何にもなりゃしないから
「ウィッグはちゃんとつけた?」
「おう……」
「似合ってるわ。やっぱり幽霊と言えば黒髪ロングよね。黒髪ロングが嫌いな男子なんていないわ」
「そうか?」
お馴染みのナースさんに院内の更衣室でノリノリで着付けされながら、俺は苦笑いを浮かべ曖昧に返事をした。
□□□
あれから数日後。仲良しのナースさんと一緒に、カラオケに遊びに行った時だった。時田家族と別れてから、言伝を頼まれた俺は、彼女にそのことをポロリと漏らしてしまった。すると、一体何処に琴線が触れる部分があったのか、ナースさんは突然テンションがマックスに跳ね上がった。次の日彼女は自宅から『嫁入り道具』だったという着物や化粧品などを職場にわんさか持って来て、俺を病院のナース室に引っ張り込んだ。
「ちょ、やめ……ドコ触ってんだ!?」
「んふふ……ドコだと思う?」
「う……うわあああ!」
俺の目の前で、ナースさんの手がわしゃわしゃ動いた。
真昼間の病院に幽霊の叫び声が響き渡り、遠くから患者さん達の笑い声が聞こえてきた。
幽霊として”由緒正しい”姿になるため。
とか何とか言いくるめられて、俺は普段来ていたキャミソールやホットパンツを引ったくられ、半ば無理やり浴衣や三角頭巾に着替えさせられていたのだった。
□□□
「ゲホ……ゴホッ!!」
白粉を顔中に塗りたくられている途中で、俺はさすがに咽せた。
「もう良いって……! どうせアイツ霊感ないから、見えないっての!」
「何言ってんの。せっかくの晴れ舞台じゃない。奇麗にしなきゃ」
ナースさんがほほえんだ。親戚のおばちゃんみたいなノリだ。俺はひたすらくしゃみを我慢した。
「デートじゃないんだからさ……」
「あら。デートじゃないだなんて、まだわかんないじゃない」
「んな……!?」
俺は口から白粉を噴出した。ナースさんが目を細めた。
「あらあ? その気がないってわけでもなさそうね」
「何言ってんだよ……!」
俺は咽せ返りながら、慌てて目をそらした。ナースさんがますますニンマリするのを、できるだけ視界に入れないようにした。
「よし! バッチリ!」
しばらくして、ナースさんが満足げに立ち上がった。ポシェットから手鏡を取り出して俺に見せてくれた。俺はそこに映る真っ白な……雪景色よりも真っ白な何かをみて、しばらく声を失った。「…………!」
鏡に写っていたのは、俺が見たこともない全く知らない女だった。普段着の洋服とはかけ離れた、和風な格好。淡い無地の着物に、幽霊を思わせる禍々しい三角頭巾。髪はいつもの金のミディアムヘアから黒に変わり、ストレートヘアが肘くらいまで伸びている。俺は口をあんぐりと開けた。
人間よりも健康的だった俺の素肌が、まるでクリームを塗りたくったかのように真っ白に染まっている。さらに口元には紫色の口紅が、べっとりと唇を彩っていた。俺は思わず叫んだ。
「何だよこれ!」
「奇麗だわ。似合ってるわよ」
「全然似合ってないし! これじゃホラーだよ!!」
「ホラーなら良いんじゃない? 幽霊なんだから」
「良……良いけど! 良いけど……!」
何故だか分からないが、冷や汗が止まらない。わなわなと慄く俺の背中を、ナースさんが力強くたたいた。
「がんばんなさい。目にものを見せてやるのよ」
突然、フラッシュが俺の目を一瞬眩ませた。顔を上げると、ナースさんが俺に向けてスマホを掲げ、記念撮影しながらぐっと親指を立てていた。俺はもはや言い返す気力もなく、引きずられるように車に乗せられ、そのまま路地裏へと連れて行かれた。
□□□
『良いかい? 時田くんは三十分前に会社を出た。もうすぐ路地裏に着くはずだ。彼の電話番号は教えたね? そこにかけて見てくれ』
「それは分かったけど……別に上条さんが伝えてくれれば良いじゃないっスか?」
『私は仕事があるからね。それに君が親御さんから頼まれたんだから、君が彼に伝えるのが一番だ』
「ホントかよ……」
