2/ 陰らぬ月光、翳る月影
不定期更新です。
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「──■■■■?」
──言葉は通じない。
青年は眉一つ動かさずに何事かを問いかけてくる。
様々な言語に通暁しているという自負を持ってはいるが、彼の話す言葉は聞いたこともない。
言葉が解らないのだと理解した彼は、『此処に居ろ』と目線と身振りで伝えてくる。
それに対してわたしは深く頷くことで『了解』の意志を伝える。
それを見た彼が何処かへと去ろうとした時、誰かがそれを見咎めた。
「──貴様、何者だ?」
声の主はアルベルトだ。
彼は鋭い視線を青年に向け、わたしと彼の間に割って入る。
その抜き身の刃のような視線を以ってしてもなお、青年の虚空めいた佇まいを崩すには至らなかった。
「お待ちください。この方はわたしを助けてくれたのです」
そこでわたしは眼前に散らばる死屍を指差す。
その苦悶無き死相は、それだけで彼の殺人技術の精緻さを証明するに足るものだ。
「ほう……これはなんとも見事な。ふむ、敵ではないか。ならば何処へ行くつもりだ?」
言葉はおそらく通じていない。
だが意図を察したのか、青年は敵陣の方向を指差し、喉を掻き切る仕草をする。
アルベルトもわたしもその意味が分からないほど鈍くはない。
「……まさか単独で敵陣に? 正気かお前は? これほどの戦力、一人でどうこうできるものか!」
「■■■■■」
青年は一言だけ言葉を返し、踵を返して敵陣に疾走する。
アルベルトは呆れた顔でそれを見届け、わたしを後方に連れて行く。
本陣ではどうやら撤退の準備を始めているらしい。わたしも乗り遅れるわけにはいかないので、それに従い退避する。
青年の行動は無謀だ。
だがわたしはそれを──何故か熱の篭った目で見届けていた。
◇ ◇ ◇
青年は闇夜に紛れ、月光をも幻惑しながら単身フェルム族の陣へ疾駆する。
一度に拠点一つ陥落させる程の戦力を出せるというのなら、必ず階級の高い人物が指揮を執っているだろうと考えてのことだ。
夥しい数の戦士達の闘志の隙間を走り抜け、誰に気づかれることもなく彼は指揮官を発見する。
大きな馬に乗った、一際豪奢な戦装束に身を包んだ屈強な男。
あれほどの壮者ならば相当に位の高い人物なのだろう。
──ならば、最も殺すべき対象ということ。
幸い、周囲の戦士は突撃に夢中──加えて言えば指揮官自身も──になっていて、背後への警戒を疎かにしてくれている。
千載一遇の機会とばかりに青年は昏い影となってその背後に接近する。
蛇にも似た、姿勢を低く保ちながら蛇行する走法。それは彼の一族独自の体術の一つであり、人間の視覚の盲点に入り込む為の挙動である。
苦もなく必殺の距離に入り込むことに成功した彼は、その大きな馬の影と同化し、極限まで全身の筋肉を収縮させる。
そして一拍置いてから大砲のような勢いで溜めた力を炸裂させ、馬の感知能力を以ってしても認識できないほどの速度で背後から馬に飛び乗り、指揮官に組み付いた。
漸く外敵の存在に気づいた指揮官だったが、全ては遅すぎた。
青年は巧みに指揮官の軀を拘束し、圧倒的な体躯に任せて暴れる大男を完全に押さえ込む。
そして白銀に光る短剣を豪奢な鎖帷子の間から頸動脈目掛けて捩じ込み、噴水のように血潮を放出させながら骨を断ち、余すことなく力を加えてその首を毟り取る。
「悪いが、貰っていくぞ」
青年は道中死体から拾った大きめの革袋に大将首を詰め、さらに周辺を見回す。
周囲には今討ち取った大将には劣るものの、それなりに豪華な武装をした者がちらほらと見える。
