の男。それが勝負の分け目となったのだ。
「どれほど腕が立とうと所詮は首輪付きの獣。貴様らでは私を滅ぼし尽くすは能わぬ。さらばだ、月下の亡霊。精々冥土で迷う無かれよ」
男は青年に向かってそう吐き捨てる。その抑揚には憎悪、嫌悪、憐憫、侮蔑の全てが宿っていた。
青年はそれを黙殺する。いや、青年にはもう声帯を震わせる機能すら残っていなかった。
青年は此処で死ぬ。それは如何なる手を尽くしても治療不可能な"死"を浴びていたからだ。
青年が完全に崩壊するに少し遅れて、男も立ち尽くしたまま停止する。
そこで初めて──わたしは青年の正体に気づいた。
わたしは柄にもなく必死に彼に呼び掛けるが、世界は瞬く間に遠のいていく。
まるで箱庭を見ていたように、世界は小さく細く縮小していく。
わたしは無意味だということすら分からずに──ただ声を上げることしかできなかった。
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「……夢?」
目を開けると既に日は昇り、馬車も移動を止めていた。
どうやら本拠地にまで到着したらしい。まったく、夜通しの移動とはご苦労なことだとつくづく思う。
一面にはもう馴染んでしまった風景が広がっている。
帝国に居た頃は城壁の外にしか見えなかった放牧地と農地。
それがここでは一面に広がっていて、終わりがないようにすら思える。
馬車の側にはアルベルトが不満そうに腕を組んで立っている。
「……あ、あなた……」
今気づいたが、傍らに黒い青年が座り込んでいる。
どうやら風上に座ることで風を防いでくれていたらしい。
「おう、漸くお目覚めか。姫君ではあるまいし、もっと自覚を持たんか!」
アルベルトは少し……どころが結構頭に来ているようだ。
寝坊など、自分でも信じられない失態だ。奴隷が貴族を待たせるなど普通なら殴られる程度では済まされない。
それを咎めないのはひとえに彼自身の寛容性にあるのだろうが……というよりも、何故彼がわたしの目覚めを待っていたのだろうか?
「コイツがなんとお前が目覚めるまで待つ、とばかりに動かぬものでな。起こすのも拒否しおった。どうやらお前、気に入られているようだが?」
アルベルトは、にやにやと少々品に欠ける笑みを浮かべる。
わたしはどこか決まりが悪くなって、半ば反射的に青年に頭を下げる。
だが彼は静かに頭を振り、『気にするな』と言わんばかりに頭を上げるよう促してくる。
「さて、コーバック様に会いに行くぞ。お前達もついて来い」
「了解。行きましょう、ほら」
青年の肩に手をやって移動を促す。
彼は頷き、アルベルトの向かう方へついて行く。
「アルベルト様、その者はいったい?」
「ああ、コイツはな──」
族長コーバックの家がある集落の中心、そこは石で作られた頑丈な家屋が立ち並んでおり、周囲には木造の小さな家々が、石の壁で仕切られた空間の外側には延々と放牧地と農地が広がっており、森を境界に人々が生活を営んでいる。
その最深部たる貴族の土地の警備は極端に厳しく、このように常時選りすぐりの強者達が守護を担っている。
アルベルトは衛兵に例の生首入り革袋を渡し、それはあの黒い男がやったのだと指差すと、衛兵は信じられないといった表情で袋の中身と青年を交互に見る。
……それよりもあの生首の集まりを側に置いてわたしは眠っていたということを考えると少し肌が粟立つが、傍らで風を防いでくれていたとのことなので素直に感謝しよう。
そんなことを考えている間に衛兵はわたしたちを通し、族長の家まで案内していく。
頑丈な石で作られた、大きな建築物。
その内部は族長の住まいというには豪華さに欠け、機能性に特化した造りになっており、中々に快適だ。
わたしは奴隷なれど族長の所有する奴隷であるが故にこれだけの高待遇を受けることができているのだ。
確かに、奴隷は奴隷だ。
されど寒い中農民に酷使される農牧奴隷や、旧帝国の鉱山奴隷の悲惨さを思えば、自由は無いがそこいらの自由人より良い暮らしができる今の地位を、わたしは何が何でも手放すわけにはいかないのである。
「──よくぞ帰ってきた、アルベルトよ。そしてお前もよく職務を果たしてくれた」
その最深部、質素だが極めて頑丈な椅子の上に、族長は鎮座している。
長身であるアルベルトよりも二回りは大きい、大岩の如き圧倒的な巨躯。
赤毛の厳つい髭面に轟々と野心に燃える蒼い双眸。
加えて聞く者の耳を掴み上げるような圧倒的な迫力を伴った声と語り口。
わたしに政治や軍事は分からないが、この男が満場一致で族長に選ばれた理由は見ただけで解る。
それがこのコーバックという男であった。
アルベルトとわたしは臣下の礼を取り、青年もすぐに同じ仕草をする。
コーバックはそれに満足し、重い口を開ける。
