先生の顔右半分
「時田」
…………。
「時田。おい時田」
…………。
「時田! 起きろ!」
「…………!」
遠くの方から聞こえていた自分の名前を呼ぶ声が、急に耳元で大音量でなるものだから、僕は思わず体を跳ねさせ飛び起きた。次の瞬間、僕の目と鼻の先にあったのは、このクラスの担任であり社会の講師である斎藤の御顔であった。
ある日の麗らかな午後のこと。僕はいつものように、教室で居眠りをしていた。
いつもはニコニコと愛想笑いを絶やさない教師・斎藤だったが、僕の意識はまだ夢の中だったので何だか奇妙にぐにゃぐにゃと歪んで見えた。教師・斎藤は何故か今にも僕を怒鳴りつけんと、歯を剥き出しにして唸り声を上げている。
気がつくと社会の授業は中断し、クラスメイト達全員が僕等の様子を固唾を飲んで見守っていた。別にいつものことだし、居眠りだなんて僕だけじゃないし、そんなに怒るようなことだろうか? 試しに僕は長年の疑問を教師・斎藤にぶつけてみた。
「いい度胸だ。だから怒られるようなことをしても、こっちは怒るなってか? え?」
教師・斎藤は寝惚け眼の僕を見据えながらそんな風なことを言った。どうやらかなり怒っているようだ。四限目の授業から休み時間を挟み、実に五限目の今に到るまで長時間机に突っ伏していたようだ。おかげでおでこがやけに痺れた。
「時田……えェ?」
「…………」
僕の態度が気に入らなかったのだろう。教師・斎藤がさらに鼻息荒く息巻いて僕に顔を近づけてきた。
「あんまり舐めた態度取るようやったら……廊下にでも立っとくか?」
「!」
そう言って教師・斎藤は教室の扉を指差すとニヤリと笑った。
廊下に立つ。
小学生じゃあるまいし、高校生にもなってこの仕打ちは恥ずかしい。
こういう悪目立ちする行為が、僕は一番嫌いだった。案の定、クラスにはさざ波のようにひそひそ声が広がり、僕の後ろの方からは、ところどころ低い笑い声が聞こえてきた。僕は居た堪れなさに思わず眉をしかめた。
教師・斎藤も教師・斎藤で、「謝るなら今だぞ」と言った嗤い顔で僕を見つめていたので、僕は仕方なく唇をぎゅっと噛み締めて……
「……おい時田! おい!」
……そのまま教室の扉を開け、廊下へと飛び出した。
□□□
「誰かあいつをなんとかしてくれ……!」
背中から、教師・斎藤の呆れたような怒鳴り声と、張りつめた空気の冷たさを感じつつ、僕は授業中で静まり返った廊下を振り返ることなく駆け足で進み続けた。
僕はいつも上条とお昼ご飯を食べている中庭沿いの階段へと向かった。
外の空気は教室とは打って変わって穏やかで、思わず伸びをしたくなるようないい天気だった。
自然と漏れるため息と共に、そのまま踊り場へと座り込む。校舎の隙間から覗く白い雲が、ゆったりと青空を風に流され横切って行った。ようやく肩の力が抜け、そこで初めて僕は自分が疲れていたのだと知った。最近じゃアニメに漫画にゲームに勉強に、と、やらなければいけないことが多くて、寝る時間がどんどん減っている気がする。
何のことはない。
僕は単純に、ただ授業態度を担任に咎められただけだ。別にこれが初めてって訳でもない。学校で褒められるなんてことまずないし、そんなこと期待もしてない。今回の件に限っては、僕が悪いのも明白だ。勉強に身が入ってなかった僕の所為だ。
こんなこと日常じゃありふれ過ぎてて、涙も出ないし、悲しくもなんともない。
踊り場の壁に背を預け、ぼんやりと流れる雲を眺め……このまま今日は残りの授業をサボって家に帰ってしまおうかと思っていた、その時だった。
「……どうしたんですか時田さん。そんなに悲しそうな顔をして」
「!」
例の幽霊少女が、どこからやってきたのか、ひょいと僕の顔を上から覗き込んできた。壁の向こう側に、体を透けさせたまま。
「……今何時?」
「えーっと……四時五十七分でした」
僕は驚きを隠すために、幽霊少女を時計代わりに使った。白装束の少女は一度壁の向こう側に引っ込み、時間を確認してくるとそれから何故か嬉しそうに僕に笑いかけた。
「分かりました!」
「え?」
「何で時田さんが、そんなに悲しそうな顔をしているのか。さっきの、私の『先生の顔右半分に憑依する』奴! すっごく怖かったんでしょう!?」
「えぇ……?」
少女の声が踊り場に反響した。彼女が現れると、先ほどまでの重たかった気分が何だか一気に弾けたような感じがする。少女は僕のこの状況を知ってか知らずか、御構い無しに捲し立てた。
「それで、怖くなって、ここまで逃げてきたんだ。やった! 時田さんを驚かすことができた……!」
「……ごめん、見てなかった」
「え!?」
どうやら四時四十四分にまた、何かしらのイベントが行われていたらしい。だけど、見過ごしてしまった。ちょうどその時間は寝ていたに違いない。僕がそう説明すると、少女は途端に泣き出しそうな顔を浮かべた。
「じゃ、じゃあどうしてそんな顔されてたんですか?」
「僕、そんなに悲しそうな顔をしてた?」
「はい。何だか今にも壁をすり抜けていきそうなほど青白く……まるで幽霊みたいな顔をしていました」
「…………」
僕は彼女の顔をまじまじと見た。僕は彼女が、夜な夜な僕の家の冷蔵庫から粗挽きウインナーを拝借していることを知っている。朝起きると、決まって一個無くなっているからだ。食欲もあるようだし、肌の艶もいい。幽霊であることを除けば、まるで健康体そのものだ。健康体の幽霊がにっこりと微笑んだ。
「えらいですね、時田さん」
「はい?」
思いがけない言葉に、僕は首をかしげた。
「何だかじっと我慢してるみたい。私だったら、悲しいことあったらきっとその場で泣き出しちゃいますよ」
「……別に」
これは、幽霊なりに気遣ってくれているのだろうか? 僕は思わず目を逸らした。
幽霊少女がずいっと顔を近づけて言った。
「見てなかったんなら、あの、私……もう一回やりましょうか?」
「いいよ、もう。だってどこに出るか、もう分かってるんだもん」
「でも、せっかくなんで……教室に戻りません?」
「いいってば……」
「誰と喋ってるんだ?」
すると、僕の右上の方から声が降り注いだ。僕が顔を上げると、上条が階段を降りてこちらに向かってくるのが見えた。僕が幽霊少女を指差そうと振り向くと、いつの間にか彼女は消えていた。
「…………」
どうやら、もう一分間経ったらしい。
「…………」
「…………」
「……教室、戻るか」
上条は何も聞かず、静かにそう呟いただけだった。
「……あー」
「…………」
「…………」
「……うん」
僕の方はというと、心の内側の方からじんわりと熱いものがこみ上げてくるのを、悟られないようにするのに精一杯だった。僕の頭の遥か上の方で、白い雲がゆったりと流れていった。僕は極力目を合わせないようにのろのろと腰を上げ、上条のやや後ろについて教室に戻った。