"──ヤツらも殺しておいた方が良いだろう"
そう判断した青年は先と同様の手法で彼らに近寄り、一人、また一人と首を狩っていく。
誰もが、その惨劇に気づかない。
誰かが、居るべき筈の人物が居ないことに気がつく。
戦士達の内の誰かが、ほんの数分前まで雄叫びを上げながら突撃していた将校達に首が付いていないのに気づくや否や、突如として恐慌が全軍を駆け巡る。
他は誰も斃れてはいないのに、何故か将校だけが知らぬ間に討ち取られている。
皆、部族指折りの猛者であった。誰一人として脆弱な者など居なかった。
それが──誰とも知れぬ者に、誰も知りえぬ手段で鏖殺されている。
恐ろしくないわけがなかった。絶対的な優勢に立ち、一方的に蹂躙する方に居た筈であったというのに、何の予兆もなく全てを崩されたのだから。
"──次はお前だ"
周囲の者達は死神が背中に現れ、そう囁いてくる光景を幻視した。
未知の恐怖に曝され耐え切れなくなった者が反転し引き返したのを切っ掛けに、我先にと後方へ兵士が殺到する。
こうなれば後の事は分かりきっている。
唐突に勢いを失ったフェルム族を見て、蹂躙されるだった者達が一転攻勢に出る。
ある者は背に矢を射掛けられ、ある者は立ち尽くしたまま頭を棍棒で砕き割られる。完全に総崩れだ。
月明かりだけが、生者も死者も、血溜まりも草の露も優しく照らしていた。
その混乱の最中、月下を駆ける亡霊の存在が在ったことなど、誰も知りえぬのは当然であった。
◇ ◇ ◇
──その数は一つ。
わたしに向かって真っ直ぐに歩んでくる人影が見える。
その何の感情も宿さぬ空虚な瞳は、やはりわたしの姿をくっきりと映し出している。
──そこに映る女の姿は、自分でも驚くほどに目を丸くしていた。
彼は中身のぎっしり詰まった革袋を掲げ、わたしの眼前にゆっくりと置いた。
わたしはまさか、という感情を胸に恐る恐る中身を確認する。
「────ッ!?」
思わず悲鳴が漏れる。
袋の中には豪華な兜に包まれた生首が幾つも詰め込まれていた。──入れやすくするために削ぎ落とされた鼻と耳が詰まった小袋も一緒に。
おそらくだが、その全てが大将首だ。
「まさか──本当にやってのけるなんて」
彼は何の感慨もなくわたしを見据える。
突如として戦局がひっくり返った理由、それは確実に彼の仕業なのだろう。
彼に関しては分からないことばかりだが、逃すには惜しすぎる人材であることは確かだ。
「……まずはアルベルト殿に報告します。ついて来てください」
手招きに応じて影のように付き添う彼。
見えているのに、そこに居ないかのような気配の希薄さは、背中に冷たい感覚を走らせる。
それがとにかく気味が悪くて仕方がなく、わたしは逃れるかのように早足で本陣に向かった。
◇ ◇ ◇
──笑い声。
建物中の大気を震わせるそれは、いずれも屈強な男達のものだ。
あの後、金髪の女が生首袋をあの槍兵と思しき美男に見せると、男は自分の手を取って宴に招いてきた。
自分としては断る道理はなかったので付き合うことにしたが、やはりこういった状況は不慣れだ。
……それよりも、逆に敵の拠点を制圧したとはいえ相応の被害を受けたであろうに、すぐにでも祝おうという彼らの精神性には多少驚かされるが。
あの美形の僧兵が何らかの手振りをすると、金髪の女が眼前の器に酒を注ぐ。
相変わらず言葉は少しも理解できないが、できる限り注力して聞き取ろうとしよう。
注がれた酒を臓腑に少しずつ流し込む。
僅かに甘みがある、泡立った黄金の液体。おそらくエールの類だろう。
……今更だが、此処にあるモノはやはり古めかしい。
自分はやはり過去に来てしまったのだろうか?
