クローゼット
その日、結局校門を出たのは二十時を過ぎた頃だった。
すっかりと日が落ち、暗くなった田んぼ道を、僕は疲れた足でだらだらと車輪を漕いで進んだ。蛙だか、何の虫だか知らないが、「何らか」の大合唱があぜ道の両脇から絶え間なく鳴り響いた。
帰ったら世界史と数学と生物の宿題がある。
その前にまず晩ご飯を食べなければいけないし、風呂に入ったり、日付が変わる前にお気に入りのゲームの「ハート」を消費しておかなければならない。この上Webサイト巡りに深夜ラジオの時間まで確保しなければならないだなんて、何て忙しい学生生活なんだろう。
道を三回曲がっても、まだ両脇には見慣れた田んぼ道が広がっていた。僕は遠くに見える山の境目と、その上に広がる星空をぼんやりと眺めながらひたすら自転車を漕ぎ続けた。
今年からいきなり受験生と言われても、まだ余りピンと来ていない。ただ何となく勉強しなくてはという思いが、まるで普段通りの生活をすることさえダメだと言われているような気がして、荷が重かった。漠然とした不安……安っぽい言い方かもしれないが、受験や将来と言われても、僕が思い浮かべるものと言えばまず「不安」だった。
「…………」
等間隔に並ぶ電信柱に備え付けられた灯りが、目の前の暗い夜道を薄く点々と照らしている。ビニールハウスの中からは、半透明に包まれたぼやけた光が溢れていた。ふと、向かいの数メートル先から、人影が歩いているのに気がついた。
明らかに普通の人間のそれとは違った。灯りの下をふらふらと歩く様は、今にも転びそうと言った感じで、怪しげな雰囲気を醸し出している。こんな時間に……僕はバックライトで光る腕時計を覗き込んだ。暗闇の中目を凝らし、無意識に体を強張らせる。
(まさか不審者か、それとも幽霊か……?)
そのまさか、だった。よく見ると昼間あったばかりの三角巾の幽霊少女が、向こうから歩いて来ていた。
「あ……こんばんは」
「…………」
白装束の少女が僕に気がついて、ぺこりと頭を下げた。僕はペダルを漕ぐ足を止め、半ば呆れたように口を窄めた。
「こんばんは、じゃないよ。幽霊が何普通に歩いてるのさ」
「これから明日の分の下準備をしようと思って……」
「……その荷物は?」
僕は彼女が抱えていた大きな風呂敷を指差した。ふらふらとしていたのは、重たそうな荷物を運んでいたからだろう。彼女は少し照れたようにはにかんだ。
「ふふ……実は、明日はクローゼットから飛び出そうと思ってですね」
「クロ……。それを前日にバラしてどうする……」
「やっぱり幽霊の原点に戻って、ですね。でも時田さんの部屋、私が隠れるクローゼットがないから、作ろうかなって」
「作ろうかなって……」
彼女の考えについていけず、僕は一瞬意識が飛びそうになった。
「いいよ別に。箪笥があるじゃん。そこから飛び出せば……」
「箪笥はでも、引き出しがあるから……中が区切られてて、居心地が悪いんですよね。クローゼットなら落ち着いて待機できるし……」
「ちょっと待ってくれ。何で僕の部屋を、幽霊が住みやすいように改築しなきゃならないんだ。箪笥でいいよ、箪笥で」
僕は慌てて歩き出そうとする幽霊を止めた。少女は納得できない首をかしげた。
「でも……箪笥だと一段一段分かれてるし……。運良く一番上を開けたら、顔が見えるから怖いかもしれませんけど、中段だったらお腹の部分だけ見えて、あんまり怖くないでしょう?」
「それはそれで怖いよ。でも夜な夜な自分の部屋に勝手にクローゼットを作られる方がもっと怖い」
「そうですか?」
それでもまだ首をかしげる少女に、僕は頷いた。
「そうだよ。下手すりゃ四時四十四分を待たずして、朝クローゼットが出来ていたことにびっくりするよ。それはアンタもイヤだろう?」
「うーん。確かに」
「だから箪笥にしよう」
「でも、箪笥で驚いてくれますか?」
幽霊が不安そうに僕を見つめた。
「驚くよ。驚く。約束するよ」
「上段?」
「上段。最上段を開ける」
「良かった……じゃあ明日は、箪笥にします」
ホッとする彼女の表情を見て、僕も胸を撫で下ろした。
これから受験生だというのに夜中に部屋でクローゼットを作られていては、全く集中出来ない。それから彼女はもう一度大きな荷物を抱え、一分後にはもう姿が見えなくなった。
「…………」
僕はしばらく突っ立ったまま彼女のいたあたりを眺めた後、やがてゆっくりとペダルを漕ぎ始めた。