「その者の噂は聞いておる。なんでもフェルム族の将五人を単独で討ち取ったと。ならば──証を示すことはできるか?」
「はい──ここに」
アルベルトが目配せすると、青年が血が染み込んだ革袋をコーバックに渡す。
族長はその中身を確認し、満足そうに首肯する。
「ほう……これはあの"鱗竜のレザウルフ"の……。久しいのぉ、レザウルフ殿。気分は如何かね?」
族長は最も位が高かったであろう大将首を掲げ、豪快に高笑いする。周囲の貴族や衛兵達もつられて大笑いだ。
青年もわたしも──眉一つ動かさずに頭を下げていた。
「ははは! これであの憎きレザウルフを潰すこと叶ったり! うむ、大儀であるぞ! 褒美を取らす! ──その前に、そなたは何と申すのだ?」
「……■■■■■」
「──む? 何と?」
族長は青年の不思議な返答に訝しむ。
こうなると説明するのはわたし、ということになるのだろうか。
だがアルベルトが先に口を挟む。
「その男、腕は確かですが、困ったことに未知の言葉を話すのです。当然、我らの言葉も通じず終い……。如何なされますか」
「むう、それは困ったのう。見たところ東方騎馬民族というわけでもないか……。アルベルトよ、この男について判っていることはないかの?」
「はっ。それは彼女が知っております。──話せ」
漸く発言の許可が与えられる。わたしは重用されてはいるが奴隷身分である為にこういった公の場での発言は許可が必要となる。
つまり不用意な発言は即貴族達の不興を買いかねないということだ。
「はい。彼はまず最初に──」
まず初めて彼を見つけた時のことを言葉に紡ぐ。
雷鳴のような轟と共にこの混沌の世界に現れた彼。
あの鮮烈すぎる月下の出逢いは今も深く心に刻み込まれている。
「なるほど、まるで天から落ちてきたかのようにか……。その男、真に天の使いかも知れぬなぁ」
半分冗談半分本気といった風に、髭を撫でながら族長は零す。
幾ばくかの思案の後、彼はある決定を下した。
「良かろう! その男、食客として留めようぞ! 故にお前に命ず。その男に言葉を教えて参れ!」
「──はっ、確と承りました」
──やはりこうなると思っていた。
わたしは医術だけでなく様々な言語も身に付けていた為にこうして重宝されているのだ。
これで少なくとも彼から離される心配は無くなった。
わたしは内心ほくそ笑みながら恭しく礼を取る。
「それでは、始めましょうか。来てください」
「……??」
わたしは彼に手招きして外まで連れて行く。
言葉を教えるならモノを見せながら発音するのが一番だ。彼が言語的能力に秀でているかは分からないが、ともかく言葉が通じないことには何も始まらない。
──この時のわたしは、自身の内で膨らみつつある彼の内面への興味の存在など知る由もないのだった。
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族長らしき巨漢との謁見を終えた後、彼女に招かれて牧草地まで来た。
そこで彼女は喋る手振りをしてから物を指差し、ゆっくりと繰り返し発音し始める。
どうやら言葉を教えてくれるらしい。
助かった。正直これから関係を維持するにはどうするべきか考えあぐねていたのだ。
彼女はまず一つ一つ、様々な物体を差しながら発音する。
それに全神経を傾けて、聴き取れる単語と意味を一致させていく。
「wæter,hūs,oxa.──ċild,dohtor,sweostor,mōdor.──fæder,sunu,brōðor」
「水、家、雄牛。──子供、娘、姉妹、母。──父、息子、兄弟」
おおよそ周辺にある物体の名称は覚えた。
次は──動作か。
「sittan,standan,slǣpan,specan,──Bîdan êow understandan?」
「座る、立つ、寝る、喋る──?」
唐突に複雑な表現を挟むのはやめて欲しい。……しかも小馬鹿にされた気がする。
名詞、動詞と来たら次は──挨拶か。
確かに、文章よりも挨拶は実際大事だからな。
「Gōdne mergen. Gōdne ǣfen. Gōde nihte.Faraþ gesunda」
「おはよう。こんにちは。こんばんは。さようなら」
「Welcumen. Hu eart þú? Ic þancie þē. Sārig. Habbaþ gōdne dæg」
「ようこそ。貴方はどうですか? ありがとう。ごめんなさい。良い一日を」
これで何とか基本的な表現は覚えられたと思う。これなら片言ではあるが会話が成立するかもしれない。
彼女はいつになく楽しそうだ。
平生の彼女はどこか意志の薄い目をしていて、いつも遠い所を見つめているようだった。
だが今は──ほんの少しではあるが口角が上がっている。
彼女──彼女、か。
