だから
しとしとと、霧のような雨が風に舞う夜だった。
路地裏に戻った俺は、定位置となった電柱の横に腰掛け、透明なビニール傘を開いた。遠くで光るネオンサインが、降りしきる雨のカーテンに揺られて滲む。こんな日は、皆まっすぐ家に帰るのか、表通りにも通行人はほとんどいなかった。ましてや今は夜中の四時過ぎだ。
「ああ……あああ……」
「!」
ぼんやりと点滅を繰り返す橙色の電球を見つめていると、向こうから聞き覚えのある呻き声が聞こえてきた。雨に降られ、傘も差さずに下を向いて歩く、スーツ姿の男。時田健三だ。カゲロウのようにゆらゆらと体を揺らしながらやってくる彼を、俺は黙って見つめた。
「ああ……ああおおうう……!」
「…………」
やがて彼は狭い路地に嗚咽を響かせながら、俺の目の前でグシャッと崩れ落ちた。頰のこけた顔を水たまりに突っ込ませて、うつぶせに倒れたままピクリとも動かない。彼の呼吸に合わせて、水たまりがブクブクと白い泡を立てた。慣れ親しんだ光景に、俺はようやくこの街に帰ってきたんだと実感した。俺は小さくため息をついて、傘を彼の上に掲げた。透明なビニールに弾かれた雨粒が、小さな雫となって傘の表面を伝い、泥濘んだ足元で跳ねた。
「おい、起きろ」
「…………」
「窒息して死ぬぞ、おい」
「…………」
俺は時田の肩を揺さぶった。だが彼は動こうとしない。彼の顔あたりがさらに泡立った。俺は頭を掻いた。
「まあ、散々死にたい死にたいって言ってたし、これが本望か……」
「…………」
「お……”私”は、よぉ」
「…………」
「私は……姉さんみたいに強くもないし優しくもないし、うまいこと慰められねぇし……」
「…………」
「立派な説教垂れるほど、そんな偉い人間でもねぇけどよ……」
「…………」
「たとえどんなにアンタが死にたかろうが、人生に絶望していようが、辞めたかろうが逃げたかろうが……みんなアンタのこと心配してるし、ちゃんと見守ってくれてると思うぞ。アンタが立ち上がるんなら、な」
「…………」
「私だってそうだよ……」
「…………」
「…………」
「…………」
「……じゃあな。俺、もう行くわ。俺も、まだまだやらなきゃいけないこといっぱいあるしな」
「…………」
「これ、トマト。食べて元気出せよ」
「…………」
俺は水に浸かった彼の頭の隣にビニール袋を置いた。田舎から持ってきた、獲れたてのトマトだった。水たまりに浸かったまま動こうとしない時田を置いて、俺はゆっくりと立ち上がった。この街での用事も済んだし、俺はもう一度梢枝姉さんのところに帰り、幽霊として一から鍛え直すつもりだった。本当はもうこの街に戻るつもりはなかったが、もう一度だけ……もう一度だけ、この男に会っておこうと思ったのだ。
「…………」
「…………」
「……メだ」
「!」
路地の角までたどり着いたところで、後ろから蚊の泣くような掠れ声が聞こえてきた。振り返ると、水たまりに半分顔を埋めた時田が、泡を吹きながらよろよろと上半身を起こしているところだった。生まれたての子鹿のようなその男を、俺は遠くからぼんやりと見つめた。時田の右手が横に置かれていたトマトを掴んだ。
「……メだ。ダメだ……」
「…………」
「僕は、ダメだ……!」
「…………」
「……僕は。このままじゃ僕はダメだって……。分かってはいるんだよ……!」
「…………」
「…………」
譫言のようにそう繰り返し、やがて時田は立ち上がろうとして……再び水たまりの中に顔を突っ込んだ。荒い息とともに浮かんでいた白い泡も、だんだんと小さくなっていった。
「…………」
俺の後ろで、深夜の表通りを、救急車がサイレンを響かせながら駆け抜けて行った。俺は静かになった時田を見下ろし……そしてポケットからスマホを取り出した。




