きっと分かるから
「それで、『やってられるかあああァァァ!!』って叫びながら帰ってきたってワケね?」
「う〜……」
姉さんの言葉に、俺は縁側で水色の棒突きアイスキャンディを齧り、曖昧に返事をした。
目の前の中庭には緑だか何だかよく分からない、濁った色の池が広がっている。相変わらずよく分からない色をしたカエルが、その中をゆったりゆったりと泳いでいる。それを眺めつつ、俺はイライラとアイスの棒を口の中で何度か噛みしめた。
俺は今、いつもの路地裏を離れ、梢枝姉さんやばあちゃんの住む田舎に帰ってきていた。
時刻はもう十八時を過ぎたと言うのに、外はまだ明るいままだ。見上げた空はまだ憎たらしいほど晴れ渡っていた。開け放たれた窓から入ってきた蒸し暑い熱気が、お化け屋敷のようなボロっちい一軒家の中で先ほどから暴れ回っている。古くなった年代物の扇風機は、さっきから生ぬるい風しか送ってこない。ちゃぶ台の向こうから、姉さんが冷えた濡れタオルを投げてよこしてくれた。俺はすかさずTシャツの中にタオルを潜り込ませ、止め処なく流れ続ける汗をひたすらに拭った。台所にあるラジオからは、”夏の到来を告げるにふさわしい一曲”をお届けする、調子良さげなDJの声が微かに聞こえた。
「大変そうね、その人も……」
姉さんがそう言いながら麦茶をお盆に乗せて持ってきた。
俺がばあちゃん家に着いた時、姉さんとばあちゃんはまだ畑にいた。声をかけるのは悪いかなと思って、俺は先に家に向かった。やがて仕事を終え帰宅した姉さんは、俺を一目見るなり顔をくしゃくしゃにして笑いかけてくれた。それを見て、俺はここが自分の家でもないはずのに、ああ、帰ってきたんだ……と、何だかとてもホッとしてしまった。
姉さんが俺のほっぺの横に冷えたグラスを置き、ゆっくりと隣に座り込んだ。俺は「あ〜」とか「う〜」とか濁音で喉を震わせながら、縁側にゴロンと仰向けに寝転んだ。頭の上で、橙の金魚の模様の入った風鈴が遠慮がちに小さく鳴った。やがて姉さんがポツリと切り出した。
「毎日毎日、夜中の四時過ぎに帰宅するってことは、それだけ働いてるってことでしょう?」
「……でも、だからって毎回路地裏に来られてさ。グダグダグダグダ、死にたいだのもう嫌だだの、ホント煩いんだよ」
俺は隣に座る姉さんをちらと見上げながら愚痴った。姉さんは中庭の景色を眺めたまま、うちわを仰ぎ長い髪を風に揺らした。
「何回死にかけのアイツ立たせたか! もう面倒見きれねえよ。アイツ、分かってねえんだ! 自分がどれだけ心配されてるか……だから」
「悔しいんでしょう?」
「!」
姉さんがこちらを見た。薄紫色に、少し薄暗くなり始めた空の下に浮かぶ、その表情。俺は思わず吸い込まれるように、その見透かすような大きな瞳を見つめた。姉さんが唇を動かした。
「その時田さんって人はまだ生きてるのに、自分から諦めちゃってるのが……。悠希ちゃんだって、本当はもっと生きていたかったわよね」
「…………」
先に目を逸らしたのは、姉さんの方だった。じゃなきゃ、危なかった。俺は寝転がったまま目を伏せた。
しばらく、縁側に静かな時間が流れ、俺と姉さんは黙ったままそこにいた。
「だけどね……悠希ちゃん」
遠くでトラックが通り過ぎて行く音が聞こえた。姉さんの声が、少しだけ低くなった。
「その人にはその人の事情があるの。知りもしないウチに、決めつけていてはダメよ」
「そんなこと……」
「トマトってね、花が全て”同じ側”につくの」
「?」
思いがけない言葉に俺が小首をかしげる中、姉さんはおいしそうに麦茶を一口飲み込んだ。
「だから、花房を畝の外側に向けて植えると、収穫しやすいのよ」
「ふぅん……?」
「何かの拍子で内側に向いちゃったトマトを、”何で収穫しにくいんだ!”って文句言っても仕方ないと思わない?」
「…………」
姉さんが不意に俺の髪をふわりと撫でた。絹のような肌触りと指先の温もりに、俺は思わず目を細めた。
「だからね……怒るよりも、”何でこのトマト内側向いちゃったんだろう?” ”何か原因があるんじゃないか?” って考えることだと思う。そうしたら、”花が全て同じ側につくからなんだ”って分かるからね。歩き疲れてる人を無理やり立たせたり、”動け!” って頭から怒鳴り散らしても、そりゃあ、すぐ座り込んじゃうと思うわよ」
俺は頭を撫でられながら、姉さんの顔をじっと見つめていた。
「それにね、愚痴を言えるのは、心開いた相手にだけなのよ。この人なら頭ごなしに否定せずに、自分の話をちゃんと聞いてくれるって。もしかしたらその人は、まだそういう場所や人に出会ってないのかもしれない。もしかしたら、悠希ちゃんのいる路地裏が、心開ける唯一の場所になってるのかもしれない」
「…………」
「大丈夫。何があっても私もばあちゃんも、ここにいる人はみんな、あなたを出迎えてあげるから……」
「…………」
頭の上で風鈴がもう一度、小さく鳴った。
姉さんの体温を感じながら、俺はいつの間にか眠っていた。
次の日。俺は無人駅から鈍行列車に乗り、再び路地裏に向かった。