一応自分は六カ国語は使えるが、彼らの言語は聞いたことがない。
だが服装や武装、習俗等はゲルマン民族とどこまでもそっくりだ。
……自分が何者で、何故こんな所に来たのかは忘れてしまった。
だが自分の居た時代の事は知っている。もし此処が西ヨーロッパだとしても、そうでなかろうとも、もはや世界に工業化されていない場所など極地か密林程度しか残っていなかった憶えがある。
──とまあ、様々な考察を巡らせるが、実際に自身で見聞きしない限り世界とは分からないものだ。
当てにならない又聞きや空論より、眼前の世界に触れてみるべきだろう。
ともかく、今回の戦闘で一応彼らの信頼をある程度勝ち取ることには成功した。
彼らは自分を得体は知れないが味方だと見做し歓待してくれている。
彼らの単純明快かつ豪放磊落な気質には感謝するべきかもしれない。
その日は適当な処で場を抜け出し、空きの宿舎で休むことにした。
……その間もけたたましい笑いは響き渡り、喧しくて仕方がなかった。
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敵の拠点を制圧したものの、こちらの被害は大きく、結局は本拠地に撤退することとなった。
昨夜の戦闘で奴隷や牧者を多数連れ去られてしまった為、わたしたち奴隷の仕事が増えてしまって実に煩わしい。
家財を引き払い、捕虜達も厳重に縛って荷車に詰め込む。
わたしたちが総員で働いている間、あの亡霊の如き青年は何をするでもなく佇んでいた。
「あの、見ているだけでなく手伝ってください」
「……?」
……言葉は通じないのだった。
だがわたしの不平を察知してか彼は早速に手伝ってくれる。
彼の背丈はわたしより一回り高い程度で、わたしが隷属しているアウロラ族や敵のフェルム族の男と比べると幾分か体格で劣る。
その為かやはり単純な筋力そのものは劣るらしく、木材や武具等の重量物は共同で運ぶことにした。
彼は何を運ぶ最中でも、捕虜を扱う時にも表情一つ変えはしない。
その虚無的な鉄面皮はまるでわたしの鏡写しのようで──心底不気味に映った。
それでも、わたしは不思議と彼から離れたいとは思えない。
助けられた、という恩義──そんな殊勝な感慨ではないだろうし、自分に似ているのなら嫌悪の情を抱いてもおかしくはない。わたしとしては、だが。
わたしはアウロラ族に奴隷とされてからは、人や事物に殆ど関心を示さなくなった。
だというのに眼前の青年から目が離せないのは──憐憫、なのだろうか?
「……こんなこと、考えても仕方のないことなのに」
「……?」
青年が真顔のまま見つめてくる。
……この男は鉄面皮で無感動なくせに、やけに他者の感情の動きに機敏だ。誰かが何らかの情動を見せる度に意識を尖らせ意思を汲み取ろうとする。
彼はそうやって生き延びてきたのだろうが、わたしに似ているようで絶妙に似ていないその在り方には──矛盾しているようだが、安心と同時に反感を抱かざるにはいられなかった。
◇ ◇ ◇
漸く準備も終わり、早速に拠点を去ることにした。
青年はわたしとアルベルトに連れられ、同じ馬車に乗ることとなった。
彼は周囲への警戒を怠らず、わたしとアルベルトが乗ったのを見てから乗り込む。
馬二頭で引く四人乗りの箱型車両には天井や飾りは無く、実に質実剛健な作りになっている。
鬱蒼とした森はろくに整備などされておらず、常に激しく揺れ続け、天井もない為にこの季節では非常に寒い、と旧帝国時代に良く乗っていた物とは比較にならないほど悲惨な乗り心地で、わたしは震えながら毛布に包まっていたのだが、彼はやはり無言で泰然としていた。
「しかし……言葉が解らぬのではなぁ」
青年と同じく悪路にも泰然としているアルベルトが零す。
関係の無いことではあるが、この毛布はアルベルトが貸してくれた物で、貴族が使う代物らしい仕立ての良さが全身に逐一伝わってくる。
その身分や立場に拘らず、仲間には公正明大に、敵には敬意を持って立ち合うその誇り高い人となりはまさしく人間の鑑と言え、身分を問わず大きな支持を得ている。
元々わたしを気に掛けてか、貴族の人間の中では関わる機会が多かったので、相対的ではあるがわたし自身も彼をそれなり以上には信頼しているのだ。
「そうですね。まず意思疎通ができないのでは良好な関係を維持するのは難しいでしょうし」
「だろうな。戻ったらまずはこの男をコーバック様に紹介するかね。言葉に関してはそれから考える」
……きっとあの族長のこと、必ずや彼を己の側に侍らせたがるに違いない。
ということは、彼とわたしは同じ主に使えるということになる。
でも、彼の身分はいったいどれに該当するのだろうか。
唐突に現れ、瞬く間に戦果を挙げた言葉も解せぬ謎の異邦人。
何にせよ、奇妙な立ち位置に収まるであろうことは想像に難くない。
毛布の為か、狭い馬車に四人──内一人は顔を知っているだけで話したこともない戦士──も集まっている為か、なんとか睡眠を摂れるほどの熱は確保できている。
昨日今日の疲れもあって睡魔は凄まじい勢いで襲ってくる。
わたしはそれに逆らう術などなく、気づく間もない内に意識を刈り取られた。
また性懲りもなく投稿してしまいました。
やはりリアリティのある世界を描写するのは難しいですね。
自分としてはややスローライフ気味に書いているのですが、それにしては少々荒んだ世界観になってしまいました。
また次回会いましょう。