そう言えば、一度も彼女の名前を読んだことはなかったな。
「Hwæt hātest þū?」
「──Ic hāte……」
薄い微笑みからハッとした顔に戻る。
どうやら一番大切かもしれないことに気づいたらしい。
彼女は少し間を置いて、ゆっくりと何度も発音する。
「──Aderheid. Ader,heid」
──ああ、ようやく判ったよ。
「──アーデルハイト。お前さんの名前」
「……!」
「高貴な姿、か。本当に──良い名前だ」
それが、彼女の名前。そう──判ったのはそれだけ。
本当に奇妙なことだが、それだけのことだというのに──伽藍堂の胸に小さな感慨が燻っていた。
風に揺れる編み込まれた金沙の髪。彩の薄れた碧色の瞳。
彼女を構成する要素は以前と何一つ変わらない。
されど──今この瞬間から、自分の中では"彼女"に"アーデルハイト"という異なる意味が与えられたのだ。
◇ ◇ ◇
──初めて名前を呼ばれた。
初めて、言葉を交わした。
その声音は優しいようで──でもやはり昏くて。
残月に照らされ、より仄暗さを強調する彼の姿は、決して以前と変わらない。
それでも、何故か少し違って見えた。
「それなら──あなたの名前は?」
青年、とは便宜的に呼んでいたものの、わたしは彼の名前を知らない。
せっかく会話ができるようになったのだ。名前くらい教えて貰わなければ労力に見合わないだろう。
「オレは──分からない。忘れちまったよ」
「──え?」
名前が──無い?
言葉が通じない以上に、彼は強烈な違和感を放っていた。
まさか、その違和感の正体は。
「忘れているんだ。名前も、何故ここに来たのかも。オレには自分に関する事柄が殆ど分からないんだよ」
──記憶喪失。
稀なことだが、時に己に関する全てを忘却するという疾患がある。
原因は何らかの深手を負ったり、何の前兆も無かったり、と様々だ。
ただでさえほぼ全てが謎に包まれている彼自身が忘れてしまっているのでは、何一つ知りようがない。
「──その、故郷の事等は判らないのでしょうか」
「いや、此処から遠く遠く離れた場所だというのは分かる。どんな場所だったのかも。けれどそれだけだ」
彼が纏う、影のような黒衣。
それらは全く見た事もない形式で形作られていて、どの民族のモノとも似つかない。
ただ、首飾りだけは東方で用いられる"勾玉"と呼ばれる物であると分かる。
──顔立ちといい、やはり彼は東方の民族か。
「自分が無い……それではまるで亡霊ね……」
「亡霊か。ふん、それで良いんじゃないか?」
彼──レムレスは納得したとばかりに首肯する。
亡霊なんて言い方は侮蔑的だと思うのだが、本当にそれで良いのだろうか?
「決まりだな。オレに名前は無い。なら好きに呼べ。亡霊、幻影、何でも有りさ」
飄々とした、捉えどころのない人となり。
こういった人種は思考が読み取り難いので苦手だが、彼はその独特な空気感から不思議と嫌悪感を感じさせない。
「──"月下の亡霊"。ワタシは最初に出逢った時、あなたをそう例えました。通り名としては如何でしょうか?」
「好きにしてくれ。名前なんて正直持て余すだけだ」
決まりだ。
月下の亡霊。我ながら実に的を射た形容ではないか。
あの夜の殺戮者の噂に乗せて流せば、非常に効果的な示威行為になるだろう。
幾ばくかの後、彼は一拍置いてから改めて挨拶してくる。
「何はともあれ、これから宜しく頼む。──アーデルハイト」
「はい、亡霊。こちらこそお願いしますね」
彼は大切そうに、噛みしめるようにわたしの名前を呼ぶ。
同じように呼べる名前を彼が持っていないということが──少しだけ口惜しかった。
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……どうやら此処に来たのは私だけではないらしい。
たとえ幾度討ち果たしたとて、その度に現れる。
それが貴様らと私の宿命、因果ということなのか。
ならば良かろう。
蘇りし者達よ、何度だろうと受けて立つとも。
世界を巡り、因果を束ね、原初へと至る──。
いずれ、矛盾し纏繞した無間回廊にて待つ。
お読みいただきありがとうございます。
今回は対話編ですね。
多くの異世界モノでは最初から解決している問題ですが、言葉の壁ってかなり重大だと思うんですよ。
それを応用して、言葉を交わすということの意味をより強調出来たらと思って、言葉を知らない設定にしました。
いや、やっぱり名前を呼ぶって大切なことですよね。家族や友人が相手だと忘れがちなことではあれど……。
私はトールキンにはなれないので、作中の異世界語はある言語をそのまま使っています。ですが異邦感を漂わせる為に敢えて言いません。
解る人には一発でバレるでしょうが、文法とか活用とか滅茶苦茶なのは許して……。
それではまた次回。