酒場
これは俺がまだ大学に入学したばかりのころの話だ。
当時、俺は糞がつくほど貧乏で入学してすぐ、3つもバイトを掛け持ちしていた。
そのうちの一つは、大学近くにある『破蓮破』というバーで、俺はもっぱら深夜に働いていた。
上から読んでも下から読んでも、斜めから読んでも『破蓮破』という看板が目印の店だ。
おかしな店だろう?
そこには、俺と同じような学生のアルバイトがたくさんいたんだが、その中でも一際美人で、この人目当てで来る客が大勢いるというほど有名な女の先輩がいた。
彼女の名前は、種田愛美。
彼女は普通の女子大生とはちがう、特殊な雰囲気、空気を持っていた。
並みの男、特に俺みたいな童貞が彼女ほどの美人と話すとたいてい緊張してどもってしまうのだが、彼女のときは違った。
彼女自身も穏やかな人だが、他人までも穏やかにしてしまう魅力を持っていた。
そんな彼女が、一人の新入生をバーのカウンターで介抱している。
俺はその新入生に見覚えがあった。いや、覚えていないわけがない。
俺と同じ高校出身の歳は一つ上。名前は猿渡夢子。
浪人した理由は、俺がよく知っている。いや、俺のせいで浪人したと言ってもいいだろう。
彼女と俺は登下校で同じ時間帯の同じ電車に乗っていた。
俺の実家は山奥で市内の高校まで通うのに電車で3時間もかかっていた。
彼女も家は高校から離れた場所にあった。
はじめて会話したのはいつだったかよく覚えていないが、気づけば乗客の少ない車内で話をするようになった。
彼女は好奇心旺盛だ。悪く言えば、他人の影響を受けやすい性格だ。
もともとは理系志望だったのに、俺の一言(一言ではないかもしれないが、それでもささいな言葉で、だ)で文系に鞍替えしたように。あれが彼女の浪人する直接のきっかけになっただろう。
しかし、まさか同じ大学に来るとは。そして俺のバイト先で再会するとは。まったく想像していなかった。
夢子は文学部の新入生コンパでこの店に来たようだ。あるいは二次会かもしれないが、そこはどうでもいい。
彼女は意識がない状態で、こちらには一切気が付いていなかった。
カウンター席で突っ伏して寝ている夢子を尻目に、俺はグラスを拭く。
時折、愛美さんが夢子の背中を擦り、気遣っている。
ふいに愛美さんは俺に話し掛けてきた。
「君とこの子、知り合いでしょ?」
彼女の瞳は、確信の色をしていた。
この人の底知れぬ瞳に飲み込まれそうになる。
「...なんで分かったんですか?」
「なんかとても心配してるみたいだったから」
それだけで知り合いかどうかまで判断できるのか?
不思議な魔法のような力を彼女は持っているのかもしれない。
そんな空想めいたものがあるかと内心笑いながら、俺はずっと同じグラスを磨き続けた。
愛美さんからそれ以上の追求はなかった。
その日店長は、バイトの俺らに今日は早めに上がってもいいと言った。
俺が裏で帰り支度を済ませ、店長に挨拶をしようとカウンターの方を見ると、夢子はまだ夢の中だった。
店長が声を掛けても、愛美さんが揺すっても起きる気配を見せない。
仕方なく店長は、俺と愛美さんに彼女を家まで送るように言った。
彼女がまだ目を開けていたときに、愛美さんに聞いてもいない自分の住所をべらべらと話していたらしい。
俺が夢子をおんぶし、愛美さんの案内のもと、帰路についた。
「夢子ちゃんって私と似ている気がするなぁ」
種田さんがぽつりとつぶやいた。
「そうですかね」
俺はそうは思わなかった。
まずバイトを始めて1か月も立っていないし、愛美さんの人となりをよく知らないからだ。
そして夢子ほど単純じゃないような気がする。
「お酒は一滴も飲んでないのに、雰囲気に酔っちゃうトコとか、ワタシも分かるなぁ」
夢子は飲酒していなかったようだ。
俺の一つ上とはいえ、彼女はまだ二十歳を迎えていないはずだ。
ルールはしっかりと守っていたらしいが、雰囲気に酔ったと言ってもあんなに酩酊するだろうか。
「夢子は…夢子さんは、流されやすいというか、他人の影響を受けやすいんですよ」
「そう、ソレ!私も人の影響を受けやすいから。ソレが共通点みたいだね」
いや、と否定の言葉を続けようとした瞬間、俺は正面から白い物体がこちらへ向かってくるのを見た。
そいつは四足歩行で高速に疾走していた。
目は血走り、白よりも銀に近い色の牙は月の光を受け怪しく光っていた。
このままではまずい、と俺は背負っている夢子をアスファルトの上に寝かせ、明後日の方向へ駆け出そうとした。
俺が行動を移す前に、愛美さんが前へ一歩、敵意むき出しの野犬に歩み寄った。
噛みつかれる、と俺は思わず目を伏せたが、次に目にした光景は彼女の手に頬を寄せる野犬の姿だった。
「だ、だいじょうぶですか?」
非常に情けない声で愛美さんにそう問いかけた。
犬が俺の声に反応して、威嚇の唸り声をあげた。
「うん、大丈夫。狛田君は、この子に嫌われているんだね」
「えぇ、まぁ慣れてはいるんですけどね。幼いころから動物にはめっぽう嫌われてましたから」
そうなんだ。だからこそこの時間帯は一人でチャリを爆走して帰っていた。野犬と遭遇しないように。
「小学生のころ動物園に行ったときなんかは酷かったですよ。動物たちが俺を見るたびに興奮して、暴れたりなんだしていましたからね」
そんなことを言いながら、俺は夢子をもう一度背負った。
・・・ちょっとした騒ぎが起きても、こいつ起きる気配がしねぇな。
俺は彼女の神経の図太さに呆れた。
「ふーん・・・今日は狛田君の秘密が知れてよかったな」
「今度は、ワタシの秘密を教えてあげるね」
夢子ちゃんが素面のときにね、と付け加えた後、愛美さんはここで犬を見ているからと言い、その場を動こうとしなかった。
夢子のアパートはもう近いらしく、俺は一人で彼女を担いで彼女の部屋まで行った。
彼女をベットに寝かせ、愛実さんの待つ所まで戻るとあの野犬はもういなかった。
そういえば夢子の部屋、カギしてないけど・・・まぁ大丈夫だろう。
俺の心配をよそに、愛実さんは静かに微笑んでいた。
「よかった。送り狼にはならなかったんだね」
「なっ・・・なるわけないじゃないですか」
俺の反応を見て、愛実さんはもっと面白くなったみたいだ。
「近いうちに、狛田君と夢子ちゃんとまた会いたいな。次会うときは、ワタシの妹も誘っていいかな」
「えぇ、いいですよ」
この後も何気ない話をしながら、途中まで二人で帰った。
この時はまだ知らなかったんだ。もう暗示は始まっていたことに。
狛田寅市が巻き込まれた略奪と復讐の物語は、すでに取り返しがきかない状況だった。