受話器越しに聞こえる上条さんの楽しげな声を聞きながら、俺は訝しげに呟いた。ナースさんにしろ時田の上司の上条さんにしろ、なぜかやけに楽しんでいる気がする。
『携帯電話からなら、姿は見えなくても君の声は聞こえるはずだよ。それに、いつでもメールだって出来るからね』
「そもそも、そんな大層なことかよコレ……」
『じゃ、そろそろ切るね。頑張ってね』
「何を……あっ」
上条さんが一方的に通話を切った。俺はため息をついて”通話終了”の文字が並ぶスマホの画面を見た。午後二十時過ぎ。真夏の空は、もう深い青に染まっている。俺はソワソワとウィッグを撫で上げた。路地の先の表通りでは、仕事帰りに居酒屋で一杯飲んできたのか、スーツを着た酔っ払い達がずらずらと通り過ぎていくのが見えた。
「ん?」
すると、一人の酔っ払いが千鳥足で路地裏に迷い込んできた。
「うお……」
俺は後ずさった。酔っ払いの正体は、時田だった。
彼は首をだらんと前に垂らし、屈むような姿勢でふらふらとこちらに歩いてきていた。俯いていて表情は見えないが、時折「ウフフ……アハハ……」と狂気じみた妙に甲高い笑い声が聞こえてきた。その雰囲気はもはや人間と言うよりも、異界の魔物だ。あまりに不気味だったので、俺は警察に通報するべきかどうか一瞬迷った。
「おい……」
「フフ……」
「おい時田、大丈夫か?」
「フフフフフ……」
俺は背筋にゾクゾクと冷たいものを感じつつ、恐る恐る彼に話しかけた。もちろん彼には幽霊の姿は見えないので、彼は唇の先をヒクつかせ、俺の方を見ることもなく横を通り過ぎようとした。
「…………」
俺は絶句した。末期症状だ。いつも落ち込んだり泣き喚いたりしている彼だが、今日はそんな余裕もないらしい。
「!」
すると、俺の目の前で時田はそのまま倒れこむように地面に突っ伏し、四つん這いの姿勢でやがて動かなくなった。
「おい! 大丈夫か? 何があったんだよ……」
「フフ……フフフ……!」
慌てて駆け寄り、肩を揺さぶっても時田はただただ口元から涎を垂らし怪しげに笑うのみだった。俺は彼のポケットから滑り落ちたスマホを拾い上げ、時田の右手に無理やり握らせて、自分のスマホから電話をかけた。
「フフ……!」
だが彼は動く気配すら見せず、電話を取らなかった。彼の右手から、ポロリとスマホが溢れ落ちた。
「何なんだよ……! おい、その笑い方やめろ」
「アハハ……」
時田が無表情のまま笑い声をあげた。俺は怖くなって、思わず彼に伸ばしかけた手を引っ込めた。
「もういい……」
「は?」
「もういいんだ……もう何もかも……」
半分白目を剥きかけた時田が小さく体を震わせた。俺は苛つきを抑え、辛抱強くもう一度彼にスマホを握らせた。
「何言ってんだ。いいから電話でろ。今日も病院だなお前……」
「もういいんだ……。何なんだよ。何が楽しいんだよ。生きてたって、何にもなりゃしないじゃないか……」
「ったくよォ。こっちがどんだけ準備してきたと思ってんだ……」
「もういい……もう、死ぬ……」
時田がそう呟き、スマホを放り投げた。
その瞬間、俺の中で何かが切れた。
「いい加減にしろよ!!」
俺は思わず叫んだ。時田の鳩尾をぶん殴りそうになるのを、俺はかろうじて堪えた。
「毎回毎回……みんな心配してんだぞ!? お前の家族も、ナースさんも、上条さんだって……!」
「…………」
「いいから立て! 立って、帰って飯食って風呂入って寝ろ!! 死ぬとかなあ、考えるのはそれからだよ!!」
だが俺の声は、彼に届くことはなかった。彼は地面に頰を擦り付け、黙ったままとうとう動かなくなった。路地の先で、俺の声に気づいた数名が何事かと顔をのぞかせた。
「もう、知るか!」
俺は地面に転がった彼のスマホを蹴っ飛ばし、時田を置いて路地を後にした。いつものように警察を呼んだり、病院に連絡したりもしなかった。なんだか無性に腹が立って、俺は紫の唇を噛み締め、闇雲に夜の街を走り抜けて行った。




